海外旅行体験記(カナダ紀行)



 海外旅行といっても、留学経験はありませんので、10年以上前のカナダ西部への新婚旅行が今のところ唯一の海外旅行です。このトラベル(トラブル?)の色々について、記しておきたいと思います。もし当時、ヒッポ・ファミリー・クラブというものの存在を知っていて、そのメンバーとなっていたら、随分旅行の内容や体験も違ったものになっていたでしょうが・・・・、まあ珍道中の数々をお時間の許す限り読んでみて下さい。旅行事情も随分と変わっているでしょうし、ホーム・ステイなど宿泊の形態などの環境も違うかもしれません。でも、海外に旅行・滞在することは同じですし、「地球の歩き方」にも書いてない変わった経験もしましたので、ひょっとしたら参考になることがあるかもしれません。



 *出発前・・・

 当時、治安が良くて国内とほぼ同様に1人歩きができ、違法な持ちこみ物がほとんど無いため手荷物検査も早いといえば、カナダとオーストラリアが代表格で、円高の頃でもあり、運賃は多少高くとも滞在費は比較的安いということで、カナダを行き先に選んだ。ご存知の方も多いと思いうが、カナダの公用語は2つ、英語とフランス語。カナダ国内で実際に話されているのは西半分(バンクーバーからバンフまで)が英語、東半分(オタワなど)がフランス語とのことだったので、どちらかといえば耳慣れてい西部のツアーを選ぶことにした。旅行社を訪ねてみると、日本人向けのツアーはどれも1〜2泊ずつで移動するものばかり。海外旅行に慣れていないものにとっては、極めて気忙しい日程になっていた。もっとも、旅行者側の言い分は、「日本人のほとんどは滞在型のレジャーに不慣れで、新婚旅行では2〜3箇所を2泊ずつで泊まり歩く人がほとんどです」とのこと、確かに周囲の人で前後して新婚旅行に出かけた人は、ハワイで2泊、アメリカ西海岸で2泊、他は移動の飛行機で2泊といった旅行が主流だったが、・・・・。言葉のこともあるし、少しはのんびり旅行したいと思い交渉した結果、最終宿泊地のバンクーバーで1泊だけ余計に宿泊することに落ち着いた。
 「海外旅行をするなら、現金よりカード」というのは今や常識ですが、私もご他聞にもれず「出発前にカードを作らねば」と思い、結婚式の日程が決まってすぐにクレジットカードを申し込んだ。ところが、待てど暮らせどカードが来ない。今から思えば、申し込みから結婚式までの間にGWがあり、審査手続きが長引いたのが原因だったのだが、「カードの発行が決まりました」という趣旨の郵便が届いたのが結婚式の前日、実際にカードが届いたのは新婚旅行中のことで、トラベラーズ・チェックとわずかな現金を持って、旅行に出ることになった。



 *いざ成田へ

 結婚式当日は、式場のホテルで一泊し(田舎の悲しさ、当日友人達に見送られて旅行に出発しても当日中に成田を出発する便には間に合わない)、翌朝富山空港から羽田へ。羽田空港からはリムジンバスに乗り、途中シティホテルで乗り換え、ここで当時流行し始めていた「花のサラダ」に感心したりして待つこと2時間、ようやく成田空港行きのバスに乗り込み、いざ成田空港へ。と、ここまでは順調な旅だったのだが、・・・・
 成田空港で我々を待ち構えていたのは、大勢の観光客とツアーごとの添乗員および説明の係員達。私達のツアーは、添乗員が現地で待っているというものだったが、空港にはプラカードを持った説明係が待っていた。そこで衝撃の発表が!!別に、クイズ番組のように問題に答えられないと出発できないと言ったわけではないが、「航空会社の方で、オーバーブッキングを多数受け入れておりまして、搭乗は当社の努力で間違い無く可能になりましたが、皆様(新婚旅行のカップルばかり5組)の中で1組だけ座席が離れ離れになっております」とのこと。ここで、私を含めて5組10人の頭の中は不安で真っ白になった。初めての海外旅行でこれからカナダのバンクーバーまで10時間余り、場合によっては見ず知らずの、もしかしたらいきなり日本語の通じない人と隣り合わせになるとは、・・・・。係員は、「そこで、不公平が無いように、皆さんでくじ引きをしてください。1組の方だけ申し訳ありませんが、席が離れます」との提案がありました。実は、そこで同乗者で話をしたところ、出発前に入籍して同じ苗字で申し込んでいたのは私達だけで、他の4組は旧姓のままということがわかり、「同姓なら席が離れる可能性は低いだろう」と考えた私は、「チケットの名前通りにしましょう」と言いたかったのですが、他の8人も同じ不安を抱えているのだしと考えて、係員の提案を受け入れることにした。引いたチケットのネームは"nagasaki"となっていたが、なんとチケット上は私達の座席だけが離れていたのだ!(考えようによっては、「名前通りにチケットを渡してください。」と言わなくて良かった?)それから、飛行機の出発が遅れたために座席に座るまでの不安でいっぱいの2時間半・・・・・。空港で飛行機の出発を待っていた外国人の何と目に付くことか。白人、白装束のインド人風の人々、東南アジア系の人達、一見日本人かと思うが話している言葉が全く理解できない中国人や韓国の人らしき人々、黒人、・・・。何を考えていたのか、今となっては思い出せないが、バンクーバー空港での珍事件は、この成田での一件が大いに関与していたと思っている。
 午後8時を過ぎて、ようやく飛行機に乗り込んだところ、隣に座った男性はやはり新婚旅行に来た日本人。おずおずと、座席の交換を申し出ると、多少渋々ではあったが、座席を替わってもらえたため、何とか新婚旅行からバラバラになることは避けることができた。でも、この成田での出来事は、珍道中のほんのプロローグに過ぎなかったのです。旅慣れた人には何でもないことが、大事件のように感じられたのかも知れませんが、この後次々に起こったことは、今となっては思い出の一コマとはいえ、そのときには驚きの連続だった。



