■番外編 永遠の恋■

(10)

 既に日が傾きかけていた事もあり、那波と熾輝はその日、槐の勧めに従い精霊王の森で一夜を明かす事になった。
 とは言え、職業柄過酷な状況下での野営にも慣れている熾輝はともかく、那波に冬の森での野宿を強いるのは躊躇われる。
 熾輝の申し入れを受けて、槐は彼等を森の奥にある大木に囲まれた空き地へと導いた。
 木々の柱と枝葉の屋根を擁する広場の中央には、樹齢千年を数える欅の古木が威風堂々と聳えている。
 古木の幹には、大人が立って入れる程の大きな虚が穿たれていた。
 宿りの大樹と呼ばれるそれは、アイシオンに隠れ住む導士達の長や巫覡、代々の斎主がこの森を訪れた際に寝泊りする宿の役目を果たしているらしい。
 虚の中には簡素ながらも寝台と卓、それに幾許かの食料も備えられている。
 更に、有り難い事に付近には清流の他に温水の湧く泉もあり、軽装でも寒さを凌げる環境が整えられていた。
 さすがに狭い空間で2人きりになるのは憚られるからと奥の寝台を那波に譲って虚の入り口で寝ていた熾輝が夜中にふと目を醒ましたのは、だから、居心地の悪さが原因ではなかった。
 戦地に於いて常に殺気や物音に気を張り詰めていたのが習い性となっている所為もあって元々眠りは浅い質の熾輝だが、生命を脅かされる惧れのない場所で安眠出来ないほど神経質でもない。
 唐突な覚醒は、冷たく冴えた月明かりの所為かもしれない。
 木々の枝越しに降り注ぐ蒼白い月光を頬に受けつつ、熾輝はそう考える。
 目を醒ました時には、何故だが酷く物哀しい気分だった。
 夢を見た、というのとは違う。強いて言えば、誰かの哀しみに共鳴しているような、そんな感覚。
 その「誰か」に思い至った熾輝は、そっと名を呼んでみた。
 「那波?」
 微かに身じろぐ気配から、那波が眠っていない事が知れる。
 熾輝は、相手を脅かさないように気を配りつつ虚の中を仕切る衝立を回って彼女の許に歩み寄った。
 那波は、横になってすらいなかった。
 薄闇の中で寝台の上に身体を起こし、ひっそりと、消え入りそうな風情で俯いている。
 仄かに燐光を放つような長い銀の髪に覆われた横顔からは、感情を窺う事は出来なかった。
 だが、常であれば麗らかな春の陽めいた穏やかさを纏う彼女の常ならぬ様子は、熾輝に不安を抱かせる。
 「何かあったのか?」
 僅かな沈黙の後、那波は気遣わしげな熾輝の問いに細い声でぽつり答えた。
 「夢を見るのです。災厄の日を…ミフルの終焉の時を」
 彼女の告白に、熾輝は彼女と槐との遣り取りを思い出す。
 「那波、君の問いに対する答えは、是だ」
 「是…ですか」
 「そう。君の見た夢は真実…その意味するところもまた、君の推察通りだ」
 あの時、槐の答えに、那波は酷く打ちひしがれていたように見えた。
 そうして、今、絶たれた希望が彼女を追い詰めている。
 「この世に永遠はありません。草木が枯れ、獣が死して土に還るように、いつかは国も滅び、命は混沌へと帰す。それは解っています。でも、人々の苦悶が、悲鳴が、耳について離れないのです」
 静かに紡がれる言葉は、激する事のない彼女の慟哭だった。
 それなのに、顔を上げた那波は、熾輝に笑ってみせる。
 「おかしいですね、頑是無い子供のように夢が怖いだなんて」
 本当は、夢を恐れているわけではない。
 滅びの時を知りながら何も出来ない自分への無力感が、彼女を責め苛み、安らかな眠りを妨げるのだ。
 未来を夢に見ると告げられた時に気づくべきだった。
 世界の終わりを為す術もなく見せつけられて、彼女は一体どれだけの間、誰にも理解されない苦しみに独りで耐えてきたのだろう。
 熾輝は、堪らない想いに駆られて那波を抱き竦めた。
 泣くな、と願う。その同じ心で、そんな風に笑うなと乞う。
 そのどちらも口にする事が出来ないまま、熾輝は那波の細い身体を寝台へと縫いつける。
 敷布に上に銀色の髪を広げて横たわる那波は、神聖な供物のようにされるがままに熾輝の暴挙を受け入れた。
 恐れも穢れも知らぬげな眼差しで見上げてくる彼女の耳許に、熾輝は甘い誘惑を吹き込む。
 「俺が、あんたに、夢を見ない眠りをやるよ」
 彼の真摯な瞳は、その言葉が手練手管ではなくただただ那波の安寧を願ってのものだという事を物語っていた。
 一瞬軽く目を瞠った那波は、淡く微笑んで目を閉じる。
 長い睫毛に縁取られた目尻から蒼白い頬に一筋の涙が零れ落ちるのを視界の片隅に捉えつつ、熾輝はゆっくりと那波の上に覆いかぶさっていった。
 

