2003年2月号
ユーボートの鉄板
講師 尾上生徒

今日の講師は、三菱重工の最後の横浜造船所の進水責任者を務めた当時
の造船工作部長の尾上生徒である。
偶然であるが、四水会のメンバー僅か20−30名位の中で今日の出席者15
名、そのうち中学の同級生、大学の同級生、仕事関係の知り合い、計3名もの
人が講師と関係があるということは世の中広くて狭いものと改めて感ずる次第
である。
新年の山田講師の素晴らしい話の後、これも戦争に関係のある軍艦の話で
あるが、溶接、リベットといっても関係ない人にはピンと来ない話であろうが、私
は数年船乗りとして実際に船に乗り、ドックにも何回も入り、リベットの緩みをハ
ンマーで叩いた経験があるので身につまされてよくわかるが、今の船はほとん
どが溶接であり、それに推移するのにどれほど苦労があったか、当事者以外は
わからないが世の中とはそういうものである。
私の下手な文章より、講師がわざわざ書いてくれた素晴らしい原稿をそのま
まここに記載するので、講話を聞いた四水会諸兄もあらためて読み直してもら
いたい。
この原稿はそれほど素晴らしいものであると絶賛して記載させてもらう。
平成15年2月26日
Uボートの鉄板{四水会講話} イ103 尾上 久浩
一ドイツ潜水艦 Uポートの船殻に使用された高張力鋼の品質顕彰と鋼材・溶
接面からみた日、米およぴ独海軍艦艇の性能と建造技術力の比較一
1.はじめに
ドイツの潜水艦Uボートは、第2次世界大戦中大西洋において連合国の通商
破壊作戦に活躍した様子が幾つかの映画にもなったので戦後でもUボートの名
前を知る人は多い。
この潜水艦の耐圧殻に使用された高張力鋼St-52〈Stahl52.英語のSteel52.
引張り強さ52Kg/o平方の高強度鋼で溶接の使用に耐える溶接性鋼)とその
溶接こそ世界の造船技術史上最優秀の開発として世に顕彰すべしというのが
小生の主張だ、溶接には溶接に適したした特化鋼材が必要であるとする理論
は現在溶接技術の基本だが.戦前は日、米にこの知臓が乏しかった.しかしドイ
ツだけは違っていた。溶接の実用化が始まったばかりの1930年頃、海のものと
も山のものとも分からぬ溶接技術の幼稚な時期だったが、独は世界初の溶接
性鋼を軍用に規格化をし製品化した。これがこのSt52鋼であったが、これを目
的であった潜水艦Uボートに適用して見事な高性能溶接潜水艦を造りあげた。
この驚くべき先見性と製品化に至る実行力には全く感服する。しかしこれまで
の海軍・造船関係の資料にこれに関するす記述が見られず、何故か無視に近
い扱いを受けている。 鋼材という地味で専門的過ぎる分野のせいか造船屋の
関心が薄くと価値感が低かったせいか、または戦後米一辺倒の時代で敗戦国
独に闘心がなかったせいなのかはよく分らぬところだが恐らくこれら全てが要因
だろう。
小生はこれを世に蹟彰すべしという理由からかなり以前からこの鋼材と溶接
開発の歴史に注目していたが実証資料が少なくて困っていた。ところが最近よ
うやくこの関連のネタ
を県立川崎図書館にあった呉海軍工廠製鋼部史料で見付けた。
この史料によると1941年海軍は潜水艦用st52鋼の調査とそのモデルの試作
研究開始を発令し、1944年にようやく製品の試作に成功したことが分った。
溶接には特化鋼が必要という認識がドィツ海軍に遅れること10年だ。ちなみ
に米、英側海軍でも独よりもこの認識が遅れ、78年後CORTEN鋼を、また12、3
年後VANITY型溶接性高張力鋼を開発し艦艇に適用した。戦後溶接採用時期
とか溶接採用率で海軍の溶接技術力の比較をして来たが、小生はむしろ溶接
性鋼材への着眼時期で判断すべきだとする新説を造船屋に訴えたい。
海軍工廠の造船と冶金専門屋4人で編成されたこのプロジェクトは当初米、英
および独の各種高張力鋼をモデル試作し比較したが、結論として独のSt52鋼
が最高であることを
導いた。資源が入手しやすいことも選択の理由であった。 この試作鋼材は
1943年Uボートで来日していた独の最高権威者Dr,Schumidtから高い評価を受
けかつか彼の指導も得て完成させたた。
終戦前小型潜水艦にはこの鋼材を適用はしたものの実戦での参加はなく、
本鋼材の本格生産を目指したが、1944年八幡製鉄所が空襲で壊滅し果たせな
かった。