 *機内にて

 満席の機内は狭く、出発してまもなく日本時間の深夜になっているのになかなか眠れない状態でした。一応、出発前に「機内ではスリッパなどの履物を用意していないと、足がむくんでしまう」と旅行用品店でアドバイスされ、準備していったのは正解だったが、手足の伸ばせない状態で眠る方がはるかに大変だった。それに、機内食の脂っこいこと。身体をほとんど動かせない状態だから、食欲の出るはずもない。寝不足と腹部膨満感のダブルパンチの状態で飛行機は着陸体制へ・・・・



 *バンクーバー空港での出来事(5/17)

 バンクーバー空港への到着は、現地時間の正午過ぎ。疲労と緊張とでフラフラしながら、空港のロビーへと急いだ。到着口から国内線への手続きロビーへは、一方通行のドアを通って、すぐにたどり着いたが、そこで待っているはずの現地のガイドがいない!そこで、同じツアーの4組8人(成田で一緒だった5組のうち1組は、ナイアガラ瀑布をカナダ側からみるために別便に搭乗)で手分けして探すことになったのだが・・・。
 私は、国内線の出発ロビーに迷い込んでしまい、ビクトリア島行きの出発ゲートの手前でまず「ピンポーン」と金属探知機が反応してしまった。その向こうには、やや緊張した面持ちの女性空港警備員(アメリカ映画のポリスの夏服に似た制服を着ていました、白人としてはやや小柄な女性だったため、威圧感はそれほど無かったのですが)が立っており、細長い棒状の探知機で私の身体をチェックし始めた。「いきなり、胸ポケットに手を入れると、武器を取り出すのと間違われる」と聞いていた私は、命じられてもいないのにいきなり”ホールドアップ アンド フリーズ”の姿勢に。すると、探知機が左胸のポケットで止まり、外ポケットを見た警備員はホッとしたように、”pen!"といったようだった。見ると、メモ用に持っていた万年筆が。「こんな小さな金属に本当に反応したのかな?」と思いながら、再びもとの場所へ。ところが、まだガイドが見つからないとのこと。皆、頭が混乱していたため、よせばいいのにまた同じ場所へ探しに行ったところ、2回目の「ピンポーン」の音が。先程と同じ女性警備員が近づいてきて、「万年筆を取るように」ジェスチャーで指示したので、胸からはずした上で、再び探知機を当てたところ、また左胸のところで止まり、「他に何か入っていないのか」と尋ねられた(といっても英語が理解できたわけではなく、雰囲気でわかったのだが)、そこで内ポケットを指差し、「ここか?」と尋ねると同時に、ピンと来た。クレジットカードが間に合わず、現金を持ち歩いていたために、両替所の世話になることが多かろうと、カード型計算機を持っていたことを。ゆっくり取り出したものを見て、件の警備員が”calculator?"。多少落ち着きを取り戻しつつあった私の耳にそうはっきりと聞き取れたので、思わず「イ、イエース!」。「この日本人は、何の目的でウロウロしているのか?」と思っただろうが、ガイドを探しているこちらは「国内線の乗り継ぎに遅れては大変」と必死。急いで空港ロビーに戻ってみると、いた!「国際線の到着は通常1時間ほど遅れるのだから」と悠々とやって来た現地ガイドが。そして、そのガイド(日本人)が言うには、「皆さん、荷物の積み替えて続きはお済みですか?」。
 そこで一同、絶句。日本国内で国内線に乗った時は、当然のようにしている荷物の受け取り手続きをすっかり忘れて、一方通行のドアを通って、ロビーに出てしまっていたのだ。「どうやって到着ロビーへ戻れば良いのか?」と困っていると、「向こうから人が来て、ドアが開いている間に逆に通って下さい」とのお答え。「さすが現地ガイド!」と関心しているゆとりも無く、全員が到着ロビーへと急いだ。それもそのはず、ガイドを探している間に、乗換える国内線の出発時間が迫っていたのだ。
 どうにか、手続きを済ませ、ビクトリア行きの出発ロビーまで来ると、先程の警備員と目が合ってしまい、向こうはニコニコとして何か言いたげな様子。ここで英語に堪能なら、気の利いたジョークの一つも言えただろうが、何より飛行機に間に合った安心感で、アルカイック・スマイルを浮かべただけに終わった。



 *国内線よ、お前もか!

