2000年11月号  

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側の海路三万キロ   ニューヨークの思い出 島崎生徒

 夜の海を見ていると、船がひたすら目的地に向かって走っているのに気が付く。
今日の講師「島崎繁隆生徒」は昭和31年(1956)春、社命によりニューヨーク勤務となり、飛行
機ではなく豪華客船といいたい所だが、日本郵船の貨物船でカリフォルニアに向かって船上の
人となっていた。
 どだい当時でも飛行機便が渡航者の一般的選択であったし、特に社用となると幾ら本人が
希望したとしても許されるものではなかった。よっぽど上司の虫の居所がよかったか、旅馴れ
た上司の計らいであったかもしれない。初めての渡米でもあるし、最初で最後の船旅になるか
も知れないし、アメリカで大いに仕事をして貰いたい政略もあったかもしれない。徐々に目的地
に着くほうが心の準備もできるといった配慮もあったものであろう。
 ともあれミッドウエーの南辺りで北回帰線を跨ぎ、最初の寄港地ホノルルに向かっての太平
洋上であった。暫し金持ちの上流階級になったような気分になる。(終戦後十年ちょとの頃であ
る)
 総航程は2週間丁度、生まれて初めて享受したたっぷりの時間を満喫していた。貨物船の食
事はコックがいいのか、ほかに楽しみがないからなのか、何しろ美味いと定評がある。グルメ
になったような気分、また毎日、船長、航海長、機関長と食卓を共にするが、美味い食事とマ
ージャンに明け暮れたことだろう。
 偶々飛んでくる鳥、鮫の大群、または虫(この近くに島でもあるのか)にも愛着を感じ、心が和
む。蒸し暑い夜など客室から甲板に出ると、涼しい夜風が心地よく、普段は忘れている亡父の
ことなど思い出し涙することもある。

 彼の厳父は海兵50期出身の大佐であった。海軍大学出の参謀としてアンダマン諸島第12
特別根拠地隊のあるポートブレアの副長兼先任参謀として、昭和19年4月、インド洋方面最
前線基地である海軍部隊に赴任した。横須賀海軍砲術学校の教官研究部員からの転任であ
った。
 アンダマン・ニコバル諸島といえば、インド洋の一部ベンガル湾海域のマラッカ海峡の北海上
にスマトラからビルマのヤンゴンの方に向けて連なる300以上の島嶼である。
 英国が管理している時代は、巨大な監獄が辺りを睥睨し、インド本国やビルマでの反英活動
家や凶悪犯人を連行投獄していた。住民は殆どが流刑囚人とその子孫家族で、道路工事や
ジャングルでの材木の伐採などの雑用があてがわれ、食料はビルマやインドから米や小麦な
どを運び込んで配給しており、ここでの農耕による生産活動などは皆無であった。
 太平洋戦争時には日本軍は英軍と戦いこの島嶼に進駐した。このような背景の中での島民
の統治、食料の供給は至難を極めたことは想像に難くない。英国統治時代は、何しろ労働は
酷だが何とか心配なく食えていたのであるから。
 チャーチルは声を大にしてアンダマン奪回を叫んだと聞く。占拠していた日本軍にして見れ
ば、英軍による海上封鎖と執拗な攻撃、スパイ・ゲリラの送りこみ、敵軍の来襲を避けての部
落民移動、食糧の供給(日本軍の食料も覚束ない中)、その内一部住民の餓死事故の発生、
どれをとっても何も分からない住民から見れば虐待と見えただろう。軍政方針としては一定の
自給自足の促進、日本語学校の創設、農耕指導など、日本軍側の親切心から出た配慮も虐
めとしか受け取られなかったであろう。
 やがて敗戦、英軍は人道的責任を問い、戦犯者の認定摘発、報復的裁判、それに原住民に
よる顔実験などにより被告96人を認定し、その内の43人がシンガポール チャンギー刑務所
にて刑死されたのである。
 当然、その中の筆頭として島崎大佐がおられたのである。最善を尽くしたと自負できる島民
に対する軍政のあり方、それも現地人にして見れば拉致・虐待となり、報復的裁判前後には言
語に絶する侮辱と憎悪の暴行なども繰り返されたと聞く。
 こうしてアンダマン・ニコバル諸島の戦後処理として一方的そして報復的裁判により刑死者は
無念の涙を飲んで憤死されたものと思う。本来試合が終われば英国流のノーサイド(ラグビー)
として紳士的判断を下しそうなものの英国軍の、思わぬ残虐なる仕打ちには憾み骨髄に徹す
るものがあったろう。

