りゅうじんの独断と偏見の人生哲学
(社会生活・人間関係編2)

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与えることと受け取ること2012.5.19NEW

喧嘩するほど仲がよい2012.1.31

東日本大震災と原発2011.8.23

9.11事件に関する考察2011.8.23

どうでもいい世の中2010.10.6

ご近所づきあいのすすめ2010.8.5

口蹄疫騒動に思う2010.6.8

人間はいかに生きるべきか2008.10.24

動物と人間2008.5.22

喜べること、喜ばれること2008.3.31

本物と偽物2008.3.7

苦しむ人のパターン2008.1.29

あなたのしたいことをすればいい2007.4.10

いいところを見る2007.1.31

自分にとって今必要なこと2006.10.9

やりたいならやればいい2006.10.4

「受け止める」と「受け入れる」2006.7.21

腹は立たない、立てているだけ2006.5.23

決められたことに従う怖さ2006.4.2

守らねばならないもの2006.3.9

自分の幸せ、みんなの幸せ2006.2.18

行動のベースになるもの2006.2.17

非対立のすすめ2006.2.14

人生の目的2006.2.13

臓器移植について2006.1.23

こうすればいい、こうしてはいけない2006.1.21

五事を大切に2005.12.1

自信について2005.10.29

昨日にとらわれず、明日を案じない2005.10.20

怒りと悲しみ2005.10.15

自立の大切さ2005.10.12

不毛な議論2005.6.23

生きるのはつらい?2005.3.19

脳味噌とは2005.1.12

某大統領の犯罪2004.10.30

人は自分を映す鏡2004.3.9

意見の食い違いの対処2004.1.24

比較は必要か2003.4.10

期待と不安2003.3.25

生き方にマニュアルはない2002.12.22

認められることの喜び2002.11.14

嘘はいけないか2002.10.13

否定の招くもの2002.9.14

いつも幸せでいるには2002.8.25

仕事上のトラブル2002.3.14

成人の日に思う2002.1.14

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与えることと受け取ること

与えることと受け取ることは、両方があってはじめて成立します。与える人がいなければ受け取れませんし、受け取る人がいなければ与えたくても与えることができません。

例えば何か作っても、それを使ってくれる人がいなければ作る意味はありません。また、例えば歌手が誰かに自分の歌を聴いてもらいたいと思っても、お客さんが来てくれなければ聴いてもらえません。

そういう意味で、与える方と受け取る方は同等であり、そこに上下はありません。ややもすると、お金の社会ではお金を払う人の方が偉いというような錯覚も起きますが、それは経済社会ならではの勘違いでしょう。

また、例えば一方的に誰かが誰かの面倒を見ているような場合は、面倒を見ている方が上と思えるかもしれませんが、それも双方にとってその経験をする必要があって起きていると考えれば、やはりどちらにとっても同じように意味があることになります。

そして、与える側、受け取る側に最も必要なことはお互いへの感謝の気持ちです。与えるにしろ、受け取るにしろ、お互いが存在しているからできることであるという認識の元に、お互いに、またそういう経験をできることに感謝する気持ちが大切だと思います。

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喧嘩するほど仲がよい

「喧嘩するほど仲がよい」という言葉があります。喧嘩にもいろいろあるでしょうから一概にはそうも言えないかもしれませんが、言いたいことを言える間柄だから喧嘩にもなるんだろうし、仲がいい人間同士でもちょっとした行き違いが起きることは間々あると思います。

過去を振り返ってみてください。自分と近しい関係の人、例えば親子、兄弟姉妹、夫婦、恋人、友だち、会社の同僚、上司部下など。長い時間一緒にいるような近い関係の人ほど、過去に必ず何度かは言い合いになったり、気まずい思いをしたことがあるのではないでしょうか。

人間というのは全く同じ人はいないわけで、好き嫌いや、習慣、性格の違いなどで必ず意見の食い違いが出てきます。近しい関係であるほどいろいろ言いたくなるし、たまには喧嘩になるのも当然だと思います。