 当時のバンクーバー・ビクトリア間の国内線は30人ほどの定員のプロペラ機で、日本ではジェット機に乗った経験しかなかった私は、物珍しさとちょっぴりの不安が入り混じった複雑な心境で乗り込みましたが、フェリーと漁船ほどの差も無く、無事ビクトリアに到着。
 到着ロビーから見えるところに今度は女性ガイドが居て、一安心。おっと、今回は荷物の受け取りを忘れては行けないと、荷物の運ばれてくるベルト・コンベアーのところに向かう。他の3組の荷物はすぐに出てきたのですが、私たちのスーツケースだけが待てど暮らせど出てこない!!とうとう、荷物終了の札を持った係員が登場してしまった。すわ、海外旅行名物の盗難か、はたまた荷物が迷子になったか?とあせる私にガイドさんは、落ち着き払った声で、「こちらではよくあることなんですよ。積み残しになったんでしょう。次の便で来ますから、簡単な書類を出しておけば、預かってくれますから、とりあえず市内観光に行きましょう。」とのお答え。日本なら、人は乗れても荷物がいっぱいなら次の便で、となるところなのだろうが。ホッとはしたものの、市内観光の案内はあまりよく覚えていない。



 *ビクトリアのホテルにて

 どうにか荷物も受け取り、無事ホテルに到着。ここの女性ガイドは慣れた人で、「到着後最初の食事は一緒に取りましょう。お疲れでしょうから、その後の1日半は自由時間です。食事やショッピングなどを楽しんでください。大体のことは、英語が話せなくても可能です。」とのことでした。チェックインはしたものの自分達の部屋にも行かず、まずはホテルのレストランでの食事となった。
 「皆さん、お疲れ様でした。当地への到着を大歓迎致します。」というガイドの言葉が終わるや否や、目の前に焼き魚が並べられました。ここでは、比較的軽めの食事の方が良かろうと(機内食などでウンザリしていたので)、いきなり魚がメインディッシュとして出されたのだ。「今夜の魚は何ですか」とガイドが英語で尋ねると、ウエイターが一声「マッスー」。小骨だらけの焼き魚をナイフとフォークで食べるのがなんと難しいことか。「言えば箸もありますが、郷に入っては郷に従えと言いますから、これから約1週間ナイフとフォークの生活だし・・・」と言われては、「箸を出して」とも言いにくく、イソップ物語の狐のようにあまり食べられないまま、最初のディナーが終わった。

 翌朝(5/18)、といっても時差ボケと1日目からの珍事件の連続に疲れきっていたため起床したのは午前10を過ぎていたので、ホテルの朝食には間に合わなかった。そこで、ビクトリア周辺(お気づきの方はかなりの通、ビクトリアと言う名前は、英国のビクトリア女王に由来している)の習慣であるアフタヌーン・ティーを楽しむことにした。これも、妻がガイドブックを懸命に読んで知識をつけておいてくれたお蔭で、空腹に苦しむことは避けられたのだが・・・。ホテルのロビーで行われるこの催しに参加するためには、電話での予約が必要とのことだったので、ホテルのロビーの内線電話で、予約係に電話を入れた。実は、学会などで海外旅行の経験のある先輩方に聞いたところ、「直接相手が見えるときは、英語の発音が多少不完全でも何とか通じるが、電話だと大体誤解が生じるものだ」とは言われていたのだが・・・・。以下、日本語訳で。
 「アフタヌーンティーの席の予約をお願いします。」
 「お名前と人数は?」
 「私の名前はnagasaki です。日本人で2名です。」
 「日本のnagklsd;jfsjg???? 様ですね?かしこまりました。午後2時から、お席をご用意しておきます。」
といった具合。
 2時に、ロビーに行ってみると、行列ができていて、10分程待たされた。時間制限がないのだから、予定時間が徐々に遅れるのも当たり前、順番が来て名前を確認されたのだがこれが"nagasaki"とは全く違うような名前になっていた。危うく、予約なしになりそうだったが、日本人と言っておいたお蔭で(幸い他に待っている日本人はいなかった)、なんとかお茶とジャムサンドとケーキにありついた次第。