かくて海軍技術関係者の夢は破れて終戦を迎えた。しかし海軍技術者の夢と
執念は戦後自衛艦建造で実った。戦後、防衛庁の自衛艦にはこの独型St52型
が選ばれたのだ。
海軍技衛者の夢が戦後ようやく花咲いたロマンのある話だ。プロジェクトXの
対象になるだろう。
小生は入社当時著名な旧海軍技術者が顧問として参加した自衛艦の鋼材と
溶接関係の委員会に出席し、すこしは当時の様子を知っていたが、Uボート用
鋼St52鋼がまさかここに生きていることはつゆ知らず、またこんな経緯は噂にも
上がらなかったので高張力鋼は日本独自の開発だと思っていた、恐らく戦後の
造船屋も皆そのような感覚だろう。
この種の高張力鋼は現在JIS化された最もポピュラな溶接構造用鋼材で、通
称50キロハイテンと呼ばれ船舶の外橋梁、建築鉄骨、タンクなどにその適用範
囲が広がり、今や
日本発の世界に誇るべき品質の鋼種の1つとみなすようになった。
さて海軍艦船に関する書籍は今でも掃いて捨てるほど多いが、定刻海軍艦艇
について鋼材と溶接という切口で建造技術を分析したものはまず見られない.当
時どのような鋼材を
使用し、溶接をどれぼど多くかつ健全に採用したかによってその国の海軍の方
針や技術レベルがわかる。小生はこの切口で、日、米及び独海軍の艦艇の比
較を試みた。
他に例をみないものと自画自讃している。この談話ではあまり専門的になり過
ぎず、また海軍の身贔屓の感情に流れぬよう心がける積もりだ。海軍の先輩へ
の非難にとれるような表現が間々あるかもしれないが、小生の本意はそうでは
ない。
本談話のストリ一はおおよそ次のようである。
(1) 高性能で強力な武装の艦が勝利することを日本海海戦が世界に証明し
た。
(2)これ以降先進諸国の果てしなき新鋭艦艇建造競争が始まった。
(3)列強は海軍軍縮条約を結び、艦艇建造競争にブレーキを掛けた。
(4)元気な日、米は太平洋を挟んで対立、艦艇の量的制限下質的向上競争に
国運を賭した。
(5)質向上には艦艇の軽量化が必要で高張力鋼とその溶接採用が必須の条
件であることから各国は溶接の研究と実用化に血眼になった。
(6)ドイツでのUボート用鋼材と溶接は橋梁に試用されたが、崩壊事故を起こし
た。しかし彼等はこれに屈せず初心を貫いて改善し、最終目的のUボート適用
で大成功。
(7)米では戦時中全溶接の戦標船約5000隻のうち10%が溶接に絡む大事故
(脆性破壊)を起したが、溶接から撤退せず終戦まで建造を続け勝利に寄与し
た。
(8)日本海軍は艦艇の2大不祥事故から安全で丈夫な艦に改造し、溶接も大
幅に滅らしてリベット継手にもどした。このため海軍の特徴だった艦艇の軽快な
運動性が喪失し、かっ漏水に弱いハンデも背負った艦艇で不幸にも戦った。
(9)このことからわかることだが、リーダーシップのなさ、グループ内での専門家
の生かし方の弱さが海軍にあったようだ。今なおこの欠点が政府や企業に残る
ようだ。
(10)溶接には溶接特化鋼は必須と判断してこの鋼を生産しUボートに適用した
ドイツの技術の先見性と実用化に
最高の敬意を表しこれを顕彰したい
2.艦艇軽量化の世界的競争
世界の海軍が何故艦艇の船体に強い鋼を使用し、その接合を従来のリベット
から溶接に替えるのに血眼になったか。
(1921〜1945年)
世界の海軍国の本格的な溶接の採用は1930年頃から始まり1935-1940年間
のわずか数年間の熾烈な溶接採用競争の結果、技術は平常の20年分の進歩
を遂げたといわれる。
艦艇の性能アップのために最も有劾な船体軽量化は、優れた設計と高張力
鋼および溶接の全面採用で初めて可能となる。
この背景となった歴史を順に次にまとめた。
(1)主力艦の兵装の優位が勝利を導くことを日本海海戦で東郷艦隊が世界に
実証した.世界の海軍は直ちにこれ
に反応した。(1921-1945)
(2)すなわち列強は艦艇の増量と高性能化にむけて果てしなきな競争を始め
た。(ドレッジャーノート型さらに超ド級戦艦、陸奥など高性能戦艦が出現し世界
の脅威となる)
(3)艦艇建造競争による国防費のうなぎのほりの高騰に手を焼いた列強は
1921年ワシントン海軍軍縮会議を結び軍拡に歯止め掛ける。〔主力艦が対象で
米5:英5:日3:佛1.75:伊1,75とした〕この結果各国は他の補助艦の増強で規
