■第1話 月夜の君■
(1)
ミフルに伝わる伝説によれば、原初、世界は混沌だったという。
全てはひとつであり、ひとつは全てだった。
だから、今も森羅万象全ての中には精霊が宿っているのだ。
やがて、時が混沌を孕ませ、空と地と海とが生じた。
空は魂を生み、地は肉を、海は心を生んだ。
それら3つが交じり合い、あらゆる生き物がこの世に誕生した。
心の欠けたものは獣に、魂の欠けたものは植物に、肉の欠けたものは妖に。
そして、3つの力を均等に持つものは人になった。
※ ※ ※
人という種族の中には、稀に他の者よりも多くの力を持って生まれ来る者があった。
その力故に特異な才と永の寿命を得た彼等を、人々は次第に神と呼ぶようになった。
その最たる存在が、天空三神である。
月と太陽と星の三柱の神を祀る神殿は、規模の違いこそあれどの町にも建立されている。
ミフル大陸の東の玄関口であり大陸最大の商業都市でもあるナイキでは、海を渡り来る隊商が多い事から時を告げる役割を担う月神・那波《ナナミ》への信仰が特に盛んだった。
そのナイキの街の、夕闇迫る月光神殿の裏門付近に人待ち顔で佇む1人の青年の姿があった。
年の頃は二十代後半。乳白色の肌に紅茶色の切れ長の瞳が印象的な、整った容貌の主である。
背の半ばまである白金髪をひとつに束ねた横顔は、すっと通った鼻梁ややや薄い唇とあいまって貴族的な雰囲気を醸し出していた。
腰に剣を佩いてはいるものの、斬り合いを生業とする者に特有の荒んだ猛々しさは見られない。
すらりとした長身に纏う黒衣の生地の質の良さや洗練された身のこなしから察するに、何処ぞの貴人の護衛を務める騎士といったところだろう。
何ともなしに辺りに視線を廻らせた青年が、神殿から出て来た人影を目にして相好を崩した。
涼しげな目許を和らげて、青年は待ち人ににこやかに声をかける。
「相変わらずの美少女ぶりですね、瑠璃玻《ルリハ》」
彼が出迎えた相手は、確かに「美少女」という言葉が無理なく当て嵌まる人物だった。
まず目を惹くのは、真夜中の空のように深い藍色の眸だろう。
伏し目がちの長い睫毛に飾られたその瞳は、毅い輝きを宿してまっすぐ見る者を射抜く。
最上の象牙細工の如き顔(かんばせ)は、傾きかけた陽射しを受けて銀の艶を帯びる短い黒髪が顔の右半分を覆うように下ろされているのが惜しまれるほどに美しい。
だが、瑞々しい果実のような唇から零れ落ちたのは、綺麗な貌に似合わぬ悪言だった。
「バカかおまえは」
呆れ混じりの声は、女性のものにしては幾分低く、かといって男性にしては柔らかく澄んでいる。
瑠璃玻、と呼びかけられたその人物は、不機嫌も露わにこう言いきった。
「私が「美少女」で何になる」
繊細なレースで飾られた大きな白襟の濃紺のロングジャケットに編み上げのブーツという瑠璃玻の出で立ちは極端に肌の露出が少ない反面、引き絞られたウエストやぴったりした袖の所為で身体のラインが強調されている。
そのどこを見ても、少女らしいまろやかさはなかった。
それではその体つきが少年の――或いは成人男性のものかというと、けしてそうではない。
華奢な首も肩から胸にかけての薄さも腰や足首の細さも、成長期の途中で時を止めてしまったかのような、成熟一歩手前の危ういバランスでもって瑠璃玻という存在を象っていた。
その台詞から辛うじて「少女」ではないと知れるものの容姿からは年齢どころか性別さえ判別し難い佳人は、尊大な口調で彼を待っていた青年に呼びかける。
「行くぞ煌《キラ》」
「はい」
そんな態度に気を悪くするでもなく、煌という名の青年はさっさと身を翻す瑠璃玻の後をゆったりとした足取りで追いかけた。
![]()