※※※戦場の女神※※※
彼女は謎めいた女性だった。
誰も彼女の事を知らない。
いつ、何処から来たのかも、本当の名前も。
けれど、戦乱の最中にあって、彼の地の人々は彼女を「戦女神」と呼び称えた。
+ + +
夕陽に照らされた荒野を、数台の車が砂埃を舞い上げながら疾走して行く。
先頭を走るジープを繰るのは、残照に煌めく燃え立つような赤い髪が印象的な20代後半の女性だった。
スレンダーな肢体のわりに豊満な胸や肉厚な唇が醸し出す艶めかしさを、深緑色の瞳に宿った強靭な意志の輝きが裏切っている。
助手席には、彼女よりやや年嵩の男が悠然と腰を下ろしていて、30歳そこそこという年齢に似合わぬ風格からいって彼がこの集団の統率者だと思われた。
2人をはじめとして、後続のワゴンやトラックの荷台に分乗した若者達は全員が銃を手にし、弾帯や手榴弾で鍛え上げた身体を飾っている。
中には、戦闘で負傷したのか、白い包帯姿が痛々しい者も見られた。
それでも、彼等の表情には翳りがない。
それは、彼等が己の生き方に誇りと信念を抱いている証だった。
もちろん、彼等を乗せた車が辿る道程が、愛する家族の元へと向かう家路だという所為もある。
しばらく行くと、沈みゆく太陽を追うように西へとひた走る彼等の視線の先に、小高い丘に囲まれた集落が見え始めた。
殺風景な枯れた大地に灯る家々の明かりは戦士達の胸に束の間の安らぎを与えてくれる。
村人達の方でも彼等の凱旋に気づいたのだろう。
集落の外れで車を降りた彼等の周りに、夕食の仕度をしていた女子供が集まった。
「戦士達が帰って来たよ!」
「お帰り、「自由の戦士」!」
「国軍のヤツらを蹴散らしてやったかい?」
彼等を待ち受けていた荒っぽい出迎えに、戦士達の1人がこう応える。
「当たり前さ!あんな権力の亡者どもに「自由の戦士」が負けるわきゃないだろ!」
自由の戦士。
その呼び名こそ、彼等の誇りの源だった。
突然のクーデターにより、この国が軍事政権の支配下に置かれて久しい。
当初は軍部の独裁に反感を抱いていた国民も、今ではほとんどが現状を仕方ないものとして受け止めるようになっている。
一部の軍人や政治家ばかりが甘い汁を吸う中、不当に高い税金を支払い、物価の高騰に喘いではいても、どうにか日々の暮らしを営む事ができれば――度重なる武力衝突による流血に倦み、そう考えるようになった人々を怯惰と責めるのは酷というものだろう。
人は誰も、平穏な生活を望む権利を持っているのだから。
だが、その権利を放棄してまで、闘う事を選んだ者達もいる。
それが、「自由の戦士」を名乗る若者達であり、彼等を支援する人々だった。
彼等の活動は、主にゲリラ戦とラジオ・TV・インターネットにおける海賊放送に集約される。
何も知らぬ諸外国の「文化人」は、そのやり方を野蛮で卑怯だと罵るが、報道統制下にあって言論の自由を奪われ、圧倒的な戦力の差を持って迫害される側の彼等にはこれが精一杯の抵抗だった。むしろ、安易なテロリズムに走らないだけ良心的と言えるだろう。
奪われた尊厳と権利を取り戻し、自由を得るその日まで、彼等の闘いは続く。
それが、戦士たる道を択んだ彼等の生き様だった。
いつ政府軍の襲撃を受けるとも知れない彼等は、実用的ながら質素な天幕やキャンピングカーを家代わりに放浪生活を送っている。
食糧もけして豊富とは言えず、戦士達の凱旋を祝う夜といっても豪勢な晩餐など望むべくもなかった。
身に纏うのは着古したジーンズやネルのシャツ。女達も、宝飾品を身につける事はおろか化粧さえろくにしていない。
しかし、勝利の盃を呷り、理想を語り合う彼等は、小奇麗な身なりで日々の生活に埋没する大多数の人々よりずっと輝いて見えた。
そんな彼等の様子を、広場の最奥に位置する席から見るともなしに眺めるリーダー格の男の許に、1人の少年がやって来る。
少年は、熱っぽい眼差しを男に向けて訴えた。
「ねぇ、リーダー!畑仕事や勉強なんてどうでも良いから戦場に連れてってよ!僕も早く一人前の戦士になりたいんだ!」
意志の毅い、ひたむきな瞳。
――こいつは良い戦士になるだろう――そう思いながら、男は少年と目線を合わせてゆっくりと口を開いた。
「良いか坊主。武器を取って戦場に出る事だけが戦いじゃない。家を守る事や日々の糧を得る事も立派な戦いなんだ」
だが、少年は不服そうに唇を尖らせる。
「でも…」
自分がこの少年くらいだった頃の事を思えば、それも無理のない反応だ。
