■第2話 暁紅の星■

(7)

 綾が厨房で旧交を温めている頃、煌は奥宮に続く扉の前に立ち尽くしていた。
 瞼を伏せて佇む彼のすらりと伸びた背には、2組4枚の翼が広がっている。
 純白の粉砂糖に砂金を散らしたかの如ききらめきを放つそれは、長い睫毛の下からゆっくりと紅い双眸が現れるのに従って音もなく虚空に消え去った。
 代わりに、薄い唇の隙間から微かな溜息が漏れる。
 【クラヴィウス】を求める彼の探索は、此処に来て壁にぶつかっていた。
 ひとつには、文字通り目の前に立ち塞がる壁の問題がある。
 扉の他にも、目に見えない結界が彼の行く先を遮っている。
 煌は、剣を始めとする様々な武術に抜きん出ているだけに、攻撃の為の魔法にあまり重きを置いていなかった。
 聖剣士であり巫翅人でもある以上知識として攻撃系の呪文も身につけているものの、使うのは専ら治癒とか浄化とか障壁とかいった回復・防御系の術ばかりなのだ。
 当然、結界も破るよりは作る方が得意である。
 それでも、此処に張られた結界は確かに煌の力をもってすれば壊そうと思って壊せないレベルのものではない。
 だが、そうしてわざわざ相手に悟られる危険を冒してまで侵入を試みるのには、彼が捕らえた【クラヴィウス】の存在感はあまりに希薄だった。
 手にした抜き身の剣を宙に翳して、煌は切れ長の瞳を眇める。
 氷のように青白い炎でなければ鍛える事が出来ないと言われる幻の金属、氷煉鋼で作られた片刃の刀身は、【クラヴィウス】の持つ波動に共鳴して淡い燐光を帯びていた。
 しかし、その輝きの弱さは対象物までの距離がかなりある事を示している。
 建物の造りから推測して、この扉のすぐ向こうに目当てのものが在るとは考え辛かった。
 自身の感覚を信じるとすればこの先の部屋の何処かから【クラヴィウス】の隠し場所への通路が延びているという可能性が高いが、だからといって強引に踏み込んで捜索を続けるのには少々場所が悪い。何しろ、この奥宮には神官長の日向と彼女に仕える女官達の寝所が控えているのだ。
 「さて、どうしたものかな?」
 流れるような所作で剣を鞘に収めつつ、煌は誰に言うともなくそう呟いた。
 涼やかな目許をやや翳らせた煌が口に手を遣って思い悩む様はそれだけで絵になるが、実際彼が考えている事といえば「此処では瑠璃玻の女装も通じないし…」などという空惚けた内容だったりする。
 やはり、何か適当な理由を作って綾に潜り込んでもらうのが妥当な線だろう。
 そう思い至ったところで、煌は背後に近づいて来る人の気配を察知した。
 その気になれば振り向きざま抜き放った剣の切っ先を相手の喉許に突きつける事も可能だが、ここは敢えて相手の反応を待つ事にする。
 ややあって、微かな衣擦れの音と共に廊下に響いていた足音が間近で止み、耳に覚えのある声が彼を呼び止めた。
 「どうかなさいまして?」
 煌は、ほんの少し心許無げな面持ちで声の主を――日向を振り返る。
 肩の力を抜き、僅かに口許を綻ばせる事で彼女に声をかけられて安堵している風を装って、煌は予め用意していた無難な口実を口にした。
 「綾を見かけませんでしたか?瑠璃玻に言われて捜しているのですが」
 人当たりの良い笑顔が功を奏したのか、日向は特に不審を抱く様子もなく問いに答える。
 「いいえ。この先は、私とごく近しい者以外、立ち入る事はありませんの」
 「それは失礼しました。何分勝手が解らなくて」
 彼女の声に咎める調子はなかったが、煌は素直に非を認めて詫びの言葉を告げた。
 彼の困惑とはにかみを含んだ微苦笑に好感を持ったのだろう。日向はにこやかにこう申し出る。
 「もし、綾がこちらに来るような事があれば、瑠璃玻様の許に顔を出すよう伝えましょう」
 「お願いします」
 それににっこりと微笑み返して、煌はその場を立ち去るべく踵を返した。
 その彼の背に、日向がふとこんな言葉を投げかける。
 「瑠璃玻様が羨ましいですわ」
 彼等2人以外に周囲に人影がない以上、あからさまに無視するわけにもいかない。
 煌はその場で足を止め、肩越しに問うような視線を日向に向ける。
 日向は、嫣然と微笑しつつ、ゆったりとした足取りで煌に歩み寄った。
 「ご自身も並ぶ者とてない才に恵まれていながら、更に九鬼一族の聖剣士まで傍においてらっしゃるんですもの」
 うっとりと言葉を綴りながら、しなやかな筋肉を纏う煌の腕に緋色に染め上げた爪の先を滑らせる。
 その上で、艶めいた肉感的な唇を笑みの形に吊り上げて、日向は思わせ振りに「でも、」と呟いた。
 「煌殿ほどの方が、幾ら斎主様とはいえたったひとりの為に護り人として仕えているなんて、勿体無い気がしますわね」
 熱っぽく瞳を潤ませ、豊かな胸を押しつけるように蠱惑的な仕草で腕を絡めて、甘い毒の滴る誘惑を煌の耳元に囁きかける。
 「「太陽神の剣」と謳われる貴方なら、新たな崇拝の対象となる事さえ容易いのではなくて?」
 これまで多くの男達を陥落してきたであろう魅了の魔法は、だが、煌には通用しなかった。
 星辰神殿の神官長という相手の立場に対する最低限の礼節は保ちつつ、隙のない身のこなしで煌は己にしなだれかかる日向を振り解く。
 同時に、彼はすっと腕を伸ばして鞘に入ったままの細身の剣を彼女の眼前に突きつけた。
 「生憎、あなたの遠大な野望にお付き合いするつもりはありません」
 思わず息を呑んで瞠目する日向に、煌は蕩けるように綺麗な笑顔で告げる。
 「俺は、もうこの剣を捧げる相手に出逢ってしまってますから」
 そうして、顔を蒼褪めさせながら陶然と身震いする日向を其処に残してその身を翻した。