■第2話 暁紅の星■
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それは、一瞬の出来事だった。
3対の白銀の翼を顕した瑠璃玻の全身から放たれた白光が祈祷の広間を埋め尽くす。
華奢な身体の何処にそれだけの力が秘められていたのか、痛いほどに清浄な光は薙ぎ倒すような勢いで亡者の群れを容赦なく駆逐していった。
更に、その圧倒的な力は、衛兵達を呪縛していた術をも解く。
昏倒から醒めた彼等は、だが、正気を取り戻したにも関わらず身動きがとれずにいた。
彼等の目の前で、煌が日向を組み伏せていた。
衛兵達は、日向が魔力を込めた短剣で綾を刺した場面を直接目にしていない。
それ故、彼等の職業意識は、薄絹の夜着一枚というあられもない出で立ちで両腕を背中でひとまとめに拘束され、結い上げた髪を乱して床に押さえつけられている神官長を救出しなければいけないと訴える。
だが、一方で、霊廟に蟠っていた瘴気を一掃した瑠璃玻の瞳は、明らかに日向を弾劾していた。
直前まで自我を封じられていた兵士達には、どちらの側に正義があるのか判断する術がない。
膠着状態を破ったのは、突然割り込んできた子供特有の甲高い非難の声だった。
「よくもあたしの霊廟を穢したわね!」
声の主の姿を求めて顔を上げた衛兵達は、其処に見出した人物に絶句する。
燃え立つような橙赤の髪に瑞々しい赤褐色の肌、一際目を惹く深緑の瞳――見た目の年齢こそ遥かに幼いものの、肩を怒らせて立ちはだかるその少女には彼等の崇拝する女神の面影とそれに相応しいだけの風格があった。
何より、「あたしの霊廟」という台詞が彼女の正体を明確に告げる。
少女――星神・朱華は、怒りも顕に日向の罪を詰った。
「不法に入手した神宝を隠す為だけに死者の魂と彼等への祈りを邪な妄執へと歪め、あまつさえ神殿の衛兵達の意思を奪い、異状に気づいて瘴気を祓おうとした斎主を襲わせるなんて!」
彼女の指し示す先で、今も幻の翼を広げたままの瑠璃玻が片膝をついて苦しげに息をしている。
視線を転じれば、胸から血を流して倒れ臥す綾と、彼女を抱きかかえ、皓いその身が赤く染まるのも構わずに癒しの力を揮う月神・那波の姿もあった。
「バカな事をしでかしたもんだよなぁ」
かつん、と高い靴音をたてて、朱華の立つ位置とは反対の方向から太陽神・熾輝が現れる。
熾輝は、やや垂れ目がちの甘い面に憐れみを含んだ笑みを浮かべて反抗的な目で睨みつけてくる日向を見下ろすと、軽薄さを装った口調で語りかけた。
「【クラヴィウス】が盗まれた時点であんたは真っ先に疑われてもおかしくない立場にいた。それでもすぐにジュナに捜しに来なかったのは、瑠璃玻が1度はあんたの良心に期待したからだ。仮にも星辰神殿の神官長を務める程の人物なら実際に【クラヴィウス】を手にすればそいつを隠匿しようなんざ思わないだろうってな」
言葉を切った熾輝の瞳が、ふっと柔らかく細められる。
次の瞬間、日向の首の真横に、幅広の大剣がダンッと衝き立てられた。
「でも、あんたはそれを裏切った」
艶やかなブルネットの髪の一房を石の床に縫いつけた刃に悲鳴ひとつ上げられずに瞠目する日向に、熾輝はいっそ優しいと言える声音で囁きかける。
それから、床から引き抜いた剣を無造作に肩に担ぎ上げると、呆然としている衛兵達に端的に指示を出した。
「太陽神の名の下に命じる。ジュナの星辰神殿が神官長日向を捕らえろ」
我に返った衛兵達に、煌が日向の身柄を引き渡す。
彼等が退出するのを待つまでもなく、朱華と熾輝は那波の許へと踵を返した。
※ ※ ※
ひゅーひゅーと呼吸の度に自分の喉が鳴るのを綾は耳にする。
朱華と熾輝が日向を断罪する光景を、彼女はどこか遠く眺めていた。
【カルサムス】という名を持つ大剣は確かに熾輝にこそ似合いだとぼんやりと考える。
似合いといえば、傷ついた身体を優しく抱き起こしてくれている那波の、銀の髪と透けるような白皙の肌に良く合う淡い蒼の衣を汚していく血の赤に申し訳なさが募った。
とりとめもなくたゆとう思考のままにゆるゆると首を廻らせると、床に膝をついた瑠璃玻の姿が目に映る。
普段は可愛げがないくらい素っ気無い態度の瑠璃玻が傷つけられた綾の為に激情に駆られ、加減無しに浄化の力を解き放ったのかと思うとちょっと嬉しい。
しかも、おそらくは綾を救う為だけに、自身が激しく消耗する事を承知で天空三神を召喚したのだ。
光に透ける白銀の翼で身を包んだ瑠璃玻は触れる事さえ躊躇われるほどに神聖で、けれど苦しそうに眉間を寄せ肩で息をする様はどこか艶かしくて、こんな時でもやっぱり綺麗だと感じてしまう自分が綾にはおかしかった。
笑おうとした唇からはしかし声は漏れず、代わりに塩辛く錆び臭い血の味が口の中に広がる。
――あたし、死ぬのかな?
