■第2話 暁紅の星■
(8)
客間に戻った綾は、長い髪から水を滴らせた煌に出迎えられて少々面食らった。
「どうしたの、それ?」
目を丸くして尋ねる綾に、煌はほわんと苦笑する。
「ちょっと禊を」
「禊〜?」
「日向が使った惑溺の呪の痕跡を消す為だ」
胡乱げに目を細めて聞き返した綾は、やや不機嫌な瑠璃玻の説明に眉を顰めた。
「惑溺の呪って、魅了の魔法の更に強制力が強いヤツでしょ?煌を誘惑しようとしたって事?にしても、穏やかじゃないわね」
彼女の声音には本人の意思を無視して盲目的な忠誠を強いる術を仕掛けてきた日向への疑念と嫌悪が含まれていたが、瑠璃玻はふんと鼻先であしらう。
「どのみちこの朴念仁がそんなもので誑せるものか。身を清めさせたのも、甘ったるい香水や白粉の臭いが不快だったからに過ぎない」
「ふーん」
その割にご機嫌斜めな瑠璃玻に子供のやきもちレベルだなどと思った事は賢明にも口に出さずに、綾は曖昧に相槌を打つに留めた。
※ ※ ※
「瑠璃玻、この1年位の間に天象神殿の神官を非公式にジュナに派遣した覚えは?」
侵入者と盗聴避けの結界を張った室内で、厨房の小母さんから差し入れられたグラス入りの果実の氷菓を差し出しながら綾は単刀直入にそう尋ねる。
「ないな」
「やっぱりね」
短い返答に予想通りだと頷いて、綾は本題を切り出した。
「星供達からの情報だと、最近になって天象神殿の神官が何度か星辰神殿に足を運んでるらしいわ。一応名目は客として来てる事になってるらしいけど、極秘裏に日向と面談してるって」
「その時に【クラヴィウス】を持ち込んだか」
瑠璃玻の方でもその辺りは予測していたのだろう。僅かに唇の端を持ち上げて皮肉な笑みを浮かべた以外、顔色ひとつ変える様子もない。
綾も、そんな瑠璃玻の態度に不満を訴えるでもなく再び口を開いた。
「それからもうひとつ、気になる噂があるわ。ミル樹海の中に霊廟があるのは知ってる?」
「あぁ、そういえばそんなものもあったな」
仮にも斎主の立場で朱華の霊廟を「そんなもの」呼ばわりする瑠璃玻の傍若無人ぶりに呆れつつ、綾は報告を続ける。
「このところ、その霊廟付近で妙な現象が立て続けに起こってるの」
最初は不審な物音を聞いたという噂話だった。
それが亡霊の目撃談になり、瘴気に中てられて倒れる者まで出て日向が立ち入りを禁じるに至った経緯を、綾は知り得た範囲で簡潔に説明する。
その上で、一連の騒動が【クラヴィウス】を隠す事を目的として日向が仕向けた人為的な事故ではないかという推測を述べた。
「…なるほど。人除け、というわけか」
小馬鹿にした口調とは裏腹に、瑠璃玻は思わしげに表情を翳らせる。
ミフルでは、死を穢れと見做す風習はない。
人々はむしろ、死者の魂を讃え、その眠りの安寧たらん事を願って霊廟に祀り、祈祷を捧げるのだ。
個人的な欲望の為に神聖な霊廟を利用し、人々の祈りを妨げる日向の行為は朱華への背信と言って良いものだった。
瑠璃玻ほど祭事に明るくない綾は、あっさりと肩を竦めてみせる。
「あからさまに怪し過ぎて疑えと言わんばかりだけどね」
それから、心底不思議そうに首を捻ってこう呟いた。
「だいたい、せっかくお宝を手に入れても人目に触れさせるわけにもいかずにただ隠しておくしかなくて何の意味があるのかしら?」
独り言に近いそれに応えて、瑠璃玻が嘲笑う。
「それを所有しているという事自体に意味があるのさ。おかげで、多くの神宝や魔法具が本来の価値を見出されぬまま何処ぞの屋敷の蔵だの宝物庫だので眠っているわけだ」
綾は、「本来の価値」という言葉に妙な引っ掛かりを覚えた。【クラヴィウス】にも相克の環という以上に重大な役割があるような、そんな含みを感じたのだ。
だが、そんな微かな違和感は、その時不意に煌が投げかけてきた問いに気を取られたせいで意識の外へと追いやられてしまった。
「この神殿の奥宮から霊廟に続く道はありますか?」
「うーん、どうかしら?図面の上では日向の寝室が最奥ってコトになってるけど、そういう部屋って大抵不測の事態に備えて秘密の抜け道があったりするものでしょ?方角も合うし、可能性はあるわね…でも、どうして?」
