■番外編 誓願の剣■

(7)

 予め斎主によって祝福され浄化の魔法をかけられた剣を手に、煌はやや緊張した面持ちで瑠璃玻の後姿を眺めやる。
 彼の隣では、長大な両刃の剣【カルサムス】を肩に担いだ熾輝が飄然とした居ずまいで儀式が始まるのを待っていた。
 天象神殿にある星神・朱華の霊廟の祈祷の広間には、他の地のものと違って女神の像は置かれていない。
 代わりに、今は女神自身が祭儀を執り行うべくその姿を現している。
 やがて、日没を知らせる鐘の音を合図に鎮魂の儀が始まった。
 錫杖の代わりに巨大な鎌を構えた朱華が、粛々と祈祷の詞を詠い上げる。
 「混沌より生じしもの、すべて時と共に混沌へと帰す。其はこの世の理なり。故に、永遠(とことわ)の眠りを迎えし者よ、肉体は地に、想いは海に、魂魄は空に帰さしめよ。然る後に、再び時の至るまで精霊王の御許に微睡み給え」
 詠唱が終わるのを待ち構えていたかのように、広間を照らす蝋燭の炎が不自然に揺らめいた。
 明滅する光が生み出す影の隙間から、うっすらと霧がたち込める。
 広間の中を埋め尽くした霧は、徐々に収束し、人の形をとり始めた。
 瞳の色さえ見て取れるほどはっきりとした姿をとる者もあれば顔貌さえ判別できない者もあるが、どの顔も一様に苦悶や憤怒、悔恨、悲嘆といった負の感情で醜悪に歪められている。
 炎に照らされ、とろりと溶け出しそうな緋い月を思わせる翳を纏ったその姿は、見る者に生理的な恐怖と嫌悪を抱かせた。
 「人間ってのは厄介な生き物でな」
 煌は、霊廟へと至る道すがら熾輝がそう言っていたのを思い出す。
 「死んで尚想いを遺す」
 そうして遺された想いが半ば実体化した存在が、今実際に目の前にいて煌達を取り囲んでいる亡霊達だった。
 遺した想いが強ければ強いほど、死者の魂は生前の在り様に引き摺られる。
 とはいえ、肉体を失った魂は妖のようなものだ。自身としての記憶を保ってられるうちは良いが、そのうち自我を喪い、想いの残滓だけが妄執に成り果てる。
 そうなってしまう前に、在るべき場所に還してやらなければいけない。
 だから、人は死者を弔い、死の女神でもある朱華は鎮魂の儀を行うのだ。
 煌の目の前で、瑠璃玻が迫り来る幻に向けて腕を差し伸べる。
 恐れる事無く毅然と顔を上げた瑠璃玻は、すっと息を吸い込むと徐に神聖な旋律を口ずさみ始めた。
 可憐な唇から紡ぎ出される高く澄んだ歌声が、傷つき痛みを抱えた死者の心を慰撫するように優しく包み込んでいく。
 それは、魂を眠りへと導く子守唄であり、猛る想いを静める鎮魂歌だった。
 そこに込められた祈りと朱華の力に宥められ、大抵の魂は安らかな眠りに堕ちていく。
 だが、あまりに強い情を遺したが故に想いに縛られた者は、それにすら救いを見出せないまま次第に魔性のものへと変貌していった。
 彼等は浄めの力に耐えられず、穢れのない光を憎みながらもその輝きに魅せられて我が物にしようと瑠璃玻に襲いかかる。
 こうなってしまうと、もう安寧な眠りに導く事は不可能に近い。
 彼等を救う術はただひとつ。魂を惑わせる想いを断ち切る事。
 「だから、躊躇うな」
 脳裏に蘇る熾輝の言葉に背を押されて、煌は剣を抜き放った。
 折りしも、瑠璃玻に襲いかかろうとしていた一体に向けて、その刃を振り下ろす。
 浄化の魔法によって淡い燐光を帯びた剣身に触れた瞬間、亡霊は跡形もなく霧消した。
 手応えはなく、ただ身も凍るような異質の霊気が腕を伝う感触に、煌は思わず身震いする。
 だが、ここで怯懦に甘んじるわけにはいかない。
 無防備にその身を晒して宥めの歌を歌い続ける瑠璃玻を護る為に、煌は己を奮い立たせる。
 瑠璃玻を挿んで背中合わせに立つ熾輝の黄金の髪が鮮烈に翻るのを視界の片隅に捉えつつ、煌もまた戦いに身を躍らせた。
 熾輝の【カルサムス】が宙を薙ぎ煌の剣が風を斬る度に死者の幻影は光に還り、瑠璃玻の歌声が遺された哀しみを癒していく。
 その様は、さながら斎(いつき)の歌姫と聖剣士による神聖な剣舞のように美しく完成された光景だった。
 どれほどそうして剣を振るい続けていただろうか。
 ほとんどの死者が消え去った広間に、1人の女性が現れた。
 生ける者ではない――それは、この場に居合わせている事でも明らかだ――筈のその人物は、だが、生きていた頃の表情豊かな容貌を保ったまま嫣然と煌に微笑みかける。
 「彩――っ」
 自分よりも僅かに濃い色みの長い髪と同じ紅茶色の瞳をした彼の女(ひと)の姿に、煌は我知らずその名を呟いて剣を取り落とした。
 その様子にくすりと笑みを零して、彩は――彩の幻はゆったりとした足取りで彼等の方へと近づいて来る。
 すれ違いざま煌の頬をすっと撫でた彼女の仕草は記憶の中の彩そのままで、煌はただその場に立ち尽くす事しか出来なかった。
 一方、彩は彼の横をすり抜けると、瑠璃玻の前に膝立ちになってその顔を覗き込む。
 瑠璃玻の表情は変わらない。感情を窺わせない瞳のまま、鎮魂の歌を歌い続ける。
 彩は、そんな瑠璃玻の顔を壊れ物を扱うような恭々しさで両手で包んで上向かせ、額にそっと口づけを落とした。
 それから、せつないほどに愛しげな仕草で、華奢な体を抱き締める。
 そのまま光と闇とに溶けて消えた彼女が、その日最後の死者となった。
 

※  ※  ※


 「おいっ!」
 呼びかけと共に強く肩を揺さぶられて、煌ははっと我に返った。
 「大丈夫か?」
 心配そうに覗き込んでくる熾輝にどうにか頷き返しはしたものの、まだ頭の芯がぼうっとしている。
 今なら、熾輝が着任してすぐにこの儀式に臨む事になった煌を案じたのも解る気がした。
 近しい人を亡くしたばかりの身に、この生々しい痛みは辛過ぎる。
 しかし、彼の感傷はそう長くは続かなかった。
 ぼんやりと彷徨わせた視線の先に中空を見つめたまま身じろぎひとつしない瑠璃玻の姿を見つけた煌は、その様子がどことなくおかしい事に気づいて声をかける。
 「瑠璃玻?」
 瑠璃玻は、天を仰ぐ姿勢のまま、彼に応えようとしなかった。
 訝しく思ってもう1度呼びかけようとした煌の目の前で、その身体が大きく傾ぐ。
 「瑠璃玻!」
 慌てて駆け寄った煌は、間一髪膝から崩れ落ちる瑠璃玻を抱き止めた。
 次の瞬間、整った彼の顔が蒼白になる。
 腕の中の小さな身体は、異様な熱を孕んでいた。