■番外編 永遠の恋■
(1)
柔らかな朝の陽射しが、乳白色の霧の表面できらきらと踊っていた。
秋も深まりそろそろ冬の足音も聞こえてこようかというこの時期、ヒナ湖の湖面は早朝、濃い霧に覆われる。
風に運ばれ、湖岸に近いメシエの街をしっとりと包み込むこの霧は、藍玉節の始まりを告げる聖都の風物詩だった。
夜露と霧に洗われた清々しい空気が、天象神殿の一画を占める林を満たす。
赤や黄色に色づいた木立の先には、太陽神・熾輝の奉剣場が在った。
其処から聞こえる剣戟の音が、ひんやりとしたヴェールに包まれたしめやかな朝の静寂を鋭く切り裂く。
剣皇と詠われる熾輝への奉納試合が行われる事もある奉剣場は、高い丸天井と観覧席を備えた大規模な施設だ。
だが、その日の朝は観客はおろか修練に勤しむ騎士団員の姿もなく、3人の若者に貸し切られていた。
1人は、白金の長い髪をすっきりと束ね、細身の長剣を手にしたすらりとした青年――煌である。
当代の斎主である瑠璃玻の護り人であり「太陽神の剣」の異名を持つ彼を挟んで、男女の双子が武器を構えていた。
彼等は互いに良く似た姿をしていたが、同時にその容貌からは煌との共通点も窺える。
2人共肌が白く、長く伸ばした金髪の色も淡い。
少女は結い上げた髪を編み、少年は編んだ髪を背に下ろしているが、涼やかに整った顔立ちも似通っている。
何より、特徴的な紅茶色の瞳が、彼等の血の繋がりを物語っていた。
じりじりと間合いを計っていた少女が、先手を取って動く。
槍で打ちかかった彼女を、煌は剣の一振りで容易く受け流した。
すかさず両手に二振りの彎刀を携えた少年が弧を描く動きで斬りかかる。
三日月形の刀身は、それぞれ逆向きの刃を備えていた。
外側に刃がついた剣は触れるものを掠め斬り、もう一振りの内側の刃は鎌のように捉えた相手を掻き切る。
優雅な外見に似合わぬ兇暴な武器だった。
物騒さでは、少女の槍も引けを取らない。
鉤のついた広刃の穂先は敵を引き倒し斬撃を加える事に特化している一方で、反対側の通常石突と呼ばれる部分が刺突を意識して先端が鋭利に尖らされている。
少女と少年は、息の合った動きで煌に迫った。
だが、煌は目まぐるしい迅さで繰り出される攻撃を舞うような身ごなしで尽く躱してのける。
彼が攻撃に転じないのは、年若い2人に稽古をつける立場に徹している為なのだろう。
演武の如く華麗でありながら息を吐く間もない攻防に身を投じていた彼等は、いつの間にか何者かが奉剣場にひっそりと足を踏み入れた事に気づかなかった。
「精が出るな」
高らかな拍手と共にそう声をかけられて、漸く我に返る。
「熾輝様!」
双子の戦士は、思いがけない人物の登場に慌てて膝をついた。
煌は、剣先を下ろして目礼する。
豪奢な金髪を戴いた太陽神は、恐縮して頭を垂れる少年少女に鷹揚に頷くと気安く話しかけた。
「碧《アオイ》に緋《アケイ》だったか。相変わらず、九鬼には良い戦士が揃ってるな」
碧と緋の双子は、誇らしさにぱっと表情を輝かせる。
「ありがとうございます」
「私達も、祭剣の儀を終えた暁には熾輝様の下で瑠璃玻様のお役に立ちたいと思っております」
勢い込んで応える彼等を、煌は穏やかに窘めようとした。
「2人共騎士団に入ってしまっては、族長の跡目はどうするんです?少なくともどちらか1人は父君の傍で経験を積まないと」
それに対して、双子は口を揃えて反論する。
「族長なら、煌様が継がれれば良いのです」
「そもそも、煌様は当代の従祖父(いとこおじ)で、先々代である響様のご子息でもある。それに、今の九鬼に煌様に敵う者などおりません」
「巫翅人である煌様が族長になれば代替わりの必要もありませんし」
淀みない2人の口ぶりは、彼等が常々同じ思いを抱いているという事実の表れだった。
煌は、溜息を吐いて彼等を諭す言葉を探す。
彼に対する助け舟は、意外なところから差し伸べられた。
熾輝が、飄々とした調子で口を挟んだのだ。
「だからこそ、こいつは族長を継がないのさ。1人の人間が長い間力有る集団を統べるのは好ましくない。武力による独裁に繋がる惧れがある」
相手が神とは言え一族の尊厳に関わる心外な発言に、年若い九鬼の双子は即座に反発した。
「煌様はそんな事を望んだりしません!」
ややきつい面差しの少女がそう言えば、どちらかと言うと柔和な印象の少年も真摯な目をして言葉を重ねる。
「緋の言う通りです。それに、九鬼の家の者は政争の類を好みません。そのような懸念は杞憂というものです」
若者特有の純真さで言い募る2人に、熾輝は軽く肩を竦めて見せた。
「だろうな。だが、周りはそうは思わない」
唇には皮肉っぽい笑みが刻まれているものの、眇められた目許には下世話な妄想に踊らされる愚昧な輩に対する明らかな侮蔑が見て取れる。
一瞬垣間見えた正義神としての本性に気圧されて口を噤んだ碧と緋に、熾輝は一転して口調を和らげるとこう言い添えた。
「それに、煌は一族に対する責務を果たす事が出来ないんだよ」
告げられた言葉と共に煌に向けられた蒼穹の色を映した鮮やかな碧眼には、優しい光を湛えられている。
包容力を感じさせるその表情に励まされるように、緋という名の九鬼の少女はおずおずと口を開いた。
「何故ですか?煌様は、九鬼を離れた今も私達にとても良くしてくださっているのに」
「そりゃ、今は非常事態じゃないからな」
そう言って苦笑する熾輝の声音からは、どこか面白がっているような様子が伝わってくる。
「基本的に、煌は優しいよな。でも、いざとなったらこいつは何を差し置いても迷わず瑠璃玻を選ぶ。その自覚が有るから、賢明にも最初から自分の手に余る責任を背負い込まないようにしてるってわけだ」
彼の言葉を受けて、碧と緋は問うような眼差しを煌に向けた。
だが、煌は困ったように曖昧に微笑むばかりで何も言おうとはしない。
こういう時の彼から明確な回答が得られない事を経験上知っている双子は、代わりに発言の主を問い質す事にした。
「でも、どうして熾輝様にそんな事が解るのですか?」
至極真っ当な問いかけに、熾輝は悪戯っぽく笑ってこう応える。
「そりゃ、俺とこいつが同じ罪を分かち合う共犯だからさ」
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