綾は、唐突にそう思った。
灼けつくような暴力的な痛みはいつの間にか消えている。
それが那波の癒しの力のおかげなのか、それとも感覚自体が失われかけている所為なのか、綾にはもう解らなかった。
怖くはない、と思う。このまま意識を手放せば、たぶんさほど苦しむ事もないだろう。
でも――。
「…死にた…ない…」
胸に沸き起こった想いが、彩を失った綾の唇を微かに震わせた。
※ ※ ※
「綾は?」
ふらつく身体を煌に支えられた瑠璃玻が、未だ蒼白な顔色のまま那波に問いかける。
もう2度と《アヤ》という名の持ち主を喪いたくなくて、無茶を承知で天空三神を呼び寄せた。
まだ巫翅人でさえなかった頃から賢者と呼び習わされていた那波なら、綾を救えると思ったのだ。
だが、返ってきた答えは瑠璃玻の望んでいたものではなかった。
「傷は塞ぎました。でも…」
流れ出た血が多過ぎた。
傷を癒す事は出来る。傷んだ内臓を修復する事も。
でも、失われた血を戻す事は出来ない。
那波が言い淀んだ言葉を正確に読み取って、瑠璃玻は悄然と立ち尽くす。
そんな瑠璃玻の横顔をじっと見つめていた朱華が、不意にポツリと呟いた。
「…この子を死なせない方法はあるわ」
その一言に、打ちひしがれていた瑠璃玻が弾かれたように顔を上げる。
朱華は、感情を交えない静かな口調で言った。
「あたしは、有り余る魔力を持ってる。その所為で、こんな身体で成長が止まる程の――普通の人間の1人くらいなら巫翅人に変えられるだけの魔力を、この身に抱え込んでるのよ」
瑠璃玻の瞳に、母親に縋る幼い子供のような必死さと僅かな希望が宿る。
それをまっすぐに受け止めた上で、朱華は「でも」と続けた。
「それはこの子にとって幸せな事かしら?」
煌の腕に抱かれた瑠璃玻の肩が大きく震えた事に気づいていながら、朱華は重ねて問う。
「このまま逝かせてあげる方が、この子の為ではないかしら?」
「そんな事…っ」
思わず声を上げた瑠璃玻の表情は、強い語気とは裏腹に頼りなく揺れ動いていた。
巫翅人は時の流れに取り残された存在だ。誰かと出逢い、愛し合っても、齢を重ねても年を取らない彼等は常に孤独の中に置き去りにされる。
それがどれほど辛く淋しい事か、人としての宿命を超えて生き続ける天空三神を見てきた瑠璃玻には容易く想像できた。
しかも、瑠璃玻は「運命の司」と呼ばれる那波が夢に見た未来を知っている。
それ故、朱華の言葉に反論も出来ず、瑠璃玻はただ唇を噛み締めるしかなかった。
血臭の漂う広間に、重苦しい沈黙が降りる。
互いに居た堪れなくなる頃、それまで黙っていた熾輝がふと口を開いた。
「どうせなら本人に選ばせろよ」
ぽんと瑠璃玻の頭に大きな掌を乗せた熾輝は、一見投げ遣りな調子でその実非常に理に適った提案をする。
「自分の生き様は、自分で決めるべきだろ」
「…そうね」
それは、朱華にも納得のいくものだったらしい。
重さを感じさせない動作でふわりと綾の傍に跪いた朱華は、選択を委ねるべく瀕死の少女に厳かに語りかけた。
「選びなさい、綾。このまま人として死ぬか、人外の存在となり孤独に苛まれる事になってでも生き続けるのか」
固唾を呑んで見守る一同の前で、力なく伏せられていた綾の瞼がゆっくりと持ち上がる。
生気の失せた頬を、すぅっと一筋の涙が伝って落ちた。
【クラヴィウス】を握る指に、ほんの少し力が入る。
「…死にた…ない…」
それは微かな、本当に微かで消え入りそうな声だった。
翳む目を精一杯見開き、唇を戦慄かせて、綾は懸命に願いを紡ぐ。
「生…きた…い…」
「…解ったわ。その願い、聞き届けましょ」
朱華は、今にも泣き出しそうな笑顔で頷くと綾の身体をぎゅっと抱き締めた。
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