言い合いや喧嘩をしてみて、本当にその人とは合わない、関わりを続けることが苦痛だと思ったのなら、可能なら離れるなり、遠ざかるなりすればいいと思います。でも、本当に自分が必要とする人なら、お互いが思いやりを持つことで、その後、仲良くやっていけるようになるのではないでしょうか。

近しい関係ならたまには喧嘩をするのも当たり前、喧嘩もしないような関係は、お互い正直になれないということかもしれません。

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東日本大震災と原発

2011年3月11日、日本で未曾有の大災害、東日本大震災が起きました。大地震の後、巨大津波で岩手、宮城、福島など広範囲にわたる沿岸が壊滅。あまりにも多数の死者、家を流されるなどした被災者を生みました。

そしてこの地震と津波で、福島第一原子力発電所の原子炉は停止、メルトダウンを起こして、建屋は水素爆発。多量の放射能が漏れ出ました。5ヵ月以上たった今も、どこまで被害が広がり、今後どのような影響が出るのかわかりません。

これによって原発の安全神話は崩れました。どんな対策を取ろうと、人間は自然の力には勝てない、原発は地震国日本にはあまりにも危険であることが証明されました。

しかし、この期に及んでも今のところ、日本ははっきりと脱原発に向かわないようです。原発がなければ電気の安定供給ができない、暮らしが困る、経済が困るという政府や電力会社の脅しを国民は真に受けているのでしょうか。

電気は溜められませんから、一番電気を必要とする真夏の日中でも足りるように発電施設は作られています。ですから、今回のように原発を止めた状態でも夏を乗り切れれば、原発はなくても電気は足りるということです。また、仮に足りないとしても、これほどまでに危険な原発に頼らなければならないほど電気を必要とするような暮らしはしてはいけないということでしょう。

政府や電力会社がそれでも原発を推進したいのだとすれば、それは間違いなくお金のためでしょう。そんなことのために国民は命を危険にさらさなければならないのでしょうか。

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9.11事件に関する考察

2001年9月11日、アメリカで起きた同時多発テロ事件、いわゆる9.11事件に関する私見を述べます。

この事件は、世界貿易センタービルの北棟、南棟にそれぞれハイジャックされた旅客機が突っ込み、直後にビルは全壊、その後、アメリカ国防総省(ペンタゴン)にも旅客機が激突。また、もう一機は別の場所に墜落したというものです。

アメリカ政府の発表では、事件直後からオサマ・ビンラディン率いるアルカイダの仕業とされ、アメリカはビンラディンの潜むとされるアフガニスタンへの攻撃を開始しました。ビンラディンは10年経った今年発見、殺害されたとの報道がありました。

私は複数の知人から、この事件には不可解な部分が多数あると聞き、本やDVDなどさまざまな資料を見聞し、真相を究明しようとしている研究者の講演会のお手伝いもしました。

ビルの崩壊の仕方が不自然すぎる、ペンタゴンに旅客機が突っ込むのは物理的に不可能、そんな大きな穴は空いておらず、飛行機の残骸も見つかっていない……挙げればきりがないほどおかしな点が出てきます。

そして、私が今思っていることは、この事件はアメリカ政府の全くの関与なしには起こせなかったのではないかということです。アメリカ政府は、自作自演したか、少なくとも事前に情報をつかんでいて見逃した。

あまりにもことが大きすぎるため、こういった意見は陰謀説と言われ、はなから相手にしない人も多いです。事実を誰がどこまで知っているのか、そして隠しているのかはわかりませんが、報道も見事に規制され、真相は闇に葬られようとしている気がします。

真相がどうなのかはっきりしたことはわかりませんが、私が言いたいのは、この社会は信じられないほど腐敗しているということです。誰かの都合でとんでもないことが起こり、情報は操作され、素直な人々は赤子の手をひねるように騙されている。

