***梅***


 今もひそやかに息づく情熱――それは、許されぬ恋の記憶。

*・*・*・*・*・*・*


 その絵は、絵の具と紙の匂いが染みついたアトリエの一画にひっそりと飾られていた。
 「これが『秘め恋』ですか」
 紅梅の老木の枝の下に佇む巫女装束の少女を描いた水彩画の神秘的な美しさに、インタビュアーの女性が我知らずほぅと感嘆の溜息を落とす。
 「この作品が、先生のデビューのきっかけになったのですよね」
 「えぇ、そうなりますね」
 魅せられたように立ち尽くす彼女の背後で、この部屋の主は穏やかな笑みを湛えて頷いた。
 「先生」などと呼ばれるにはまだ若い――おそらく40歳には届かないだろう――男の眼差しには、だが、どこかその年齢に相応しからぬ老成した光が宿っている。
 「愛好家の間で『秘め恋』が幻の名作として垂涎の的になっているのはご存知かと思いますが、先生はこの作品を手放すおつもりはありませんか?」
 少々不躾とも取れるインタビュアーの問いかけにも気分を害した様子もなく、男は曖昧な微笑のまま首を横に振った。
 そうして、訥々と語りだす。
 「この絵は、私にとって大切な想いを封じたものなのです」

*・*・*・*・*・*・*


 それは、彼がまだ一介の美大生だった頃。
 僅かな荷物とスケッチブックと画材一式だけを手に、各地を旅した事があった。
 その頃の彼は、自分の将来に漠然とした不安と迷いを抱えていた。
 絵を描く事は好きだ。だが、芸術の世界は好きだけでやっていけるほど甘くはない。
 このまま大学を出たところで、画家として生計を立てていけるのか…夢と現実の間で揺れ動く日々から逃げ出すように、彼はふらふらと当て所なく彷徨し続けた。
 その町に立ち寄ったのも、だから、本当に偶々だった。
 さしたる目的もなく乗った各駅停車のローカル線の、其処が終着駅だったのだ。
 駅のホームに降り立った彼は、改札口にいた駅員に神社の場所を尋ねた。
 神社や寺院の近くには、自然のままの景観が残されている事が多い。
 聞けば、この町の神社では古い梅の木を御神木として祀っていると言う。
 折りしも時は2月。ちょうど花も見頃だろう。
 そんな言葉を頼りに、彼は色褪せた鳥居をくぐった。



 境内に足を踏み入れた彼は、一目でその景色を気に入った。
 重々しい曇天の下、慎ましやかな佇まいの社殿を背景に枝を広げる紅梅の老木は、御神木の名に相応しい幽玄な風情を醸し出していた。
 和えやかな、けれどけして甘いばかりではない花の馨が、浮世離れした空気を際立たせる。
 しばし時を忘れて目の前の風景に見入っていた彼の背に、ふと声がかけられた。
 「もし、何か…?」
 慌てて振り返った彼の瞳が、軽く瞠られる。
 其処にいたのは、白い直垂に緋袴という巫女装束の美しい少女だった。
 そう。彼女はとても美しかった。
 それは、外見の美しさのみによるものではない。
 年初や節分、夏祭りといった行事の際だけの、臨時雇いの巫女とは違う。明らかに神に仕える者の聖らかさがその身から溢れ出す、そんな美しさだった。
 彼は直感した。彼女は、この紅梅に斎く者。その身を天に捧げて生涯を終える清浄な巫女だ。
 だが、同時に彼は、彼女に恋する自分に気づいていた。



 彼は、御神木を描かせてもらうという口実で神社に通った。
 少女とは、時折一言二言言葉を交わすだけで、特に打ち解ける事はなかった。
 それで良い、と彼は自分に言い聞かせた。
 彼女が神に操を捧げている以上、彼の想いは禁忌でしかない。
 やがて、彼が町を去る日が来た。
 彼が最後に神社を訪れたその日、少女は特別に、と御神木の下で神楽舞を舞った。
 ちらちらと小雪のちらつく中、祭りの衣装ではなく普段と同じ巫女装束で彼1人の為に舞う彼女の姿を、彼は一枚の絵の中に永遠に留めた。

*・*・*・*・*・*・*


 「それが、この『秘め恋』です」
 そう言って、男は懐かしげに目を細めた。
 「…そんな事があったんですか…」
 女性好みのロマンチックなエピソードとでもとったのだろう。インタビュアーは、しみじみと絵を眺めやる。
 見れば、巫女の少女の手には榊ではなく、一振りの紅梅の枝が握られていた。
 男は、ほろ苦い笑みを頬に刻む。
 皮肉なものだと思う。彼女への想いを封じる為に描いたこの絵がとある画商の目に留まり、彼が画家として認められるきっかけとなった。
 今の成功が恋を手放す事と引き換えに得たもののようで、時々酷く虚しく思える時がある。
 そんな彼の想いを見透かしたかのように、まだ年若いインタビュアーは明るい表情で彼を振り返った。
 「まるで、彼女が幸運を運んでくれたみたいですね!」
 「…そうですね」
 再び、穏やかだがどこか空ろな笑顔に戻って、男は静かに頷く。



 それがたとえ幸福でも、空虚な代替品でしかないとしても。
 彼が、彼女が残してくれた熱の名残を手放す事はないだろう。
 今も、この先も…。



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