そう内心で苦笑しつつ、男は隣に控えた人物に視線を向けて説得を続ける。
「それに、知識は必ず力になる。ディーを見れば解るだろう?」
彼の隣では、例の赤毛の女性が嫣然と微笑んでいた。
彼女の笑顔に見惚れる少年の耳に、周りの大人達の声が届く。
「本当に、ディーが来てから俺達は負け知らずだ」
「そりゃそうさ!ディーはあたし達の勝利の女神様だもの」
「違いねぇ」
柄の悪い笑い声にも、その微笑みは崩れない。
ディーと呼ばれた彼女は、最初から彼等と共に行動していたわけではなかった。
ある日、ふらりと戦場に現れたのをリーダーが連れて来たのだ。
ディーは、華やかな外見からは意外に思える程目立った行動を取らず、常に控えめにリーダーのそばにつき従っているように見えたけれど、彼女は「自由の戦士」の戦い方に革新的な変化をもたらした。
それまで単発的なゲリラ戦を展開していた彼等に、ディーは組織的な戦法を授けた。
更にメディアの活用を示唆し、単なる抵抗運動から軍事政権の非道を告発する反政府運動へと活動の方向そのものを転換させたのも彼女だ。
その甲斐あって、今では国の内外から彼等の活動を支持する動きも出始めている。
確かに、彼女のもたらした知識は「自由の戦士」にとって大きな力となっていた。
それは、少年にも解るのだろう。
「うん、解ったよリーダー!僕、ディーみたいにうんと賢くなる!」
屈託のない笑顔で元気良くそう宣言すると、同年代の子供達の輪に戻って行く。
その後姿を目を細めて見守っていた男は、誰にともなくぽつりと呟いた。
「あんな子供に戦争の仕方を教えるなんて間違ってるよな」
酒と勝利に酔う人々に、彼の声は届かない。
ただ1人、ディーだけがその言葉に秘められた痛みを感じ取る。
今でこそ己の信じるものの為に戦いに身を置いているけれど、本当は争い事などない平和な日々こそが彼の求める理想なのだ。
「あいつらが大人になる頃には、この国もいくらかまともになるんだろうか…」
ほろ苦い彼の問いに応える言葉をもたないディーは、無邪気にはしゃぐ子供達を遠い目をして見つめる男の手にそっと自分の掌を重ね合わせた。
その夜の事。
真夜中を過ぎて、騒ぎ疲れた人々が深い眠りに就いた頃、ディーはひそかに天幕を抜け出した。
散歩にでも出るような気軽さで集落を抜け、辺りを一望できる小高い丘へと足を運ぶ。
頂に辿り着いた彼女を待ち受けていたのは、長い茶色の髪を風にはためかせて立つ1人の少女だった。
月明かりの下でさえそれと見てとれるほど整った顔立ちは、少女の印象を人形めいたものにしている。
ディーは、そんな少女の容姿をこう評した。
「こういう場所に潜入するのには不向きね。綺麗過ぎて目立っちゃうもの」
「私は告死天使。潜入捜査は専門外であり、周囲に人目もない現在擬態も必要としない」
笑えばさぞかし愛らしいだろうに、淡々と事実のみを告げる少女の抑揚のない事務的な口調は作り物の冷たさばかりを感じさせる。
少女は、まっすぐディーを見つめて用件を切り出した。
「告知天使D。貴方の任務は叛乱軍を内部から攪乱し、機を見て統率者を抹消する事の筈。何故任務を遂行しない?」
「返答次第では私を狩るのがあなたの任務って訳?」
半ば詰問に近い問いかけに、ディーは軽く肩を竦めてみせる。
少女の額には、3対6枚の翼が淡い燐光と共に浮かび上がっていた。
それに呼応する形で、ディーのはだけたシャツの胸元にも2枚の翼が描き出される。
ディーは、質問には応えず、逆に少女に問い返した。
「あなた、名前は?」
「I」
「そう…」
名前というよりただの記号のような硬質な響きの言葉に頷いて、ディーは再び問いかける。
「ねぇ、アイ?あなたは誰かを愛した事があるかしら?」
少女を見つめる瞳は、年の離れた妹に向けるもののように優しく温かい。
けれど、そこには彼女の髪の色と同じ情熱の焔が宿っていた。
「私は彼――リーダーに恋をしたわ。彼は、とても強くて優しい人。誰より争いを怖れながら、自らの尊厳と弱者を護る為に戦う彼の魂が、私には哀しくて愛しいの」
少女は、訝しげな表情で彼女にとっての正論を口にする。
「任務の遂行に際して、対象の人間性は考慮されないし、私情を挿む事も許されない」
そんな少女に、ディーは慈しみと憐れみを持って語りかけた。
「可哀想なアイ。あなたはまだ、本当に生きる事を知らないのね」
「何を――」
少女が反駁しかけたその時、ふたりの背後に位置する集落の方角で突然火の手が上がった。
――まさか、この子が?
