***山吹***


 「院長先生の奥さんはね、山吹の花の似合う、ほんとのお母さんみたいな人だよ」

*・*・*・*・*・*・*


 「ごめんなさい」
 柔らかな新芽の緑と山吹の花に囲まれた小道を歩きながら、彼女はすまなそうにそう切り出した。
 「やっぱり、私、あなたとは結婚できないわ」
 「…どうして?」
 これまでに、何度か告げられた言葉に、俺もまた同じ問いを返す。
 「俺、何か君を困らせるような事した?」
 「他に好きな奴ができた?」
 「それとも、俺の事嫌いになった?」
 俯き加減で半歩後ろを歩く彼女は、そのひとつひとつにふるふると首を振るばかり。
 「それじゃ、どうして?」
 かといって、瞳を覗き込んでそう尋ねれば、一瞬何か言いたげな表情を見せるのに、すぐに自重するように唇を引き結んで目を伏せてしまうのだ。
 出逢ってから5年。俺達は真面目に付き合ってきた。少なくとも、俺自身は将来の事まで考えて付き合っているつもりだった。
 それなのに、最後の一線で、彼女はいつも立ち止まる。
 自惚れではなくて、彼女は今でも俺を好きでいてくれていると思う。
 俺が彼女を大切に思うのと同じくらい、彼女も俺を想ってくれていると思う。
 だからこそ、何故彼女が結婚を拒むのか、俺には理解できなかった。
 「俺、ずっと独りだったから、家族とかってよく解んないけど、君とならそういうの築いていけるんじゃないかって…」
 幾度も繰り返すやり取りへの疲れと、解らない――解ってもらえない寂しさと苛立ちが、心をささくれ立たせて投げ遣りな気分にさせる。
 その所為だろう。
 気がつくと、普段なら絶対口にしない弱音を思わず吐いている自分がいた。
 「俺のこんな気持ちは、独り善がりで迷惑なものなのかな」
 あぁ、違う。こんな事が言いたいんじゃない。
 弾かれたように顔を上げた彼女の痛々しい瞳に、俺は唇を噛み締める。
 傷ついた顔をして卑屈な台詞で気を惹くなんて、最低だ。
 悔恨から黙り込んでしまった俺をしばし見つめていた彼女が、何を思ったのかふと手元の山吹を一枝手折った。
 明るい黄色の愛らしい小花をつけた枝を俺の目の前に差し出して、彼女は徐に口を開く。



 「七重八重 花は咲けども山吹の 実のひとつだに 無きぞ悲しき」



 古いその歌の意味を解してはっとした俺に、彼女は淡い微笑みを浮かべてこう言った。
 「どんなに綺麗な花を咲かせても、けして実を結ぶ事のない八重咲きの山吹――私と一緒ね」
 その笑顔があまりに綺麗で…だけどとても哀しくて、俺は思わず息を飲む。
 彼女は、最早視線を逸らそうとはせずに、最後まで毅然と言葉を綴った。
 「私は、子供を産めない体だから…だから、あなたを幸せに出来ないの」
 俺はといえば、その時になってようやく自分の馬鹿さ加減に気づいた。
 早くに親を亡くして天涯孤独の身になった俺は、賑やかな家族に憧れていた。
 両親が仲良しで、兄弟がたくさんいて…そんな理想を、いつも彼女に語っていた。それがどれだけ彼女を苦しめていたのかも知らずに。
 その上、そんな俺の幸せを願ってくれていた彼女に、心弱さひとつで辛い告白まで強いてしまったのだ。
 俺は、どうしようもない衝動に駆られて彼女を強く抱き締めた。
 「たとえ実がならなくても、俺はこの花が好きだよ」
 彼女とよく似た、山吹の花。
 きらびやかに自己主張するわけではない、けれど温かな華やぎを持つこの花は、見る者の心に希望と優しい気持ちを呼び起こしてくれるから。
 どうかこの思いがきちんと伝えられるようにと、祈るような気持ちで言葉を紡ぐ。
 「結婚しよう。そして、ふたりで俺みたいな子供をたくさん引き取って育てるんだ。きっと賑やかになるよ」
 「…そうね」
 腕の中から聞こえたくぐもった声は、心なしか震えて濡れていた。

*・*・*・*・*・*・*

 数年後。
 八重咲きの山吹の小道の先に、一軒の家が建てられた。
 後に孤児院となったその家からは、明るい子供の声が絶える事はなかったという。


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