 *ビクトリア市内のレストランで

 昼食代わりのアフタヌーンティーをゆっくり楽しみ、夕方から市内の散策に出かけた。市内の道路標識を見ると、なるほどやや見慣れた英語表示の下にフランス語の表示が必ず付いている。さすが2つの公用語を持つ国らしいことだが、カナダの西半分で実際に使われている(話されている)のは英語のみ。女性ガイドの「カナダは移民の国で、特に西部はほとんどの人が英語しか話せません。観光客が多いこともあって、自分達は英語しか話せないのだから観光客が自分の国の言葉しか話せないのも当たり前、だから相手の話をを熱心に来てくれるし、発音が悪くてもバカにしたりせず、ちゃんと応対してくれますよ」という言葉に励まされつつ、でもその英語さえ怪しいので人ごみには近寄らず、レストランを中心に探して歩いた。ホテルから歩いて5分程のところにあったシーフードレストランで夕食。エビをオリーブオイルで炒めたらしいモノにサフランライス(ほとんどサラダ感覚)の付け合せを頼んだのだが(これもウエイトレスにメニューを示しながら、身振り手振りで何とか注文した)、殻付きのエビ料理なのにフィンガーボールが出てこない。そこで、遠めにチラチラとこちらを見ているウエイトレスに片手を上げ、オリーブオイルでギラギラする手を見せて合図したところ、厨房の方に頭を突っ込んで何やら小声でやり取り、その後すぐに厨房の奥から大柄なシェフとおぼしき白衣の男性が、なみなみと水の入ったプラスチック製のボウルを持って我々の席までやって来た。「やった、ボディラングウェッジが通じた」と二人で小さくガッツポーズをしたものだった。

 さて、食事が済んだら料金とチップの支払いということになるのだが、その店の場合は、小さな紙切れに数字(要するに料金)を走り書きしたものがテーブルの端においてあったので、チップを渡すタイミングをはずしているし、料金と一緒に渡そうと少し多めに払うつもりでいた。その紙切れには確か、「107」と書いてあったと記憶している。日本のレストランなら軽めとはいえ夕食を食べれば、2人で5〜6千円はかかるのが相場であろう。「ちょっと高いな」と思いながらも107ドル(当時のレートでは1カナダドルが約110円、107ドルは約12,000円)を支払おうと、100ドル紙幣を出し、さらに小額紙幣を探していると、ウエイトレスがとても困った顔をしている。「もっと、細かいお金はありませんか?」といった感じ。そこで、”How match?”と訊いたところ、”10 dollers and 70 cents.”との答え。「えっ、大人2人で1,200円でいいの?」と思ったものの、消費税も食品にはかからず、物価も我が日本よりも安いことに
思いあたったのだった。結局、チップのことは切り出せずじまい。
 その時、思い出した職場の上司の話:アメリカ合衆国のとある喫茶店で、暇つぶしにコーヒーを飲み、席を離れるときにチップはカップの下に置いていけば良いと聞いていたので、財布の中を捜したところ、1ドル紙幣が無かったため仕方なく5ドル紙幣をカップの下に入れ、レジで料金を支払い、店を出ようとしたところ、後ろからウエイターが追いかけてきて一言、"You are rich!" といって、5ドル紙幣を突っ返されたというもの。チップをもらうことが習慣(当然のこと)になっている国でも、過量のチップを受け取ることはプライドが許さないということだろう。むしろ、チップの額に悩むより、「おいしかった」とか「サービスが良かった」とか感謝の言葉をちゃんと言えば良かったと今は後悔している。




 *ビクトリアのホテルで(2泊目)

 ホテルに帰ると、少し緊張が取れてきたのと、食後の飲み物が無かったためか、のどが渇いてきた。そこで、ルームサービスを頼んでみようということになり、内線電話で注文することになった。アフタヌーンティーの予約をした時名前が正確に伝わっていなかったことや、面と向かって話すときと違い、電話になると用件が伝わらないことが多いと聞いていたので、ちょっといやな気はしたが、勇気を奮ってダイヤルを回した。すぐに、相手が出たので、とりあえずこちらの用件を伝えようと、"This is Mr. Nagasaki. Room number is ???. I want two glasses of orange juice. O.K.?"と一気にしゃべった(焦っていたので、かなりブロークンな発音だっただろうが・・・)。相手は、"O.K." と言ってから、"Orange?"と確認してきた。「ジュースの種類の確認だと思った私は、"Yes, orange juice."といったところ、"Thank you."と言って、電話が切れた。受話器を置いて2〜3分後、電話のベルが鳴った。「こちらの用件を言う分には、何とか英語が通じても、向こうが早口だと全く分からないし、弱ったな」と思いながら恐る恐る受話器を取ると、案の定早口で、何を言っているか最初は聞き取れなかったのだが、何回か聞いているうちに、”Sorry, we have no orange."という部分だけが何とか聞こえてきた。そこで、"I want juice, orange juice!" と連呼したところ、"O.K."という返事とともに電話が切れ、約10分後に2杯のオレンジジュースが無事部屋に届いた。ただ、「オレンジがない」と言った意味が、こちらがオレンジ(果実)を要求したと思われたのか、単にジュースに添えるオレンジが無いと言う意味だったのか、未だに不明。
 とりあえず、ビクトリアの2日目はこうして、暮れて行った。ビクトリアで最も印象に残っているのは、ビクトリア市庁舎の夜景。19世紀のビクトリア女王時代の建物に、イルミネーションを施した夜景は、まさに絵葉書そのままの世界、「ウーン、ホワット ア ワンダフル!」観光地ということもあって、現地の人達も陽気で親切とよい印象ばかりだった。まだ、チップを渡すことに不慣れで、レストランで十分感謝の気持ちを伝えられなかったことだけが心残りだった




