■第1話 月夜の君■
(2)
その日、ナイキでは、街一番の豪商と名高い八尋《ヤヒロ》の60歳の生誕祭が執り行われていた。
ミフルの暦では60年をもって大きな区切りと見なす。それ故、60年目の誕生日を盛大に祝う風習があるのだ。
一般的な家庭でも隣近所の住人を集めて酒や料理を振舞ったりするが、今夜のそれは規模が違う。
八尋は、ナイキでも屈指の商売人と言われるだけあって顔が広く、神殿関係者や地方の豪族などとも交流が深い。
その為、今日の祝宴に合わせてこの国の内外から多くの賓客が訪れ、更にその何倍もの貢物があちこちから届けられていた。
会場になった御殿には、正式な招待客以外にもあわよくば八尋と顔を繋いでおきたいと考える商人達や彼の下で働く使用人達もおり、まさに祭りと呼ぶに相応しい賑わいを見せている。
そんな中、居合わせた人々を惹きつけて止まない二輪の花があった。
人の姿をした美しい花のうちの1人は、今宵の宴に華を添えるべく呼び寄せられた舞姫である。
燃え盛る炎のような、大輪の真紅の花。
頭上に2つに分けて結い上げられた巻き毛は漆黒。ややつり上がり気味の眼も黒曜石を思わせる黒瞳ながら、赤銅色の肌との対比も鮮やかな純白の薄絹を翻して舞う彼女が与える印象は鮮やかな「紅」だ。
顔立ちにこそ少女のあどけなさが残るものの、肉感的でしなやかな肢体には男達を魅了する色香がある。
加えて、情熱的な彼女の舞は、目の肥えた貴人らを満足させるに足るものだった。
そしてもう1人。
主賓席のすぐ脇に誂えられた特別席に腰かけて広間を見下ろす謎めいた佳人――瑠璃玻もまた、舞姫とは違った存在感で客人達の意識を捕らえていた。
さる貴族から紹介され、言祝ぎを告げる為に招かれた占い師との触れ込みだが、本当かどうか。
背後に帯剣した黒衣の青年――煌を従え、あまつさえ主賓である八尋と席を並べる事を許されるという破格の扱いを受けている瑠璃玻の存在は、人々の好奇心をいたく刺激する。
それでも、あからさまに物珍しげな視線を向ける者はさすがにいなかった。
白と紺という清楚な色合わせの衣装や性別を感じさせない整った顔立ちが、瑠璃玻を月夜にひっそりと花開く睡蓮のように儚くたおやかに見せる所為もあるのだろう。
彼に向けられる感情は好色なものとは無縁な、畏敬や憧憬に近いものがある。
当の瑠璃玻はさして面白くもなさそうに宴の席を眺めていたが、件の舞姫が舞台を下りると薄く紅を引いた唇を開いた。
「八尋殿」
呼びかけに応えて、隣の席に座る男が振り返る。
「あの舞姫がどういった素性の者かご存知か?」
「おや、彼女がお気に召しましたかな?」
年長者に対するいささかの敬意も感じられないぞんざいな口調に気分を害する様子もなく、男は揶揄を含んだ声でそう問い返した。
たっぷりと蓄えられた口髭と、対照的な禿頭。恰幅の良い身体に乗った丸顔の目尻には笑い皺が刻まれている。
一見人好きのする好々爺といった雰囲気のこの男が、本日の主役、八尋だった。
広間の方に顔を向けたままの瑠璃玻に倣って舞姫の去った舞台に視線を戻しつつ、八尋は頭の中にインプットされた情報を並べていく。
「あれは、華焔《カエン》という通り名のジュナ出身の芸妓です。確か、本名は綾《アヤ》と言いましたかな」
その名が口にされた瞬間、作り物めいた瑠璃玻の表情に僅かな変化が生じた。
悔恨と懐古が溶けて混じり合ったまま固まったようなそれに、だが、瑠璃玻から目を離していた八尋は気づかず終いになる。
彼の関心は、瑠璃玻が興味を示した舞姫に向けられていた。
「月夜の君の御眼鏡に適うのも頷けますな。身も技もなかなか良く鍛えられておる。まだ若く荒削りな部分もあるが、磨けばかなりの逸材となりましょう」
八尋の最大の才能は、物事の真価を見抜く眼力にある。
彼が一代でここまでの財を築き上げる事が出来たのも、彼自身の人徳もさる事ながら真贋を見極める能力によるところが大きい。
それは人に対しても同じで、こうして親子以上に年の離れた瑠璃玻に敬意を払うのもそれだけの価値がある相手と見なしての事だった。
その彼がそこまで言う以上、華焔の踊り子としての才は本物なのだろう。
「そうだな」
それには鷹揚に頷いておいて、「月夜の君」の二つ名で呼ばれた瑠璃玻は唇の端に剣呑な笑みを閃かせる。
「剣舞など舞わせれば、さぞ美しかろう」
「ほぉ、それはそれは」
意味深な言い回しに感心して見せる八尋の、笑みの形に細められた瞳の奥に酔いとは程遠い明晰な光が宿った。
「しかし、このように人の集まる場所での剣舞は少々危ういですな」
人の良い笑顔につい騙されそうになるが、八尋は有能な商人らしく抜け目のない狡猾さもしっかりと持ち合わせている。
彼の目配せを受けて、警護の者が目立たぬ動きで広間を出て行った。
その様子を目の端で確かめておいて、八尋は恭しく瑠璃玻の手を取る。
「これが例の部屋の鍵です。月夜の君におかれましても、充分にお気をつけくださいますよう」
手の甲に口づける素振りで俯き、周りに聞こえないように囁く彼の姿は、遠目には瑠璃玻の美貌に誑し込まれた男の所作としか映らないだろう。
そうしてわざと好色な爺を演じてみせる八尋に視線だけで頷いて、瑠璃玻も行動を起こすべく煌を伴って席を立った。
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