※  ※  ※


 翌朝、熾輝は那波が目を醒ますより早く宿りの大樹を抜け出した。
 那波の蒼白い頬に残る涙の跡が居た堪れなかった所為もあるが、何より、どんな顔をして彼女に向き合えば良いのか解らなかったのだ。
 それなりに色事の経験を積んでいる熾輝だが、こんな風に感じる事は初めてだった。
 らしからぬ自分に戸惑いつつ、とりあえず那波の身を清める為の湯を運ぼうと朝靄の煙る木立を縫って泉へと向かう。
 泉の辺に膝をつき、持って来た水瓶に温水を汲んでいると、背後から冷ややかな声が投げられた。
 「昨夜は良く眠れたか」
 すべてを承知しているであろう槐の痛烈な当て擦りに内心肝を冷やしつつ、熾輝は槐を振り返る。
 「怒ってるのか?」
 精霊王の教えに処女崇拝はないが、寵愛する巫子に自らの領域で手を出されては面白くないだろう。
 案の定、槐は容赦なく熾輝を断罪する。
 「当然だ。貴様は重い罪を犯したのだぞ」
 だが、続く指摘は彼の予想を外れていた。
 「貴様は、あれの心に灯を点してしまった」
 「それが罪だって言うのか?誰かを想うのが悪しき邪念だと?」
 那波を閉じ込めようとする祭殿の遣り様に対する反発も手伝って立場も忘れて反駁する熾輝を、槐は揶揄する口調でいなしてのける。
 「愛という言葉が万能だなどと青臭い事を信じているわけではあるまい?」
 それから、槐は一転して重々しい響きの声でこう宣告した。
 「それに、私が問題にしているのは貴様に灯りを護り抜く力も覚悟もない事だ」
 「永遠を誓えば良いってのか!?」
 あまりに一方的で理不尽な言われように、熾輝は思わず憤る。
 しかし、苛烈な熾輝の激情さえ、槐の怒りの前では無力だった。
 「心とは移ろうものだ。一時の感情で物を言わない事だな」
 咬みつくような反論すら一言の下に斬り捨てて、槐は何処までも超然とした態度で熾輝の罪を暴き立てる。
 「よしんば、貴様の誠意が真実だとしよう。だが、貴様が逝った後、遺された彼女はどうなる?」
 人の子としての寿命しか持たない熾輝は、最期まで那波の傍にいる事は叶わない。いつか必ず彼女を孤独の中に置き去りにする事になる。
 「光とぬくもりを知ってしまった彼女からそれを奪うのがどれ程酷な事か…それが、永の歳月を生きる巫翅人とあれば尚の事」
 槐は、衝動に突き動かされた熾輝が見落としていた、否、見ようとしなかった避け難い未来を眼前に突きつける事で徹底的に彼を弾劾した。
 「解るか?貴様の行いは、生半な希望と喪失の痛みを彼女に齎すのだ」
 熾輝の顔が、現実の重みと衝撃に蒼褪める。
 視線を逸らし、血が滲むほど強く唇を噛み締めて項垂れる熾輝をその場に残して、槐は冷然と踵を返した。
 その背を追うように、雪片を乗せた風が吹き抜ける。
 「熾輝様に罪はありません」
 梢を渡る風が運ぶ声は、宿りの大樹にいる那波のものだった。
 那波は、屈託のない口調で続ける。
 「もしも罪があるとしたら、それは心弱い私のもの。せっかくたくさんの人と出逢い、愛する機会が与えられているのですもの。嘆いてばかりいてはそれこそ罰が当たります」
 気丈な彼女の言葉に耳を傾けていた槐は、僅かな沈黙の後に1つの問いを投げかける。
 「…あの男を好いているのか」
 那波からの答えはなく、槐は思わし気な足取りで木々の間へと姿を消した。