■第1話 月夜の君■

(5)

 鏡に背を向ける形で立っていた綾は、最初何が起きたのか理解できなかった。
 一瞬部屋の中が明るくなって、それだけだ。
 だが、何事かと問いかけようとした綾を目顔で制しておいて、瑠璃玻は壁に掛けられた鏡に向かって声を投げた。
 「どうかされたか?八尋殿」
 肩越しにそっと背後を窺えば、ぽぉっと淡い光を放つ鏡の中に広間にいる筈の八尋の姿がある。
 綾は、その鏡に遠話の魔法がかけられている事を悟って口を噤んだ。
 一連の会話が筒抜けになっていたとしたら既に彼女の正体は八尋に知られている可能性が高いが、それでも迂闊に動くわけにはいかない。
 緊張して身を硬くする綾をよそに、八尋はのんびりとした口調でこう切り出した。
 「実は、鼠が数匹そちらに入り込んだらしいのです」
 「それで、月夜の君のお力をお借りしたいと思いまして」と続ける八尋に、瑠璃玻が胡乱げに柳眉を顰める。
 「…つまり、私達で賊を退治しろというわけか」
 八尋は、商売人らしいにこやかな笑顔で頷いた。
 「もちろん、ただでとは申しません。そうですな、其処にいる仔猫については見なかった事にする、というのは如何でしょう」
 仔猫云々のくだりが自分の事を指していると察した綾は、内心冷や汗を流す。
 瑠璃玻は、そんな彼女を無情に突き放した。
 「コレは私の身内ではないぞ」
 しかし、八尋は掴み所のない笑みを深めるばかりで瑠璃玻の反論を取り合おうともしない。
 それどころか、逆に情に訴えるつもりかこんな風に尋ね返してくる。
 「ですが、放っておかれては寝覚めが悪いのではありませんかな?」
 「確かに」
 思わずしみじみと頷いた煌を、瑠璃玻がきっと睨みつけた。
 八尋は、相手を案じる風を装って駄目押しをする。
 「騒ぎが大きくなっては御身にご迷惑がかかる事でしょう。今宵はこのまま退かれるのが宜しいかと存じます」
 つまりは用が済んだらそのまま帰って良いと言外に告げて、八尋は一方的に会話を打ち切った。
 「あの狸爺がっ!」
 瑠璃玻は、光を失った鏡に向かって綺麗な容貌に相応しからぬ悪態を吐く。
 「あの男がそう易々と賊の侵入など許すものか!私達が此処にいるのを承知で警備の手を抜いたな!?」
 「我々が相手をした方が手っ取り早いですし、たまには見せしめも必要という事でしょうね。後続を絶つには有効なやり方でしょう」
 対照的に冷静な見解を述べて、煌は苛つく瑠璃玻を宥める為に穏やかに語りかけた。
 「まぁ、潮満の珠と彼女の代償としては安いものなんじゃないですか?」
 端正な貌にいかにも誠実そうな微笑を浮かべる煌をじぃっと見つめていた瑠璃玻は、やがてぷいと視線を逸らす。
 そのまま踵を返した瑠璃玻を追って、煌と綾も宝物庫を出た。
 