 横道に逸れてしまったが、暗いデッキの上で講師はどう思いを回らしたのであろう。いつ何処
に着くなんていうことはすっかり忘れて、時には船に乗っていることすら忘れてしまったことだろ
う。暗いデッキに立って波を見ていると、黙々と進んでいる大きな船体を感じ、一つの舟の中と
外では全く別の世界があるのに吃驚した。朝と昼は海を背景にした楽しみを、夜は海を忘れた
楽しみを味わったことだろう。
 ロスアンゼルスに着くと、またアメリカには別の楽しみが待っている。しかし、時は昭和31
年、1ドル360円はレートだが、一般にエクスチェンジは420円程のレートであるから、総べて
の物価は更に高いものに見える。日本を出る時の物価は、例えば精米kg77円($0.18)、鶏卵1
00円($0.24)、ビール125円($0.30)、理髪140円($0.33)、という具合であったのが途端に数倍
もはね上がる。
 当時の月給は300ドルだったが(日本で貰っていた給料は別に母の方に送金された)、充分
に余裕があった。然し貯めるよりは友を多く作るべきと考え、殆ど使っていた。
 物価が高いも安いも、何しろドルの持ち出し制限があったから、何とかして少しでも多くのド
ルを手に入れたいという気持ちも異常に強かったのではないだろうか。

 ロスアンゼルスに着いて、早速、サンフランシスコの近くのサンノゼにいる親戚を訪ねようと
電話をするのだがSan Joseという地名が交換手にさっぱり通じない。英語には相当自信もあっ
た島崎生徒であったので、可笑しいなと考え、スペルを云ったら「Oh!サンノゼ」と返って来
た。それもその筈、文字通り「サンジョウス」と云ったのだから通じる訳はない。この辺一帯は
昔メキシコの領土であったりして、地名などもスペイン語が多く使われているということを思い
出した。「j」は、スペイン語では「h」の発音になるのだから。飛んだお笑いであった。
 ロスアンジェルスで取引先とプロレスを見に行ったあと車が見付からない。「3日以内に出て
来る」と言われ、その通り発見はされたが、タイヤが全てない。日本で大枚をはたいたゴルフ 
セットも、オーバーコートも、トランクの中は空だった。
 1週間余り西海岸の取引先と商談後、生まれて初めてプロペラ機に乗ってシアトルに行き、父
の兄に会った(寝たきりで声も出せず、固い握手で別れたが、2ヶ月後 ニューヨークで死去の
報を受けた)。数日滞在後、雪のニューヨークに降り立った。
 当時、“Electronic”と“Electric”の違いを質問しても、口ごもるアメリカ人が殆どだった。
 毎日打つ電報は、「アーサー(A)、ベンジャミン(B)、チャーリー(C)、ディヴィッド(D)、エドワード
(E)、… 」と、全てアメリカ人の“ファーストネーム”で電話局に電話した。日本での、「朝日のア、
いろはのイ、… である。
 
 滞在中、日本から来る社員たちのフザケタ話しをしはじめたらきりがないが、ホテルの洋式ト
イレに入って、便座の上に靴のまま乗っかって、落ちた男が「どうやったらいいのか」と聞く有り
様、自動ロックを知らずしてドアの外に出て戻ることが出来ず、フンドシ姿で廊下を右往左往し
ているものだから、他の宿泊客に「アパッチ(Apache) がきた」と騒がれたり、全く面倒見切れた
ものではなかった。それでもあちこちで「サンキュウ」を連発、「日本人の“サンキュウ”は 鉄
ank You なんだねェ」と極端なメキシコ訛りで皮肉られても、にこにこ喜んでいたりしていた。
“SOS“は, 鉄ave Our Souls煤A粘ave Our Ship煤Aあるいは 粘uspend Other Service煤Aなど
「助けたまえ!」が語源だと聞いていたが、まさにその実感を味あう羽目になった。
 東京では、鳩山首相が「自衛のためなら敵基地を侵略してもよい」などと失言し物議を醸した
りもしていた時代であるから、海外の日本人だってこのような失態は笑い話ですむ時代であっ
た。

