■番外編 永遠の恋■
(11)
ミフル大陸の北、ノルド地方に聳え立つテニヤ山脈。
その麓に築かれた町ユークレースは、深い雪に閉ざされていた。
深々と降り積もる雪が景色ばかりか音までも飲み込むのか、辺りは静寂に包まれている。
斎主一行にとって最後の巡幸先となるこの町で、熾輝はとある人物と会う事になっていた。
饗された茶の器から湯気が消える頃、漸く目当ての相手が現れる。
「待たせてすまない。私が九鬼の当主、奏《かな》だ」
客間に足を踏み入れるなりそう名乗ったのは、端正な容貌の長身の女性だった。
年は30代半ば、熾輝より若干年上といったところだろう。
北の地の出自らしく淡い白金の髪と乳白色の肌が、どことなく人間離れした高貴さを醸し出している。
全体に色素の薄い容姿の中で、明るい紅茶色をした瞳が一際印象的な、美しい人だった。
返礼もせぬまま見惚れる熾輝の態度をどう取ったものか、奏と名乗った女性は唇の端に皮肉な笑みを載せて問いかけてくる。
「武門で名を馳せる九鬼の頭領が女なんで驚いたか?」
彼女の問いかけに漸く我に帰った熾輝は、正直に己の非を詫びる言葉を口にした。
「失礼。美人なんで驚いた」
「世辞なら聞かんぞ」
「いや、ほんとに」
女性の傭兵や戦士自体は数こそ少ないものの皆無という訳ではないし、各都市の警邏隊や正規軍にも女性兵士は存在する。
仕事柄熾輝はそういった女性達を多く見てきたが、彼女達は大抵男顔負けの、筋骨隆々骨太ながっしりとした体躯の持ち主だった。
そういった女丈夫タイプとは違いほっそりとした体つきの奏は、勇名高き九鬼を統べる長として荒事を生業にしてるとは到底思えない。
きちんと観察すれば細身とはいえ必要な筋肉がついた良く鍛えられた身体なのは見て取れるのだが、貴族的に整った顔立ちも相俟って熾輝としては完全に意表を衝かれた状態だった。
「面白い男だな」
1度は素っ気無くあしらった奏だったが、熾輝が本心から言っているのが解ると面白そうに口許を綻ばせる。
「それで、私に用とは?」
打ち解けた雰囲気で尋ねた奏に対し、熾輝は威儀を正して用件を告げた。
「俺は熾輝。今は斎主に雇われて護衛の任に就いている傭兵だ。精霊王より、九鬼の長宛に荷を預かって来た」
同時に、上着の隠しにしまっておいた包みを彼女の前に差し出す。
アイシオンを発つ熾輝の許を、精霊王の巫覡が次のような槐からの言伝を携えて訪れた。
「貴様に真の覚悟があるなら九鬼の長を訪ねよ」
その時に託されたのが、今奏に手渡した包みという訳だ。
包みの中には立派な鹿の角と一通の書簡が入っていた。
角は、季節変わりの折に槐の頭部から抜け落ちたものだろう。
書簡を読み終えた奏は、改めて熾輝をまじまじと見つめやる。
「槐様の言う那波の金獅子とはおまえの事だな?」
値踏みするような視線に居心地の悪さを感じる熾輝を他所に、奏は何やら考え込む素振りを見せた。
やがて、彼女なりに得心したのだろう。
「ふぅん。まぁ、良いか。ついて来い」
そう熾輝に声をかけると、颯爽と踵を返す。
暖房の効いた客間を出て長い廊下を進み、幾つもの角を折れ、階段を上っては下り…さすがの熾輝も現時位置の把握が覚束無くなってくる頃、奏は漸く迷いなく進めていた足を止めた。
「着いたぞ」
2人の前には、壁に馴染んで遠目にはそれと解らない造りの扉が在る。
促されるままに重い扉を押し開いて中を覗き込んだ熾輝は、意外な光景に目を瞠った。
彼の感覚が狂っていなければ地下に位置する筈のその部屋は、どうやら半地下になっているらしい。
高い天井近くの明り取りの窓は今は雪に塞がれているものの、室内の灯りを映して仄明るい光を湛えている。
部屋の四方を囲む壁の内の三面には、大きな書架が並んでいた。
残る一画は、結界の楔に使う呪符や護符、魔物の嫌う銀の武具に聖水、薬草とそれを調合する乳鉢等が収められた棚が占めている。
中央に設えられた机の上には呪陣が広げられ、脇の書見台には魔術書が開かれたままになっている。
魔導士や神官ならともかく、武人の住まいにはどう見てもふさわしからぬ空間だった。
「…此処、は…?」
「驚いたか?」
奏は、呆気に取られる熾輝の反応を存分に愉しんでから説明を加える。
「此処には魔導に関する様々な資料が集められている。九鬼の家には、時々強い魔力を持つ子供が生まれるんだ。まぁ、こんな辺境の地では魔物が出た時に必ず神官が居合わせるとも限らないから、必要に迫られて発現した力なんだろう。どこかで優れた力を持つ聖職者の血が混じったという言い伝えもあるが、真偽の程は解らん」
血筋の優劣に意義を見出す価値観は、彼女には無縁らしい。
何かを思い出そうとでもいうように書架の前で首を捻りつつ、一見何の脈絡もなさそうな話題を口にする。
