■第2話 暁紅の星■
(9)
白い大理石で造られた霊廟は、まるでそれ自体が輝きを内包しているかのように鈍色の闇の中で仄かに浮かび上がって見えた。
夕方に降った雨のおかげで暑さは幾分和らいだものの、噎せ返るほど濃厚な緑の香りを滴らせる樹海の空気は湿気を孕み、ねっとりと肌に絡みつく。
だが、霊廟を取り囲む敷地に足を踏み入れた途端、綾は総毛立つような悪寒を覚えて歩みを止めた。
熱気の所為ではない息苦しさに苛まれ、胸を押さえて大きく喘ぐ。
と、俯き加減になっていた綾の頭上にふわりと影が落ちた。
同時に、あれほど苦しかった呼吸が楽になる。
不思議に思ってゆるりと顔を上げると、目の前に瑠璃玻の掌が翳されていた。
天上の名匠の手になる細工物と見紛う程に形の良い指先から放たれる清浄な気が、纏わりつく瘴気を祓っていく。
瞬き数回の間に不快感は去り、瑠璃玻の手が退いた後も綾の周りに不浄な空気が戻る事はなかった。
「…ごめん」
綾は、浄化の呪をかけてくれたのであろう瑠璃玻に素直に「ありがとう」と言えず、代わりに短い詫びの言葉を口にする。
それには応えず、瑠璃玻は険しい眼差しを霊廟に向けたまま苛立たしげに呟いた。
「バカが」
「本当に、困った事をしてくれましたね」
同じように霊廟の扉を見据えた煌が、困惑している綾にも解るように溜息混じりに現状を説明する。
「これだけ場を穢せば精霊が黙っていません。怒りに狂った精霊を宥める力なんて日向殿にはないでしょうに」
瑠璃玻は、それ以上何も言わずに身を翻すと僅かの躊躇いもなく霊廟の扉に手を掛けた。
※ ※ ※
ずぅんという静かで重い音と共に、入り口の扉が閉ざされる。
ただそれだけで、霊廟の中は外界から遮断された異世界へと変わったようだった。
大気がひんやりと乾いているのは、緻密に積み上げられた石壁と石畳の床が内部の空間を地下室と同じような状態にしている為だろう。
それでいて壁に掛けられた燭台の炎が赤々と燃え続けている事からも、空気が淀まぬように働く魔法の存在が窺える。
本来なら、廟内は人々が祈りを捧げるのに相応しい神聖な場所である筈だった。
しかし、今は生ける者の侵入を拒む邪な力が辺りを支配している。
そこから生じる圧迫感は、廟の中央にある祈祷の広間へと近づくにつれてより強固なものとなった。
「瑠璃玻」
先に立って歩いていた煌が、広間の扉の前で立ち止まって瑠璃玻を振り返る。
瑠璃玻は、鷹揚に頷く事で先を促した。
煌は、ぽぅっと淡い光を宿した指先で扉の上をなぞる。
ぱりんと薄氷が割れるような音がして、祈祷の広間に施された封印が解けた。
観音開きの石の扉が左右にゆっくりと開く。
「退がって!」
次の瞬間、煌は鋭い声を放つのと同時に腰に佩いていた剣を抜き放った。
その背中越しに中の様子を覗き見た綾が、ひっと悲鳴を上げる。
「ちょっ、何これっ!?」
其処にいたのは、月蝕の晩の空を思わせる濁った血闇色の「何か」だった。
「何か」――一様に憎悪や苦痛といった表情に歪められたそれらの顔は、人間に見えない事もない。
だが、蝋燭の炎にも影を落とさない彼等が実体のある人間だとは思えなかった。
「亡霊騒ぎの元凶です」
油断なく剣を構えた煌の落ち着き払った返答に、冷静さを保てない綾が感情的に噛みつく。
「霊廟に死体は安置してない筈でしょ!?」
そんな綾とは対照的に、瑠璃玻が静かに口を開いた。
「亡霊といっても屍が動き回るものとは限らない。これは死者の無念の情や遺された者の哀惜の念が変じた妄執――魂の亡骸だ」
さりげなく綾を庇う位置に立った瑠璃玻は、淡々と恐ろしい事を言う。
「肉体を喪い、偏った心に囚われた彼等は最早妖に近い。迂闊に近づけば引き摺られて気が触れるぞ」