 *3日目(5/19)、一路バンフへ(スーツケース落下事件)

 3日目、早朝にビクトリアを発って、飛行機でカルガリーへ。カルガリーといえば、以前冬季オリンピックが開かれた、カナダ中部では有数の都市だが、ここは単なる通過点。空港からジープ(最近日本で流行っているレジャービークル)に乗って、一路バンフを目指す。このジープだが、荷台が屋根の上にあり、周りは高さ20cmほどの鉄製のパイプで囲んだだけの極めて簡単なもの。運転手はサファリ・ルックに身を包み、サングラスをかけた大柄なカナダ人、我々8人のスーツケース(7個)を無造作に荷台に放り込み、全員が乗ったことを確認すると、すぐに車を出した。
 カナダのハイウエィは(アメリカもそうかもしれないが)、日本のようなインターチェンジはなく、普通道路から段差はあるもののそのまま直進で入っていくようになっている。速度標識が見えてきた途端、車が道路の段差にかかり、激しく上下に揺れた。直後に、最後部に座っていた人が、「何か落ちましたよ」と言ったのだが、運転手はそれに気づかず、ますますスピードを上げようとする。全員で、「ストップ、ストップ」と叫んだところ、運転手がようやく気づき、急停車。荷台から荷物が落ちたと告げると、今度は猛スピードでバックし始めた。これには全員、ただ唖然!これが日本だったら、間違い無く重大事故に遭っいただろうが、そこは広大なカナダのこと、後ろからは1台の自動車も来なかった。先程の、フリーウエィの入り口まで来ると、あった!見慣れたスーツケースが!
 バンクーバーからビクトリアへの航空便では積み残され、今また災難に遭ったのは、我々夫婦のスーツケースだった。他のカップルは、1人に1個づつのやや大型のスーツケースだったのに対し、我々夫婦はできるだけ身軽にしようと、2人で1個のやや小型のスーツケースだったために、荷台に積むときにも上に載せられ、ベルトや紐もかけてなかったのだ。これでは、振り落とされるのも当然だったかもしれないが、それにしてもまた災難が。無残にも、スーツケースの一角が凹み、鍵の部分が壊れて施錠不可能になっていた。仕方が無いので、その先は狭い座席の一隅に置かせてもらうことになった。




 *バンフにて

 バンフでのガイドも日本人女性でだったが、こちらはビクトリアの人と違い、結構キメキメの人で、食事もホテルで決められた通り、日程も自由時間は2日目の午後と3日目の午前中だけという感じであった。道路のすぐ脇に、トナカイが悠々と草を食むようなのどかな土地だけに、もっとゆっくりしたかったのだが・・・。

 バンフ・スプリング・ホテルに着いて、最初の夕食にはカナダ名物?のステーキが出た。これが、半分は脂身で、厚みはあまりないものの足の裏サイズ、いわゆる「草鞋のような」ステーキ。5月下旬のこと、サマータイムのせいもあって、夜の8時と言うのに外はまだ明るく、「地元の人は、5時に仕事が終わってから、ゴルフ場に行ったりする。午後10時頃までは明るいので、プレー可能です。」とのこと。ゴルフと言えば、バンフ滞在中にゴルフがしたくて、翌朝フロントで予約したいと申し出たところ、「現在、オフ・シーズンです。」との答え。ロビーには、ゴルフ・バッグを担いだ白人がウヨウヨいたのに・・・。カナダ滞在中に、唯一「人種差別」を感じた事件だった。この日はホテル内のショッピングモールで、カナダインディアンが編んだというカウチン・セーター(実際はほとんどが機械編みらしい)を買い込んで就寝。

 翌朝(5/20)は、ホテルのレストランでバイキング。ここで、他の日本人ツアー客と遭遇。ガイドが、「バイキングというのは・・・・ですから、食べたいものを皿にとって来て、ご自分の席でお召し上がりください。」と説明しているのを横目で見ながら、「ちょっと、おのぼりさん的で、同じ日本人としてカッコ悪いよね。」などと、すっかり旅慣れたような話をしていたのを思い出す。確かに、私達と一緒のツアーに参加していた新婚旅行のカップルばかり5組は、皆ができるだけガイドの助けを借りずに過ごすようにしており、全員そろって観光地へ出かける以外は、
ほとんど別行動だったが・・・・・。