制を逃げ、またや艦艇増強の競争が激化した。
(4)1930年ロンドン海軍軍縮で、枠外艦とか補助艦まで網掛けを拡大し、艦艇
総量と各艦艇規模を制限し歯止めを掛けた。
(5)この両軍縮条約の結畢艦艇の総量、各艦艇の規摸および兵装上限規制を
受けた列強は量の競争から個々の艦艇の質的向上戦争に向った。質的向上
のためには高張力鋼の使用が必須で、かつ従来のリベット継手を溶接に切替
えることが必須で、これらにより艦艇は軽量化しこの分を高性能化に回せた。
(溶接の採用により船体重量が約10%軽滅)特にわが海軍は対米・英劣性を
質的向上で補うことが戦力バランス上必須だった。
海軍はかねてから優秀な設計屋を育成してきた、そして彼等は世界が信じが
たい程優秀な高性能艦艇を多数建造して世界をあっと驚かせた.例えぱ平賀
譲の設計になる条約上限の1万トン重巡「妙高」は最傑作艦の一例だ。同時に
各艦艇の溶接の採用率は増え、巡洋 艦とか駆逐艦は大部分の継手が溶接
になった。
(6)溶接採用の結果船体のブロック建造と量産化も可能となり、短工期で軽量
の商船建造が可能となった。
特に米は1940-1945年の間、全溶接の採用で工期が極端に短縮し戦標船の
量産化を実現したことは有名だ。米はこれで軍需品の補給力を大輻アップして
戦局を有利に展開できた。溶接は生産性向上にも夫きく貢献できた。
3.各國海軍の船体と溶接関連の事故
艦艇の量産化および溶接化の過程で秘められた事故があったが.各国これを
どう対処しまた乗り切ったのかを比較して見よう。
3-1 日本
(1) 水雷艇、 友鶴の転覆事故
排水量600トンの水雷艇に駆逐艦並の大砲と魚雷発射管砲を装備しロンドン
集約制限で劣勢となった帝圃海軍駆逐艦隊を600トン以下の水雷艇群で補強
することとした。
水雷艇友鶴はその内の一隻だ。(図・2)600トン以下の艦艇は条約での制限
を受けなかったもので駆逐鑑不足をこのタイプの水雷艇で力バーする計画だ。
海軍造鑑技術の2大不祥事件の1つといわれる水雷艇友鶴の転覆事故が
1934年に起きた.友鶴は悪天候の中の訓練で旋回で横転・転覆死者多数を出
した。この新聞記事は社会的大問題となった。事故の原囲は本艇が過度の重
武装のため高重心で復原力不足だったことだ。造船設計の基本中の基本スタ
ビリテイに欠陥があった。用兵の要求で無理に無理した設計が事故をもたらし
たのだろうか、これでそれまで世界を唸らせた海軍の艦艇設計陣の信頼は丸
潰れとなった。
(2) 第四艦隊事件
悪いことは重なるものだ。この翌1935年の9月26日三陸沖の海軍大演習で航
行中の第四艦隊が猛烈な低気圧に遭遇し、三角波を伴う激しい波浪によって
全溶接の日本の誇る特型一等駆逐艦、初雪と夕霧が艦橋付近から艦首船体
をもぎ取られる事故を起こした(図3)。
その他にも10隻以上の艦艇が亀裂や皺で損傷。死者、行方不明54人の大惨
事となった。これがあいついだ海軍2大不祥準件の2つ目だ.このあまりにも大き
い事故故.海軍は本件を一般国民に秘した。本件は一般の造船屋でも終戦後
初めて知ることとなった。
この事故の原因は..極限までの軽量化を目指すあまり縦強度が不足したため
だ。これも設計のいろはのいの字の造船設計の基本的欠陥だ。
縦強度設計の世界的基準は欧州の設計基準である波高/波長比に1/20の
値が一般に採用されてきた。ところが日本近海ではとぎとして欧州と波浪が異
なり、欧州にない特異な
1/10の異常波も観測されていたのだ。ちなみに事故当日この値1/13であっ
た。しかも波長がて1OOmで、これが駆逐艦の長さにぼぽ等しく、Sagging状態
で最も応力の厳しい条件
計画の約2倍の応力となる。その上スランミングといって波によって船によって
船体の底が叩き付けられる動荷重が加わったからたまらない。かねてから戦
艦、巡洋艦のような大型艦では1/20でよいが、駆逐艦では危険で見直すべしと
いう意見が一部にあつたようだが目をつぶったようだ。同情すべき点もある。
当時の新鋭艦艇には溶接多用艦艇が多く、事故にあった艦がたまたま殆ど
全溶接艦艇だったため溶接にも事故原因の嫌疑がかかり、疑わしきは避ける
べしとして、この事件後艦
艇の溶接採用は大憎後退すべしという指令が翌年艦政本部から出された。羹
に懲りて膾を吹くの類かも知れぬ.
