■番外編 誓願の剣■

(4)

 天象神殿、謁見の間。
 天空三神それぞれの紋象と似姿を織り込んだ3枚のタペストリーを背に設えられた豪奢な玉座の前に、1人の男が膝をつく。
 頭を垂れ、左胸に手をあてて恭順を示す彼に、玉座の主は鷹揚に語りかけた。
 「久しいな、響《ヒビキ》」
 その声は、口調に似合わず思いがけないほどに幼い。
 それもその筈、背凭れの高い椅子に身体を預けて男を見下ろしているのは、あどけないとさえいえる年頃の黒髪の子供だった。
 だが、顔を上げた男は相手を侮る事も媚びる事もせず、敬意をもって丁重に応える。
 「瑠璃玻様にはお変わりなく」
 男の名は響・九鬼。テニヤ山脈の麓の町ユークレースに代々続く武門の名家九鬼一族の族長であり、名うての戦士でもある。
 ゆったりとした長衣を纏い、北部・ノルド地方の出身を物語る色素の薄い金の髪を結わずにさらりと背に流したその姿は、剣を携えているとはいえ、同じく北方の生まれに特有の涼やかに整った白皙の容貌に刻まれた歳月相応の思慮深さと相俟って荒事には不向きな智将といった印象を見る者に与えがちだ。
 だが、目にも鮮やかな紅茶色の瞳が物静かな雰囲気を裏切っているように、彼自身もまたただ温雅なだけの人物ではなかった。
 見る者が見れば、何気なく跪く姿からさえ齢40代半ばにして未だ衰えを知らぬ鍛え抜かれた肉体の強靭さを見て取れるだろう。
 武器を取っては不敗、軍を率いては常勝。情け深く、時に冷徹。それが、当代の九鬼の長への世間の評価である。
 彼の穏やかな佇まいは、つまらぬ虚仮脅しを必要としない真の強者の余裕の表れだった。
 「彩の葬儀以来ですか。その節は我が娘の為斎主自ら祈祷を賜りました事、改めて御礼申し上げます」
 そう言って再び頭を下げた響に、瑠璃玻が素っ気無く口を開く。
 「先刻、彩の仇を捕らえた」
 「ご自分の身を囮にして、ですか」
 騒ぎの顛末を小耳に挟んでいた響は、眉を顰めて憂愁を表した。
 瑠璃玻の気性を知る彼は、1度は彩が身をもって阻んだ斎主暗殺の下手人を誘き出し復讐する為に瑠璃玻がわざと隙を見せて罠を張った事に気づいていたのだ。
 「あまり感心できる事ではありませんな。そのような事、彩もけして望みはすまい」
 ともすれば自らを省みず危険を冒しがちな瑠璃玻を心から案じる響の諫言に、瑠璃玻は頑なな態度で応じる。
 「解っている。それでも、私がしたくてした事だ。こんな事で彼女の命を贖えるとはけして思わないが…」
 最後には目を伏せ、唇を噛んでしまった瑠璃玻を見て、響はほんの少し表情を和らげた。
 「それに、後継の護り人を未だに決めてらっしゃらないとか。あれの事でそこまで心を裂いていただくのは親としてありがたい限りですが、御身も大切になさいませ」
 やんわりとそう説き聞かせる響の眼差しは、年の離れた我が子か孫にでも向けるような慈しみに満ちている。
 実際、響は瑠璃玻を務めとは別の次元で護るべき子供として見ている部分があった。
 それは肉親に恵まれなかった瑠璃玻の側も同様で、ミフルを統べる祭祀王とその臣下であり一介の武人であるという立場を超えぬ節度は保ちながらもこうして親しく言葉を交わす事が許されているのは、そんな互いの心情を反映しての事と言えるだろう。
 護り人の話が出たところで、何やら思うところのあるらしい瑠璃玻が唐突に話題を切り替えた。
 「時に、この短剣、見覚えはあるか?」
 柄を向けて差し出された――これは最上級の信頼を示す行いだ――短剣を手に取った響は、すぐにそれが見覚えのあるものだと気づいて躊躇いがちにその旨を告げる。
 「これは、我が息子、煌のものかと思われますが…」
 「煌…」
 確かめるようにその名を唇に乗せた瑠璃玻を訝しみつつ、響は説明を続けた。
