■番外編 永遠の恋■

(13)

 「煌が瑠璃玻を護る為に巫翅人になったように、俺は那波の傍にいる為だけに巫翅人を目指し、挙句の果てに生身の肉体を引き換えにしてまで神の位を手に入れた男だ」
 遠い追憶の日々に想いを馳せつつ、熾輝はそう述懐する。
 人の身を捨て、神と呼ばれる存在として生き続ける事を選んだ日の事を、彼は思い返していた。
 もともと、不老長寿の祭祀王として民を導く那波を神格化する動きは、信仰深い信者を中心に早くから自然発生的に起こってはいた。
 それが顕著になったのは、愚かな人の子への怒りからミフルの民を見放しかけた精霊王・槐を鎮め、再び加護と恩寵を得るに至った一連の騒動の後の事だ。
 当初、那波は自分に向けられた崇拝に困惑気味だった。
 だが、胸に萌した予感と希望が、彼女の意識に変化を齎した。
 「方舟を、造ろうと思うのです」
 そんな風に、いつもと変わらないおっとりとした口調で、あの日那波は熾輝に密かな企てを打ち明けた。
 「貴方と交わした言葉を思い出しました。自然の営みに逆らう力はなくとも、災厄に備える事はできる――それならば、私は私にできる精一杯の事をしたい」
 来るべき終末の時に人々を救う「方舟」を造る…それも、民に知られる事なく秘密裏に。
 それには、志を同じくする者を募り、多くの人手や資材を自由に裁量できる力が必要になる。
 その意味で、「神」としての立場は確かに好都合だった。
 「俺も力になれるか?」
 「もちろん」
 前向きな彼女の決断に賛同し助力を申し出た熾輝に、那波は喜ばしげに頷く。
 それから、一転して表情を曇らせると躊躇いがちにこう続けた。
 「ただ…」
 「ただ、何だ?」
 口篭る彼女を急かすのではなく、迷いを振り払う手助けをする為に、熾輝は優しく先を促す。
 那波は、深く落ち着いた彼の声に励まされるかのように重い口を開いた。
 「その為には、肉体の枷を離れ、この身を空の精霊に委ねる事になります。もう、人の子としては生きられない。けれど、ミフルの民総てを保護し、安全な場所へと運ぶ程の力に、人間の身体では耐えられないのです」
 自然と調和を尊ぶ彼女にとって、自ら人外の者となるのは苦渋の選択だったろう。
 しかも、熾輝の力を借りれば、彼にまでいつ来るとも知らぬ終末を待つ歳月を強いる事になる。
 揺れる瞳で縋るように見上げてくる那波の苦悩を悟った熾輝は、総てを許容する笑顔で彼女を抱き寄せると、その耳許に囁いた。
 「良いぜ。どこまででも付き合うさ」
 それからの長い年月の間にも、様々な出来事が起こった。
 彼等は多くの縁者を看取り、また、多くの出逢いを得た。
 ミフルを支える要のひとつである地の根の柱を護るサエナの一族が滅ぼされ、巫翅人としての力に目醒めた生き残りの少女を引き取った事もそのうちの1つだ。
 目の前で起こった惨劇に傷ついた心を閉ざしていた彼女を、那波と熾輝はけして得る事のなかった実の子供のように愛し、慈しんだ。
 長じて、彼女は愛と死の女神となり、彼等の秘められた望みを分かち合う同志となるに至った。
 月神・那波と太陽神・熾輝、そして星神・朱華を加えた3人は、やがて天空三神として精霊王とは別に新たな信仰の対象となっていった。
 聖都メシエの精霊祭殿は天象神殿と改称し、各地に各々の民が奉じる神々の神殿が建てられた――。
 ひたむきな憧れと若々しい希望に紅茶色の瞳を輝かせている双子を前にして、熾輝は不思議な感慨を抱かずにはいられなかった。