現在の経済システムにも同じことが言えます。一人ひとりが、与えられるだけの情報を鵜呑みにせず、自分で調べ、考え、判断していく必要があると思います。

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どうでもいい世の中

どうでもいいことを学び、どうでもいい仕事をし、どうでもいいことでがんばり、どうでもいいことで悩み、どうでもいいことで苦しみ、どうでもいいことを心配し、どうでもいいことを不安に思い、どうでもいいことを恐れ、どうでもいいことで怒り、どうでもいいことで争い、どうでもいいことで傷つき、どうでもいいことで疲れ、それがどうでもいいということにも気づかず死んでいくのが人生であるような世の中はなんとかしたい。

今の世の中、どうでもいいことが大切だと思われていたり、大切なことがどうでもいいと思われていることがとてもたくさんある気がします。お金のいらない国になれば本当に大切なことがはっきりし、どうでもいいことはなくなると思います。

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ご近所づきあいのすすめ

昔の日本は、今よりご近所づきあいが盛んだったようです。古典落語などを聴きますと、江戸時代では一般庶民は長屋に住んでいて、町内にはご隠居さんが居り、みな家族のように暮らしていたみたいです。また、私の記憶では昭和30年代くらいでも、近所の商店街で買い物をしたり、お風呂屋さんに行ったり、ご近所さんとの関わりは深かったと思います。

もちろん、都会と田舎では違うでしょうし、文明の進歩や生活様式の変化などにより、ご近所との関わり方も変わってきて当然でしょう。現在ではお隣の人がどんな人で何をしているのかもわからないということも多いと思いますが、それも仕方のないことかもしれません。

しかし、人間は一人で生きていけるものではないし、私は、核家族のように家庭が少人数で孤立してしまうことにとても危険を感じます。

家庭内で起こった問題は、すべて家族の中だけで解決しなければならない。家族といっても人と人。他人でない分、遠慮もなくなり、喧嘩になればエスカレートもするでしょう。一緒にいるのが嫌だと思っても簡単に家を飛び出すわけにもいかず、ストレスを抱えたまま長年暮らしていかなければならないこともあるのではないでしょうか。

ですから、ご近所、あるいはそう遠くない距離に気心の知れた友人なり別の家族がいることは、とても大切なことだと思います。そこに行けば、家族には言えないことを言える人がいる。誰かが話を聞いてくれる。そういう環境はぜひ作っておくといいと思います。

もちろん、誰にでも何でも話せるわけではないし、相手は選ぶ必要があるでしょう。余計な口をはさむことなく、ただ黙って話を聞いてくれる人が理想的かもしれません。

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口蹄疫騒動に思う

2010年春、宮崎県の牛、豚などの家畜に口蹄疫が流行。感染力の強い病気のため、貴重な種牛を含めた何万頭もの牛や豚が殺処分され、多くの畜産農家は職を失ったり、大きな打撃を受けた。6月に入った現在、感染は一応収まったようだが、今後の生活保障、社会に与える影響など問題は山積みといったところである。

当事者の方たちには本当にお気の毒という他ない。何年も手塩にかけて育ててきた牛や豚たちが、病気に感染していようといまいと、発生地から半径10km以内にいたというだけで殺されていく。その悲しみ、悔しさは想像を超えていよう。

それを踏まえた上で私は思う。お金のいらない国だったらどうだろう。お金のいらない国だったら、職を失った畜産農家も今後の生活の心配をする必要はない。これで最大の問題は起きない。

口蹄疫にかかった動物はどうするか。普通なら病気は治療するだろうし、感染を避けるために隔離するとしても、殺処分まではしないのではないか。まして、病気にかかっていない牛や豚まで。もしこれが人間だったら、まさか半径10kmの人間を全員殺すわけにもいくまい。

お金のいらない国で、仮に全ての牛や豚が感染したら、もう牛豚肉を食べることはやめるだろう。肉食がいけないとは思わないが、肉を食べなくても死ぬわけではないし、食べられないとなれば食べないまでのことである。

そもそも動物たちから見れば、人間の都合で食べるために作られ、病気になればただ殺されるというのだからたまらない。原因を作ればそれ相応の結果が生まれる。これは驕った人類への警告かもしれない。