 昭和32年(1957)秋、独身赴任を終えて帰朝、今度は昭和36年(1961)に、妻と長男(1才
半)を連れて戦後の初代ニューヨーク支店長となる。
 単身赴任時代の懐かしのバーで、あのバーテンダーが4年前とそっくりの「VODKA(ウォッ
カ)マティーニ」を作ってくれたのは忘れられない。好みの味“Super Dooper Extra Dry”そのま
まを覚えていてくれたのである。
 毎晩10時頃まで、食事抜きで本社とTELEXで交信したあと部下と近くのバーに直行、
“Scotch & Water”1杯毎に1ドル札(75セントだが25セントは“Keep the Change”)が乱れ飛ん
だ。
 日本と違い土曜も休みなので、銀行への返済は月曜日の3pm.に多額が集中する。あと何千
万かを週明けに集金せねば支店長の恥になると(実際にはニューヨークの東京銀行が、我が
本社の力で幾らでも貸しては呉れたが)、辛い思いの金曜日の夕刻を何度か味わった。
 妻には、取引先や社員を自宅に招いての苦労をかけたが、結婚記念日には“Anniversary 
song”の楽団に囲まれた。長男は幼稚園で英語をしゃべっていたが、それを日本で生かしてく
れなかった父親をなじっている。
 ダウンタウンには多くの乞食が居た。25セントをやると、まっしぐらにバーに駆け込み、ワイン
を飲んだ。胃がただれてウィスキーが飲めないアル中だったのである。

 ニューヨークといえば、多くの日本人は「エンパイア・ステート・ビルディング」と「自由の女神」
に先ず行く。この「エンパイア・ステート」とはニューヨーク州の異名であり、このビルはこの名称
にあやかったものである。島崎生徒も先ず五番街の三十四丁目を訪ねる。バスには「EXACT 
FARE」(ピッタリ 払え)と書いてあり、この直接的表現には度肝を抜かれる。
 
  次ぎは、「自由の女神」だ、ニューヨークでは「THE LADY」といえば、何の説明も入らずに自
由の女神で通る。マンハッタン島の先っちょのサウス・フェリー駅のバッテリー・パークから連絡
船で約15分、ベンドロー・アイランドにある。ここで恰幅のいいガードマンが呉れるパンフレット
を見てまた吃驚、「THE LADY-HER PHYSICAL EXAMINATION」(彼女の身体検査書)とあり、
身長・体重・胸囲・バスト・ヒップなどが書かれてあり、また吃驚。例えば、身長:94メートル、体
重:225トン、両眼の間は:70センチ、鼻の長さ:1メートル50センチ、口の幅:90センチ、な
どと書かれているのである。

 ニューヨーク滞在中には米ソ間における人工衛星船打ち上げで競争が始まり、またケネディ
大統領によるキューバの海上封鎖宣言があり、緊張は高まりつつあった。
 即ちカストロ革命が成功し、米・キューバ断交、キューバの米州機構脱退声明があり、米州
はキューバの正式除名、ソ連がキューバに軍事経済援助、ソ連のミサイル基地受け入れに対
して米はこの阻止を決意し封鎖宣言、結局はフルシチョフ首相が折れてキューバからの攻撃
的武器撤去を正式回答して、封鎖解除といった結末を迎えたのであった。しかしソ連はこれよ
り大海軍力建設を決意し実行に移す。かくして冷戦構造が増幅されていく過程にあった。
 フルシチョフの訪米による米ソ平和共存、緊張緩和ムードも、ケネディ大統領の決断による
キューバの海上封鎖により終わったわけである。

 また翌昭和38年(1963)11月には、ダラスにおけるケネディ大統領暗殺、犯人オズワルドに
真偽諸説が渦巻き結局解らずじまいのまま推移しているのである。
 このテネシー州のダラスの街で、他州ナンバープレートをつけた車が、ダウンタウンをうろう
ろしていれば、「あのビル探しかい?」と声を掛けられることが当然化している当時のダラスの
街である。

