−プロローグ−


 「それでは、アル、もう1度、契約条件を確認しよう」
 警察内の電脳空間担当部署であるCyber Space Security――通称C.S.S.のオフィスで、目の前の調整官はもう何度目だか解らない同じ文言を機械的に読み上げる。
 「君の任務は、『cubic World』に挑み、これをクリアする事。成功の暁には、君をC.S.S.専属要員として正規採用する事になる」
 そこで1度言葉を切った調整官の視線が、ひとつに束ねた長い髪の先を手持ち無沙汰に玩ぶ俺の指に向けられる。
 …そりゃ、スーツにネクタイなんて前時代的なスタイルの、真面目が服着て歩いてるような彼からすれば、俺みたいなのは理解し難いんだろうけどな。
 礼儀正しくも僅かに目を逸らして苦言を飲み込んだ調整官は、淡々とした口調で先を続けた。
 「任務の間は、メディカルシステムに直結した全感覚変換タイプのマシンを使用してもらう。これは、他のプレイヤーが被害にあった状況を再現する必要性と同時に、君自身の安全の為でもある。既にマシンは君の反応速度に合わせて調整済みだ。可能な限り君の意向を取り入れて改造も施してある。慣れたマシンと違って使い勝手が悪い点もあるだろうが、そこのところは譲歩してもらうしかない」
 ほんの少しの誤差が命取りになる場合もあるから本来なら使用するマシンについては1番譲れないポイントなんだけど、まぁ、今度ばかりは事情が事情だから仕方ない。
 冷めたインスタントコーヒーってのは何だってこんなに苦いんだろうなどと全く関係のない事に思いを巡らせつつ、俺は厭きるほどに繰り返された説明を上の空で聞き流していた。


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 6つの異なる相から成る閉ざされた世界――cubic World。
 『cubic World』は、本物以上に本物らしい仮想世界、という謳い文句で売り出された体感型オンラインRPGだ。
 緻密に作り込まれたフィールドや世界観に加え、首筋に貼り付けた電極から流れる電気信号で従来は不可能とされていた味覚や嗅覚まで再現したリアルさが受けて、公開と同時に爆発的なヒットとなった。
 プレイヤーは、肉体の持つ五感を仮想現実のものに置き換えて、ゲームの世界に降り立つ。
 1度アクセスしてからの行動にはほとんど制約がない。
 ゲームをクリアする為のメインストーリーを進めても良いし、クリアには直接関わらないシナリオや用意されたサブイベントに片っ端からチャレンジするのも構わない。その気になれば、何をするでもなくただ単純にこの作られた世界の住人としての生を愉しむ事だって出来る。
 そうして、登録したキャラクターとしての死を――戦闘不能状態ではなく、寿命が尽きる事による完全な死だ。このゲームはこんなところまでリアリティに拘っているのだ――迎えた時点でゲームオーバーになる…筈だった。
 何しろ、幾らリアルでもコンピューターの描き出す仮想現実世界である以上処理能力には限界があるわけで、希望者すべてが同時にゲームに参加するわけにはいかないのだ。
 アクセス待ちの希望者に順番が回るようにするには、何らかの形でゲームを終わらせてもらわなければならない。
 だが、実際には、ゲーム中で死を迎えたプレイヤーの中に、そのまま現実世界に戻らない者が現れた。
 その多くは何らかの強い意思を遺した状態で死の判定を受けたキャラクター達で、彼等は生前の状況に応じて死霊や妖魔、守護精霊などの形でcubic Worldに縛りつけられてしまったのだ。
 更に、事態は悪化する。
 体感型ゲームでは、プレイヤーはゲーム中にキャラクターが得る感覚を自分のもののように感じ取る事が出来る。
 とは言え、過ぎた痛みや衝撃はプレイヤー自身の心身に害を及ぼし、時にその生命さえも奪う事になる。
 その為、安全面に配慮した規制が設けられていた。
 『cubic World』にももちろんそういった規制は適用されていたのだが、ある日を境に制御プログラムが排除されてしまったのだ。
 それは、ゲーム中の痛覚によってプレイヤーがショック死するという最悪の事態によって発覚した。
 当然ゲームの配給は中止され、参加者にもすぐにアクセスを中止するよう指示が出された。
 だが、ゲームシステムは停止命令を拒絶。
 プレイヤーは、自らの意志でアクセスを切る事は出来なくなっていた。
 ゲームの世界に入り込んだきり現実世界に戻って来なければ、肉体の活動に支障が出る。
 かと言って、感覚変換中に外部から無理矢理アクセスを断てば、神経や脳に後遺症が残って廃人になりかねない。
 それらはすべて、このゲームの為に開発されたシステムの暴走によるものだった。
 『cubic World』ではプレイヤーの行動を通じて学習し、成長していくという画期的なゲームシステムを採用していた。
 これによって、ゲームが進めば進むほど、その世界はより複雑で変化に富んだものになる筈だったのだ。
 しかし、このシステムは、思わぬ方向に進化してしまった。
 リアリティを追求するあまり攻撃を受けたプレイヤーの感じた違和感を察知してダメージを現実レベルに引き上げ、「現実」と同じように中途での離脱を不可能にし、思いの強さなどという目に見えないパラメーターを新たに創り上げ、今ではより現実世界へと近づく為に、プレイヤーをゲームキャラクターと同調させるよう洗脳まで行っている。
 開発者や法関係者はもちろん、心理学者や哲学者まで交えて検討に検討を重ねた結果、導き出された解決策はひとつ。
 cubic Worldの謎を解き、閉ざされた世界を開放する事――つまり、『cubic World』というゲームのエンディングを迎える事だった。


