■番外編 永遠の恋■

(12)

 那波が精霊祭殿の斎主となって初めての精銀祭が近づいていた。
 精銀祭は、天の星の運行と暦との間の整合性を維持する為に、6年に1度夏至である光の祭祀の前日に執り行われる精霊王の祭典だ。
 前回の精銀祭は、那波の斎主就任を披露する前祝いのような意味合いのものだった。
 精霊祭殿の最高神官として、ミフルの祭祀王として、那波にとっては最初の大役となる。
 この5年余りの間、熾輝は護り人として常に那波の傍らに在り続けた。
 当初、祭殿の人間は大半が熾輝の存在を好ましからず思っていた。
 護り人という職位の特異性から表立って彼の任用に反対する者こそなかったものの、余所者、それも戦を生業とする傭兵という仕事を卑下する風潮もあって、なかなか信を置こうとはしなかったのだ。
 殊に、高位の神官達の間には、根無し草のような自由気儘な暮らしに慣れた者が教義や規律を重んじる高尚な祭殿勤めの職に耐えられるものかと冷笑的に見る向きもあった。
 しかし、時に意外な政治的手腕をもって有事に当たり、時に文字通り身を呈して那波を護る彼の献身は、若い神官や衛士を中心に周囲の心を動かした。
 けして安易に周りに迎合せず、自分らしさを枉げずに貫き通した事も良かったのだろう。
 祈りと導きの言葉で民を統べる巫子姫と、彼女に剣と忠誠を捧げる高潔な騎士。
 いつしか、民の多くは2人を比翼の鳥に喩え、共に憧憬と敬慕の対象と見做すようになっていった。
 そこには、彼等の見目の影響も少なからずあった。
 那波は、透けるような白磁の肌に銀色の長い髪、銀灰色の瞳の、月の化身のように儚げな美貌の持ち主だ。
 対する熾輝は、健康的な小麦色の肌と豪奢な黄金の髪に映える鮮やかな蒼穹の色の瞳という太陽の申し子とでも言うような姿をしている。
 2人が並び立つその様は、天の双対の如く人々の目に映った。
 だが、一方で、熾輝のその容貌は周囲の不審を招く原因にもなっていた。
 斎主としての恵まれた才故に就任後間もなく巫翅人となった那波ほどではなかったものの、熾輝もまた年の割りに些か異常な若さを保っていたのだ。
 顔立ちの若々しさは感情豊かな表情のおかげもあるかもしれない。
 だが、剣士として常に鍛錬を怠らぬ事を差し引いても、肉体の精悍さは30代も半ばを過ぎているようには到底思えない。
 その事は、実力で彼に敵わない者達にいらぬ嫉妬や羨望を抱かせる結果となった。
 中には、熾輝を寵愛する斎主が彼に人ならぬ寿命を与えたに違いないなどと勘繰る者まで出て来る始末だ。
 当の熾輝は、若さの秘訣は修練の賜物と飄々と嘯くばかりで、その手の口さがない連中を相手にしなかった。
 彼の秘密は、この事件の時まで伏されていたのだ。
 毎年、光の祭祀が近くなると、聖都メシエはいつも以上に活気づく。
 祭りに合わせて祭殿を詣でる地方からの参拝客や行商人に加え、各地の領主等が祭典に参加して献上品を奉納する為に聖都を訪れる為である。
 特に、精銀祭が執り行われる年には異国からの大使も数多く来訪する事もあり、街も人も華やいだ気分に浮き立っていた。
 同じ事は、たくさんの賓客を迎え入れる精霊祭殿にも言える。
 いつもより人の出入りが多くなるこの時期に、多少警備が甘くなっていた事は否めないだろう。
 精霊王を奉る祭殿は崇められて当然、よもや襲撃を企てる不敬者はいまいと驕る風潮もあった。
 そんな浮ついた人心の隙を衝く形で、事件は起こった。
 「大変です!祭殿内に屍人が多数出現しているとの報告が入っております!」
 血相を変えた衛士が凶報を携えて神官長の執務室を訪れた時、数名の高位の神官等と共に儀式の打ち合わせの為に呼びつけられていた熾輝は偶々その場に居合わせた。
 「馬鹿な。聖なる祭殿に禍々しい屍人が入り込めるものか」
 報告を真に受けず小馬鹿にする態度を見せる神官長に、衛士は必死の形相で訴える。
 「しかし、現に神官様方にも被害が及んでおります」
 「何だと!?」
 「どうやら屍人使いの邪術を用いる妖術師が紛れ込んだ模様で…」
 「衛兵隊は何をしておる!」
 人身に被害が及んでいる事を聞いて漸く事態の重さを認識したかに思われたのも束の間、神官長は罪のない衛士をそう怒鳴りつけた。