(小生見解は後述)
(3)艦艇改造と溶接制限時代
海軍はこの2大不祥事件のあと全艦艇の強度を見直し、低重心化と船体縦強
度補強の全面改造方針を出し工廠と造船会社は2、3年かけ、この改造工事に
明け暮れた。
軽快な艦艇建造責任者天才藤本喜久雄少将の失脚、藤本に反目する神様
平賀 譲中将の復帰で首をすげかえた。平賀はこの1936年の方針で帝國海軍
艦艇にそれまでの天才藤本の造った軽快な高性能艦艇はなくなり、低重心化
され船体補強されて台風には強いが重く運動性の悪い平凡で鈍重な艦艇に変
貌した。
ロンドンに訪れて市民から飢えたる狼と評されたような精悍な重巡は残念だ
が開戦当時ないことを知つていた国民は殆どいなかった。(我々の憧れた帝国
海軍艦艇のイメージは
昭和11年前のものである)
艦政本部は1936年1月、第四艦隊事故調査結果を総括してそれまでの全溶
接船体を一挙に大幅にリベット接合に戻す指令を出した。これには溶接嫌いな
平賀の顔が見え隠れする。これにより船体の主要構造継手には溶接が禁止さ
れた。
これは先進世界の10年前のレベルに戻ったことになる。 これら船体構造の強
化改造と溶接の縮減で艦艇の重量はさらに重くなった。
このまま大東亜戦争に入ったので帝国海軍艦艇の運動性は敵米艦艇より劣
ったと推定できる。またリベット継手であった我が艦艇の最大の弱点は至近弾
のショックでリベットが
緩みみ容易に漏水することであった。これは米艦艇に比し致命的な弱点だ。機
雷、雷撃を受けるリベット潜水艦は特に不味い。この弱点による沈没が戦記に
あまり記されていないの
は分折する余裕までなかったせいだろう。
さて多少専門的になって恐輻だが、一般にリベット継手の船は万一亀裂が外
板とか甲板に伸展してもリベット継手で止まる性質があり、他方溶接継手は亀
製が止まず伝播する傾向がある。この 溶接構造の欠点をカパーするのがねば
い鋼(靭性のよい鋼、溶接性のよい鋼)の使用である。
このように考えると平賀の勘、溶接は危ないからリベットに戻した判断は溶接
性の劣る鋼材使用の帝国海軍艦艇にとって技術的には間達いとはいえない。
問題は構造の安全性向上は戦闘力かという海軍用兵側の判断が正しいかどう
かだ.日本造船学会の百年史などによるとリベットに戻した平賀は正しかったと
いう造船屋もいる。何故なら日本の艦艇に脆性破壊がなかったのはリベット艦
だったからだという。
台風に対し安全だが鈍重なのがいいか軽快で重武装だが耐波浪性にやや
難があるのがいいかの判断の間題だ。用兵の立場は後者を優先するべきだろ
う。要は海戦で勝つのが目的だから、問題となった駆逐艦を改造する程度でよ
く、台風によって壊れる艦艇がどれほどの確率かだ。
溶接からの全面撤退指令は如何なものか。
羹に懲りた過剰反応と小生は思う。
さらに辛口の評価だが、造船の神様まかせにして本来の軽快艦艇を鈍重艦
艇に改造させたような愚から、当時帝囲海軍のトップの側近に有能な技術スタ
ッフがおらず総合的判断力が欠けたか、下層の技術屋の声を聞く耳を持たない
トップの独裁かいずれにして総合判断したリーダーシップがなかったのは誠に
残念に思う。
日本では、欧米のように専門家を集めた対等な立場のプロジェクトチ一ムで問
題解決に導くのが弱いのは昔も今も変わりがないように思う.(士、農、工、商の
上下関係の体質がプロジェクトチームの邪魔)
3-2 アメリカ
アメリカは当初第二次世界大戦の連合国側だったが当初は参戦せず、欧州
に大量の戦略物資を海上輸送することとなり。その後の参戦で東南アジアヘ輸
送が増え続けたためアメリカは1940年建造開始の全溶接のリバティ型貨物
船、T-2タンカーなどの戦時標準船をさらに増産し続けた。これらは自動車工場
のような流れ作業の量産方式で短工期で生産するため新旧22造船所で対応し
た。
これら船標船は終戦までに累計約5,000隻という天文学的な数量が建造され
た。(ルーズベルトは太平洋をこの船でアメリカがらJAPまて橋架けよと叱咤、
激励したのは有名)しかしこの素人集団が造った粗製乱造船は内約10%の約
