***女郎花***


 私を好きになってはダメよ、と、彼女は笑って言った。

*・*・*・*・*・*・*


 抜けるような秋の空に綺麗な放物線を描いて白球が飛んで行った。
 起死回生の逆転サヨナラホームランに、グラウンドの半分から歓声が上がる。
 だが、吸い込まれるようにボールが消えた先を目にした途端、その声は怯えと困惑の入り混じった嘆息に変わってしまった。
 「あ〜あ」
 「やべぇよ、どうする?」
 「どうするって言っても、なぁ?」
 居合わせた面々は敵味方関係無しに気まずそうに顔を見合わせる。
 僕が打ったボールが飛んで行った先には、町1番のお屋敷が建っていた。
 その家には頑固で気難しいお爺さんと口うるさいお婆さんが住んでいるので有名で、特に子供達からは出来れば近づきたくない場所として敬遠されている。
 ガラスの割れた音なんかは聞こえなかったけれど、だからと言って進んで行きたい場所じゃない事に変わりはない。
 「おまえが打ったんだから、ちゃんとボール取って来とけよな」
 キャプテンを務める上級生の一言でその場はお開きとなり、友達はそそくさと帰り支度を始めた。
 ヒーローになり損ねた僕は、薄情な仲間を恨みつつお屋敷に向かう。
 高い塀の廻らされた道をぐるりと半周したところで、勝手口の木戸が細く開いてるのが目に入った。
 「お邪魔しまーす」
 小さな声で一応断わりを入れて、庭に忍び込む。
 グラウンドのある方向から大体の見当をつけてきょろきょろしながら建物を回り込んだ僕は、突然背後から呼び止められて息を呑んで立ち尽くした。
 「探してるのはこのボールかしら?」
 どきどきしながら振り返ると、黄色い花束を抱えた女の人がにっこり笑ってこちらを見ている。
 僕より二つ三つ…もしかしたら、五つくらいは年上かもしれない。透けそうに白い肌の綺麗な人だった。
 ぼぉっと見惚れている僕に呆れるでもなく、優しく問いかけてくる。
 「これ、あなたのでしょう?」
 僕は口も利けずにただこくこくと頷いて彼女の手からボールを受け取ると、一目散にその場を逃げ出した。
 彼女の腕の中で、風に揺れる花がさやさやと笑ったような気がした。



 屋敷を出ると、噂好きの小母さん達が道端で何やらひそひそと話してる声が聞こえてきた。
 「ほら、あのお屋敷の」
 「あぁ、ご主人の姪御さん」
 「何でも肺を患って療養に来てるそうよ」
 「学校もお休みしてるんだって」
 「可哀想にねぇ」
 僕は、家に帰る道すがら、ずっと彼女の事を考えていた。



 翌日、僕は放課後を待って再びお屋敷を訪れた。
 確信があったわけじゃないけど、彼女は昨日と同じように庭先に佇んでいた。
 「あら?君は昨日の…?」
 「あ、あの、これっ」
 ちょっと不思議そうに首を傾げる彼女の言葉を遮って、僕は手にしていた蜂蜜漬けのカリンが入った瓶を差し出す。
 「咳に良いって聞いたから…」
 たぶん、耳の先まで真っ赤になってるだろう僕に一瞬面食らった表情をした彼女は、やがてふわっと花が綻ぶような笑みを浮かべた。
 「ありがとう」
 その笑顔が凄く眩しくて、僕は慌てて顔を逸らす。
 「そ、それじゃ」
 「あ、待って」
 そのまま立ち去りかけた僕は、彼女の魅力的な申し出に足を止めた。
 「お茶を一緒にいかが?丁度クッキーが焼き上がったところなの」

*・*・*・*・*・*・*


 それ以来、僕は毎日のように彼女の許に通うようになった。
 僕は、学校に行けない彼女の為に授業の様子や運動会の事、面白い先生の事なんかを話して聞かせた。
 彼女は、以前暮らしていた都会の様子を話してくれた。
 路面電車やビルディング、カフェテラスにプラネタリウムなど、田舎に住む僕には珍しいものばかりで、いつだってとても興味深かった。
 でも、何より僕が興味を持ったのは彼女自身に対してだった。
 ぞんざいな口調で話す近所の小母さん達とも、やたらと姦しい同じ年頃の女の子達とも全然違う彼女に、僕は確かに惹かれていたんだと思う。
 そんなある日の事。
 放課後、彼女の家に向かう途中で僕はクラスメイトの女の子に呼び止められた。
 「今日もお屋敷に行くの?」
 その子は明るく勝気で世話好きな、所謂学級委員タイプの子だった。そこそこ可愛いから、男子の中には密かに好意を寄せるヤツも多い。
 でも、僕ははっきり言ってその子には全然関心がなかった。
 「あの女の人の事、好きなの?」
 だから、たいして親しいわけでもないのにそんな事を訊かれて、僕は苛立たしく思った。
 「おまえに関係ないだろ!」
 乱暴な口調にショックを受けたのか、その子の顔が一瞬蒼褪める。
 それが悔しかったのだろう。その子は、きっと僕を睨みつけるとヒステリックに声を荒げた。
 「何よ!どうせあの人なんてすぐ死んじゃうのに!」
 …それは、僕にとってとてつもなく衝撃的な一言だった。
 信じたくないという気持ちとまさかという想いが頭の中でせめぎ合う。
 僕は、居ても立ってもいられず、彼女に真偽を問い質す為に踵を返した。
 その場に立ち竦んだ女の子が泣きそうな顔をしていたような気がしたけど、関係なかった。



 「どうしたの、そんなに慌てて」
 息せき切って現れた僕に、彼女はいつもと同じ笑顔でそう尋ねる。
 だけど僕は、彼女に答える事が出来なかった。
 「死んだりしないよね?」なんて彼女本人に訊ける筈がない。
 代わりに口をついて出たのは、何の脈絡もないこんな言葉だった。
 「元気になったら、学校の裏山に行こう」
 約束が欲しかった。いつか病に克って、一緒に何処へだって行けるようになるのだと言って欲しかった。
 それがどんなに残酷な願いかなんて気づかないほどに、その時の僕は真剣だった。
 「春になると、山一面桜色になるんだ。夏には鮎が釣れるし、蛍も見られる。紅葉…はもうすぐだけど、冬は木の枝に積もった雪が白い花みたいで凄く綺麗なんだ」
 「素敵ね」
 うっとりと幸せそうに微笑んだ彼女は、けれど、けして頷いてはくれなかった。



 その日の帰り際、ふと彼女が僕の名前を呼んだ。
 「何?」
 振り返った僕に、不思議な笑みを浮かべてこう告げる。
 「私を好きになってはダメよ」



 それが、彼女の最期の笑顔だった。

*・*・*・*・*・*・*


 葬式からの帰り道、川沿いの土手に秋の名残の女郎花が風に吹かれて寂しく咲いているのを見つけた。
 初めて出逢った日に彼女が抱いていた花。彼女の好きだった黄色い花。
 不意に、彼女の最後の言葉が脳裏に蘇る。
 「私を好きになってはダメよ」
 きっとあれは、自分の死期を悟った彼女の思いやりだったのだろう。
 ――そんな事、今更言われたって手遅れなのに。
 まるで彼女の命そのままに儚く風に揺られる女郎花を前に、僕は彼女の為に最初で最後の涙を落とした。



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