初めは――
ただ、
殺したいだけだった……
降りしきる雨の中、一人の男が夜のロサンゼルスのメインストリートを、全力疾走していた。
彼の名はデビット・アレン・グリフィン。ここ最近、ロスの街で連続殺人事件を起こし、市民を恐怖に陥れている人物だった。
その彼の後ろから、FBIを含む数人の警官が追い駆けて来ており、更に遙か後方では、パトカーがけたたましくサイレンを鳴らしていた。
かなり追い詰められている状況にも拘らず、彼は人の波を掻き分けながら、余裕の笑みを浮かべていた。
ロスの事なら何でも知っている。
ハリウッドスターの店や高級レストランの立ち並ぶ、表の華やかな顔とは裏腹に、一本奥の道へ入れば、そこは別社会が広がっている事(大都市特有の顔だ)。その裏小路を抜ける道。警官は人込みの中では、絶対に発砲して来ない事。そして、必ずしも市民全員が警察に協力的であるとは限らない、と云う事も。
グリフィンは突如、向きを変え、裏小路へと入って行った。
そして、取り壊しの決まっている、誰も居ない雑居ビルに裏口から入り、中の暗闇の一つに身を隠す。
ドカッと腰を降ろして、一息付く。大きく深呼吸を繰り返し、息を整える。
全ては計算通りだ。頃合を見計らって裏小路へと入る。
特にこんな雨の日は、人々の色とりどりの傘が、市民からも警察の目からも、巧く死角となってくれる。
それにヤツ等は皆、俺の顔を知らないのだから…。
グリフィンは影の中から、慎重に外の様子を伺った。
スリルを感じるのはこんな時だ。
見付けて欲しい。本当は、そう願っている。
だが、俺という人間をを理解しない限り、絶対に見つける事は出来はしない。
追い駆けて来ていた警官達は、案の定、彼の潜む闇の前を素通りして行く。
安堵と諦めの入り交じった溜め息を吐いて、立ち上がろうとした時、一人の男がこのビルの中を覗いているのに気が付いた。
慌てて息を潜め、身を小さくするが、荒い息だけはどうする事も出来ない。
男はとうに割られてしまって、ガラスの入っていない窓枠に手を付き、ビルの中をぐるりと見渡している。
目が合った、と思った。
中の物は殆ど運び出されてしまって、ガランとした元オフィスでは、激しく降る雨の音がやたらと大きく聞こえる。
その反響音が、激しく繰り返されるグリフィンの呼吸音をかき消してくれた。
だが、向こうから、こちらは見えなかったらしい。
一通り中を見渡したところで、同僚に話し掛けられた男は、名残り惜し気にもう一度、ビルを見やるとそこから去って行った。
グリフィンは半ば廃墟と化したそのビルから、メインストリートへ出る。
純粋に嬉しかった。
『彼』なら見付けてくれるかもしれない。
今まで犯して来た犯行の中で、ここまで追い詰められたのは初めてだった。
長い黒髪を伝って、顔に流れ落ちる雨を振り払おうともせず、男の向かった方をしばらく見つめる。そして口の端を上げて、妖艶に笑うと、街の人込みの中へと姿を消した。
昨夜の捕物劇の失敗のお陰で、ジョエル・キャンベルは今日も一睡も出来なかった。
被害者はピアノ線の様なワイヤーで、首を掻き切られていた為、キャンベルが手掛けている一連の殺人事件と、同一犯である事はほぼ間違いない。
相手は賢く、狡猾である。
狙うのはいつも女性。多分、抵抗されても腕力で勝てるからだろう。
しかも、必ず一人暮らしをしており、知り合いの少ない孤独な女性ばかりを狙う。こういう人物は、身元の確認が大幅に遅れるのだ。
勿論、被害者と犯人・過去の被害者との接点ない。決まった法則らしきものも無く、快楽殺人者の代表みたいなものだ。そうでなくとも、このロサンゼルスでは何秒に一人という間隔で人が殺されているのだ。
ヤツの犯行と思しき事件を調べていて判った事だが、ターゲットを定めると、最低でも数週間かけて、身辺調査(?)をするらしかった。
今回の被害者も例外ではなかった。
まだ先月、引っ越して来たばかりで、知人友人が少ない。
今回の場合、彼女の身元は、アパートメントの大家によって、既に判明している(これはかなりラッキーな事だ)。
明日には両親が到着し、変わり果てた娘の姿と悲しみの対面するのだ。その様子を、キャンベルはもう数え切れない程見ている。
キャンベルは目の前に横たわる、被害者の遺体に向かって、静かに十字を切った。
安らかに眠ってくれる様に。そして、犯人を必ず捕まえてみせる、と誓約する様に……。
キャンベルは遺体安置室を出ると、トイレに立ち寄り、睡眠不足で朦朧とする頭をスッキリさせた。
これから再び現場検証に向かわねばならなかった。
例え、手掛かりになる様なものは何一つ残されてはいない、と判っていたとしても。
日も高くなった頃、ようやくグリフィンは目を覚ました。
昨夜は気分が高揚して、なかなか眠れなかったのだ。
こんな事は、初めて殺人を犯した時以来だった。
殺される直前のターゲットの懇願する目、肉を掻き切る時の感触。それが忘れられなくて、犯行を繰り返すのだ。
だが、昨夜は違った。
あのギリギリまで追い詰められたスリル感、歓喜。そして、腹の底から沸き上がる、何とも言えない興奮。
今思い出しても、自然に笑みが漏れて来る。
こんな事は初めてだった。
顔を洗い、洗い晒らしの固くなったタオルで拭く。そして、端の欠けた鏡に映る自分の顔を見つめ、妖しく笑った。