 今回は我々海軍の大先輩に当たる島崎生徒の厳父のことに触れさせて頂き、在天の霊位
が安らかな眠りにつかれんことを心より祈りこの報告を閉じることとする。

 島崎先任参謀 辞世 「身はここにのに果つるとも 踏むべき道はえざりけり」

 いまも、毎年、池上照栄院碑前において「シンガポール・チャンギー殉難者慰霊祭」がしめや
かに執り行われている。

推量島崎繁一大佐之胸中 
嗚呼泉路友仇無  
一旦叢林白骨濡  
為掉感情覘候喜  
欲遵軍政住人蕪 
襲因蕃習頼充餉  
斟酌干戈信不辜  
借問勝群裁敗者  
可嘆報復奈凡愚

 島崎繁一大佐の胸中を推量す

嗚呼泉路には友仇無く      
一旦叢林には白骨濡るる      
感情に掉ささんと為れば覘候喜び     
軍政に遵はんと欲すれば住人蕪なん     
蕃習を襲因し充餉を頼る、
干戈を斟酌して不辜を信ず。
借問す勝群が敗者を裁くや    
嘆ず可し報復とは奈んど凡愚なる。

(語 意)

泉路   黄泉、よみじ、冥土、泉下に同じ。
友仇   友軍と敵軍。
一旦   一朝に同じ。思いがけない時に、にわかに、たちまち。
叢林   木が群がり生えている林、
白骨濡  野に散らばった白骨には露が降り濡れている。
覘候   探りみる、敵の様子を探る、偵伺に同じ。
軍政   軍事に関する行政事務、統帥、軍令、戦時に占領軍が占領地に対して行う行政。
蕪    雑草の茂った荒地、ゴタゴタと乱れること。
襲因   これまでの仕来たり。
蕃習   未開、または教化されない異民族の習慣。
充餉   兵糧を送り与える、作業場で働く人が携える弁当、ここではあてがいぶちの意。
不辜   罪のないもの、無辜におなじ。
借問   試みに問う、問うて見る。ここでは「然らば聞くが」の意。
勝群   勝者の群。勝った国々を指す。
奈凡愚  凡愚は平凡で愚かな人。何と愚かなことよの意。


(大 意)

「シンガポール・チャンギー刑務所にて刑死された島崎繁一大佐の心中を推察して撰詩、英霊
に献ずる」

ああ!黄泉への道には味方も敵もなく、ただ死にいくだけであり、
(踏むべき道を違えようが違えまいが拘泥することなく、片っ端から冥土に連れ込んでしまう)
 
戦局の悪化とともにアンダマンは、ポートブレアといい山中といい、友軍も住民〔放浪的、反抗
的、また純朴な種族が混住していた〕も白骨の山と化し、露さえ降りていた。

住民政策では、一部住民のスパイ・ゲリラ活動とも相俟って、情を優先すれば敵の思う壺であ
ったし、
(当時のアンダマンは、英軍海軍の海上封鎖により兵料責めの状態であり、住民の食料生産
などは元より不必要な政策下にあったため、食糧危機に瀕していた)

戦争遂行の必須政策を真面目に実施すれば、住民の生活は深刻度を増す結果となる。

しかし、住民は英国の統治下、労働奴隷的食料のあてがい扶持的政策の下にあり、その習慣
は、幾ら指導しても、食料緊迫の状況下でも自給体制を自ら考え様とはしなかった。

時に我が方は決戦態勢下、その中での最適化を目指して島における軍政を推進し、住民に対
する配慮も含めこれ以外に道はなかったし、正道に外れたとは決した思わない。

勝者が敗者を裁く、しかも住民の摘発的検索による認定を唯一の証拠として戦犯者の烙印を
押すことが罷り通ってよいのであろうか。

報復の手段としての裁判などは、幾ら勝ち戦の後の異常な精神状態の下とはいえ、歴史の正
義からしても全く愚者たちのやることである。嘆かわしい次第である。
                                      以上