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人間はいかに生きるべきか

人間は、この地球上に生を受けた動物の一種です。人間は、最大でも地上10kmほどの大気の存在する範囲の中でしか生きられません。また地上も、水や食べ物、気候などの環境が整っていなければ人間は生きることができません。

人間はこれまで、地上、あるいは地下からさまざまな資源を発見し、それを利用してきましたが、資源は再生する速度より早く使い続ければ、いずれはなくなります。

資源がなくなれば、少なくともその資源を利用した生活はできなくなります。その場合はそういった生活をやめるか、代わりになる他の資源の利用法を開発することが必要になります。

しかし、いずれにしろ、限りある資源を無計画に使い続ければ、そのうち行き詰まるのは目に見えています。それが生きるのに欠かせないものであるなら致命的です。

では人間はいかに生きるべきでしょうか。それは明白です。

資源は再生可能なものを、時間的にも量的にも再生できる範囲で使い、環境に悪影響を及ぼすような使い方はしなければいいのです。今までそうしてきてしまったと気づいたのなら、やめればいいのです。

人類、あるいは地球上の生物の存続を望むなら、それ以外に生きる道はありません。

人間がいかに生きるべきかは明白です。

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動物と人間

自然界の動物たちから、人間はいろいろなことを学べます。

彼らにとって大事なのは、食べることと交尾すること。非常に明快な、動物として生きる上での基本です。そして動物たちはそれらが必要なだけ満たされれば、それ以上は求めないし、天敵が現れなければ寝ているでしょう。

食物連鎖の関係上、襲われれば逃げるし、戦うこともあります。また、摂食や繁殖のための縄張り争いなどもあるでしょう。しかし、動物たちの争いは生きる上に必要なことであると言えます。

人間はどうでしょう。先進国では食べきれない食料をたくさん捨てています。太り過ぎて困っている人もいます。交尾は人それぞれでしょうが、結婚などの制度に縛られ、苦しみを作っているようにも見えます。

また、人間は食べるためでもないのに、戦争をして人間同士で殺し合っています。動物の一種であるはずの人間の求めているものは、生きるという目的から外れているのではないでしょうか。

動物たちは人間のように、生きることに直結しない欲望は持たないでしょうし、人間のように苦しむことも悩むこともないでしょう。そういう意味では、人間は動物としての原点に返り、生き方を見直す必要があると思います。

しかし、人間は他の動物とは違うことも事実ですから、すべて動物と同じにすればいいというわけではないでしょう。

人間は複雑な思考ができ、さまざまなものを生み出す能力を与えられています。与えられるものに無駄なものはないはずですから、その能力を生かすことも人間の使命なのだと思います。

悩むのも人間の特権であるなら、必要なことなら悩むのもいいでしょう。考え、悩み、そこから何かしらの答えを見つけていく。これも他の動物にできることではない、人間の生かすべき能力でしょう。

私たち人間はそれだけのものを与えられているのですから、何を思い、何を目的に、どのように生きるかということを考える必要があると思います。

人生は、いたずらに食べることや交尾することを目的にすればよいわけではなく、また、殺し合い、傷つけあうことや、とどまるところを知らない物質的発展を目指せばいいわけでもないでしょう。

つまるところ、ある面では動物たちを手本にしながら、人間にしかない能力を生かしつつ、あらゆる生物が幸せに生きられる世界を築いていくことが、人間に与えられた使命であり、人間としてあるべき姿なのではないでしょうか。

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喜べること、喜ばれること

行動を起こす場合は原則として、相手あるいは誰かに喜ばれること、自分も喜べることをしようとするといいと思います。

ひとりよがりや押しつけは迷惑になりますが、人に喜んでもらえ、自分も喜べることを誰もが自然にできる社会なら、みなが幸せに生きられるのではないでしょうか。

敢えて相手が喜ばないことをしようと思う場合もあるかもしれませんが、それはよくよく考えた方がいいし、自分の責任や負担も大きくなると思います。少なくとも、正義感や、復讐心をベースにはしないほうがいいでしょう。