「何でそんなものがっ!?」
思わず声を荒げる綾に、瑠璃玻は忌々しげにこう吐き捨てた。
「日向の仕業に決まっている。あの女が、【クラヴィウス】を隠すという私利私欲の為に眠れる魂を呼び醒ましたんだ」
「そんな…!」
それは、死者への冒涜であり、遺された者の想いをも踏み躙る許し難い行為だった。
しかも、それを行ったのが愛と死の女神に仕える神官長である筈の日向その人だというのだ。
「何とかならないの?」
こうしている間にも、安寧から引き剥がされた魂の亡者は、瑠璃玻達の生命の輝きに魅せられて自らの内にそれを取り込もうと近寄って来る。
半ば縋るように問いかけた綾に、煌は背を向けたまま冷徹な現実を告げた。
「こうなってしまっては元の眠りに導く事は不可能です。俺達に出来るのは、迷える魂を精霊王の御許に還す事だけ」
その手には、眩いばかりの蒼白い光を帯びた【プロクシェーム】が握られている。
煌が【プロクシェーム】を振るう度に、寄り集まって来た亡者が1人、また1人と宙に消え去った。
瑠璃玻も、白く清らかな光を掌に集めては襲い掛かってくる亡者を祓っていく。
ただひとり為す術もない綾は、何も出来ずにおろおろと視線を彷徨わせた。
すると、広間の中心に置かれた朱華の彫像が目に留まる。
巨大な鎌を振り翳す女神の足許、台座の上に横たえられた赤子の小さな両手に、銀色の腕輪が捧げ持たれていた。
蔦か何かの植物を編んだような華奢な細工の二重の環の間に、六条の光線を持つルビーが嵌め込まれている。
これが、星神の神器・相克の環【クラヴィウス】だった。
――【クラヴィウス】を手に入れれば事態の打開が図れるかも!
綾の脳裏に、何の根拠もなくそんな希望が生じる。
彼女の行動は迅速だった。
瑠璃玻と煌が放つ光が生み出した空隙にするりと身体を滑り込ませると、まっすぐ女神像を目指して走り寄る。
一方、亡者の相手に追われていた瑠璃玻は反応が遅れた。
「綾?」
急に駆け出した綾の姿を求めて視線を走らせた瑠璃玻は、入り口と正反対の位置にある壁が音を立てずにスライドするのを視界の片隅に捕らえる。
まるで計ったようなタイミングで、隠し扉の向こうから数名の衛兵が姿を現した。
手に手に武器を持った男達は、焦点の定まらないどんよりとした瞳を瑠璃玻達に向ける。
彼等が、日向に惑溺の呪で操られている事は明白だった。
そうでなければこの異常な状況下で霊廟に近づく事も、斎主に武器を向ける事も出来るわけがない。
「煌」
瑠璃玻の低い呼びかけに応じて、煌が動いた。
片刃の剣を逆向きに持ち替えると、わらわらと統率の取れない動きで広間に踏み入った衛兵達の間に斬り込んで行く。
それなりに訓練されている筈の兵士達は、反撃はおろか何が起きたのかも理解できないうちに次々と床に沈められていった。
その間に、綾は台座の上の【クラヴィウス】に手を伸ばす。
と、その時、開いたままの隠し扉の奥に、きらりと冷たい輝きが瞬いた。
いち早く気づいた瑠璃玻は、咄嗟に障壁を作ろうとしたところを残っていた亡者に妨げられる。
「止せっ!」
彼が上げた制止の声は、僅かに間に合わなかった。
【クラヴィウス】を手にした綾の、安堵に緩んだ表情が驚愕へと変わる。
「…え…?」
大きく瞠った目で、綾は背後から己の胸を貫いた刃を見下ろした。
痛みという名の灼熱の波が脳内にハレーションを起こし、感覚を失った四肢から砂が零れるように力が奪われる。
「綾っ!!」
悲痛な叫びと共に、広間は閃光に包まれた。
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