彼は部屋の隅に置かれたゲージから、先日、街の子供に預けられた子犬を取り出す。
殆ど物の入っていない冷蔵庫からミルクを取り出し、それを器に移し、子犬に与えた。
子犬はその小さな体を踊らせて喜びを表し、脇目も振らずミルクを飲み干して行く。
その様子を横目で見ながら、グリフィンもパックに残っているミルクを、そのまま口の中に流し込んだ。
一気に飲み干し、空になったパックを放り投げ、それが巧い具合にごみ箱に入ったのを確認すると、満足気に笑った。
『彼』は今頃、現場検証に出掛けているはずだ。
幸いにも自分は、今日は休診日である。
今日は『彼』にしよう。
今日は『彼』に逢いに行くとしよう。
グリフィンは身仕度を整えると、子犬を片手の掌で、ひょいと掴み上げアパートメントを出た。
昨夜の犯行現場近くの公園のベンチで、グリフィンは途中のファーストフード店で買ったハンバーガーを食べていた。
公園内には平日の昼間だというのに、自分と同じ様に、犬を連れた人々が数多くいる。
連れて来た子犬は、たまたま前を通り掛かったダルメシアンと、目の前で戯れていた。
体格が全く違う為、遊ばれる一方の子犬は、昨夜の雨で出来た水溜まりの中で転がりまくり、すっかり泥塗れになっていた。
ハンバーガーを食べながら公園内を見渡す。市民に混じって、制服・私服の警官が紛れているのが容易に判る。
その中に『彼』はいない。
だが、それで良いのだ。
『彼』を見つけるのではない。『彼』に見付けて貰わねば、意味がないのだから。
昨夜の事件の聞き込みをしているのだろう。制服の警官一人が、グリフィンに近付いて来た。まだ若い男だ。
「昨夜、この近辺で殺人事件が発生しました。念の為、ちょっとよろしいですか?」
「あぁ…」
ハンバーガーの最後の一口を、コーヒーで胃の中へ流し込んだ。
警官はもう、何十回と繰り返して来たであろう質問を、また繰り返して来た。
「ここへは良く?」
「仕事が休みの、こんな天気の良い日はね」
ハンバーガーの包み紙を丸め、紙袋に放り込んだ。
「お仕事は何を?」
「獣医ですよ。あれを――」
と、言って子犬を指す。
「預かったものでね、散歩です」
しかし警官は、ダルメシアンの方と勘違いしているようだ。
「成程」と言った様に、頷いた。
「昨夜はどこに?――あぁ、気になさらないで下さい。皆さんにお聞きしている事ですので」
「医院で、預かっている動物の世話を…」
警官が預かっている犬を、勘違いしてくれたのは好都合だった。
お陰で金持ちの飼い主も預ける、腕の良い獣医だという事になった。
実際のところ、グリフィンの獣医医院は流行っているとは、とても言える状態ではない。だがそれは、彼自身が意図しているものであって、決して腕は悪くない。
グリフィンは夜の顔とは、似ても似付かない程の、明るい笑顔を作った。だが、目は笑っていない。
「では、昨夜何か変わった事は?」
グリフィンは少し考えるふりをする。紙コップのコーヒーを一口飲んだ。
「……。いえ、特に何も。第一、ここから車で三十分かかる所ですからね、何もありませんでしたよ」
グリフィンはニコッと笑った。
「そうですか、ご協力ありがとうございます」
若い警官は、礼を述べると去って行く。
その後姿を見送りながら、残忍な笑みを浮かべた。
洞察力が足りないな…、と思った。
やがて、ダルメシアンは飼い主の女性に連れられて、行ってしまった。
明るく、幸せそうな彼女は、獲物とはならない。足元だけとはいえ、泥だらけの愛犬に向かって、呆れた様に文句を言っている。
グリフィンは泥塗れの子犬を、服が汚れない様、抱え上げた。
そのままベンチへ戻り、その上に置いた残りのコーヒーを飲み干し、食べ終えたハンバーガーの袋と共にゴミ箱へ入れた。
子犬をこのままにはしておけないので、水道を探す。
程無くして見つけた、水飲み場の水道で、子犬を洗う。子犬は暴れる事もなく、却って気持ち良さそうだ。
「よし、いい子だ。終わったぞ」
子犬は身体を大きく震わせて、水滴を飛ばし、歩き始めた主人の後を付いて行く。
ゆっくりと歩くグリフィンの前から、二人の男が歩いて来ていた。
スーツにコートを羽織った姿は、明らかに警察関係者だ。
「こう手掛かりが無いと、どこから手を付けて行って良いのか、サッパリ判らんな、ジョエル。――お、子犬だ。可愛いなぁ」
グリフィンは、そのままの調子で歩き続ける。
二人の捜査官は、彼の連れている子犬に目を向けている。
「お前、犬好きだったのか?」
ジョエルと呼ばれた男が、聞き返す。
そしてすれ違った瞬間。
――彼だ!!
『ジョエル』と呼ばれた男。
昨夜、雑居ビルの闇の中から見た、そして唯一ビルを覗き込んだ男に間違いない!
グリフィンは横目で『彼』を盗み見る。
「酷いなぁ、お前と組んで何年になる? だけどさ――」
二人の会話は次第に聴き取れなくなって行った。
「『ジョエル』か…」
グリフィンは、まだ毛が生乾きの犬を拾い上げて、両手で抱え、そう呟いた。
さも愛おし気に、子犬の身体を撫でながら…
■ ■ ■ ■ ■ ■
本当は、ボツのつもりでしたが、折角会社の行き帰りの電車の中で携帯に打ち込んだし、
アホな事して、前半全て消してしまったものを打ち込み直したので、勿体無かったので、載せる事にしました。