■番外編 永遠の恋■

(2)

 腰の後ろに大振りのナイフを挿し、剣帯を着ける。
 慣れた手つきで留め金に剣の鞘を下げ、右足に投げ矢を納めたベルトを留めたところで、背後から物憂げな声が投げかけられた。
 「もう行くの?」
 薄物の寝巻きを羽織っただけの悩ましい姿でしどけなく横たわった女が、先に寝台を抜け出した熾輝を艶めかしく見上げている。
 責めるような言葉尻の割りに、眠気を孕んだ声に引き止めようという意志は込められていなかった。
 熾輝は、身支度の手を休めるでもなく「あぁ」と頷く。
 「今度は何処へ?」
 その問いも、答えを期待するというよりはただ単に疑問と関心を口の端に上らせただけに過ぎないのだろう。
 「さぁ。まとまった金も入ったし、暫くは気ままにふらふらするかな」
 「熾輝らしいわね」
 飄々とした応えにくすりと忍び笑いを零して、女は敷布を身体に巻きつけて半身を起こす。
 熾輝は、女の栗色の巻き毛に指を通すと、大きな掌で包み込むように愛しげにその頬を撫ぜた。
 「何かあったら呼んでくれよ。飯と寝床の礼は返すからさ」
 「嫌よ」
 優しい感触と低く甘い声にうっとりと目を閉じていた女は、熾輝の申し出を勝気で艶冶な笑みで撥ねつける。
 「傭兵に頼るような事態なんてごめんだわ」
 素っ気無い言い分が本音でない事はお互い承知の上の、言葉遊びのような遣り取りだった。
 己の剣の腕だけを頼りに戦場を渡り歩く彼は、さながら大空を翔る猛禽だ。翼を休める事はあっても、大地に縛られては生きられない。
 こんな風に、たとえその場限りの関係でも、荒んだその心を慰める事が出来るならそれで良いと女は笑うのだ。
 熾輝は、軽く肩を竦めて女の心意気を受け止める。
 微笑む女の頬に親愛の口づけを贈って、熾輝は一夜の宿りを後にした。
 

※  ※  ※


 戸外への一歩を踏み出した熾輝は、視界を埋め尽くす光の眩しさに思わず掌を翳して目を眇めた。
 遮光布の張られた薄暗い室内に慣れていた眼には、冬の朝の気怠い陽射しさえ強過ぎる刺激となる。
 瞳が明るさに順応するのを待って、熾輝は石畳の舗道を歩き出した。
 外界に続く入り江に面して築かれたナイキの街には坂が多い。
 舗装され、ところどころ階段状になっている街路沿いには、白壁の建物が立ち並んでいる。
 白い街並みは波間に煌く陽光を反射し、空の青と海の碧に美しく映えた。
 対岸の小高い丘には、これまた白い羽根の風車が幾つも海からの風を受けてくるくると回っている。
 海と太陽の都――ミフルの民がそう讃えるナイキの街は、熾輝の帰る場所でもあった。
 それは、生まれ育った地であるという以上に、港町ならではの寛容さを気に入っている部分が大きい。
 ナイキは、ミフルの東の玄関口として栄える大陸最大の商業都市だった。
 聖都メシエに在る精霊祭殿の属領という形を採ってはいるものの、街の自治は実質上商人達のギルドに委ねられている。
 異国の大使や商人をはじめ多くの旅人が出入りするだけあって治安の維持には力を注いでいるが、杓子定規な役人の仕事とは違ってそこには余所者だからというだけの理由で必要以上に詮索するような不躾さはなかった。
 話す言葉が違っても、瞳や肌の色が違っても、崇める神が違っても、この街では関係がない。
 懐かしさに心和む事はないけれど、いつ戻っても拒まず受け入れてくれる大らかさは居心地が良かった。
 或いは、彼自身も陽光を思わせる豪奢な黄金の髪と蒼穹の色を宿した瞳を持ち度々その容姿を太陽に喩えられるが故に、親近感を覚えていたのかもしれない。
 露店が軒を連ねる小径を港へと下る熾輝の耳に、潮の香りの風に乗って喧騒が運ばれてくる。
 市場の賑わいに身を任せてのんびりと歩を進めていた熾輝は、ふといつもと違う空気を感じ取った。
 街全体が何となく浮ついていて、殊に中心に近い広場の辺りがやたらとざわついている。
 見ると、精霊王・槐へと捧げられた精霊祭殿の前に人だかりができていた。
 熾輝は、通りに並ぶ露店の1つで遅めの朝食を入手しがてら、世間話に興じる風を装って何気なく店主に声をかけてみる。
 「今日はまた随分と賑やかだな」
 「何だ、知らないのかい?」
 やや小太りの中年の店主は、意外そうな顔で目を瞬かせた。
 「精霊王への参詣を兼ねてミフル中を巡礼してらっしゃる新しい斎主様が、この街に立ち寄られてるんだよ」
 「あー」
 そういえば、昨夜寝物語にそんな話を聞いた気がするな、と熾輝は思い返す。
 斎主といえば、精霊王に仕える精霊祭殿の最高位の巫子だった。
 祭祀王として民を治めるに相応しい清廉な人柄と精霊王との交信を可能とする強大な魔力を要求されるこの職位は、なかなかなり手が見つからず常設はされていない。
 それだけに、新たな斎主が決まった事は国を挙げての慶事だとは思う。
 まして、斎主本人が地元を来訪するとあれば、弥が上にも盛り上がろうというものだ。
 だが、生憎不信心とかいう以前にその手の話題に関心のない熾輝は、女の睦言を軽い気持ちで聞き流していた。
 もちろん、熾輝とてミフルに生きる者として精霊王には相応の敬意を抱いているが、祭殿だの神官だのを崇めるつもりはない。
 そもそも、神だの奇跡だのに縋る生き方は彼の性に合わないのだ。
 他人の信仰を否定する気はないが、それを押し付けられるのは業腹だった。
 ぼんやりとした記憶を辿る熾輝の態度をどう取ったのか、店主は焼きたての惣菜パンが入った袋を差し出しながらこう言い添える。
 「斎主様は銀色の髪のとってもお綺麗な方だと言うよ。せっかくの機会だ。一目拝んでくと良い」
 「へぇ、美人な斎主様ね」
 「おやまぁ、不謹慎な事をお言いでないよ」
 笑いながら窘める親切な店主に礼を述べて、熾輝は広場を目指す素振りで店先から立ち去った。