■番外編 誓願の剣■

(1)

 小麦が黄金色の穂をつけ、オレンジの可憐な花が咲き始めると、ミフルに新しい年が訪れる。
 ミフルの暦は、光の時間が1番長くなる夏至の日を1年の始まりとするのだ。
 天象神殿主催の新年祭が盛大に執り行われる聖都メシエは、毎年この時期になると収穫したばかりの農作物を運び込む領主や参拝客目当てに露店を開く流れ者の商人達でいつも以上の賑わいを見せる。
 街が活気づけば、そこで暮らす民の気持ちもまた浮き立つものだ。
 年越しの準備に追われる人々の足取りが心なし軽いのも、遠く地平に雲の峰を望む晴れ渡った空の青さや涼やかに吹き抜ける緑の風の所為ばかりではあるまい。
 穏やかな気候のミフルでも年間を通して最も過ごしやすいこの季節を、人々は満ち足りた忙しさを含めて愉しんでいた。
 だが、何事にも例外というものは存在する。
 此処、天象神殿の奥宮にも、世の楽しみを享受出来ない不幸な者の姿があった。
 「これが三界法図」
 琴の弦を震わせるが如き美しい声に続いて、白く細い指が滑らかに宙を走る。
 その動きをなぞるように、小さな正三角形を3つ積み上げて出来た一回り大きな正三角形の中心に真円が浮かぶ図象が淡い燐光を放つ線で描き出された。
 「周りに配された3つの正三角形が世界の初めに混沌から生じた空と地と海を、中央の円がそれらによって育まれるこの世界を表す呪紋で、魔法秩序を象徴するものです。…綾?どうかしましたか?」
 耳に心地良い声音に気遣う色を添えて、図象の解説をしていた那波が訝しげに綾を振り返る。
 ペンを握る手を机に投げ出し、その上に突っ伏してしまった綾の後頭部を、隣の席で頬杖をつく朱華がぺしりと叩いた。
 「こーら、畏れ多くも天空三神自ら講義してるのに怠けないの!」
 「そんな事言ったって、人には適性ってもんがあるのよ」
 気だるげに顔を上げた綾は、げんなりとした表情でそう返した。
 朝から「この世を象るのは地風水火の四大と空の5つの精霊である」とか「「地」は恵み、「風」は浄め、「水」は癒し、「火」は活力、「空」は理を象徴する」とかいう話ばかりをずっと聞かされてきた綾の頭脳は、そろそろ飽和状態になっている。
 そもそも、これまで魔法の類とは全く縁のない生活を送っていたのだ。
 それなのに、どうしてこんな陽気の日に辛気臭く神殿の奥に閉じ篭ってお勉強に勤しまなければならないのか。
 そんな事を考えていると、まるで見透かしたようなタイミングで那波に窘められた。
 「巫翅人となった以上、魔法と無縁ではいられません。現にあなたも潜在的には高い魔力をその身に宿しているのです。それらを制御する為にも、最低限の知識は身につけておかないと」
 那波の言っている事が正論なのは綾にも解る。
 しかし、幾ら頭では理解していても、現実には適不適というものがあるのだ。
 心底ぐったりしている綾の様子を見かねて、傍観者を決め込んでいた熾輝が苦笑混じりに口を挿んだ。
 「しょーがねぇよなぁ。普通と順番が逆なんだから」
 「まぁね。強い魔力を持っていて巫翅人になるんじゃなくて、巫翅人になったから強い魔力を持つようになったんだもの、すぐに慣れないのも無理はないけど…」
 朱華は、それに一応は同意しながらもしっかり釘を刺してくる。
 「でも、真面目な話、その力を持て余してるようじゃ自分や周りを傷つける破目になりかねないのよ?」
 好きでそんな力を得たわけじゃないと言いかけて、綾は危うく言葉を飲み込んだ。
 巫翅人になっても生きたいと願ったのは、他ならぬ自分自身なのだ。
 「そういえば、九鬼一族って魔法剣士も育ててるの?」
 代わりに綾は、これまでにも時々不思議に思っていた疑問を口にしてみる事にした。
 「だって、煌って聖剣士で巫翅人でしょう?しかも4枚羽根ってコトはあたしなんかよりずっと凄い魔力を持ってるって事じゃない?」
 「あぁ」
 熾輝と朱華は、一瞬顔を見合わせた後揃って吹き出す。
 「アレは特別製。九鬼は代々戦士の家系だし、その事に誇りを持ってるから敢えて魔道系に手を出す奴はほとんどいない。アイツの姉貴も魔法は全然ダメだったしな」
 「そうね。生まれついての素質があったとは言え、よく神聖魔法なんて究めたものだと思うわ」
 からからと笑う2人に、綾はきょときょとと目を瞬かせた。
 「え?じゃあ、煌ってわざわざ巫翅人を目指した口なの?」
 巫翅人の多くは、本人が望むと望まざるとに関わらず身の内に宿した力の強さ故に生命の在り様から外れてしまった存在だった。
 殊に、年若い姿を保っている者ほどその傾向は強い筈だ。
 戸惑いを隠せない表情で首を捻る綾に、那波は酷く優しい瞳をして口を開く。
 「あの子は、自ら立てた誓いの為に巫翅人になったのです」
 

※  ※  ※


 「って、熾輝様達が言ってたけど、ほんと?」
 ようやく午前中の魔法講義から解放された綾は、瑠璃玻の私室に入るなり煌にそう問いかけた。
 ちなみに、部屋の主である瑠璃玻は、新年祭の準備で疲れきったのか長椅子の上で仮眠中だ。
 煌は、長椅子の足に寄りかかるようにして床に直接腰を下ろした姿勢で、膝の上に太陽の神器・相生の剣【プロクシェーム】を置いたまま、読んでいた書物から目線を上げて綾を見遣る。
 「ねぇ、煌は、なんで巫翅人になろうって思ったの?」
 「…そうですね…」
 重ねて問うと、煌は何やら考え込む素振りで僅かに首を傾げた。
 それから、半身を捻って瑠璃玻の寝顔を覗き込む。
 窓から降り注ぐ麗らかな陽射しに包まれて眠る瑠璃玻の、神聖でありながらどこかあどけなく安らいだ表情に目を細めて、煌はぽつりぽつりと少年の日の記憶を語り始めた。