500隻が戦争によらず船体構造に脆性破壊を発生して壊れた。
中にはには冬季岸壁係留中夜明方にいきなり大音響とともに船体が二つに
折れたものがあった。(図・4)内部応力による低温脆性破壊だったが、当時米と
いえどもこの脆性破壊の知識が皆無だった。(脆性破壊というのは鋼が低温で
脆くなり亀裂は1,500〜2,000m/sという高速で伝播し、瞬時に轟音とともに崩壊
にいたり恐ろしい)
米の事故調査委員会ではこの破壊の事故原因に動員された不熟練溶接工の
低技能、高い残留応力の内在などを挙げた。戦後3、4年経ってから脆性破壊
の研究が進みようやく鋼材の溶接性(溶接割れ感受性と鋼材のねぱさ、靱性)
が不良を主原因に挙げる始末だった。(リベット用の溶接性の悪い鋼材をそのま
ま使用したのが原因)
しかしアメリカの事故調査委員会はこれだけの大事故を起こしながらこの事
故の技術者の責任を不問とし、この船が戦争を勝利こ導く貢献をした実績から
この戦標船建造のた大プロジェクトは大成功と賞賛した報告がある。日本とは
技術的責任、評価および対策がかなりに違うことに注目したい。
3-3 ドイツ
ドイツ軍規格の溶接性高張力St52鋼材(引張強度52kg/mu、一般の構造用
鋼材の42Kg/mm2に比べ約1.5倍の強度材)の歴史は古く1930年頃に規格化
が始った。
ドイツが高強度材を開発した狙いは省資源だ溶接の比較
(1)溶接性軟鋼という報告がある。省資源小国の自認からきたもので高い強度
の鋼を使えば鋼材使用量が減るからだ。
この鋼材は高強度の上驚くべきことに開発当初から溶接割れ感受性の少な
い溶接用の鋼材を狙った特殊のものだ。
溶接割れは溶接棒と溶接工の技量で防ぐべしとし鋼材に頓着しないのが当
時の世界の常識だったにもかかわらず、このような早期にこの画期的着眼をし
生産に実現した偉業については先に述べた。
溶接割れの危険性を下げるには低C〔炭素〕量とし、このため強度不足になっ
た分の補償には有効な合金元素を投入することが溶接工学の基本だが、この
独がこのための元素SiとかCuおよびMnという、地球上で得やすくかつ安価なも
のを選んだんだことこも注目したい。SiとMnは脱酸元素のねばさを改善する効
果もあることは今では常識だが当時はなかったようだ。(脆性破壊防止に有効
な元素)
アメリカとの比較をしてみよう。米ではこれよりかなり後だが1942、3年頃に、
艦艇用溶接性高張力鋼VANITY(Ni,V系で高価な溶接性高張力鋼材だが靱性
向上した溶接性鋼)を開発実用化した。金持ち国の開発だけのことはある。
高価な元素NiとかVを使用して溶接性を向上した。
50キロ級高張力鋼では独型・米型の両鋼材について溶接性を比較すれば両
者に優劣の差はないといえるが、安価な分だけ独が優位といえる。
鉄は国家なりと称した時代に造船屋がお上の如き鉄屋を動かしたことは信じ
難いことだ。しかも溶接のまだ幼稚な時代に反対派もあっただろうが、これを乗
越して将来を見て実用化を推進したのだ。多分造船、機械の製造者、製鉄業
者等がリーダの海軍に協力プロジェクトチームを結成した筈だ。優れたリ一ダシ
ップのもと総合的研究・開発が推進されたに違いない。プロジェクトによる総合
力発揮が下手な日本人に参考になる。
独の高張力鋼の強度の狙いが60キロというようなさらなる高強度材ではなく
ほどほどの強度て無理の少ない52キロを狙ったことはドイツ人らしく堅実で、憎
い限りだ。
安価なSi-Mn系鋼で靭性が期持できる上限強度が52キロということも既に知
っていたのか、または偶然の結果なのかは分らないが大したものだ。
彼等は、まずドイツ、ベルギ-など欧州の全溶接の橋梁に初期成分のSi-Cu系
St52鋼材を適用した。艦艇用のトライヤルだったのためではなかろうか。1936
〜1938年にかけ.これらの橋梁の幾つかに亀裂が入り、なかには大音響ととも
に3つに分折崩壊したトラス橋もあった。(図・5)全く予期せぬ大事故発生だった