 今月は島崎生徒のニューヨークの思い出
 私も昭和27年から34年くらいまでニューヨーク航路の航海士として大分活躍?したので思
いひとしおである。
 今月も多忙であった。月中に分隊会が倉敷にあり、先月の寮歌祭の写真集(106頁)の試
作本を23日までに作り上げ、77インクの発足の準備、そして11月30日は海軍兵学校の連
合忘年会と、当日の収穫として70期の軍歌係生徒より教えられた江田島健児について書か
せていただく、漠然と歌っていた歌が違った感じで感じられる。
 50期神代生徒の四号生徒との時大正八年の作品であるが、一番は日本の国の美しさを歌
い上げ、3番は江田島の美しさ、四番は江田島の訓練を、五番六番は20年後の日本のさまを
歌い上げている。
 今回寮歌写真集を作成するので、全部の寮歌を詠んだが、二十歳にならない人たちがあれ
だけ立派のものを書き上げ、そして歌い上げたのには思い驚愕である。
 今月は「篠原生徒の一周忌を軍歌で」の津田生徒の試みと、海軍兵学校連合クラス会の写
真集を載せ最後にペンデングだった峰永画伯の短文を掲載さしていただく。
今年の最終号であるので、回顧してみると、

1月  高田生徒 「漢詩の話」
2月  峰村生徒 「絵画とアートの話」
3月  村井生徒 「遺産の話」
4月  飯島生徒 「美術解剖論」
5月  真田生徒 「大仏の話」
6月  佐藤生徒 「台湾の話」
7月  迫村生徒 「患者中心の医療へシフトしている日本医学の趨勢」
8月  上田生徒 「少年野球の話」
9月  土屋生徒 「連歌の話」
10月  木村生徒 「ソ連邦の話」
11月  島崎生徒 「ニューヨークの思い出」
極めて有意義の一年であった。

今年は昇り竜の年、四水会をはじめ、77inkkの開発に成功。
来年は巳年 実のある年でしょう。
その意味で来年のトップバッターは安藤氏(篠原生徒の中学時代の親友、また村井生徒も同
じ)
正月から縁起のよい「お札の話」を拝聴することにします。
2001年1月24日(第四水曜日)ですよろしくお願い致します。

最後に少し宣伝になるが77inkも来年は商品としてお目見えすると思いますが、その前に寮歌
祭の写真集これは今回が最後で保存版としても極めて価値高いものと、自画自賛だが特集と
して海軍兵学校編として作成総ページ数106ページ総カラーで77インク作成の豪華写真集で
す。先日村井生徒に頼み神津委員長に2冊試作品として手渡しましたが昨日丁寧なお礼状を
いただきました。
作成原価1200円で配布予定にしてますので、是非購入してください、内100円は四水会の援助
費になりますのでご協力のほど。
ほとんどは写真集ですが2ページほど私の書いたあとがきを記載致しますので、読んでみてく
ださい。

あとがき
干戈已に去り六旬の年、荒廃たる世相を思い潸然、往時渺茫として揮べて一夢。
 ここに思い出を多く残した日本寮歌祭は終焉を迎えた。正に感慨泉の如しである。

 第三十八、三十九、そして今回の第四十回と、三回目のトライで、どうやら我ながら満足のい
く寮歌写真集が出来あがった。ここに自信をもって諸兄に披露させていただくこととした。
 勿論前回までと同様、自分で写真を撮り、自分の製作したインクで、また自分で使用している
プリンターで手作り作成したものである。
  時代といわれ、まさに時間との競争「抜かれるのも早いが、追い付くのもまた早い。」米国メ
ディアの普及率20%に達する年数は、ラジオで38年、テレビで13年、インターネットでは4年
であったとのこと、物凄いスピードで世の中は動いており、この分だと5年先、10年先は一体
どうなるのか見当もつかない。去年使用したパソコン、プリンター、またデジカメなども、既に市
場では販売されていないくらいの早さであり、この業界はまさに秒進分歩で動いている。
 七〜八年くらい前、カラーコピーが出た時には、一枚300円、「素晴らしいものが出来たもの
よ」と感心したものだが、それが50円になり、それに対抗してこれを「10円で出来れば素晴ら
しいことだ」とこの数年間努力した甲斐があり、どうやら完成の兆しまで漕ぎつけた。そしてここ
で寮歌写真集を上梓、諸賢に披露できることは私の人生の最大の喜びとするところである。
 
