■第2話 暁紅の星■

(11)

 その日、聖都メシエは新緑と花の季節と呼ばれる緑玉節に相応しく爽やかな晴天に恵まれた。
 天象神殿の前の広場には、滅多に人前に姿を現さない斎主と新たな三神の使いを一目見ようと朝から多くの人々がつめかけている。
 「まさか、ほんとに「星神の舞姫」を名乗る事になるとはね…」
 「何か言ったか?」
 神殿の内部から屋外祭祀場へと続く通路で、瑠璃玻は背後で溜息混じりに呟く少女を振り返った。
 群衆が発するざわめきと熱気は彼等が控えている場所まで届いている。
 頭からすっぽりと被ったヴェールの僅かな瑕にも容易く破れてしまいそうな繊細なレースに気を取られていまいち落ち着かない様子で、少女――綾は、不安な気持ちを隠すように少々自棄気味に答えた。
 「あたしなんかが朱華様のお抱えの芸妓になっちゃって良いのかなって言ったのよ」
 「今更だな」
 そう返す瑠璃玻は、相変わらず取りつく島もない素っ気無さで言い放つ。
 「あの時、おまえは朱華の力を継いででも生きたいと願った。それが答えだろう?」
 あの時――ジュナの星辰神殿で死にかけた時、確かに綾は生きる事を望んだ。
 その結果、彼女は今此処にこうして立っている。朱華の魔力をその身に受け入れ、巫翅人となって。
 正直言って、綾には巫翅人になったという自覚はないし、朧な意識で聞いた瑠璃玻と朱華の遣り取りの意味も理解できていない。
 けれど、自分の選択に後悔だけはしたくないと思う。
 瑠璃玻の言うのも、結局はそういう事なのだろう。
 「行くぞ」
 肩越しに振り返った先の煌の穏やかな笑顔に背を押され、先陣を切って身を翻す瑠璃玻の後を追って、綾は光の中に足を踏み出した。
 

※  ※  ※


 柔らかな春の陽射しに彩られた青空とふわふわと漂う白い雲の下、鮮やかに映える青い彩釉煉瓦の祭壇に人々の待ち望んでいた人物が現れる。
 望の月を抱く三日月を象った月神の紋象の前に瑠璃玻が、真円の上下左右の直線とその間に配した正三角形を光輝に見立てた太陽の紋象の前に煌が、そして小さな円を囲む六芒星を描いた星神の紋象の前に綾が立った瞬間、広場を埋め尽くすどよめきは頂点に達した。
 それを軽い一瞥で宥めて、瑠璃玻が厳かに口を開く。
 「精霊王並びに天空三神に仕えし斎主がここに宣言す」
 瑠璃玻は、けして声を張り上げている訳ではなかった。
 にも拘らず、高くも低くもない彼の声は不思議と凛とした響きで広場の隅々まで浸透していく。
 「天空三神が一柱、星神・朱華の詔により、本日この時よりこの者、綾を天象神殿に召し抱え、「星神の舞姫」の称号を与えるものとする」
 彼の言葉を受けて、綾は優艶な仕草でヴェールを脱ぎ捨てた。
 その彼女の腕で、まるで星神・朱華による承認の証ででもあるかのように【クラヴィウス】に嵌められたスタールビーがきらりと瞬く。
 神殿前の広場は、群集の歓喜の声に包まれた。
 再び、腕の一振りで人々の興奮を静めて、瑠璃玻は告げる。
 「ここに三神の名を冠せし者が揃いたるは天の示す徴なり。ミフルを支えし民よ、時の至るその日まで、精霊の声に耳を傾ける事、努々忘れるなかれ」
 人々は、それを斎主によって齎される言祝ぎと受け止めたようだった。
 綾も、多少の引っかかりは覚えたものの、その場の盛り上がりに流されて深くは考えずじまいになる。
 その言葉の真意を知る者は、この時点ではまだ瑠璃玻自身と煌の他には誰もいなかった。
 

※  ※  ※


 「ねぇ、」
 お披露目の儀式を終え、私服に着替えて、ようやく人心地ついた綾は瑠璃玻達と共に食事を摂りながらずっと気になっていた事を切り出した。
 「【クラヴィウス】って、あらゆる属性の魔法を吸収するんでしょ?」
 「えぇ、そうですね」
 彼女と同じく、やや寛いだ雰囲気の煌がのんびりと頷く。
 綾は、難しい顔をしてこう問いかけた。
 「それって、もし日向が先回りして【クラヴィウス】を身につけちゃってたらまずかったって事じゃない?」
 彼女の疑問は、瑠璃玻達を案ずる想いから来たものだ。
 殊に、魔法以外に闘う術を持たないように見える瑠璃玻は、相手がすべての属性の魔法を吸収してしまう【クラヴィウス】を身につけていたら圧倒的に不利な立場に陥っていた筈だ。
 だが、当の瑠璃玻は何やら愉しげな表情で逆に問い返してきた。
 「【クラヴィウス】と【プロクシェーム】、まともにぶつければどちらが勝つと思う?」
 「はぁ?」
 思わぬ問いに間の抜けた反応を示したものの、綾は考え込みながらも真面目に答える。
 「えっと、【プロクシェーム】は魔法を力に変えるけど、【クラヴィウス】はその魔法を吸収するんでしょ?そうしたら、やっぱり【クラヴィウス】の方が強いんじゃないかしら?」
 「魔法という事に限れば、な」
 予想通りの答えに満足した様子で、瑠璃玻は悪戯っぽく微笑んで正解を告げた。
 「【プロクシェーム】は最強の金属氷煉鋼を鍛えた剣だ。単純に斬りかかれば【クラヴィウス】は簡単に壊れる」
 「あ…!」
 意表を衝かれて目を瞠る綾に、煌が優しく、けれどどこかせつない瞳を向ける。
 「同じように、たとえ【クラヴィウス】に護られていても、魔法以外の攻撃を――例えば弓矢や剣を防げるわけじゃないんですよ」
 「そっか。神器って言っても万能じゃないのね」
 綾は、今も腕に着けたままの【クラヴィウス】に視線を落としてしみじみと呟いた。
 無邪気ともいえる表情で感慨にふける綾に、瑠璃玻が言う。
 「そう。だから、自分の身は自分で護れるようになれ」
 「…うん」
 突き放すような口調の裏に見え隠れする自分への思いやりを感じ取った綾は、泣きたいような嬉しさを抑えて小さく頷いた。
 何となくしんみりしてしまった空気を振り切るように、煌がにこやかに口を開く。
 「とりあえずは、「星神の舞姫」に相応しいだけの知識を身につけないとね」
 「えぇーっ!?」
 咄嗟に思いっきり顔を顰めた綾は、知識を身につければ瑠璃玻達の事をもっと理解できるだろうかと胸の裡でこっそりと思い巡らせた。
 

※  ※  ※


 『混沌より生じしもの、すべて時と共に、混沌へと帰す』
 それは、ミフルに伝わる世界の始まりと終わりの言葉。
 ――そして、時は、確かに動き始めていた。