が、彼等はこの事故でも溶接を諦めず、あくまで鋼材の改善と溶接の改善に向
って初志貫徹した。
その後鋼材と溶接棒の改良は進み、最終的には適度の成分量バランスのSi
-Mn系を最良鋼として選び、この鋼材を1935、6年頃以降艦艇に使用したらし
い。当然これが潜水艦Uボートにも採用された。
開戦前1941年当時の独駐在の海軍武官西島亮一は、艦政本部にSt52鋼材
の情報を伝え我が海軍でもこれを真似て開発すべきことを艦政本部に促した。
第四艦隊事件のあと我が海軍はリベット多用に逆戻りしたが`潜水艦だけは
さすがに堪らずリベットでは無理として海軍造艦溶接派の一部は上層部に嘆願
しこれが認められた。
1941年艦政本部の通牒によって呉工廠に溶接性高張力鋼開発プロジェクトを
立ち上げた。
(造船屋小岩健、寺尾貞一と冶金屋堀田秀次、堀川一男の4人のチーム。開発
の目的は居住区の緩和と生産性向上ということであった。呉海軍工廠製鋼部
史料集成による)
彼等は独、および米の艦艇用高張力鋼を試作してて比較研究した結果、独
のSt52を手本とすることになった。
日本海軍がやっとインド洋に出撃する約束に小躍りして喜んだヒットラーはお
礼にUボート2隻を日本に送る約束をした。ミッドウェイで大半の艦艇を喪失した
後だけに我が海軍はインド洋出撃を澁ったがUボートの欲しい海軍はインド洋
出撃を約した。
インド洋の連合国の補給が帝國海軍の攻撃で破壊され、これで独がアフリカ作
戦に勝利できるヒツトラーは読んだのだ。 かくて独占領下のフランス基地を発
した最初のUボート1隻が喜望峰を回り、1943年当時日木占領下であったマレ
ーシァのペナン島に到着した。(このU一511は同年8月呉に到着し日本艦籍に
組みこまれ呂号500、皐月一号なった。基準排水量1,137トンの中型潜水艦)こ
の艦にこ3人の独の造船・溶接の専門家が乗り込んでおり、ベナンから彼等は
空路来日した。
内一人は独における造船・溶接の最高権威者Schumidt博士だった。彼呉工
廠の帝国海軍の高張力鋼プロジェクトチームに対して技術アドバイスをした。
Sl-Mn系にAlを微量入れることを彼が呉の研究所でチームに推奨した報告が
ある。
現在の低温用鋼アルミキルド細粒鋼のはしりだ。見事な金属屋の勘(?)だろ
う。
しかしさすがの独も脆性破壊の知識に乏しく溶接時の割れ防止にのみ注目し
ていたようだ。しかしSchumidt博士の提言になる最新の改良案が割れ防止と
同時に脆性破壊肪止にも有効な成分であった。偶然詰果オーライか、研究者
の勘なのか知る由もない。
(ちなみに2隻目の寄贈Uボ-トは翌年日本に回航中大西洋で暗号解読で待ち
伏せた米駆逐艦によつて撃沈された)
Si-Mn系高張力鋼は戦時中には試作程度で終ったが、戦後防衛庁艦艇用高
脹力鋼として息を吹き返した。
4. 日、.来、独の海軍艦艇こ使用した鋼材とと
溶接にはリベットと違い特殊な(焼きが入り難く割れ難くかつ粘っこい材料)が
必要であるとする親在の考え方から溶接性鋼材の生産を意図した国は終戦ま
でどこもなかった。
戦前リベット時代の軟鋼は溶接性が悪く溶接船は何時脆性破壊で壊れてもお
かしくなかった。ただ米だけが戦標船で脆性破壊という不幸に遭遇した。
米の戦標船の事故の調査委員会の研究・調査は戦後まで続いた。その結論
米では当時事故の主原困を溶接技量未熟とか構造の応力集中とか高い残留
応力内在であるとして、この対策で事故はほぼ防げるとしていた。
1940年頃のABS(米船級協会)規則でようやく溶接船にキルド鋼(鋼中に酸素
が少なく脆性破壊を起こし難い鋼材)の使用を義務付けた。以後世界に各国船
級協会を通じてこのような溶接性軟鋼の使用が船舶に広がり、さらにこの種の
鋼材はJIS化され、SM400の溶接構造用圧延鋼材として、一般の橋梁、タン
ク、建築などの溶接構造造に適用・波及している。
(2)高張力鋼
英では1890年頃C(炭素)量0.25-0.35%の高張力鋼を艦船に使用したのが始
まりらしい。
1913,4年頃帝國海軍はこれを真似た炭素鋼のHT鋼(引張り強度54-60kg/