記憶を辿るうちに不思議に思った綾が問い返すと、煌は自らの探索の成果について話し出す。
「【クラヴィウス】のものと思しき波動を辿って行ったら、奥宮に行き着いたんです。さすがに中に入るわけにはいきませんでしたけど、神殿の敷地内にしては気配の許まで微妙に距離がある気がしたので、もしかしたらと思って」
「そっか。もし日向の部屋から霊廟に繋がる道があるとすれば辻褄が合うわけね」
1度は納得した綾だったが、新たに浮かび上がった疑問に首を傾げた。
「でも、【クラヴィウス】の波動なんて解るものなの?」
「普通は作用が顕れているか目の前にあるのでもない限り難しいでしょうけど、三神の秘宝同士は共鳴しますから」
応える煌の視線は、彼が腰に下げた細身の剣に注がれている。
その意味するところを察して、綾はおずおずと尋ねた。
「秘宝同士って、まさか、それ…」
煌は、にっこり微笑んでこう答える。
「相生の剣【プロクシェーム】です」
「…えぇーっ!?」
一瞬の間の後、力一杯大声を上げた綾を冷ややかに一瞥して、瑠璃玻が煩わしげに口を挿んだ。
「それほど驚く事でもないだろう。煌が「太陽神の剣」と呼ばれているのを忘れたか?」
「だって、だってそんな謂れでつけられた異名だなんて思わないわ!普通は剣聖っていう意味合いだと思うでしょ!それに、だいたいご神宝なんて軽々しく持ち歩くもんじゃないし…」
「だからといって、使わなければ意味がないだろう?」
綾がどれだけ自身の驚愕の正当性を並べ立てようと瑠璃玻は取り合わない。それどころか、先刻の遣り取りを蒸し返すような形でやり込められてしまう。
綾は、反論の糸口を求めて懸命に記憶をひっくり返した。
「それはそうだけど、でも、熾輝様の剣ならもっと大きな両刃の大剣でしょ!?」
確かに、彼女の言う通り、神像や宗教画の中の熾輝は彼自身の身長程もある巨大な剣を伴った姿で描かれている事が多い。
斜掛けに背負った大剣の柄に手をやり、或いは無造作に剣を肩に担ぎ上げて立つ彼の勇姿は、野性味溢れる精悍さと王者の風格で見る者を圧倒するものだった。
瑠璃玻は、ようやく綾の言いたい事に得心がいったらしく「あぁ」と頷く。
しかし、続く言葉は、綾には予期し得ないものだった。
「それは【カルサムス】だろう。熾輝愛用の剣だ」
綾は、少々混乱して頭上に盛大に疑問符を浮かべる。
「愛用の剣?え?熾輝様の剣が太陽の神器じゃないの?」
当然とも言える彼女の疑問に応えて、煌が穏やかに口を開いた。
「【プロクシェーム】は確かに熾輝が作った剣ですけど、彼が使う為の物ではありません。儀式や祭祀の際に巫子や神官が用いる事を考慮して比較的扱いやすく作られているんです」
「熾輝の好みは【カルサムス】のような大剣だが、あんなバカでかい代物を軽々と振り回せる人間などそうはいないからな」
瑠璃玻も、煌の説明に頷きつつそう言い添える。
それは確かにそうだろう、と思った綾は、頭に浮かんだ疑問を何の他意もなく口にした。
「煌の腕でも無理なの?」
極自然に不思議がっているらしい様子からして、純粋に煌の強さを認めた上での発言なのだろう。
煌は、ほんの少しくすぐったそうな微苦笑を浮かべる。
「どうでしょう?短い時間なら何とかなるかもしれませんけど、あれだけの重さを持つ剣を長時間振るうとなると体力の消耗が激しそうですし」
「そもそも、煌と熾輝では同じ剣士でも流儀がまったく異なっている。単純に比較できるものではない」
瑠璃玻は、煌とは対照的に少々面白くなさそうに素っ気無くそう言い放った。
その様子はやっぱりやきもち妬きの子供じみていて、綾はそんな瑠璃玻を内心可愛らしく思う。
「とにかく、今夜にでも霊廟に行って【クラヴィウス】を取り戻しましょ。それでこの不愉快な場所とも日向ともおさらばだわ」
柔らかに綻びそうになる口許に意識的に引き締めて、綾は挑発的に言い切った。
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