■第1話 月夜の君■

(3)

 しんと静まり返った回廊を進む人影がひとつ――舞姫華焔こと綾である。
 晧々と灯りが照らすばかりで人の気配のない廊下を、綾は静かな足取りで進んで行く。
 けして焦って駆け抜けるような愚は冒さない。そんな事をすれば、誰かに見咎められた時にいらぬ疑いを招くだけだからだ。
 獲物を狙う猫科の獣の動きで足音を忍ばせて歩く彼女の耳に、宴席で奏でられる楽曲の音が風に乗って届く。
 何処か遠い幻のような音色に記憶を刺激されて、綾は僅かに眉を顰めた。
 舞台を立ち去り際、彼女が目にしたのは、主賓の八尋が隣に侍らせた「月夜の君」とかいう占い師の繊手に口づけている光景だった。
 八尋が孫程に年の離れた美少女相手に色惚けして誑かされていようが自分には関係ない事だし、綾自身も露出度の高い衣装や官能的な仕草で色香を振りまいたりもする。酒の席での好色な視線など慣れたものだ。
 それでも、綾には歌舞音曲をたつきとする芸妓としての誇りがあった。
 ちょっとばかり――いや、正直に言えばかなり、だろう――綺麗な容姿をしているというだけで他人に傅かれるのが当然の事のように振舞う「月夜の君」の態度は、彼女の信念とは相容れないものだ。
 大体、占い師というのがそもそも気に入らない。
 自分の未来を誰かに決められるなんて冗談じゃないと思っている彼女にとって占い師など胡散臭い存在でしかなかった。
 その上、護衛の騎士まで従えているとあっては標榜している身分さえ怪しい事この上ない。
 ――まぁ、あたしには関係ないけど。
 あまり感情的になり過ぎると、仕事に差し障りが出かねない。
 綾は大きくひとつ息を吸い込んで雑念を振り払った。
 中庭を囲む回廊を抜け、広間のある建物とは別の棟に足を踏み入れる。
 そのまま廊下を進むと、頑丈そうな観音開きの扉に突き当たった。
 その場に膝をついた綾は、扉の取っ手にそっと指を伸ばす。
 慎重に握ったそれは、彼女の予想に反して特に何の反応も示さなかった。
 ――ふぅん、随分警備が甘いのね。侵入者避けの魔法くらいかかってると思ったけど。
 それはそれで好都合だと思う事にして、綾は結い上げた髪の間から針金を抜き取ると徐に錠に差し込む。
 物の数秒でカチリという金属的な音と共に鍵の開く独特の手ごたえが返った。
 口許に微かに笑みを刷いて、綾は細く開いた扉の隙間から部屋の中へと身体を滑り込ませる。
 其処は、八尋の店の一時的な保管庫のようだった。
 ざっと室内を見回した綾は、山と積まれた商品には目もくれずに隅の方に置かれた書記机に向かう。
 そうして、片っ端から引出しを開けて、中の書類を漁り始めた。
 

※  ※  ※


 どれくらい時間が経ったろう。
 「あれ?先客ですか?」
 目の前の帳簿に意識を集中させていた綾は、不意に部屋の入口から聞こえてきた声に心臓を鷲掴みにされる思いを味わった。
 「せっかく借りた鍵が無駄になっちゃいましたね」
 「まったくだ。わざわざこんな格好までしたというのに…」
 場違いなまでに穏やかなテノールに、男女の別すらはっきりしない声音の主が苛立たしげに応える。
 簡単に此処に侵入できた事に加えて、大半の人間が酒宴に参加している筈だという思い込みが警戒を怠らせたらしい。
 己の不注意に内心舌打ちしつつ、綾は鋭く背後を振り返る。
 「誰っ!?」
 そして、その場に意外な人物の姿を見出して絶句する羽目に陥った。