■番外編 誓願の剣■
(8)
煌の腕に抱きとられた衝撃で、瑠璃玻の細い頸がかくんと仰け反る。
露わになった白皙の面は、血の気をなくして透けそうなほど蒼褪めていた。
それなのに、布越しに触れる膚は尋常でなく熱い。
力の抜けた身体はいつも以上に頼りなく今にも毀れてしまいそうで、煌は身動きがとれなくなってしまった。
「くそっ!またやりやがったな」
熾輝は、忌々しげに顔を顰めて短く悪態を吐くと、攫うように煌の腕から瑠璃玻を奪い取る。
華奢な体を片腕で軽々と抱え上げた彼は、動揺する煌の頬を軽く叩いて有無を言わせずこう言いつけた。
「先に瑠璃玻を連れて寝所に戻る。おまえは那波を呼んで来い。良いな?」
「は、はい!」
正気に戻った煌は、慌てて霊廟を飛び出す。
それを横目で見送って、熾輝は広間の中央にいる朱華を振り返った。
「悪いな、朱華。後は任せた」
「いつもの事でしょ」
燃え立つ炎のような橙赤の髪を指先で玩びながら、朱華は気怠げに返事をする。
ぞんざいなその態度とは裏腹に、彼女の深緑の瞳にはどこか痛ましげな色が浮かんでいた。
※ ※ ※
「もう、大丈夫」
瑠璃玻を癒す那波を固唾を呑んで見守っていた煌は、その一言にようやくほっと息を吐いた。
寝台に近づいて瑠璃玻の寝顔を覗き込むと、顔色は未だに冴えないものの、呼吸は比較的安らかな状態で落ち着いているのが見て取れる。
「死者の思念が纏う瘴気と瑠璃玻自身の強過ぎる魔力に中てられたのでしょう。鎮魂の儀の後には、こんな風に高熱に侵されて倒れる事があるのです」
それで、「護り手にとっては難しい儀式ではない」というわけか、と煌は今更ながらに納得した。
どうやら、瑠璃玻が今みたいな状態になるのは今日が初めてではないらしい。
瑠璃玻の容態を説明してくれる那波の声からは、彼女がこの件でどれほど胸を痛めているのかが真摯に伝わって来る。
それまで部屋の片隅で黙って様子を見守っていた熾輝も、想いは同じようだった。
「瑠璃玻は加減ってモノを知らないんだ。いつも無茶ばっかりしやがって、ちっとも自分を大事にしようとしない」
「投げ遣りとか刹那的とかってワケじゃないんだろうが…」ともどかしげに呟くその姿からは、普段の余裕たっぷりの伊達男ぶりは想像できない。
「あの、」
寝台のそばに膝をつき、半ば無意識に伸ばされた瑠璃玻の手を握ったままふたりの言葉を聴いていた煌が、ふと躊躇いがちに口を開いた。
「何か俺に出来る事はありませんか?」
煌は、顔を見合わせる那波と熾輝を上目遣いにまっすぐ見つめてそう尋ねる。
「瑠璃玻を護りたいんです」
護り人として仕えるのではなくて、もっと身近な存在として瑠璃玻を支えられるようになりたいと…身も心も護れるようになりたいと、煌は不器用な言葉でそう訴えた。
「…そうですね…」
那波は、思わしげな視線を熾輝と交わして何やら考え込む。
それから、煌に向き直ると、翳っていた表情をふっと和らげた。
「後で、簡単な治癒魔法を教えましょう。それと、防御や浄化の呪文も」
意外な申し出に目を瞠る煌を見つめて、那波は穏やかにこう言い添える。
「瑠璃玻に出来ない分、あなたがこの子を大切にしてあげて」
もちろん、煌に否やがある筈もなかった。
後でと言わずすぐにでも、と逸る煌の気持ちを見抜いたように、熾輝は精悍な顔に微苦笑を浮かべる。
「とりあえず、今は、こいつのそばにいてやれ」
子供にするようにくしゃりと長めの前髪をかき混ぜる熾輝の掌の温かさを感じながら、煌は誇らしい心持ちで大きく頷いた。
※ ※ ※
それ以来、煌は瑠璃玻専属の治療係を兼ねるようになった。
この頃の瑠璃玻は、宿した魔力が大き過ぎて幼い身体ではうまく支えきれない所為もあって頻繁に熱を出しては寝込んでいた。