※  ※  ※


 いまいち事情を飲み込めないまま瑠璃玻達の後について歩きながら、綾は正体不明な2人について思いを廻らせる。
 こうして間近に見ると、瑠璃玻は本当に綺麗だった。
 たぶん、年齢は綾とそう変わらないだろう。16、7歳…綾自身が実際の年よりやや大人びて見られる事が多いからもう少し年上なのかもしれないが、少女の域は脱していないように思う。
 銀の艶を持つ稀有な黒髪と深い藍色の眸は夜の空を、磨き抜かれた象牙のような肌は柔らかな月の光を思わせる。
 手の甲まで覆う衣装を纏った華奢な身体は極端な露出度の低さにも関わらず何故だか妖しい色香を漂わせていて、中性的に整った顔立ちとの差異と相俟って「月夜の君」の二つ名通りの印象を見る者に与えた。
 一方、煌もまた美しい青年だ。
 貴族的で清雅な風貌もさる事ながら、一挙手一投足が洗練されていて気品がある。
 紅茶色の瞳の鮮やかさは乳白色の肌と白金髪に映えて、冷たく見られがちな彼の美貌に華やかさを添えていた。
 2人が寄り添い並び立つ様は、眼福とさえ言えるだろう。
 だが、そんな風に場違いな物思いは回廊に出た時点で打ち切られる。
 宝物庫のある別棟から庭に出た所で、瑠璃玻達は侵入者の一団と鉢合わせた。
 相手は屈強な男5人。いずれも蛮刀等の得物を手にしているところからして、ただの盗人ではなく家人の命を奪う事も辞さない兇悪な輩と知れる。
 男達は一瞬表情を強張らせたが、瑠璃玻達の顔ぶれを見て与し易い相手と判断したのだろう、すぐに緊張の糸を解いた。
 確かに、3人の内2人までが少女で、残る1人も上背はあるものの細身で腰に下げた剣も装飾にしか見えないような優男とあっては侮られても無理はない。
 彼等の浮かべる下卑た笑みからは、少女を人質にしてこの場を逃れ、その後で高く売り飛ばしてやろうという安直な考えが透けて見える。
 それを冷やかに眺めていた綾は、何を思ったのか身に着けていたストールをすっと肩から落とした。
 そのままその一端を握ると、優美な仕草で腕を振るう。
 ふわりと宙に浮いた薄布は、命有る物の如きしなやかさで1番近くにいた男の腕に巻きついた。
 そうして、男が何か口にするより早く持っていた剣ごと腕を絡めとる。
 事ここに至って、男達はようやく瑠璃玻達におとなしく従うつもりがない事を悟った。
 その間に、煌は2人を斬り倒している。
 煌の剣は迅く、精確で無駄がない。
 今も、3人目の男が遮二無二振り回す三日月刀を流れるような剣捌きで払い除け、返す一閃で肘の腱を断ち切っている。
 相手を殺めずに最小限の動きで攻撃力のみを確実に削り取る闘い方は、相当の実力差に裏打ちされたものだった。
 剣皇の異名を持つ天空三神の一柱、太陽神・熾輝《シキ》をさえ想起させる煌の闘いぶりに、綾は知らず知らずのうちに見惚れてしまう。
 それが、僅かな隙となった。
 綾と対峙していた男が、一方の腕の袖に隠し持っていたナイフで利き腕を拘束する布を勢い良く断つ。
 咄嗟の事でうまく力を加減できずにバランスを崩した綾は、瑠璃玻の胸へと倒れ込んだ。
 その背に向けて、男がナイフを投げつける。
 ――ダメ!避けきれない…っ!
 綾は、衝撃を予想してぎゅっと両目を瞑った。
 次の瞬間、彼女の周囲を急激な凍気が包み込む。
 いつまでたっても襲って来ない痛みに恐る恐る目を開けて背後を振り返った綾は、突如として現れた氷の壁が男の放ったナイフから自分を守ってくれた事を知った。
 そうするうちにも、凄烈な凍気に蝕まれたナイフは、耐久度の限界を超えて敢え無く砕け散る。
 「…え…?」
 目の前で起こった事が理解できないまま正面に向き直って、綾はそこに不思議な光景を見た。
 それまで怯えて竦んでいるかに見えた瑠璃玻が悠然と立っていて、その華奢な背中を白銀の翼が飾っている。
 足許に落ちる朧な影は、その羽根が光を透かす幻である事を告げていた。
 愕然とする綾の唇から、ひとつの言葉が零れる。
 「――まさか、フシビ、ト?」
 この世には、生まれ持った…或いは厳しい修行によって身につけた魔力によって不老長寿の魔法を手にした者達が存在する。
 その高い魔力を解き放つ時背に現れる翅翼の幻影と不死の魔術から巫翅人《フシビト》と呼ばれるようになった彼等は、精霊との複雑な誓約や呪文の詠唱を必要とせずに強力な魔法を使いこなすと言われていた。
 しかし、綾の脳裏に生じた疑惑は、より解り易い新たな疑問でもって打ち消される。
 「…あんた、女の子じゃないの!?」
 よろめいた拍子に綾が縋っていた瑠璃玻の胸には、少女らしい膨らみがまったくなかったのだ。
 思わず声を上げた綾に、瑠璃玻の表情が引き攣る。
 まずい、と綾が思った時には手遅れだった。
 「誰も女だなんて言ってないだろうがっ!!」
 きぃんと耳を劈く声と共に、空間を電撃が走る。
 綾は、雷に怯える子供のように耳を塞ぎ目を閉じた。
 ややあって、ビリビリと壁を震わせる轟音が止んで、辺りに静寂が戻る。
 おずおずと顔を上げた綾は、意外にも周囲にたいした被害が出ていない様子にほっと胸を撫で下ろした。
 どうやら、無事で済んだのは煌が張った結界のおかげらしい。
 綾が無傷なのはもちろんの事、盗賊達も――半死半生の態とはいえ――黒焦げの炭化死体になる事は免れていた。
 あれだけの衝撃に耐える結界を剣士の煌が張った事を訝しく思った綾だったが、彼の背にもうっすらと翼を象る光が見えた事で得心がいく。
 ともあれ、それで驚きが完全に収まるかといえば、そういうわけにはいかないのもまた事実だった。
 一見絶世の美少女といった容貌を持つ幻の巫翅人の少年と、同じく巫翅人らしいうえに凄腕の剣士でもある青年。
 ――何なの、この人達…。
 呆然と立ち尽くす綾の前で、癇癪を起こした瑠璃玻がすぐ傍に転がる男を足蹴にしている。
 「まったく、どいつもこいつもっ!」
 その瑠璃玻の細い腕を押さえ、背中から腕の中に抱き込んで、煌は愚図る幼子をあやすような調子で口を開いた。
 「はいはい。そう怒らないで。わざわざ性別が解らない格好をして来てるんだから仕方ないでしょう。それより、今の騒ぎで人が集まって来ます。長居は無用ですよ」
 言われてみれば、広間の方から不穏なざわめきと複数の足音が聞こえて来る。
 瑠璃玻は、不承不承ながら暴れるのを止めると、屋敷の出口に向かって歩き出した。
 そこで、我に返った綾が慌てて呼び止める。
 「待って!」
 足を止めて振り向いた瑠璃玻に、綾は素直な疑問を口にした。
 「あたしを捕まえないの?」
 一瞬怪訝そうな表情をした瑠璃玻は、すぐにつまらなそうに肩を竦めてみせる。
 「私達は官警でもなければ正義の味方ではない。おまえを捕らえなければいけない理由はないだろう」
 「行きがかり上とはいえ盗賊の一味を討伐する手助けをした事になりますし、八尋殿が今回は見逃すと仰ってますからね」
 素っ気なくそれだけ告げて背を向ける瑠璃玻の言葉を補うように、煌は見る者に安心感を抱かせる笑顔でそう言い添えた。
 その上で、先行する瑠璃玻を追って身を翻す。
 夜の闇に消える2人の背中を見送ってから、綾はようやく彼等の名前すら知らない事に気づいた。
 「…まぁ、関係ないわよね」
 彼等とは住む世界が違うと…もう2度と会う事もないだろうと、綾は自分を納得させる。
 そして次第に近づいてくる人の気配から身を隠すべく、夜陰に乗じてその場を後にした。