■第1話 月夜の君■

(7)

 「私が当代の斎主、瑠璃玻だ」
 そう言って、悪戯を成功させた子供の表情で笑う瑠璃玻の左目は夜空を思わせる深い藍で、前髪に隠れていた右目は月の雫の蒼銀。額には三日月型の傷痕もある。
 どこか謎めいた印象を与える中性的な顔立ちも、噂に違わず美しい。
 それでも、告げられた事実は綾にとって俄かには受け入れ難いものだった。
 「嘘…だって、月夜の君って…」
 見開いた目で瑠璃玻を凝視し続ける綾の唇から、思わずといった態でそんな呟きが零れる。
 瑠璃玻は、くつくつと喉を鳴らして秀麗な貌に意地の悪い笑みを浮かべた。
 「私が「月神の巫子」と呼ばれているのは知っているだろう?これほど解り易い二つ名もないと思うが?」
 からかわれていると知ってかっと赤面する綾の心中には頓着せずに、軽く顎をしゃくってこう告げる。
 「向こうにいるのが天空三神の那波と熾輝と朱華」
 つられて視線を背後に向ければ、那波がほわんと穏やかな笑顔で軽く会釈を遣した。
 彼女の隣で熾輝がひらひらと手を振ってみせ、朱華が呆れた顔でそれを見上げる。
 朱華は、もの問いたげな綾の眼差しに気づくとくるりと振り返って不機嫌に口を開いた。
 「言っておくけど!あたしが妙齢の美女だなんて信者連中が勝手に妄想してるだけよ。こっちが本物の姿なの」
 腰に手をあて、肩をいからせて怒ってみせる姿は外見相応に子供じみているが、慣れたその口調は大人びた諦観を感じさせる。
 近づき難い高潔な美貌とは裏腹にのほほんとした雰囲気を漂わせる「運命の司」那波に、魅力的だが何処ぞの酒場の陽気なナンパ男みたいな「剣皇」熾輝、外見年齢12、3歳の「愛と死の女神」朱華――ミフルの民の信仰の中心に位置する彼等の人間くさい素顔に、綾は完全に意表を衝かれていた。
 そんな彼女を愉しげに眺めつつ、瑠璃玻は続ける。
 「それから、これが私の護り人を務める聖剣士、煌」
 何気ない彼の言葉は、しかし、綾にとっては充分驚きに値するものだった。
 「聖剣士!?剣士でありながら神聖魔法の使い手だっていうあの!?」
 昂る感情のまま声を上げる綾に、瑠璃玻は誇らしげに頷く。
 「そう。「太陽神の剣」などと呼ぶ者もいるな。こう見えても九鬼《クガミ》一族の出だ。腕は確かだぞ」
 「九鬼一族…!」
 綾が絶句するのも無理はない。
 大陸北部に位置するテニヤ山脈の麓の町ユークレースの九鬼一族といえば、代々優秀な戦士を輩出する武門の家柄としてミフル国外でも勇名を馳せている名家である。
 神殿騎士団にも多くの騎士を送り出しており、その実力は特徴的な紅い瞳と共に人々の語り草となっていた。
 「瑠璃玻」
 淡く苦笑しながら窘めるように瑠璃玻を呼ぶ煌の柔らかな物腰からは、仰々しい通り名は想像がつかない。
 しかし、彼の戦いぶりをその目で見ている綾は瑠璃玻の言葉を素直に認める気になった。
 1度心を決めてしまえば、若さの分だけ健全で柔軟な思考を取り戻す事ができる。
 綾は、この際多少の事は受け入れようと覚悟を決めて、疑問に思った事を問い質す事にした。
 「それにしても、どうして斎主様が占い師の真似事なんてして…なさっていらっしゃるのですか?」
 八尋の屋敷で出逢った時と同じ調子で口を開きかけて、それでも何となく気後れして言い直す。
 だが、瑠璃玻は綾の配慮を皮肉な笑顔で一蹴した。
 「無理にそんな話し方をする必要はないぞ。上辺だけの敬語なぞ鬱陶しいだけだ」
 代わりに、仕方がないという表情で瑠璃玻を一瞥した煌が丁寧に答えを返す。
 「占い師というのは、もちろん世を忍ぶ仮の姿です。さすがに斎主ともあろうお方があちこちふらふらと出歩いたり、一個人の生誕祭に顔を出したりというのは憚られますからね。しかも、目的が目的だけに場合によってはあまり褒められない行為に及ぶ事もあり得ますし…」