o を大艦用に、HT鋼(引張り強度59-68Kg/o を駆逐艦用に生産、適用し
た。これらは要素の考慮がないリベット専用の鋼材だ。Cが高くなると伸びと絞
りが劣るので、Mnを増加したC-Mn餌〔C、0.25%、Mn 1.5%〕、Duecol鋼(英国
David Colvill社製)、海軍ではこれを艦艇用として採用した。
1931年以降はHT,HHT鋼を国産のDS鋼に切替える方針で規格化したが、製
鋼技術が悪く歩留まり50%しかなく、戦時中は生産が抑制される始末だった記
録がある。
DS鋼といえどもリベット時代の鋼材で溶接にあまり適さない。日本の艦艇はこ
のようなHT.HHT鋼、DS鋼のような溶接性の劣る鋼材で全艦艇を溶接して建造
した。
恐ろしいような気がするが、不思議に脆性破壊事故の報告がない.この鋼材の
選択から見て独がダントツで、米が次ぎ、日本は米よりも劣る。(従来は一般に
溶接採用率で比較していたが小生はこれと異なる指標をここに示す)
戦後米のフリゲート艦を借用した警察予備隊が筆者の所属した造船所のドッ
クで亀裂発生、この鋼材を分析、調査したところ恐ろしく劣悪な鋼材だったこと
を記憶している。
しかも全溶接艦だ。高級なVANITY鋼などはまだ主力艦の一部にしか採用さ
れず中、小艦艇では使っていないのだろう。よくもこんな艦が太平洋を無事越し
てきたもんだし事故も聞かない。米も日本とも大差なしだろうか。
帝國海軍は第四艦隊事件以前の時代では溶接採用に積極的で世界に先駆
け多くの艦艇を溶接で造った。
1930年呉工廠で起工した敷設艦、八重山(排水量1380トン図・6)では60%溶
接化に挑戦、横須賀工廠はよこれに対抗意識を燃やし、1032年に遂に全溶接
の潜水母艦、大鯨(L:210m、排水量1万トン、図・7)を完成させた。藤本支援を
得た溶接派はこの艦に夢を託したが、この艦は溶接ひずみで大騒ぎとなり、何
とか完成に漕ぎつけたものの多くの問題を残した。工廠責任者は左遷され溶接
反対派から攻撃の的となった。
第四艦隊事件で溶接から大きく後退した帝國海軍は、神経の繊細な貧乏国
である。ゆとりもない。長年の技術輸入国で後進性のためだろう事故前も事故
後もしっかりした基礎研究がなく、したがって信念が弱い。これに対して独は基
礎研究と事故後の研究が十分で、溶接化方向の初心を貫いた。
一方米だが独のような溶接の基本研究は少ない。たとえ10%の船が壊れて
も戦争遂行に役たてば成功という成果第一主義国だ。また西部開拓精神か、
すべてに図太くかつ金持ちのゆとりもあり失敗にも鷹揚だ。
戦艦金剛以降が国産化であるが、機械とか要所、要所の部品が外国技術の
導入品で、外国技術依存体質のまま背伸びしたままついに遂に戦争に入って
しまったのが日本だから仕方がないのかも知れない.海軍は抜群な優秀技術を
育ててきたが後進性による基礎知識の優劣が要所、要所に露見した。 艦艇
にもそれがあつた。
特に潜水艦に至っては独と英のコピー艦から脱却できない技術水準だったこ
とを考えると一般艦艇の溶接技術が独,米と一応何とかコンパラブルだから海
軍の技術者はよく頑張ったものだというのが小生の正直な感想だ。
5.むすび
溶接割れ感受性が低くかつじん性のよい溶接性鋼材が現在の高張力鋼の技
術領域である。独が1930年という早期に溶接のためには特殊な鋼材が必須と
して実用化まで持って行った先見性と行動力は卓越したものだった。
この安価で資源豊富のSi-Mn系のUボート型を戦後防衛庁で艦艇建造に当っ
て推奨したのは級艦政本部にいた牧野 茂大佐らと福田 烈中将、呉工廠の
潜水艦高張力鋼開発プロジェクトにいた若手の掘川一男、寺尾貞夫氏らだ。
つまり海軍時代にやり残した仕事を戦後達成した。しかもこの材料は船舶だ
けでなく陸上の鋼構造一般に広がり.JIS溶接用構造用圧延鋼材規格品になっ
た。
技術は全て積上だ。戦後造船の溶接技術は日本が世界一だとうぬぼれ喧伝
するマスコミに真実を伝えたい気がするがもはやその必要もないか?。
