■番外編 誓願の剣■

(10)

 それは、突然の出来事だった。
 老朽化した神殿の外壁の修繕現場での落石事故。
 そこに偶々護り人を伴った斎主が居合わせたのが単なる不運だったのか何者かの悪意によるものなのか。
 岩壁に亀裂の入る音を耳聡く聴きつけた煌は、反射的に瑠璃玻の肩を掴むと力一杯後ろに引き倒した。
 反動で、自然煌自身は平衡を崩して前のめりになり、次の行動に移る敏捷さを奪われる。
 加減のない力で半ば突き倒されるような形で転倒した事に文句のひとつも言ってやろうと顔を上げた瑠璃玻の視線の先で、大きく罅の入った外壁が崩落した。
 「煌っ!!」
 瑠璃玻の上げた悲鳴は、岩壁の崩れ落ちる轟音にかき消される。
 障壁を張る為の魔法も間に合わない。
 駆け寄ろうとした瑠璃玻の目の前で、煌の身体は降り注ぐ瓦礫の下に消失した。
 後には、微かな地響きとからからと小石の転がる音だけが残る。
 「――っ」
 瑠璃玻は、何度か何かを叫ぼうと大きく息を吸い込み、けれど呼吸の仕方を忘れてしまったかのように不自然に喘ぐ事を繰り返した。
 凍りつき表情を喪った藍と銀の異彩眼が、もうもうと舞い上がる土煙が収まっていく様を呆然と見守る。
 やがて、少しずつ視界が晴れていくのに従って、その瞳が大きく瞠られていった。
 円を描くように放射状に散らばる大小の瓦礫の中心に片膝をつき、細身の剣を杖代わりに身体を支えて蹲る人影がある。
 ひとつに結わえていた筈の髪は、結い紐が切れてしまったのか流れる水のように背中から肩へと流れ落ち、彼の貴族的に整った横顔を隠していた。
 それでも、瑠璃玻がその姿を見紛う筈がない。
 「…き…ら…?」
 ゆっくりと伏せていた面を上げる彼を、瑠璃玻は信じられない思いで見つめる。
 「怪我はありませんか?瑠璃玻」
 砕いた瓦礫の破片で切ったのだろう、頬に、腕に傷を負いながら、煌は開口一番瑠璃玻の身を案じる言葉を投げかけた。
 咄嗟に抜き放っていた【プロクシェーム】を鞘に収めると、戸惑う瑠璃玻の前まで来て膝を折る。
 「…ど…して…?」
 消え入りそうな声で呟く瑠璃玻の揺れる瞳を覗き込んで、煌は僅かに小首を傾げてふわりと微笑んだ。
 「言ったでしょう?あなたを独りになんてさせないと」
 先刻、崩れ落ちる瓦礫から身を護る事が出来たのは、彼自身の魔力を【プロクシェーム】が増幅し、一瞬にして結界を築いた為だった。
 だが、瑠璃玻が本当に訊きたい事がそこにはないと知っている煌に、敢えてそれを説明するつもりはなかった。
 あぁ、掌を少し擦り剥いてしまいましたね、乱暴にしてすみません。
 常と変わらぬ口調でそんな事を言いながら地面に倒れ込んだ拍子に傷ついた瑠璃玻の手をとった煌は、治癒魔法を使う傍ら、かつての誓言を静かに繰り返す。
 「何があっても、あなたを遺して逝ったりしない。ずっとあなたと共に在って、あなたを護り続ける。この誓いを守る為なら、俺は何だって出来るんです」
 その言葉を証しだてるかのように、彼の背中に淡い燐光を纏う翅翼が広がった。
 朝の陽射しを浴びて金色にきらめく雪原のような純白の翼はすぐに虚空に解けて儚く消えてしまったけれど、巫翅人の徴である事に間違いない。
 「莫迦な…」
 弱々しく首を打ち振る瑠璃玻を真直ぐに見つめて、煌は今一度誓いの言葉を口にした。
 「今はまだ完全ではないけれど、どれだけ時間がかかっても、必ず瑠璃玻と同じ命を手に入れます。けして独りにはさせない。いつでも、いつまでもそばにいて護ってみせる。だからどうか、信じて…この誓いを受け入れてください」
 強くて脆いこの魂を護りたいと、煌は祈るような気持ちで狂おしく願う。
 ひとりきりで泣く事さえ出来ずにいた瑠璃玻の孤独を、死者の痛みを受け止めて凛と立つ瑠璃玻の哀しみを、甘え方さえ知らずにいた瑠璃玻の淋しさを、この手で癒す事が出来るなら。
 「世界の終わりまで私と共に在ると言うのか?!」
 「世界が終わっても」
 期待し過ぎる事を恐れながら一縷の希望を捨てきれない二律背反に揺らぐ想いのまま感情的に問いかけた瑠璃玻は、何の気負いもなくそう返す煌の紅い瞳に宿る真摯さに打たれて言葉を失った。
 目を逸らし、何かに耐えようとするようにきつく握った拳を震わせる瑠璃玻を、煌は黙って待ち続ける。
 「…その言葉、違える事はないな?」
 ややあって、おずおずと視線を戻した瑠璃玻が上目遣いにそう問いかけた時も、煌の瞳は穏やかにそれを迎え入れた。
 「裏切ったら赦さないぞ」
 傲慢な言い様とは裏腹の、縋るような眼差しに薄く微笑を刷いて、煌は【プロクシェーム】を捧げて宣誓する。
 「この剣と魂にかけて」
 躊躇いがちに伸ばされた瑠璃玻の手が神剣に触れた瞬間に、誓願は受け入れられた。
 