 確かに、他人の家の倉庫を家捜しした挙句成り行きで盗賊退治までしてしまう巫子などというのは聞いた事がないが、それならそれで新たな疑問が生じる。
 「そんな風に身分を偽ってまで自分で動く必要はないんじゃないかしら?神殿から持ち出された神宝の捜索なら、神殿騎士団に任せれば良いのに」
 思ったままを正直に口にした綾の問いに、意外なところから応えが返った。
 「斎主は祭祀王。ミフルを治める立場ではあっても、俗世的な権力を揮う覇王であってはなりません」
 凪いだ水面のように静謐な那波の呟きは謎掛けのようで、綾は本格的に首を傾げてしまう。
 彼女の困惑に気づいた熾輝は、瑠璃玻の華奢な体を背後から抱き寄せると砕けた態度で口を挿んだ。
 「こいつが迂闊に騎士団を動かすと「軍を私している」なんてくだらないコト言い出す輩がいてな。莫迦共が何言おうと知ったこっちゃないが、民に無用の動揺を与えるのは避けたいってわけだ」
 話す口調は軽いが、その台詞には明らかに侮蔑が含まれている。
 朱華も、厭きれ混じりの溜息を落として言い添えた。
 「それに、残念ながら神殿内部の人間は必ずしも信用のおける者ばかりではないもの」
 瑠璃玻は、2人の痛烈な批判に薄く苦笑を漏らしつつ、肩を竦めてみせる。
 「盗まれた宝がただの飾り物なら放って置いても良いんだが、三神の秘宝のうちのひとつが含まれているとあってはそうもいかないからな」
 それから、ふっと笑みを潜めると徐にこう切り出した。
 「そこで、だ。おまえ、私に雇われる気はないか?」
 「……は?」
 意味深な瑠璃玻の言葉に気を取られていた綾は、突然の申し出に間の抜けた反応を示す。
 見方によっては大層失礼なそれを、だが、瑠璃玻はあっさりと黙殺した。
 「神宝の件も含めて、私は有能で身軽に動ける手駒を求めている。私も煌も、どうしても神殿に縛られるからな。できればどこの組織にも属さず、自由に行動できる者が良い」
 それどころか、当人の承諾も得ないまま勝手に自己完結していっているようにさえ見える。
 「その点、おまえは理想的だ。「華焔」ほどの芸妓ならば私や三神の寵愛を受ける舞姫として神殿に出入りしても不思議はないし、元々旅芸人の一座にいたくらいだから何処に出没しても不自然ではない。しかも、危険な仕事に慣れていて戦闘力は熾輝のお墨付きときている」
 「ちょっ、ちょっと待ってよ!あたしに、あんたの持ち駒になれって言うの?」
 案の定、綾が無理やり話に割って入ると、瑠璃玻は不可解そうにこう訊き返した。
 「気に入らないか?」
 余裕を感じさせる口の利き方が綾の機嫌を降下させるのにも気づかない。
 「あなたの言い方がいけないんですよ」
 結局、見かねた煌が仲介役を買って出た。
 微苦笑で瑠璃玻を黙らせてから綾に向き直り、誠実な態度で説得にあたる。
 「駒と言っても、君の意思を奪うつもりはありません。君の腕を見込んで、純粋に雇用関係を結びたいんです」
 綾は、僅かに迷う素振りを見せた。
 今の自分の在り方に、けして満足しているわけではない。
 生きる為に賞金稼ぎなどという裏稼業に手を染めはしたものの、時々自分でも嫌気が差すのだ。
 こんな事がしたいんじゃない。もっと違う何かがあると――それが何かは具体的に解らなくても、「違う」事だけは解るもどかしさが胸を焦がす。
 「私達はおまえの力を必要としている。おまえは報酬と意義のある仕事を手に入れる。悪い話ではないだろう?」
 色の違う双眸に危うい笑みを湛えた瑠璃玻の言葉は、迷いを抱える綾にとって甘い蜜を滴らせる熟れた果実のように抗し難い誘惑になる。
 天の導きか、魔性の誘いか。
 「…良いわ。取引をしましょう」
 自分の選んだ未来を毅い瞳で見据えて、綾はゆっくりと頷いた。
 

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 かくして、後にミフルの命運に携わる事になる3人の出逢いは果たされた。