 朝食後、部屋に帰ってカナダに来て、初めてTVを見た。というのも、ビクトリアのホテルの部屋に比べて、ここの部屋は狭くて、日本のツインの部屋とほとんど同じ造りになっていたので、結構退屈だったのと、少しは外国語(英語)に耳を慣らしたいという気持ちが湧いたからだ(ヒッポに参加している今なら、もっと早くそういう心境になっていたでしょうし、もっと生の英語を聞こうといろんな人に話し掛けていただろうが)。ちょっとは、気持ちに余裕が生まれていたのか、昨日破損したスーツケースのことが気にかかり、損害保険会社へ国際電話をかけることにした。どのように電話をかけたのか、10年以上経った今では記憶にないが、損保の人は「国際電話料金の方が高くつきますから、帰国されてから改めて連絡してください」とのことだった。
「御説、ご尤も!」

 午前中は、観光バスに乗って、氷河を見に行くツアーに参加。車中はほとんどが日本人観光客、実は当地はスキー場と避暑地として有名なところで(日本で言えば軽井沢や那須)、5月は年間観光客の大部分を占めるアメリカからはほとんど客が来ない、いわばオフ・シーズンであるため、日本人観光客が目立っていた。都市部では初夏の気候だったが、ここでは買ったばかりのカウチンセーターが役に立った。氷河の下で記念写真を取っていた時、チラチラと雪が降り出し、関西や東京方面から参加していた人達は、大はしゃぎしていたが、雪国生まれの当方としては、「何で5月になってまた雪に会わなきゃならないの?」といった気分。それから、バンフ市内の公園(どのようなところだったか、記憶が定かでない)で観光馬車に乗る機会があった。乗り合わせたアメリカから来たらしい老夫婦と御者がなにやらニヤニヤしながら小声で話していたが、蹄の音と観光案内のアナウンスのためによく聞こえなかった。関西の商社マン(この人は英会話が得意)が聞き耳を立てていたので、後で聞いてみると、その内容は大体こんな具合。
 観光客:「後ろに乗り合わせている東洋人は、中国人かね、日本人かね?」
 御者:「中国人はもっと英語が上手だよ。彼らはほとんど英語ができないから日本人に決まっ てる。」
といった会話だったとのこと。「腹が立ったから、一発かましてやった」とのことだったが、何と言って一発かましたのかは、残念ながら聞き漏らした。

 午後は、フリータイム。翌日、列車に乗る予定のバンフの駅を下見。ここでカナダに来て初めて、自動販売機を見た。コーラとジャンジャーエールの瓶の販売機で、確か1本35セント。缶ジュースや缶コーヒーの販売機は遂に、一度もお目にかからなっか。それから、タクシーで市内観光をと、ガイドさんに連絡をとって手配してもらったが、運転手はなんと日本人。聞いてみると、「日本からスキーのインストラクターになるためにこちらに勉強に来たが、居心地が良いので、スキーができない間はアルバイトでタクシードライバーをしている」とのこと。「そろそろ現地の英語に触れたい」と思い始めていた私にとっては、安心感とちょっと残念な気持ちの入り混じった複雑な心境であった。職場の先輩が、数年前に新婚旅行で当地のスキー場へ来た話をすると、「ここのスキー場(マウント・ノーケー)では、毎年数人の死者が出るんです。」とのこと、どうやら日本のスキー場と違い、自然保護のために安全性はやや犠牲になっているようだった。その後、有名なO.K.ギフトショップ(大橋巨泉氏経営、店員はほとんどが日本人で当然日本語のみでの買い物O.K.)で、バーゲンセールのトナカイの毛皮を購入。同じツアーの参加者は、皆大都市の免税店で、ブランドものの化粧品などを買っていた(中には新婦が友人に頼まれたとかで、当時日本国内では販売していなかったシャネルの化粧品の型番メモを片手に一生懸命買い物をしているのを見かけた)が、私達は荷物を増やしたくないので、出発前に旅行とセットになっている土産物のカタログショッピングを利用して、ほとんどの土産を手配済みだったため、買い物といえば自分たちの身につけるものと親戚への土産物ばかりだった。毛皮は嵩張るので、当然船便を依頼、確か2ヶ月程かかった。
 バンフの印象は、ホテルの部屋が狭かったのと、現地の人や日本人以外の観光客にはほとんど接する機会がなく、ゴルフ場でのプレーも断られたため、あまりよくなかった。でも、スキーのできる冬か、避暑に出かけるような真夏に行っていれば、印象が違っていたかもしれない。