 まず、この本は一ページの紙代が3円、インク代が6〜10円位であるので、一枚(紙代含み)
10円そこそこで作成が可能なのである。それゆえ100ページとすれば総カラーの写真集が千
円位で作成可能なのである。勿論企業ベースでは無理だが、作成工賃、デザイン、写真など
はコストに計算せず、総べて我々の老後の楽しみの一つとしての話しだが…、しかし、このよう
なものはすぐに誰にでも簡単に出来る、そういう時代になりつつあるのが現実の姿なのだ。
 すべて素晴らしくあらゆることが便利な時代になるが、反面これからは心の時代であり、心の
満足こそ老後の生甲斐ではないかと痛感している次第である。
  メールのやり取りは便利である。特にビジネスには必要不可欠であるが、寮歌を歌う、歌詞
を読む、その心のときめきこそ心の楽しみである。
「同袍友あり、君は清流で水を汲め、われは薪を拾わん」である。これこそ心の安らぎであり心
の満足でなくて何であろう。

 私ごとであるが、昭和二十年四月から八月まで、江田島において僅か半年近く居たというだ
けで、よき友を得、「ああ我そこに学びたり」と詠い、現在は素晴らしい老後の人生を満喫し鼓
腹撃壌している昨今である。折りあらば何時でも、月に何回でも色々な仲間の会合に出席し、
談論風発おおいに老境を謳歌し楽しんでいる。
 先ずこのインクはわれわれ七十七期の有志が集まり、知恵を出し合って完成させたものであ
る。それゆえインクの名前は「インク77」である。しかも世の中で稼動しているインクジェットプ
リンター全機種に対応、世界でも初めてのお目見えとしての素晴らしいインクで、「われわれが
集まるとこんな優れたものが出来るのだ」と自負している次第である。
 そのインクで、総べてこの本は作成され、しかもプリンターはエプソン、キヤノン、ヒューレット
パッカード、NEC、富士ゼロックス、シャープなど現在市場で販売されている一番新しい総べて
のプリンターを並べて使用し、作成したものである。


 最近は、これらのメーカーのプリンターも素晴らしく進歩して良くなり、価額も僅か2〜3万円
で手に入り素晴らしいことではあるが、企業としては利益計算で、プリンターの機械を安く設定
し、その分インクに上乗せして採算ベースに載せている嫌いがある。競争裡にあるメーカーとし
ては致し方ないことではあろうが、このようなことは何時までも続く道理がない、プリンターの競
争と同時にインクの競争も当然起こり得るものである。
 要はこの仕組みを永続させるために、安いインクの進出を極力抑えるあの手この手の策を
弄しているところである。そのためには自社のインク以外は使用できない仕組みとして、電気
スポットをつけたりいろいろ手を打ってきてはいるが、インクに適正な価額をと考えるとプリンタ
ーそのものの価格を上げざるを得ず、両刀論法に陥っている現状であろう。
 機械は安いが、インク代が一枚30円も50円もしたのではこれは機械ではなくインクを売る
ための道具である。これではインクの開発とともに、この道具はなくなる運命にあると思わざる
を得ない。
 われわれとしては、インクの研究開発に多大な努力を図ってきた。その結果適正な価格を市
場に示すことが可能となり、しかもそれは責務だとも思っている。インクという抜け道のないプリ
ンター市場価格での競争こそ公正取引法の精神にも適うものであろう。
 以上の観点から、ともかくわれわれのインクで、これだけの本を現在市販のプリンターを使っ
て、安く作成できたということは、望外の喜びである。われわれの人生観とわれわれの心の満
足で作り上げたものといえる。
 還暦を過ぎてパソコンを習い始め、ホームページ、 メール、漢詩、連句、俳句、ダンス、コ
ーラスと古希を過ぎても人生ますます豊かである。
 命短し務めよ翁、未だやることが沢山あって死ぬまでにはとても、やりきれない思いである。
 古希も過ぎたが、貧しい時代を通り過ぎてきて、しかしながら心の豊かな青春を送ったわれ
われ同袍が集まっての研究開発により完成させたインクで作り上げた写真集である。あるいは
孫にでも見せて自慢するも良し、静かに眺め懐古するも良し、本棚に置いて思い出したように
手に取り我が青春を取り戻すよすがとしていただければこれに過ぐる喜びはない。
 手作りなので、学校別余禄については文章と写真さえあれば簡単に挿入作成可能である。
 まず特集号として海軍兵学校の部を作成するので、これをご参考に、ご自分の出身校の特
集号も欲しいとの要望があれば、何時でも即応する積りである。
 寮歌は現代の万葉集、見るのも読むのも楽しいもの、正に人生の心の楽しみの凝縮であり、
青春の断碑ともなろう。
     平成十二年十一月                     矢野 嘉一