 「客人等に万が一の事があれば祭殿の名に瑕がつきますぞ!この責め、誰が負いまする!?」
 「何者かが内側から手引きしたのではないか?」
 「神聖な祭殿を穢すなど!一体誰の仕業だ!?」
 体裁に囚われ早くも責任の追求と保身に汲々とする者、恐怖から疑心暗鬼に駆られる者、狼狽して喚き散らす者…誰も彼もが無闇に騒ぎ立てるばかりで誰一人まともな対策を打ち出そうとしない神官達を前に、上司から神官長の判断を仰ぐよう命じられて来た年若い衛士はただただ困惑して立ち尽くす。
 そんな状況を打開したのは、場違いなほどに冷静な熾輝の一言だった。
 「詮索は後だ。まずは事態を収拾しないと、だろ?」
 この頃には、熾輝は祭殿内の若い世代、特に衛士達からは絶大な信頼を得ていた。
 連絡役の衛士は、頼りにならぬ神官長に見切りをつけて彼の指示を乞う。
 「浄化の魔法を使える奴は屍人の出た現場に向かわせろ。それ以外は神官や客人の保護と各門の警備の強化だ。余計な混乱を招かないよう、一時的に祭殿への出入りを規制する。ただし、せっかくの祭りを楽しみにしてる民に無用な不安を抱かせないように対応には細心の注意を払うんだ。良いな?」
 ひとつの集団に属する事をしない傭兵上がりの身でありながら、否、それ故その時々で様々な軍や兵団で多くの戦場を見て来たからこそ、熾輝の指示は的確だった。
 慌てて踵を返す衛士を追ってその場を後にしようとした熾輝を、それまで口を挿む事すら出来ずにいた神官長が呼び止める。
 「待て!こんな時に何処に行く?」
 媚を含んだ縋るような彼の声音からは、腕の立つ熾輝をその場に留めた上で己の身を護らせようという魂胆が透けて見えた。
 熾輝は、疎ましさを隠そうともせずに端的にこう言い放つ。
 「決まってるだろ。俺の務めは那波を護る事だ」
 そんな彼を尚も引き止めようと、神官の一人が尊大な態度で戒めに出た。
 「斎主様は現在祈祷の間で斎戒中だ。何人なりと妨げる事は許されん」
 「ふざけんなよ」
 この期に及んで虚礼を盾に取ろうとする彼等の足掻きを、地を這うように低い不機嫌な熾輝の声が両断する。
 「それで那波の身に何かあったら――!」
 身勝手な神官達を罵倒しかけた熾輝は、言葉の途中ではっと瞠目した。
 一見無差別に祭殿の人間を襲っているかに見える騒ぎの裏で、何者かが那波の身を狙っている可能性に思い至ったのだ。
 「くそっ!」
 己の迂闊さに舌を打って、熾輝は勢い良く部屋を飛び出した。
 こういう火急の時には、祭殿の装飾と様式美を重視したやたらと複雑な造りが忌々しい。
 急く心のままに疾風の如き迅さで廊下を駆け抜け、祈祷の間の扉を開け放った彼の目に映ったのは、一体の屍人が今まさに那波に襲い掛かろうとしている光景だった。
 熾輝は、咄嗟に那波の前に飛び出す。
 間一髪振り下ろされた兇刃を左腕で受け止めた熾輝は、もう一方の手で【カルサムス】を抜き放つと同時に浄化の魔法を発動した。
 光刃一閃の下、聖剣と化した【カルサムス】が生ける屍体を両断する。
 幸いにも朽ちかけた体同様その刃も脆くなっていた為に腕を斬り落とされる大事には至らなかったものの、肉体の箍が外れた屍人の臂力は熾輝にかなりのダメージを齎した。
 だらりと力なく垂れ下がった左腕から、鏡のように磨き上げられた石の床に真っ赤な血がぼたぼたと滴り落ちる。
 「熾輝!」
 思わず苦鳴を洩らして膝をついた彼は、だが、那波の悲痛な声にも振り返る事はしなかった。
 淡い灯りの届かぬ部屋の隅に蟠る闇を――其処に潜む敵を鋭く見据えて、低く呼びかける。
 「出て来いよ」
 「噂に名高い斎主の金獅子か」
 彼の視線の先でゆうらりと影が揺れて、闇そのものが凝ったかのような黒衣の男が現れた。
 「思いの外早く邪魔が入ったものだ」
 白髪の混じった波打つ黒髪に墨色の酷薄な双眸。見ようによっては好男子と言えなくもない整った貌は、醜悪な欲望に歪んでいる。
 邪術の源であろう黒い火炎を封じた玻璃球をその手に掲げた男は、ギリと奥歯を噛み締めて剣を支えに身体を起こした熾輝に感嘆の言葉を投げかけた。
 「ほう、その身体で歯向かうか」
 剥き出しの敵意にも動じぬ男の態度は、張り詰めた熾輝の神経を逆撫でる。
 「うるせぇ。てめえに那波は渡さねぇ」