 *カナダ横断鉄道のこと

 翌日(5/21)、午後の列車でバンフを後にし、丸1昼夜かけて、バンクーバーへ。この鉄道には驚かされることばかり。まずは、予定到着時刻を過ぎても一向に列車が来ない。日本の鉄道に慣れている我々と違い、カナダの人達は文句一つ言わずに黙って待っている。という状況が2時間ほど続いた後、ようやく列車が遠くに見えてきた。50輌以上はつながっていようかという長い列車のうち、人が乗るのはわずか2〜3輌。これを見て、ようやく納得したことがある。要するに、人が乗るのはオマケのようなもの、「急ぐ人は飛行機でどうぞ」という発想で、貨車の連結や待ち合わせに時間がかかっても、決して焦ることもない。何故なら、1日1往復しか運転していないのだから。
 客車は、すべて2人用の個室。オリエント急行の映像なら多少見慣れていたが、こちらの個室の方がはるかに狭い。ベッドも、便器もすべて壁に組み込まれたものを引っ張り出して使用する。便器に至っては、目隠しも何も無く使用中はもう一人が通路にでも出ているしかない。無駄を一切省いて、合理的と言えばそれまでだが・・・。狭い室内、窓が小さく外の景色もほとんど見えず(もっともほとんどが山と雑木林の連続で、日本やヨーロッパのような田園風景もなし)、2人でこれまでの旅行でのできごとを振り返ったり、バンクーバーでの遊びの計画を練ったりして過ごした。食事は2食、各個室までホテルのルームサービスのように運ばれてきた。献立は記憶していないが、飛行機の機内食よりはおいしかったように思う。




 *バンクーバーにて(5/22)

 バンクーバー駅へ、2時間以上遅れて到着。日本なら、特急料金の返却となるところだが、もともと特急料金を払っていないのだから、返るはずも無し。初日の空港への出迎えが遅れたガイドが、今回は早目に到着して待ちくたびれていたのか、「いつもはもっと遅れるので、2時間なら早い方ですよ。」と負け惜しみのようなことを言いながら、出迎えてくれた。「皆さんの荷物は遠目にもすぐ分かりました。日本人の荷物はほとんどが頑丈なスーツケースなので。ここは都会ですから、カナダ国内としては比較的盗難が多いところなんです。ほとんどは、日本人以外の布製のスーツケースをナイフで切り裂いて中身を失敬する手口なんですけど」とも。「鍵が壊れているスーツケースじゃ、どんなに頑丈でも狙われますかね?」と尋ねたかったが、・・・・。
 私達以外は、翌日の午前中に帰国の途に着く予定だったので、昼食を一緒にとるのは最後の機会であったが、列車の到着が2時間も遅れたために、お流れになった。そこで、妻と2人で水族館見物へ。ベルボーイにチップを渡し(この頃にはかなり慣れてきた)、タクシーを呼んでもらうと、デニス・ウィーバーばりの長身の運転手であった。水族館に向かう車中、どのような会話をしたか良く覚えていないが、釣銭の関係とチップの計算が面倒(相場は確か運賃の5%程度)だったので、やや多めのチップを渡す(要は、釣りはいらないよ状態)と、一層愛想が良くなり、「帰りも是非、自分を呼んでくれ。どこに居ても飛んでくるから」という雰囲気で、連絡先の電話番号と名前を書いたメモを渡された。水族館で、イルカのショーなどを見物、海の見えるレストランで軽食をとり、ホテルへと帰った。帰りも先程の運転手のタクシーを呼んだことは言うまでもない。
 夜は、ホテル近くのタワーレストラン(バンクーバーで最も夜景のきれいに見えるところをフロントで教わった)で食事。正直言って、高い所から見る夜景はどこも同じ感じで、ビクトリアの夜景の方が印象深かった様な気がする。ここで、バンフでできなかったゴルフがしたくなり、といっても本格的なコースは全て要予約と聞いていたので、延長した1日を利用して公園(確かサンデー・パークといった)へ
遊びに行くことに決定。




 *ボディ・ラングウェッジここに極まれり(5/23)

 朝食後、日本へのエア・メールを出そうと、ホテルの売店で絵葉書を購入したら、青地に白い文字で"air mail"と印刷されたシールを一緒に手渡された。日本の切手やシールを見慣れている私にとっては、どうみても普通の紙にしか見えなかったため、糊が必要なのだと思い、フロントで「糊を貸してくれないか」と言おうとしたが、「糊」という単語が出てこない。普段、仕事で「グルー」とか「ペースト」とかしょっちゅう使っているくせに、ど忘れとは怖いものでどうしても思い出せない。出かける予定の時間も迫ってくるので、仕方なくフロントのお姉さん(実際の年は不明)の前に立ち、右手に絵葉書、左手にシールを持って、両手をやや広げ、小首を傾げて見せた。私に気づいた彼女は、一瞬キョトンとしていたが、すぐに目の前のメモ用紙を持ち上げ顎の前に持って行くと、長い舌を目いっぱい伸ばし、紙を舐める仕草。これは、一発で理解できた。"Oh, I see. Thank you!"というと、向こうも微笑み返してくれました。何事も焦りは禁物、そして単語は忘れても、何とか意思を伝えたいと思う気持ちが大切だと思い知らされた。