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 ゲームの世界に囚われてしまったプレイヤーは、彼等が唯一助かる術を知らない。
 偶然に期待しようにも、洗脳の結果クリアを目指す意志は奪われているだろう。
 だから、事情を知っている外部の人間がこの悪趣味なゲームに挑んでクリアするしかない。
 それが、先行して『cubic World』にアクセスして情報集めをしてた先輩隊員からの最後の報告だった。
 彼は、現在愛用のマシンごと24時間体制の看護下におかれて昏睡している。
 「尚、今回の職務の遂行にあたり不測の事態が生じた場合、警察側は遺族等への補償は充分に行うが事態そのものへの責任を負うものではない。以上の内容について、君が誓約書にサインをした時点で同意したものと見做される」
 つまり、死んでも責任は取れないって事だろ?
 調整官の持って回った言い回しに鼻白んだ気分で、テーブルの上の紙切れを見下ろす。
 俺だって、ほんとならこんなアブナイ話に首を突っ込むつもりはなかった。
 現実の身体をほとんど仮死状態にして仮想世界に飛び込んで、いつ帰って来れるか…帰って来られるかどうかさえ解らないなんて、ヤバ過ぎる。
 正式にC.S.S.の隊員になれるって話だって、実はそれほど興味はない。
 …ただ、先輩にはいろいろ世話になってたからさ。
 まぁ、給料が増えんのは悪くない。欲しかったソフトや改造パーツも思いっきり買えるようになるし。
 そんな風にわざと気軽に構えて、俺は誓約書にサインするべくペンを手に取った。


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 赤、青、緑、茶色、白、黒の6色の正方形を組み合わせた立方体(キューブ)が広げた掌の上に現れる。
 この小さな函がこの世界の象徴で、道標でもある。
 最初から選べるのは、有彩色の4つ。そこから、冒険がスタートする。
 さて、どれを選ぼうか?
 「えー、今日のラッキーカラーは…っと」
 掌の上の立方体(キューブ)を転がしながら、朝、出掛けに見たTVの占いを思い出す。
 うん、確か、緑だったよな。
 「そんじゃ、ま、行きますか」
 立方体(キューブ)を握った拳に、口づけをひとつ。
 俺は、緑色に光る壁に向かって足を踏み出した。


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