改良は日本のお手のものだ.この鋼材を熱処理して世界独自の安価な調質
HT60鋼を日本製鋼が開発した。これは自衛隊の初期の潜水艦にも使用され、
のちに日本国内に広がった。
一方米では得意なNi、Mo、Crなどの低合金鋼の高張力鋼を伸展させ、遂に
1950年頃にU.S STEEL CO.は傑作鋼、80kg/o 強度のT-1鋼を1950に開
発・生産化した。
このタイプの日木製HT-80鋼は近年大阪の南港大橋をはじめ、さらに改良型
HT-80鋼が明石大橋にも採用されている。
最近のわが潜水艦用高張力鋼はこのT-1鋼の延長線上にありさらに高強度
鋼である。
なお現在潜水艦の工作ではわが國造船業は米に技術指導をする高度のポテ
ンシャルを持っている。
創造的開発より改良と実用化、工作面を得意とする日本の体質は変わるらな
いようだ。しかし3Kの製造業を避ける若者が多い日本ではこの特徴さえなくなり
そうだ。
筆者職歴
三菱重工(株)横浜造船所入社以来27年間造船工学部に勤務し溶接と船舶建造の技術
者、研究者、および管理者を務めた。昭和55年造船の構造不況により横浜造船書の造船部
門が解散となった当時は造船工作部長。横浜造船所最期進水責任者を務めた。(同所はこれ
を機に本牧と金沢地区に移転し、跡地はみなとみらい21に変貌した)この後本社技術部本部
転勤後退職し、巴コーポレーションにに転職、豊洲工場長として送電鉄塔製作に従事、巴技研
副社長を経て、現在同社特別顧問。(社)日本溶接協会テクニカルアドバイサー。総和37年溶
接関係の研究で工学博士の学位受ける。
尾上子関潜水艦講演船殻
捧身溶接極精研
一意専心五五年
不況造船残宿志
而来妙蹟足長傳
独船船殻一頭先
日米頼鋲貪惰眠
偏愧無為累月遷
高張力鋼断当然
大 意)
溶接と船舶建造の研究に、一生を捧げ、
過ごした一心不乱の五十五年間ではあった。
造船の構造不況により最後の進水責任者を務めたのだが、やはりUボートの
鋼板接合技術の素晴らしさが忘れられず、
溶接を主たるテーマとして様々な技術的貢献をしてきたが、1962年には工学博
士の学位を受けたり、尾上子の名前は永遠に忘れられぬ存在となった。
翻って、ドイツ潜水艦(Uボート)の船殻の溶接技術は日・米の技術とは格段に
進んでいた。
日・米の接合方法は相変わらずリベットに頼るほかなく、シュタール52の高強度
鋼技術にも遅れてしまった。
さして、酔生夢死に時間を遣り過ごしてしまったのを全く残念に思う。
子は「高張力鋼」を実現するしかないと断言するのである。
(語 意)
・・子 男子の尊称。学徳・地位のある人に用いる。また特に孔子、孟子を指
すことが多い。
船殻 船体を覆う鋼板。
精研 =精究。詳しく調べて明らかにする。
一意専心 一心不乱と同意。一所懸命。
宿志 前々からの志。かねての希望。宿心。宿意。
而来 それから。以来。
妙蹟 すぐれた事跡。
独潜 ドイツの潜水艦。
一頭先 一歩先んずる。
鋲 リベット。
貪惰眠 働かず無為に暮らす。なまけて眠っている状態。
累月遷 何ヶ月も月を重ねること。長い間ほおっておくこ と。
高張力鋼 張りのびる力の高い鋼鉄。張力とは物理学では、物体内に考えた
任意の面の両側の部分がこの面に垂直に引き合う力。
尾上子は潜水艦の船殻に関し講演する。
溶接に身を捧げ精研を極め
一意専心五五年
不況造船には宿志を残すも
而来の妙蹟 長に傳ふるに足る
独船の船殻は 一頭 先んじ
日・米は鋲を頼んで惰眠を貪る。
偏へに愧ず 無為に累月を遷るを
高張力鋼こそ 当然と断ずる

カラオケ大会
2月7日(土曜日)恒例のカラオケ大会が
「ひまわり」で開催。
審査委員長は新潟から白石生徒が教え子のプロ歌手を連れ
て登場、楽しい大会であった。
今回は金賞が森本生徒、銀賞が斉藤生徒、銅賞が木村生
徒。 常時優勝の津田生徒の名がないが、受賞者はそれなり
に感心させられる歌唱力である。
以下当日の写真集の一部を掲載する。
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