 *バンクーバーの公園にて

 公園は、バンクーバー市の郊外、海に突き出た岬のような所にあった。リスが目前を横切って、木によじ登っていく光景が見られるような、北米ではよくみかける公園だ。ここで、ゴルフはまだ初心者であった私と妻が、ピッチ アンド パット ゴルフに挑戦。ピッチングとパターとボールの貸し賃を含めて1,000円程度のプレー代で、18ホールのミニコースを1ラウンドできるというシステム。18ホールも回れるか心配していたが、プレーに時間がかかれば、「お先にどうぞ」、最も長いコースで私が偶然にもワンオンすると、ギャラリー(周りで見ていたカナダ人達)からヤンヤの喝采を浴び(ちょっと、トーナメントプロの気分)、本当にノビノビと楽しくプレーできた。(お恥ずかしい話ですが、国内では後にも先にもこれほど楽しい気分でラウンドしたことはない。)
 カナダでの最後の夜、どのように過ごしたのかあまり覚えていないが、前半はトラブル続きで落ち着かなかった旅行も後半は少しは余裕が出て、現地の人々との触れ合いもあり、多少月並みですが「まだ帰りたくなーい」の心境だったように思う。観光旅行の宿命で仕方がないのだが、これがホームステイだったら、もっと帰国したくない気持ちが強かったかも知れない。




 *帰国の日(5/24)

 朝、この日も快晴。旅行社差し回しの白いリムジンで空港へ。運転手は、映画にでも出てくるような大柄な黒人(結構、日本語が上手)。後部座席では、アルコールも飲めるようになっていたのだが、私は極端な下戸なので残念ながら口にできなかった。「涙で曇って」というわけでもないのだが、外の眺めなどはほとんど記憶していない。ただ、帰国するということだけで、万感こみ上げるとでも言うのか胸が詰まるような感じがして、帰国後も少なくとも長女が誕生するまで(約3年)は、職場などで嫌なことがあると、「カナダに帰りたい」が夫婦の合言葉のようになっていた。わずか1週間の観光(新婚)旅行で、それほどの人的交流がなくてもこうなのだから、1ヶ月も居て、言語を含めて人間的な交流を深めていたらどんな気持ちになっていただろう。もっとも、普通は働かなければそんな長期滞在はできないし、仕事で職場が変わると、国内で言葉には不自由しなくとも慣れるまでの最初の1ヶ月は、1年以上にも長く感じられるのだが・・・・。このときの心境を今考えると、最後の1日の印象が特に良かったためにカナダの印象そのものが良くなったとも思えてくる。旅行社に掛け合って、旅行を1日延ばしてくれた妻に今更ながら感謝!



 *帰りの飛行機内

 機内の狭さと、機内食の味は行きと同じだったが、帰りの飛行機はガラガラで、ジャンボ機の中央5席にはほとんど人が居らず、旅慣れた感じのアジア系の女性(フィリピン人?)が途中から長々と寝そべって乗っていたくらいだった。もう一つ大きい変化は、出発時の航空会社がM&Aのために規模から言えば下位の航空会社に買収されたこと。搭乗券などはそのままで乗れたが、同じ航空会社の飛行機でも早いものは会社名が消されているものも見かけた。



 *羽田のホテルで

 飛行機の到着は夕方で、富山へは連絡時間の関係上帰れず、羽田のホテルで一泊。ここで、驚いたことは朝食の値段の高かったこと。何と、1人2,500円!ビクトリアで、軽いとは言え夕食を2人で1,500円足らずで食べられたことを思うと、ほとんど暴利としか言いようが無い。まあ、「これが経済大国日本の現実か」と思い知らされた気がした。


 以上、私の今のところ唯一の海外旅行体験記を書いてみました。もし、最後まで御覧になった方がいらっしゃいましたら、お疲れ様でした。仕事柄、まだ当分の間は新たな海外旅行はできそうもありませんが、短期間の旅行の割には、いろいろな経験ができたと思います。特にトラブル続きだった前半は、今思ってもハラハラドキドキの連続で、これがもっと治安の悪い国や英語が通じない国、現地に日本人ガイドが居ない国だったらと思うと・・・・。でも逆に、現地の人達や生の言語にもっと触れて、短期滞在の観光旅行とは一味も二味も違う体験をしてみたいと思うようになったのは、あの旅行から10年以上の時を経て、更にヒッポファミリークラブに参加するようになってからの最大の自己変革の一つだと思う今日この頃です。            
(1998/08/29 記)


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