※  ※  ※


 「――つまり、迷子になった先でついうっかり目が合っちゃった子供に一目惚れした挙句、その魂の在り様に絆され惚れ抜いて永遠を誓って、その誓いを守る為だけに巫翅人になった、と」
 訥々と語られた煌の過去を、綾はあっさりとそう要約してのけた。
 「…まぁ、そうなりますかね」
 何だか少々腑に落ちない点はあるものの、概ね間違ってはいない彼女の言葉を、煌はほんのりと微苦笑して受け入れる。
 綾は、どこまでもおっとりした煌にちょっと呆れた様子で問いかけた。
 「煌が巫翅人になってどれくらい経つの?」
 「さぁ?」
 それに対して、煌はあっさりと肩を竦めてみせる。
 「時間は、あまり意味がなかったから」
 「…後悔はしてない?」
 「えぇ」
 問いを重ねた綾は、目を細めて頷く煌の表情の柔らかさに思わず息を呑んで見惚れてしまった。
 「だって、こんなに淋しがりな瑠璃玻を独りになんてできないでしょう?」
 彼の視線の先には、煌の髪の一房を握り締めた手を口許に持っていったまますやすやと眠る瑠璃玻の姿がある。
 それを見守る煌の笑顔があまりに幸せそうで、綾はほんの少し意地悪をしてみたくなった。
 「もし、今敵が襲って来たらどうするの?この部屋の外に、闘うべき相手がいるとしたら?」
 煌の事だから、自分の髪を切り落として瑠璃玻を眠らせたままひっそり出て行くつもりだとでも答えるのだろう。
 そう彼の返答を予想しつつ、綾は試みを投げかける。
 それは、最低の裏切りだ。
 目が醒めたら傍には大切な人がいなくて、夢の名残のように遺された髪だけを握り締めて、ただ独り取り残されるなんて。
 けれど、そんな風にいつか、期せずして誓いの破られる日が来るかもしれない。
 だが、煌は愉快そうに何やら考え込みながら予想外の答えを口にした。
 「とりあえず、寝起きの瑠璃玻は酷く不機嫌だから、目が醒める前に片づけて戻って来ないと。あぁ、でも勝手に髪を切ったりしたらきっと怒るでしょうね。何故だか随分気に入ってるみたいだし。やっぱり、起こさないと駄目かな?」
 くすくすと零れる笑みが余裕の現れのようで、それが羨ましくもあって、綾はもうひとつだけ尋ねてみる事にする。
 「もしも、瑠璃玻がいつか他の誰かを愛したら?」
 「瑠璃玻の想う相手ごと瑠璃玻を護ります」
 「無私の献身ってワケ?」
 何の躊躇もなく返った応えに鼻白んだ綾は、続く言葉にまたもや撃沈させられる破目になった。
 「いいえ、俺の完全な私情です」
 敵わない、と思う。
 いつか自分にも、こんな風に想ってくれる相手が現れるのだろうか――それとも、こんな風に想う相手が。
 凪いだ湖面を思わせる静謐さの奥に秘められた蒼い炎のような煌の激情にぼんやりと想いを馳せていると、部屋の外から綾を探す声が聞こえてきた。
 それを耳にした瞬間、綾ははっと我に返る。
 「いけない!午後からは新年祭で奉納する神楽舞の打ち合わせなんだった!」
 持ち込んだ昼食の片づけもそこそこに慌しく出て行く綾を見送って、煌は再び瑠璃玻へと向き直った。
 寝顔にかかる黒髪を長い指で優しく梳き上げながら、涼やかな目許を和らげてそっと囁く。
 「何度でも誓いますよ。俺は、あなたの傍にいる」
 眠っている筈の瑠璃玻の頬が仄かに薔薇色に染まるのに見て見ぬ振りをして、煌は今少し主の眠りを護るべく、読み止しの書物に目を落とした。