■第1話 月夜の君■
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ナイキでの一件から数日後、綾は聖都メシエの天象神殿から呼び出しを受けた。
最初、綾は、あの夜の不審な二人組から己の素性が伝わったに違いないと密かに覚悟を決めた。
だが、聞けば、斎主《イワイヌシ》のたっての希望で華焔に神楽舞を奉納して欲しいのだという。
斎主というのはミフルの神事を掌握する天象神殿で天空三神と精霊王・槐《エンジュ》に仕える最高位の巫子の敬称だ。
天空三神と精霊王の加護の下に民を統べる祭祀王といった意味合いの重要な役職だが、巫翅人に匹敵する並外れた魔力の持ち主でかつ人間嫌いな精霊王に気に入られる人物という条件を満たす人材が滅多に現れない為常設されているわけではない。
当代の斎主はその高い魔力から「月神の巫子」と称されており、額に三日月を戴き、月光と宵闇の瞳を持つ神秘的な美貌の主と言われていた。
これまでにも、綾は地方都市の神殿――主に朱華の星辰神殿――で行われる祭りには何度か呼ばれて参加している。
しかし、今回はまったく別格だ。
何しろ天象神殿の、しかも斎主自らの指名による依頼なのだ。芸をたつきとする者としてこれ以上の誉れはない。
綾は、迷ったものの結局天象神殿からの召喚に応じる事にした。
※ ※ ※
たくさんの神官や信者等が見守る中、参拝堂での神楽舞の奉納を恙無く終えた綾は、形式的な潔斎の後に斎主の私室に通される事になった。
いささか緊張した面持ちで案内に立つ神官の後を歩いていた綾は、どこまでも続く廊下にこっそり溜息を吐く。
綾は、どうにも神殿という場所が苦手だった。
民の信仰を集めるだけでなく、外国からの客人を迎える公的な場所としての機能も持つ各都市の神殿は、当然その役目に相応しく立派な造りをしている。
柱の冠部と梁に施された精緻な彫刻も、壁面を飾る豪奢な刺繍のタペストリーも、繊細な細工の銀の燭台も、すべてくどくなる一歩手前で抑えられた品のある美しさで見る者の目を愉しませてくれる。
だが、その一方で神殿の荘厳さは訪れる者の心を圧倒する類のものでもあった。
隅の方には明かりが届かないほど高い天井やしんと身に染みる静謐さは神殿の聖性を強調し、人の心に潜む罪の意識を呼び醒まして人々を萎縮させる。綾のように脛に傷を持つ身なら尚の事、だ。
おそらく、そうやって人心を操る事を目的として、神殿という建造物は建てられているのだろう。
秘められた意図を見抜くには至らないまでも、何とも言いようのない居心地の悪さに綾はどうしても慣れる事ができなかった。
そうこうする内に、斎主の部屋の前まで辿り着いてしまう。
綾の逡巡も知らず、案内役の神官は両開きの扉の前で声高にこう告げた。
「瑠璃玻様、舞姫華焔殿をお連れしました」
返事はなく、代わりに頑丈そうな木の扉が綾の目の前で重々しく開かれる。
恭しく頭を垂れる神官の無言の圧力に促される形で、綾は部屋の中へと足を踏み入れた。
私室といっても実際には斎主が個人的な客との謁見等に使う部屋なのだろう。人気のない室内には生活を感じさせる家具や調度がほとんどない。
目立つものでは大理石の床に広げられた毛足の長い毛皮の敷物と、薄い紗の天幕――この向こう側に斎主が鎮座しているのだろう――くらいだ。
そんな事を考えつつ一通り室内を見回していた綾は、背後で扉の閉まる気配に慌てて振り返った。
と、ひゅんっと風を切る微かな音が耳元を掠める。
綾は、反射的に纏っていた大判のショールで飛来する物体を叩き落した。
ぱらぱらと音を立てて床に落ちたそれが投げ矢遊びに使われる玩具の矢だと見抜いたそばから、低く甘い男の声がどこからともなく投げかけられる。
「なるほど。舞踏家にして武闘家ってのも頷けるな」
警戒心も顕わに声のした方を振り向いた綾は、其処にいる人物を一目見るなり大きく双眸を瞠って絶句した。
日に灼けた小麦色の肌に映える黄金の髪に鮮やかな空色の瞳の、三十路も半ばを過ぎた長身の美丈夫は神殿――特に太陽神殿では馴染みの顔だった。
もっとも、肖像画に描かれた彼の君の精悍さは、やや垂れ目がちの甘い顔でにやにやとあまり品があるとは言えない笑みを浮かべている今の姿からは想像し難いが…。
綾が呆気に取られていると、また別の方向からくすくすと笑う声が聞こえてくる。
「これなら雇っても良いんじゃない?」
少女らしく華やいだ声の主を探して視線を動かせば、こちらも見慣れた――ただし、記憶にある姿より随分と若い…いや、幼いと言っても良いくらいの――人物が悪戯っぽい表情で綾を眺めている。
燃え立つような橙赤の髪と対照的な深緑の瞳、躍動的な生命感漲る赤褐色の肌の少女には、綾が生まれ育った街の守護女神の面差しがあった。
更に、新たに現れた人物が綾の疑惑を裏づける発言をする。
「熾輝も朱華も、お客様に向かって失礼ですよ」
「…那波、様?」
透けるような白磁の肌に銀の髪、銀灰色の瞳。冬の夜空に冴え冴えと君臨する月光が化身したが如き晧さを纏う佳人は、天空三神の主神である月神・那波その人だった。
「熾輝様に、朱華様…?」
綾は、呆然と3人――三神を交互に眺めやる。
そこに、男性のものとも女性のものともつかない不思議な声が、こんな言葉を投げて遣した。
「此処は天象神殿。天空三神が降臨しても不思議はないだろう」
ほんの少し困ったように眉尻を下げて微笑んでいた那波が、声のした方へと優しげな眼差しを向ける。
いつの間にか撥ね上げられた天幕の向こうにいたのは、先日綾が出逢った謎の人物、「月夜の君」だった。
「あんたは…!」
思わず声を上げた綾に、瑠璃玻は優雅な仕草で髪をかき上げてからかうような笑顔を見せる。
「私が当代の斎主、瑠璃玻だ」
銀色に輝く黒髪の下の秀でた額には、三日月型の傷痕があった。
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