■第2話 暁紅の星■

(1)

 その日、数日振りに天象神殿を訪れた綾は、斎主の寝所がある奥宮の回廊を颯爽と歩いていた。
 夏場の暑気避けに噴水を配した庭園を巡るこの回廊は吹貫きになっており、ちょっとした散策には格好の場となっている。
 燦々と降り注ぐ柔らかな朝の陽射しと爽やかな春の風は、長旅に疲れている筈の綾の気分と足取りを軽くさせた。
 もはや習い性になっているのか、猫科の野生動物さながらに足音を潜め、綾はしなやかに歩を進める。
 やがて、回廊の角に位置する一室の前で足を止めた綾は、何の躊躇いもなく扉に手を掛けた。
 「瑠璃玻、入るわよ」
 一応声はかけたものの、返事を待たずに部屋の中に入る。
 異性の、しかも甚く高貴な立場にある人物の寝所だからといって臆するつもりは彼女には毛頭ない。
 室内は、日が昇り始めてから数時間が経過しているにも拘らずぼんやりと薄暗かった。
 観音開きの扉を押し開くと入ってすぐに木製のベンチがあり、その奥の隅に置かれたフロアランプの灯りが唯一の光源となっている。
 淡い光の下の円卓には溶けきった蝋燭とペンが置き去りにされていて、部屋の主が昨夜遅くまで働いていた事を物語っていた。
 だが、自身も昨日まで強行日程をこなしていた綾は容赦がなかった。
 窓に掛かった遮光布の帳を開け放ち、木彫りのスクリーンで仕切られた室内を横切って寝台に歩み寄る。
 「いい加減起きなさいよ!」
 威勢の良い声で呼びかけつつ片手を腰にあてて天蓋の布を捲ったところで、綾ははたと動きを止めた。
 「…煩い」
 往生際悪くもぞもぞと掛け布の中で丸くなる銀色の艶を持つ不思議な黒髪の主の隣で、極上の絹糸のような白金髪をかき上げながら上半身を起こした煌がにこやかに微笑みかけてくる。
 「あぁ、お帰りなさい、綾」
 瞬き数回分の沈黙。
 「何やってんのよ、あんた達…」
 がっくりと肩を落として呟く綾に、煌は律儀に答えを返した。
 「何って、眠ってたって言うか、たった今起きたところですけど?」
 「そうじゃなくってっ!」
 声高に喚き立てる綾に辟易したのか、ようやく煌の長い腕の下から起き出した瑠璃玻が寝起きの不機嫌さのままに口を開く。
 「今朝はこの季節にしては冷え込んだろう?」
 「は?」
 一見何の脈絡もない瑠璃玻の発言に、綾は訝しげに眉間に皺を寄せた。
 瑠璃玻は続ける。
 「わざわざ上掛けを出して来るのは面倒だがそのままだとちょっと肌寒かったから、煌に毛布の代わりをさせる事にしたんだ」
 「毛布の代わりって…」
 呆気にとられる綾に、煌はほわんと微苦笑する事で瑠璃玻の言い分を肯定してみせた。
 綾は、軽い頭痛を覚えつつ、呆れ顔でぼやく。
 「それにしたって、普通男同士で共寝なんてする?」
 それに対して、瑠璃玻は器用に片眉を上げて驚きを表現した。
 「ほぉ。意外に良識家だな」
 ミフルに、同性愛を禁じる法は存在しない。
 やや厳しい自然環境にある北部・ノルド地方と精霊崇拝の傾向が強い西部・ヴェストール地方ではそもそもそういった風習がなく、交易の盛んな東部・アウストール地方では自由で寛容な気質故に他人に迷惑さえかけなければ個人の趣向に干渉する事はない。そして、ジュナを中心とした南部・スズリ地方では、豊穣な土地柄から性に関しても大らかで爛熟した文化を築いていた。
 ジュナ出身の綾が、自然に反し一般にあまり受け容れられているとは言い難い性癖に対して見せた年相応の少女らしい潔癖さが、瑠璃玻には面白かったらしい。
 揶揄する意図を含んだ笑みを口許に浮かべて、こんな事を言う。
 「だが、そういう事なら気にする必要はないぞ。私は厳密に言うと男ではないからな」
 「え?だって、この前「女だなんて言ってない」って…」
 怪訝そうに首を傾げる綾に、瑠璃玻は更に笑みを深めた。
 「あぁ、女でもない。正確には、どちらでもあると言うべきかな?」
 そうして、悪戯を仕掛ける子供の表情でとんでもない事を告げる。
 「私の身体は半陰陽だ。おそらく子を生す能力はないが、一応両方の機能を持っている」
 突然の瑠璃玻の発言――それも軽々しく話すような内容とは思えないそれに、綾は一瞬混乱を来たした。
 その言葉を理解するにつれ、信じ難い事実への驚愕と瑠璃玻の心情を慮る想いと艶事めいた話題への恥じらいがせめぎ合って収拾がつかなくなる。
 だが、たおやかな花顔に似合わぬ性質の悪い笑顔の瑠璃玻にからかわれている事を悟った途端、頭に血が上って余計な事まで気が廻らなくなってしまった。
 それが瑠璃玻の狙いである事には気づかぬまま、赤銅色の肌を更に赤く染めた綾は、八つ当たりの矛先を煌に向ける。
 「で、でもっ、だからって、護衛役が一緒になって眠っててどうするのよ!?」
 それに対して、煌は何の弁明もしようとはしなかった。
 代わりに、瑠璃玻が楽しそうに口を挿む。
 「煌は、いざとなれば平気で私を叩き起こし、寝台から蹴落としてでも臨戦態勢に入れるぞ」
 まるで我が事のように誇らしげに「その証拠に、今だってきちんと目を醒ましていたろう?」等と言ってのける瑠璃玻に、煌はやんわりと苦言を呈した。
 「いくら何でも蹴落としたりはしませんよ」
 それで怪我させたりしたら本末転倒ですから、と言い添える彼の眼差しは、ふざけ半分の言葉とは裏腹に優しく温かい。
 「…あ、そう」
 傍から見るといちゃついているようにしか見えないふたりの遣り取りに何故だかどっと疲労を感じて、綾は力なく項垂れた。
 「何だか、もうどーでも良くなってきたわ」
 その場にしゃがみ込みたい衝動を何とか堪えて、未だに寝台の上にいる瑠璃玻達に向かって敢然と言い放つ。
 「着替えたら私室の方に来て。さっさと報告済ませて休む事にするから」