***月草***


 秘密の絵の具で書かれた、遠い日からのラブレター。

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 本棚を片付けてて、つい手に取った本を読み耽ってしまう事がないだろうか?
 今の私が、まさにそんな状況だ。
 わくわくしながら読み進めた冒険小説、お気に入りの絵本、夜も眠れないほどにのめり込んだミステリー。
 明後日の週末には引越し――それも少々特別な――が控えているのに、床を埋め尽くす本の山はさっきからちっとも減っていない。
 今も、うっかり読み始めてしまったシリーズ物のSF小説にENDマークがついてようやく我に返ってみれば、窓の外は早くも日が傾きかけていたりする。
 今日何度目かの溜息をついたところで、ふと1冊の児童書が目に留まった。
 真っ赤なハードカバーに金の箔押しという凝った装丁のその本は、私の宝物だった。
 小学生の頃、子供の手には大きくてやたらと厚くて重いこの本を何度も何度も図書館から借りて来る私を見兼ねて、誕生日でもクリスマスでもないのに父が買ってくれたのだ。
 子供向けの易しい語り口で、けれど今になって思い返してみると奥深い真理を描いた物語を懐かしく思いながら表紙を開くと、扉と遊び紙の間からひらりと小さな紙片が飛び出した。
 たぶん、ノートか便箋の切れ端なのだろう。僅かに黄ばんだ罫線入りの紙切れには、たどたどしい手蹟でこう書かれている。
 『大きくなったら、ぼくとけっこんしてください』
 消えそうで消えない薄い青は、絵の具を水で溶いたものだろうか?
 それにしては何だか微妙な色合いだけれど…そんな事を考えながら紙片を夕陽に翳した瞬間、幼い頃に見た景色が時間を超えて蘇った。

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 小川のせせらぎ、草いきれ。
 何処からか拾って来たガラスの小瓶に、紫がかった青い液体が揺れている。
 「わぁ、きれーな青!」
 道端に咲いていた花を水に浸して絞っただけのそれは、幼心にはとても貴重で珍しいもののように思えた。
 どきどきするようなその想いを分け合いたくて、隣で小瓶を覗き込んでいた彼に声を潜めて囁きかける。
 「魔法の絵の具みたいだね」
 沈みかけた夕陽が、西の空の雲をピンク色に染めていた。

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 それは他愛ない子供の思いつきだったのだけれど、彼はけして莫迦にしたりしなかった。
 次の日、ちょっぴり照れくさそうに顔を背けて紙片を差し出した彼の、爪の間まで青く染まった指先を思い出す。
 それが、2人だけの秘密の約束みたいで、小さな紙切れは大切な宝物になった。
 だから、同じように大切にしていたこの本の間に、こうして挟んでおいたのだ。
 思い出してみれば、自分も彼も随分と可愛らしかったものだと思う。
 ――まさか、この約束がそのまま現実になるなんてね。
 そんな事を考えながら週明けに役所に提出する用紙の、淡い青で綴られた文字と同じほんの少し右上がりの癖のある署名を眺めていると、新しく同居人になる予定の彼がひょっこりと顔を覗かせた。
 「おーい、少しは片付いたか?」
 自分は身軽な1人暮らしだからとわざわざ引越しの準備を手伝いに来てくれている彼は、部屋の中の惨状に呆れ返る。
 「おいおい、何やってんだよ」
 彼の言い分は尤もだけれど、あからさまに呆れられてしまうと癪に障る。
 そこで、ささやかな反撃のつもりで手にしていた紙片をぴらぴらと見せつけてやる事にした。
 「良い物見つけちゃった」
 「あぁーっ!」
 一瞬首を傾げた彼は、それが何か思い出した途端驚いた表情で大きな声を上げる。
 「そんなものまだ持ってたのかよ!?」
 そんなもの、と言いつつしっかり覚えている辺り、やっぱり彼だなぁと思うと嬉しかった。
 「そうよ、私の宝物だもの」
 だから、にっこり笑顔で頷いて、それからこんな提案をしてみる。
 「ねぇ、結婚式のお色直しのドレス、露草色にしよっか?」
 「バーカ」
 そう言って、赤い顔をしてそっぽを向いた彼は、けれどその提案を却下したりはしなかった。



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