■番外編 誓願の剣■

(3)

 闘う者の瞳だ、と煌は思った。
 キッとこちらを睨む銀と藍の異彩眼に、涙に濡れた痕は見られない。
 そこにあるのは、剣士である煌をたじろがせるほどの剥き出しの敵意と強い意志の光のみだ。
 この子は、哀しみにうちひしがれ悲嘆に泣き暮らす事をけして自分に許さないだろう。
 たとえ世界を敵に回してもたったひとりで最後まで闘い抜く道を択ぶ、毅く気高い魂の主。
 その毅さは酷く美しくて、けれど哀しみを伴うものだった。
 胸に湧き起こる愛(かな)しみのままに、煌は目の前の子供をその魂ごと護りたいと思っている自分に気づく。
 こんな気持ちは、初めてだった。
 彼の脳裏に、幼い頃今は亡き姉と交わした会話が蘇る。



 「どうして斎主の護り人なんて引き受けたの?彩《アヤ》なら、一国の将にだってなれるのに」
 「あの子を護りたいと思ったからよ。たとえ命に代えても、ね」
 「そういうの、解らないよ。自分以外の為に命を投げ出すなんて所詮は綺麗事だとしか思えないのに、彩は本気なんでしょ?」
 「そうね、いつか、本当に命をかけても良いと思える相手に出逢えたら、その時はそれがどんなに幸福な事か、煌にもきっと解るわ」



 束の間の回想は、鋭く短い声に唐突に破られた。
 「伏せろ!」
 それが誰に向けて発せられた言葉なのかを考えるより早く、煌は片膝をつく形で身を屈める。
 咄嗟にその声に従ったのは、日々の鍛錬と彼の身体に流れる九鬼の血の為せる技だった。
 一瞬前まで煌の首があった辺りを、細く短い矢が掠め去る。
 弓弦の鳴る音は聞こえなかったが、矢の飛んで来た方角を瞬時に見定めた煌は振り向きざま懐に忍ばせていた短剣を投げつけた。
 「うぐっ」という押し殺した苦呻に続いて、回廊の柱の影からよろめき出た男がどさりと石畳の上に倒れ込む。
 その手に握られた吹き矢に警戒を解かぬまま男の生死を確認しようとした煌は、新たな気配の出現に動きを止めた。
 少し離れた場所でひとつと、東屋を挿んで反対側にひとつ、強烈な殺気を感じる。
 彼が気づいたのとほぼ時を同じくして、2人の男が一斉に身を躍らせた。
 煌は、立ち上がってから駆け出すまでの一連の動作で腰に佩いた片刃の剣を抜き放つ。
 流れるように弧を描く剣身は、彼の前に飛び出して来た男の膝上を斜めに走ってその機動力を奪った。
 更に返す刃で利き腕も封じておいて、煌は恐怖に立ち竦んでいるであろう子供を護る為に東屋へと身を翻す。
 無骨な大剣を手にした男は、向かって来る煌には目もくれずに東屋にいる子供に襲い掛かろうとしていた。
 裂帛の気合と共に振り下ろされる剣を、間一髪駆けつけた煌は相手の勢いを利用して巧みに払い除ける。
 そして、煌は背中に庇った子供に逃げるように告げると身の丈で頭ひとつ上回り、横幅なら軽く2倍はあろうかという相手に果敢に斬りかかっていった。
 初めは少年相手と侮っていた相手の男の表情が、二合、三合と切り結ぶ内に余裕を失う。
 速い。とにかく迅い。
 剣戟の重さでは圧倒的に男の方に分がある。それは体格や剣そのものの重量が違うのだから当たり前だ。
 だが、煌の剣は、力業で劣る分をスピードで優に補っていた。
 ぶつかり合った剣身を引いた相手が体勢を立て直しきる前に、煌は先手を取って斬りつける。
 そうやってテンポを崩された状態では剣に充分な力を込める事は出来ないし、どうしても防戦一方になりがちだ。
 しかも、思い切って打ち込んでみても、しなやかな身ごなしの煌は力の受け流し方も心得ていて、決定的なダメージを与える事はできない。
 このままいけばバランスを崩した男の喉下に煌が剣を突きつけるのも時間の問題かと思われたその時、突然転機が訪れた。
 最初に倒した男が再び吹き矢を口にするのを視界の片隅に捕らえた煌の気が殺がれた一瞬を狙って、男は剣の柄を握った拳を力一杯煌のこめかみに打ちつけた。
 横様に張り飛ばされた煌が軽い脳震盪を起こしてふらついている隙に、男は当初の標的である子供に斬りかかる。
 2、3度頭を振って意識を取り戻した煌は、その光景を目にした瞬間、2人の間に飛び出した。
 深手を負うのは覚悟の上で自らの防御を捨て、相討ち狙いで剣を薙ぎ払う。
 しかし、互いの剣が相手に届く直前、突如として巻き起こった風が見えない刃となって男に襲い掛かった。
 スパッと指を切り落とされた男が、絶叫を上げて剣を取り落とす。
 同時に上がった悲鳴に視線を巡らせれば、残る2人の男も体中を切り裂く刃に翻弄され、のたうち回っていた。
 噴き上がる血に風が赤く染まる中、致命傷は与えられず、さりとて気を失う事も許されずに痛みと恐怖に泣き叫ぶ血塗れの男達の姿は酸鼻を極める。
 我に返った煌は、男達を切り刻む風刃を操る子供に向き直ると細い両肩を掴んで制止しようとした。
 「止せっ!」
 無表情に赤い風を見つめるその子は何かに取り憑かれているようで、煌は正気に返そうと必死で呼びかける。
 「止めるんだ、こんな嬲るみたいに――」
 だが、ようやく口を開いたその子供は、幼さに似合わぬ冷静な口調で非情な台詞を吐いた。
 「こいつ等は、矢に仕込まれた毒で身動きできなくなった女戦士をよってたかって斬り殺した。これは当然の報いだ」
 それが誰の事を語っているのか、煌には解ってしまう。
 でも、だからこそ、煌はこの子がこんな風に手を汚すのを見過ごせなかった。
 「それでも!彼女は君がこんな風に復讐する事なんて望まないだろう?」
 強く身体を揺さぶり、自分の言葉に意識を向けさせようと懸命に顔を覗き込んで訴える煌と子供の瞳が、ふと結ばれる。
 その子供は、まるで初めて煌の存在に気づいたかのように彼を見て、驚きの表情を浮かべた。
 「その眼…おまえ、九鬼の…?」
 微かな呟きを耳聡く拾った煌が何か言うより早く、扉の向こうから騒ぎを聞きつけたらしい衛兵達の怒声と足音が聞こえてくる。
 ちらっと煌が出て来た扉の方を見遣った子供は、瞬時に判断を下した。
 くるりと煌に背を向けると、回廊の奥にある別の扉を指差して短く告げる。
 「行け」
 僅かに逡巡した煌は、命じられるままにその場を立ち去った。
 