 かつて、熾輝に巫翅人への道を開いた九鬼の長、奏――もう面差しさえ思い出せない彼女と同じ瞳をした子供達が、こうして今目の前にいる。
 限られた命しか持たない筈の人の子は、けれど、血を、想いを継ぐ事で永遠の時を生きる事が出来るのだと…その力強さを愛しく思う。
 だからこそ、彼等には自分達が失くしてしまった幸せを手に入れて欲しかった。
 自分や煌はこれで良い。命の在り様さえ変えるような、生涯一度きりの恋に出逢えた幸運に感謝しこそすれ、恨む気持ちはさらさらない。
 でも、子供達にはこんな生き方をさせたくはない。
 何の変哲もない退屈な日々こそがかけがえのないものである事を知る熾輝だからこそ、碧や緋には劇的ではなくとももっとずっと穏やかで心安らぐ日々を大切に生きて欲しいと思う。
 その為にも、熾輝や煌に対する行き過ぎた憧憬は正しておくべきだった。
 「今までも、これからも、那波の願いを叶える為なら俺はどんな事だってする。たとえ罪の謗りを受けるとしても、だ。それは、瑠璃玻の為に生命の理を超えた煌も変わらない。だから、煌は九鬼を統べる事はしないのさ」
 彼等を信じ、また彼等の未来を思うが故に、熾輝は2人に偽りない本音を語って聞かせる。
 まだ年若いとはいえ男という性を持つ碧には、熾輝や煌の想いに共感できる部分もあるようだった。
 何やら考え込む素振りで黙り込む彼とは裏腹に、運命的な恋物語に心惹かれるかと思われた緋の方が少女らしい潔癖さで熾輝を糾弾する。
 「正義を司る神である熾輝様が、どうしてそんな事を仰るんです?力有る者だからこそ、そのような勝手は許されるものではない筈です」
 「それで?」
 熾輝は、彼女の困惑を知りながら、敢えて傲慢な態度で問い返した。
 「正義神なんて肩書きは、人間共が後から勝手につけたもんだ。俺が自分でそう名乗ったわけじゃない」
 不遜とも取れる彼の言い分は、若い心に衝撃と混乱を齎す。
 彼等を混迷から救ったのは、予期せぬ第三者の声だった。
 「そうやって純粋な若者を悩ませるのは感心しないぞ、熾輝」
 「瑠璃玻様!」
 夜着の上から薄手のローブを羽織っただけの姿で突然目の前に現れた斎主に、碧と緋は声を揃えて姿勢を正した。
 瑠璃玻は、悪役を気取る熾輝をちらりと一瞥すると、緊張する双子に親しく微笑みかける。
 「心配せずとも、熾輝は甘い男だ。口ではどう嘯いてみても、実際には目の前で起こっている不正を見過ごす事も、民の不幸から目を逸らす事も出来やしまい」
 口調こそ砕けてはいても、美しい瑠璃玻の笑顔に2人の心は容易く奪われた。
 心ここに在らずといった態の碧と緋はそのままに、熾輝は瑠璃玻を相手に軽口を叩く。
 「それは褒められてるのかな?」
 「さぁ」
 「冷たいなぁ」
 素気無くあしらわれた熾輝は、おどけた仕草で肩を竦めた。
 それから、悪戯っぽい表情で2人の子供に向かって片目を瞑ってみせる。
 「さて、お迎えも来た事だし、これ以上瑠璃玻がご機嫌斜めにならないうちに煌を返してやるとするか」
 悪ふざけを咎めるように熾輝を一睨みしたものの、煌にマントを着せ掛けられる瑠璃玻は満更でもなさそうだった。
 「碧、緋」
 何とはなしに毒気を抜かれて立ち尽くす九鬼の双子に背を向けたかけた熾輝は、ふと足を止めると肩越しに彼等を振り返る。
 「お前達は、俺達みたいな恋はするなよ」
 そう告げる熾輝の眼差しは、黄昏の空に映える残照のように、物憂く感傷的な優しさに満ちていた。