熊との出会い
1.仁王立ち
 動物の絵は私の埒外だが子供の頃に、熊を2-3度写生したことがある。
 近くの、当時は淋しかった上田城址の片隅にポッンとあった檻の熊で、子熊に連れ添つてい
た赤児が哀れで飼われるようになったと謂われ、幼な友達だ。 いかにも野性動物らしい、真
夏でも冷めたい臭気が大好きで、遊びに行くと待っていたようにむっくりと起きて来て、鉄格子
につかまり、仁王立ちとなって見詰め合う。といっても図体だけはでかいから、見上げる格好に
なる。
 そしてリズミカルな動作で檻の中を一巡し、再び仁王立ちになって見詰めあう。私が飽きてそ
の場を離れるまでいつまでも繰り返す。 だから絵はいずれも仁王立ちのポーズだ。
 終戦の年の秋、ふと思い出して訪ねたら、檻の中はからっぽで臭いも消え、枯葉が散ってい
た。
 空襲伴ったかの動物令が、遂に山国jまで及び、射殺されたと聴かされた。
 翌年、山の中でぱったりと、懐かしい”仁王立ち”に遭遇したのも、何かの因縁であろう。
    *******
 浅春の上信国境、当時はバスも何もない。
 スケッチブックを入れた、進駐軍の天幕で作った頭巾袋を肩に、近道しょうとうろ覚えの仙道
を登って行った。 
 実は骸躯、峠の向うの、高原の村で待つている手打ち蕎麦に曳かれて、である。
 仙道が残雪いつぱいの獣径となり、たいへん心細くなってきた、とその時、左土手の熊笹の
繁みが大きくざわかき、真黒な大きな塊がすべり落ちてきてぶつかりそうになった。
 向うも吃驚し、弾かれたように跳びのき、一瞬まごついていたが、サツと仁王立ちになってこ
ちらを見下ろした。馬鹿でかい月の輪熊だ。
 私はポカーンとして突っ立った侭、双方廊下の角の出会い頭の衝突、といった態で睨み合っ
た。
 が貫禄が違った。 すぐに枯葉真赤な大口をあけて威嚇し、右手の熊笹をかき分けゆっくり
と、下の沢に消えて言った。
 私は始終、幼な友達と見凝め合った時のように無心だった。その後はいうまでもない。
 もと来た道を一目散、里に逃げ帰った。
 後日聴いたら其処は、やがて獣径も失せ、ガレ場となり、そこを這うようにしてよじ登ると峠道
に辿り着く。昔から朽木・倒木がごろごろしている熊の群棲地帯で、子連れの母熊だったら一
撃でやられていただろうという。
 「目脂だらけだった。だから冬眠覚めたてで、一刻も早く沢の水を飲みたかったのでは?」

 小賢しくも述べたら、民宿の親爺で、 時折熊の肉の煮込みを出してくれる熊打ちの名手も、
そこまでは見たことがないらしかった。
2.そっとしておいてくれ
 ひと昔前の北ア山麓、 グループで、丁度開削中断している新道に散って、向うの山並みを
描いていた。 と、皆が向いているすぐ下手の道端に、繁みからひょっこりと熊が現れ、とことこ
と道を横切って下の方に消えた。
 運悪く、一番下、つまり熊の鼻面と向かい合ってオバちゃんが気絶してしまい、絵を中止して
宿に担ぎこんだのが、
 「日旺画家、死んだ振りして助かった。」 とか、地元ニュースに出でしまった。 
 スキーや観光、子供達の林間合宿などでもっている村でも放っておけず、早速熊狩を組織
し、
数頭仕留めたと後日聴かされたが、今でもやりきれない思いである。
 
 運悪くとはオバちゃnのことではない。
 地形から見てそこは、沢へ水を呑みに通う唯一の道筋だったらしい。
 その日は朝から絵描き共が居座った侭動かない。
 我慢し切れず出てきたのだろう。

 こちらを愕かすまい、意識してこちらを見まいとする無骨な素振りに、開発に追い立てられ、
追い詰められた”野性 ” の、精一杯の気持ちがみてとれた。
 「頼むから、そっとしておいてくれ!」


寮歌祭写真抜粋


 

 


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