「で、九鬼の人間は意外と長寿でな。もちろん戦いで命を落とす者も多いが、天寿という点では他の民を凌ぐ。魔導に限らず、何事も極めれば人の道理から外れてしまうものなのかもしれんな。…っと、有った有った」
書架の隅から引っ張り出した年代物の巻物を繰る彼女の後姿を眺める熾輝には、まったく話の繋がりが読めなかった。
おそらくは九鬼一族の重要な秘密を担っているであろうこの部屋に連れて来られた理由も解らない。
だが、そんな熾輝の困惑にはお構い無しに、巻物に目を通し終えた奏は振り返り様こう命じた。
「得物を貸してみろ」
状況を飲み込めない熾輝は、勢いに流されるまま【カルサムス】を鞘ごと奏に手渡す。
「ほぉ、氷煉鋼か。良い品だ」
やはり、見る者が見れば業物の良さは解るのだろう。鞘から僅かに引き出した剣身を目にしただけで、奏はうっとりと嘆息する。
それから、奏は徐に【カルサムス】を抜き放つと、抜き身の刃に掌を翳して二言三言呪文を詠唱した。
刹那、剣身に燐光が宿り、清浄な風が吹き抜ける。
変化は、一瞬の事だった。
鞘に戻した【カルサムス】を熾輝に返しながら、奏はたった今己が為した所業を告げる。
「こいつに、浄化と聖光の魔法をかけた。斎主の護り人になるつもりなら、魔性くらい祓えないとな」
熾輝の意識を捕らえたのは漸く語られた目的でも断りなく施された術でもなく、聞き慣れない単語だった。
「那波の護り人?」
「違うのか?」
怪訝そうに鸚鵡返しにした熾輝は、奏から逆に訊き返されて更に戸惑いを深める。
「というか、護り人ってのが何なのか解らないんだが」
「護り人は斎主の護衛と侍従を兼ねたような職分だ。つまり、常に斎主の傍に仕え、その身を護る為に存在するただ1人の為の騎士、といったところか。そもそも斎主の資質を持つ人間自体が稀少な事もあって常設される職位ではないが、その分祭殿の他の役職に較べて多少は融通が利く。人選には斎主自身の意向が反映されるというから、おまえさえその気なら那波殿は喜んで彼女の金獅子を傍に置くだろう、というのが槐様の見解だ」
その為にも、熾輝が使い物になるよう手助けをしてやってくれと奏への書簡にはあった。槐の魔力を秘めた角はその報酬なのだという。
槐に疎まれたものとばかり思っていた熾輝は、半信半疑で奏の説明を聞いていた。
それに追い討ちをかけるように、奏はこんな事を言う。
「槐様は、あれでお優しいお方だ。那波様の為というのもあるだろうが、おまえの事を気にかけているのだろう。それに、どうやらおまえには神聖魔法の資質があるようだから、聖剣を使いこなしてるうちに上手くすれば巫翅人にでもなれるかもしれん、とも仰っている」
「巫翅人に!?」
思わず勢い込んで問い返した熾輝に、奏は軽く肩を竦めてみせた。
「私に言わせれば、敢えて人外になりたがる気持ちは理解できんが、そうまでしてでも貫きたい想いがあるのだろう?」
その時、熾輝の頭を支配していたのは、那波に永遠を誓える事への喜びだった。
我ながらどうかしているとは思う。
これまでの彼は、束縛を嫌い、己が心のままに生きて来た。
もちろん、相応の義務と責任は果たしてきたし、危険を背負う事も承知の上で択んだ道だ。
そうして手に入れた自由こそ、熾輝の誇りであり、生き様だった。
そんな彼が、逢ったばかりで碌に知りもしないたった一人の女の為に、人生を変える決断をしようとしているのだ。
けれど、理性がどれ程思い留まらせようとしたところで、惹かれる想いは止まらない。
那波を抱き締めたいと思った。彼女の毅さも弱さも、すべて護りたいと思った。それで充分だ。
熾輝は、端的な言葉に万感の想いを込めて頭を下げる。
「感謝する、奏殿」
奏は、彼の謝意を鷹揚に受け入れる。
「礼なら槐様に言うんだな」
槐の名前を耳にした途端複雑な顔をする熾輝に苦笑していた奏は、ややあって一転して重々しい声音で呼びかけた。
「熾輝、と言ったな」
顔を上げた熾輝を見据える瞳には、怖いほど真摯な光が宿っている。
「忘れるな。呪い(まじない)は呪い(のろい)に通じる。いつか世に厭き、永の寿命を恨む日が来るかもしれん。それでも、おまえは理に逆らう事を選ぶのか?」
初対面にも拘らず心から慮ってくれる奏の厚意が、熾輝には有り難かった。
それでも、いや、だからこそ、彼女の負担とならない為に、熾輝は敢えて飄々と嘯いてのける。
「その時はその時だ。どうせ後悔するなら、やらずに悔やむよりやっちまって悔やむ方が性に合うんでね」
「…違いないな」
不敵さを装う熾輝の気遣いを悟った奏は、ほろ苦い笑みでそう応えた。
※ ※ ※
その年、夏至の日に執り行われた光の祭祀の場で、熾輝は正式に那波の護り人に任ぜられた。
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