※  ※  ※


 扉の間から身を滑り込ませた煌は、闇に目が慣れるのを待って室内をそっと窺う。
 不思議な香りの漂う其処は、浄室か何かのようだった。
 侵入者に気づいたのか、磨き上げられた大理石の床の上に長い銀髪を広げて横たわっていた女性がしどけなく身体を起こしてこちらを振り返る。
 「あ、あの」
 何故だか見てはいけないものを目にしているようでどぎまぎと口ごもった煌は、彼女の透けるような白磁の肌と銀灰色の瞳を目にした途端、顔を蒼褪めさせた。
 煌にも見覚えのある儚げな風情の顔(かんばせ)は天空三神の主神である月神・那波その人のもので、此処は彼女の聖域である夢殿だったのだ。
 「すみません!失礼しました!」
 「待って」
 慌てて踵を返す煌を、那波がおっとりと呼び止める。
 那波は、たった今煌が入って来たのとは反対の壁に設えられた目立たない扉を指し示してこう続けた。
 「今其処から出て行くと、面倒事に巻き込まれてしまうわ。こちらの扉をお使いなさい。初めの角を右に折れて真直ぐ行けばお父上の待つ控えの間に着く筈です」
 まるで自分の素性を承知しているかのような彼女の言い様に疑問を抱きつつ、煌は素直に好意に甘えることにする。
 「ありがとうございます」
 そう礼を述べて部屋を出る彼の背中に、愉しげに笑う那波の鈴を転がすような声が届いた。
 

※  ※  ※


 「どうした?」
 煌がいなくなった後もくすくすと笑い続ける那波に、どこからか訝しげな声がかかる。
 「あぁ、ごめんなさい槐《エンジュ》」
 那波は、ようやく笑みを納めると床に嵌め込まれた鏡に優しい眼差しを向けてこう応えた。
 「小さな白い狼が迷い込んで来たものですから」
 未だ笑みの余韻を孕んだ彼女の言葉に、鏡の向こうからほんの少し呆れを含んだ声が返る。
 「白狼か。君の金獅子といい、斎主には毛色の変わった獣がよく懐く」
 那波は、遠く想いを凝らすように愛しげに目を細めると、祈るような声音で問いかけた。
 「彼が、私にとっての熾輝のようにあの子の救いになるのかしら?」
 鏡の向こうの声の主は、冷酷なのとは違う素っ気無さで淡々と事実を告げる。
 「さぁ。未来を夢に見るのは君の領分だ。私には解らないよ」