***菫***
春の野に咲く花のように、優しく可憐で、したたかな女性《ひと》。
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大きな鞄を足元に置いて、青年はがらんとしたホールをぐるりと見回した。
家具や調度をすべて運び出した後の室内はやたらと殺風景で、実際よりも広く目に映る。
一抹の懐古の情を込めて目を眇める青年の端正な横顔は、深い愁いを帯びて見えた。
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彼の家は、古くは何処ぞの王家にまで出自を遡る事の出来る、由緒正しい血筋の貴族だった。
しかし、野心や権勢欲とは縁遠いおっとりした人物ばかりを輩出する家系だった事が祟って、今ではすっかり没落してしまっている。
このままでは、早晩家計が立ち行かなくなる事は目に見えている。
青年は、両親の突然の事故死により当代当主となったのを機に、家財を手放す決心をした。
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そして今日、住み慣れた家を出る日を迎えた彼は、だが、実はそれほど悲愴な気分でいるわけではなかった。
幸い、彼の一族には美術品の収集家が多く、また代々伝わる名品・逸品を売り払ってまで贅沢三昧な暮らしを望む浪費癖のある者はいなかった。
青年自身も、幼い頃から自然と一流の品を見る目は養われている。
その鑑定眼を活かし、ご先祖様が遺してくれたお宝を元手に古美術商でも始めてみるつもりだった。
もちろん、たくさんの思い出に彩られた屋敷にそれなりに思い入れはあるが、建物を手放しても過ごした時間まで消えてしまうわけではないのだから、と青年は考える。
元々、貴族的で秀麗な見かけによらずどこか茫洋としたところのある人物なのだ。
そんなわけで、青年が一見物悲しげに――その実ぼぉっと玄関からの眺めに見惚れていると、離れに続く廊下から感慨深げな声が聞こえてきた。
「すっきりしちゃいましたねぇ」
振り返った青年の視線の先に、ぱっちりとした瞳の色と同じ菫色のワンピースに白のエプロンドレスという典型的なメイド服の女性が現れる。
「あぁ」
笑顔が可愛らしく働き者の彼女は昔から住み込みで働いていた料理人の娘で、彼よりふたつ年上の幼馴染でもあった。
小さな体でくるくると忙しく仕事をこなす彼女の姿は、青年にとってある意味この家で暮らした日々の象徴のような存在だ。
今も、戸締りの最終確認を済ませてきた彼女に、青年は万感を込めて言葉をかける。
「最後まで済まないな。出来れば、次の勤め先くらいは紹介してあげたいところだけれど…」
だが、幼馴染の彼女は青年の謝礼をまともに受け取ろうとはしなかった。
「いやですわ、何仰ってるんです?」
「何って…」
にべもなくそう言われて戸惑う彼に、彼女はにっこりと微笑みかける。
「私、これからもご主人様についていきますわよ」
「…は?」
青年は、わけが解らないといった面持ちで首を捻った。
「だって、ご主人様ときたらパンを焼けば焦がす、お洗濯をすれば洗剤焼けさせる、お掃除をすれば花瓶を割る、もう危なっかしくて、とてもお独りになんて出来ませんもの」
青年の困惑など何処吹く風とばかりに聞き流した彼女は、彼の過去における失敗の数々を指折り数えて自論を展開していく。
「いや、しかし――」
更に、何とか口を挿みかけた青年に無敵の笑顔を向けてこう付け加えた。
「ご安心なさってくださいな。お給金はご主人様のお仕事の目途が立つまでは結構です。これでも、少しくらいなら蓄えがありますの」
「それでは、君に申し訳なさ過ぎるだろう。君くらい有能なメイドなら、幾らでも働き口があるだろうに」
彼女の前ではやや甲斐性無しのきらいのある青年は、形の良い眉をハの字にしておずおずと反論を試みる。
しかし、彼女はそれすらもあっさりと一蹴してのけた。
「もちろん、住み込みで働かせていただきますから食費くらいは賄っていただきます。それに、申し訳ないとお思いになるのでしたら、1日でも早く事業を軌道に乗せてくださいませ」
言いたい事だけしっかり言うと、青年の足元に放置されていた鞄をひょいと両手で持ち上げてすたすたと歩き出す。
そんな彼女の後姿に、青年はこっそり溜息をついた。
昔から、彼女は言い出したら聞かない性質なのだ。
仕事の上ではあくまで控えめで誠実、ただしたとえ相手が雇い主でもけして変に媚びたりせず、正しい事は正しいと口にする。
そういう彼女だからこそ、彼も好ましく思うのだけれど…。
そこまで考えて、青年はふと何かを思いついたようだった。
早足で先を行く彼女に追いつくと、肩を並べて歩きながらこう切り出す。
「…どうせなら、永久就職するつもりはないかな?」
その一言で、青年は生まれて初めて幼馴染を心底驚かせる事に成功した。
大きな菫色の瞳をぱちくりと瞬かせた彼女は、やがて花の様な笑みに顔を綻ばせる。
彼女からの返答は、非常にしっかり者の彼女らしいものだった。
「私は、高いですわよ」

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