弾かれたように振り返ったディーは、少女の驚いた顔を見てその可能性を否定する。
ディーの決断は早かった。
「覚えておいて、アイ。あなたもいつかたったひとりの大切な人と出逢う時が来るわ」
その時が来たら、もう1度会いにいらっしゃい。そう言い残して、集落に戻る道を駆け下りる。
少女もその後を追いかけたが、緊急事態を告げる連絡に撤退を余儀なくされて果たせなかった。
+ + +
あれから1年。
アイは再び彼の地の土を踏んだ。
その隣には、彼女に生きる事を教えたケイの姿がある。
1年の間に、この国の戦況は大分変化していた。
以前は叛乱軍と呼ばれていた「自由の戦士」達レジスタンスが正規軍と見なされ、現行の独裁政権の悪政には世界各国から非難が集中している。
解放の兆しに活気を取り戻しつつある町のあちこちで、アイは「戦女神」の噂を耳にした。
常に「自由の戦士」のリーダーのそばに在って勝利に導いてきた、炎の色の髪をした艶やかな女戦士。
その噂を追って、ディーと会った集落を訪れたアイを迎えたのは、彼女が愛した男その人だった。
「おまえがアイ、か…」
やや疲れた表情は、男をアイが写真で知る彼より幾分老けさせて見える。
「…何をしに来た」
あれほど覇気に溢れていた彼を何がここまで憔悴させたのか不思議に思いながら、アイは躊躇いがちにこう応えた。
「ディーに会いに」
男の瞳に、束の間激情の灯が点る。
それを理性で無理矢理ねじ伏せて、男は静かに口を開いた。
「ディーはもういない。あの夜の銃撃戦で俺を庇って死んだ」
彼の視線は、アイへの疑惑を物語っている。
「私は…」
何か言いかけて、アイは口を噤んだ。
あの晩男のいた集落を襲ったのは、先走った政府軍の過激派だった。
別口からの依頼でディーに接触したアイ自身、何も知らされておらず、任務を妨げられたのだ。
だが、告死天使として他の『天使』を狩ってきた彼女にとって、それは言い訳でしかないように思えた。
男は、そんな彼女の想いを見透かしているかのように断罪の言葉を紡ぐ。
「俺は、許せない。ディーのような存在を生み出した連中も、仲間を狩るおまえも」
アイは、俯いてきゅっと唇を噛んだ。
きつく握り締めた掌を、ケイの大きな手がそっと包み込む。
それ以上何も言えずに、ふたりはその場を立ち去りかけた。
その背中に、男が声を投げる。
「…でも、ディーとの約束だ。あいつは死ぬ間際、俺にこう言い遺した」
足を止めたふたりに、男はディーの遺言を伝えた。
「「もしも生きる事の意味を求めるのなら、同志を捜しなさい」。いつか此処を訪れるおまえに、そう伝えろと」
振り返ったアイを見据える男の眼差しには、強い憎しみとやるせない哀しみと、仄かな優しさが込められている。
「行くが良い。おまえには、その手で狩った仲間の分も「生きる」義務がある」
泣き笑いを浮かべるアイに背を向けて、男は自らの戦いへと戻って行った。
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