 傷の痛みを感じさせぬ強い眼をして獰猛に唸る熾輝の発した一言に、妖術師はおや、と片眉を吊り上げた。
 感心は、すぐに邪悪な悦びに取って代わられる。
 「私の目的に気づいているなら話は早い」
 那波へと視線を移した妖術師は、細い眼をうっとりと笑みの形に眇めて滔々と語りだした。
 「類稀なる魔力を秘めし先見の姫…手中に収めればこの世を征するも容易く、その力を持ってすれば天の理をも覆すと謳われる美しき生きた宝珠。抗い難きその魅力にどれだけ多くの者が心を狂わせ、叶わぬ想いに身を焦がした事か」
 恋を語るように陶酔した言葉が語るのは、力への誤った傾倒に他ならない。
 喜悦に打ち震える男の顔に見出せるものは、紛れもない狂気だった。
 「さぁ、共に来ていただこうか、斎主様。大人しく従えば良し。飽く迄も拒むと言うなら、屍人として我が傀儡と為すもまた一興」
 「させるかよっ!!」
 身勝手な言い分に激昂して那波の前に立ち塞がる熾輝を、妖術師は嘲笑う。
 「愚かな。剣士風情が、我が術を破れるとでも?」
 男の掌の中で玻璃球の炎が揺れると同時に、周囲の空気がぞわりとざわつき、新たな屍人が現れた。
 すぐさま剣を構えた熾輝によって最初の数体は斬り倒されたものの、屍人は次から次へと湧いて出ては那波と熾輝を取り囲んでいく。
 これでは、一体一体剣で斬り倒していたのでは限がない。
 まして、今の手負いの熾輝では、浄化の魔法を併用したとしても遅かれ早かれ剣を持ち上げる事さえ出来なくなるだろう。
 しかし、己の勝利を確信した妖術師の目の前で、【カルサムス】の剣身が突如紅蓮の焔を纏った。
 それは、炎と言うより清浄な光そのものだったのかもしれない。
 時を同じくして、爆発的な閃光が【カルサムス】から放たれた。
 物理的な力さえ持つ目映い光の洪水が辺りを埋め尽くし、屍人の群れごと妖術師を飲み込んでいく。
 視界を灼き尽くす白光が収まった時には、那波達を取り巻いていた屍体は塵も残さず消え去っていた。
 妖術師の男もまた己の下僕と同じ運命を辿ったのだろう。
 事件の終焉を告げるように、彼の遺した玻璃球がかしゃんと儚い音を立てて床の上で砕け散る。
 後には、光と共に巻き起こった突風の名残に伸ばした髪を踊らせて立つ熾輝だけが残された。
 「…熾輝…?」
 彼に護られる形で一部始終を見守っていた那波が、その後姿を見つめておずおずと口を開く。
 彼女の目の前にある熾輝の背中には、金赤の煌めきを帯びた片翼――巫翅人の証となる翅翼の幻影が、風を受けて雄々しく広がっていた。
 「あーあ、ばれちまったか」
 顔に落ちかかる長めの前髪を掻き揚げて、熾輝はばつが悪そうに苦笑する。
 「ちゃんと力が使えるようになるまで黙っとくつもりだったんだけどな」
 対とならない翼は、熾輝の力がまだ不完全な証拠だった。
 それでも、彼は巫翅人として、人ならぬ生を歩み始めているのだ。
 熾輝は、彼の姿から目を放せずにいる那波の態度を負傷への気遣いと取って、軽い調子で肩を竦めてみせる。
 「あぁ、これか。悪い。傷を塞ぐのはダメなんだ。治癒とかそっち方面は全然適性なくってな」
 熾輝に理を外れた生命を選ばせてしまった事、その事に罪悪感を感じた那波が自分を責めているのが解らない熾輝ではない。
 でも、だからこそ、彼女に負い目を感じさせないように、彼は敢えて普段通りの気安さを貫く。
 「でも、俺は那波と同じ時間を生きるんだ。言ったろう?あんたを護ってやるって」
 その言葉は、那波に彼等が最初に交わした契約を思い出させた。
 あの時、熾輝は那波に言ったのだ。「あんたを護ってやる」と。
 「眠れない夜にはいつでも傍にいる。那波の願いなら、何だって叶えてやる。約束するよ」
 真摯な、けれど深刻になり過ぎない明るい声で、熾輝はそう誓う。
 「私は…」
 潤んだ瞳を喜びと不安とに揺らす那波の唇が、何かを言い淀むかのように弱々しく震えた。
 それを軽い口づけで封じた熾輝は、悪戯っぽく片目を瞑ってみせる。
 「報酬は、那波の未来だ。文句は言うなよ?」
 そうして、ふっと穏やかで包み込むような眼差しで那波を見つめて、熾輝は究極とも言える求愛の言葉を口にした。
 「一緒に世界の終わりを見届けよう」