 「はい。亡き彩に代わり神殿騎士団への入団をお許しいただきたく連れて来たのですが、こちらに伺う前に逸れてしまいまして。一体何処へ行ったものやら」
 神殿騎士団には、九鬼一族の出身者も多い。
 殊に、代々の族長の縁者は必ずといって良いほど騎士団に籍を置いており、その事が一族と天象神殿との関係を良好に保つ一因となっている。
 その事実を指して人質だなどと言う口さがない者もいるが、実体はそういった下世話な憶測とは程遠かった。
 九鬼の一族は、確かに決まった主君を持たず、あくまで個々人の裁量で己が主を選ぶ。
 そういった意味では傭兵稼業に近いものがあるだろう。
 だが、彼等は忠誠を誓った相手を易々と裏切る事はしない。主によほどの変節でもあって見限るのでもなければ、たとえ勝機があろうとなかろうとけして見放したりはせず、最期まで剣にかけた誓いを守り通す。
 逆に言えば、そうやって身も心も捧げて誠心誠意仕える事の出来る相手の前でしか膝を折らない気高さが彼等にはあるのだ。
 彼等は、自らの意思で命を懸けて仕えるべき主を選ぶ事を誇りとする。
 九鬼が天象神殿に仕えるのは権威や損得勘定の為ではなく偏に天空三神への畏敬の念とミフルの民としての務めを果たそうという心意気からであり、響が幼い瑠璃玻に入れ込んでいるのも、父性による愛情とは別に剣を捧げるに足る相手だと認めての事なのだ。
 その事を承知している瑠璃玻は、死んだ娘の代わりに息子を差し出そうとするような響の言い様を咎め立てする事はなかった。
 ただ、珍しく年相応の感嘆を、不釣合いな言葉で口にする。
 「騎士団に入れるという事は、あの年で祭剣《マツルギ》の儀を終えたか。道理であの剣捌き。九鬼の家でもあれほどの素養を持つ者はそうはいまい。さすがは響の子供だけの事はあるな」
 祭剣の儀とは、九鬼一族における成人の儀式だ。
 心身共に一族の名を冠して戦うに相応しい戦士である事の証を立てる事を求められるこの儀式には、普通20歳前後で臨む。
 それでも1度ではその試練を越えられぬ者もあるという厳しい儀式を10代前半で終えたというだけでも、煌の才が窺えようというものだ。
 しかし、響は我が子への賞賛にさほど心動かされた様子もなく首を捻る。
 「はて、瑠璃玻様は煌と面識がございましたかな?」
 純粋に不思議に思っているであろう響に、瑠璃玻は悪戯っぽい瞳を向けて言った。
 「那波の庭園に迷い込んで来た挙句、3人の賊を相手に私を庇って闘いを挑んだ少年があった。これは、その時賊の1人に投げつけられたものだ。だから、一応この剣の持ち主は命の恩人という事になる」
 「それはそれは、さっそく瑠璃玻様のお役に立てたようで重畳ですな」
 2人は、視線を交わすとくすくすと笑みを零す。
 ややあって、真顔に戻った瑠璃玻がじっと響を見つめてこう切り出した。
 「響。私は、またおまえに嘆きの種を与えようとしてるのかもしれない」
 「ご随意に、我が君」
 そこに込められた未来への憂いも過去への罪悪感もすべて承知で、響は屈託なく笑ってのける。
 「ですがお忘れなく。あなたの幸せは私の願うところでもあるのですよ」
 

※  ※  ※


 「父上!」
 僅かに幼さを残した甘やかな声が、2人の間に落ちた沈黙を破った。
 それと同時に先触れもなしに謁見の間の扉が開き、白金の髪の少年が飛び込んで来る。
 「申し訳ありません、少々道に迷ってしまいました」
 かなり慌てていたのだろう、軽く肩で息をしながらそう言った彼は、そこでようやく状況に気づいて跪きかけた。
 だが、その視線が玉座に掛けた人物を捉えた瞬間、身動きできなくなる。
 驚愕のあまり礼を執る事さえ忘れて立ち尽くす少年を、瑠璃玻は真直ぐに見遣った。
 そうして、視線を外す事を許さぬまま、厳かに宣告する。
 「では、この短剣の主を新たな護り人と定めよう」
 その口許に微かな笑みが浮かんでいた事に、少年は気づかなかった。