それに、斎主の仕事もけして安全なものばかりではなくて――後から知ったところによると、神殿の上層部の人間達はそういった危険な仕事を瑠璃玻にさせるのは大分渋っていて、ただ「祭祀王」として在る事を望んでいたようだが――魔性に堕ちた妖を祓ったり不敬の輩に襲われたりと負傷する機会には事欠かなかったのだ。
天性の素質もあったのだろうが、おかげで煌は今では神聖魔法だけなら一端の神官並みの力を身につけている。
大抵の場合、瑠璃玻は体調を崩している事を隠そうとした。
だが、それも常に瑠璃玻の様子に気を配っている煌には通用しない。
そのうち、瑠璃玻も諦めて煌にだけは素直に身を委ねるようになった。
それにつられて、眠る時にそばにいろとかこの料理は好きじゃないとかいった他愛なくも子供じみた我侭も言うようになる。
そうした瑠璃玻の変化は、人にはなかなか懐かない猫の仔に好かれたようで煌にとっては嬉しいものだった。
そんなある日の事、何度目かの鎮魂の儀で妖に取り憑かれた風霊を鎮める瑠璃玻の護衛に就いていた煌は、ちょっとした不注意から右腕に裂傷を負ってしまった。
利き腕とは言っても日頃から剣士としてどちらの腕でも同じように戦えるよう修練を積んでいたし、多少出血が多くて派手に見えるものの傷そのものはさほど深くもなさそうなのでその場は簡単に止血だけして放って置いたのだが、儀式を終えた瑠璃玻は血に濡れた煌の腕を見た瞬間表情を凍りつかせた。
おずおずと伸ばされた指が煌の腕に触れると、ぎゅっと強く掴まれる。
「っ、瑠璃玻?」
「傷を…早く傷を塞がないと…」
痛みの為に一瞬息を詰めた煌の声も届かないのか、魘言のようにそう繰り返しながら、瑠璃玻はそのまま煌の傷を癒そうとした。
「いけません!今のあなたはきちんと身体を休めないと」
肉体の成長と煌の支援のおかげで以前のように倒れる事こそなくなったものの気力体力共に著しく消耗している筈の瑠璃玻を案じて、煌は咄嗟に制止の声を上げる。
だが、瑠璃玻は自分を押さえ込もうとする煌の力に懸命に身を捩って抗うと、完全に傷が塞がるまで治癒魔法を使い続けた。
縋るように煌の腕を掴む瑠璃玻の、指先が白くなるほどきつく握られた手の震えを目にした煌は、唐突に理解する。
瑠璃玻は自分を護って誰かが傷つく事を極端に恐れているのだ。
おそらく、彩が目の前で毒矢に倒れ斬り殺された事が精神的外傷になっているのだろう。
不安に瞳を揺らして、それでも誰かに助けを求める事も出来ずに必死にひとりで闘う瑠璃玻は、どうしようもなく痛ましい。
「大丈夫ですよ」
ふっと肩の力を抜いて、煌は瑠璃玻の硬くなった身体を胸元へと抱き寄せた。
肩にさらさらと落ちる黒髪を怪我をしていない方の手で梳きながら、幼い子供を宥めるように優しく語りかける。
「ほら、もう大丈夫。心配しなくても、何処かに行ってしまったりしません。俺は此処にいるでしょう?」
そばにいたいと思う。これ以上淋しい思いをさせたくない。瑠璃玻が望む時に、いつでもこうして抱き締めてあげたい。
何より、煌自身が瑠璃玻から離れる事など考えられなかった。
だから、その誓約も自然と口をついて出たものだった。
「約束します。俺があなたを護る。けして独りになんてさせないから…」
けれど、その言葉の続きを最後まで告げる事は出来なかった。
それまで幾分怯えた様子ながらもおとなしく抱き締められていた瑠璃玻が、突然煌の胸をどんっと突き飛ばす。
「瑠璃玻!?」
驚いた煌が見たのは、今にも泣き出しそうな瞳をした瑠璃玻の酷く傷ついた表情だった。
微かに首を横に振り、何か言いかけるように唇を震わせて、結局何も言わずに瑠璃玻は身を翻す。
困惑した煌は、瑠璃玻を追う事が出来なかった。
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