ある人は喜ばないであろう行動でも、他の人には必要なこともあるかもしれません。そういう行動を起こそうとする場合は、大局的に見た冷静な判断と、先を読む力が特に必要になります。

喜ばれると思ってしたことが喜ばれなかったような場合は、読みが甘かったのかもしれません。その場合は原因を追究し、反省することが必要でしょう。また、すぐには喜ばれなくても、後々喜ばれるような結果が出ることもあるかもしれません。

人間である限り、誰もが永遠に未熟です。生きて行く上では、人の嫌がることをしてしまう、あるいは、よかれと思ってしたことがよい結果を招かないことも多々あるかもしれません。

それを踏まえた上で、人が喜び、自分も喜べることをしようと思いながら生きて行きたいものです。

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本物と偽物

世の中には本物、あるいは偽物と言われるものがあります。どれが本物で、どれが偽物か。この判断はなかなか難しい。

ブランドもののバッグのように、本物があって、それに似せて作った偽物がある場合は、見分けはつきにくくても本物と偽物の違いは調べればわかるでしょう。

しかし、例えば薬のような場合。こういうものは偽物とは言わないかもしれませんが、プラシーボ効果も含めて、その人に効けば本物であり、効かなければ本物ではないということになる。人によって効果、判断は違ってくるわけです。

宗教などでもそうです。その教えに納得し、自分になんらかのプラスになればその人は本物だと判断するだろうし、そう感じない人には、インチキだ、詐欺だ、信じているやつはおかしいと言われたりする。もちろん、人道に反するようなことをしていればおかしいと言われて当然ですが、要は、こういったものも本物かどうかは一概に決められないということです。

つまるところ、何かを自分が本物だと判断し、人にすすめたいと思ったような場合でも、その存在と客観的な事実を知らせるにとどめ、後は当人の判断に任せるしかないということになります。執拗な勧誘や押しつけは、逆に信頼を失わせ、人間関係を壊すことにもなりかねません。

また、良くも悪くもこの情報にあふれた社会では、本物の情報とニセ情報を判断することも至難の業です。当局の都合で、巧みな情報操作が行われ、大衆は嘘を信じ込まされていることも多々あるかもしれません。何ごとも安易な思い込み、判断をせず、柔軟な思考をする必要があると思います。

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苦しむ人のパターン

世の中には苦しんでいる人がたくさんいます。要因はさまざまでしょうし、この世を生きる上では誰でも多少の苦しみは感じていると思いますが、日本のような一応平和な国で、苦しみがずっと続いている、あるいはいつも何らかの原因で苦しんでいるような人は、本人に問題がある場合も多いのではないかと思います。そういう人のパターンを考えてみました。

● 人の話が聴けない
人の話が素直に聴けない人というのは、自分の檻から出られません。自分の思い込みや固定観念に縛られ、それが原因で苦しむことになります。どんな人の話でも鵜呑みにすることは危険ですし、自分は違うと思えば受け入れる必要はありませんが、人の話にはとりあえず耳を傾けてみましょう。問題解決のヒントが見つかるかもしれません。

● 事実を受けとめない
起きたことは、それが事実なら否定のしようがありません。自分に都合の悪いことはなかったことにしたいと思っても、起きたことが消せるわけではありません。どんな経験も事実として受けとめ、そこから学ぼうとしないと、悔やんでいても苦しいだけで進歩はないでしょう。

● ものごとを整理して考えられない
問題が起きる場合、その原因は一つではないことが多いと思います。問題の起きた原因や過程を分析して整理し、急を要するものから対処していかないと、トラブルは解決しないばかりか悪化することも多いでしょう。パニックに陥ったり、感情に流されて冷静さを失うとそれが特に困難になります。

● マイナス思考
何でも悪く考えてしまうと、せっかくの可能性を失います。不可能なことは不可能でしょうが、初めからできないと思っていたら、できるわけがありません。危機管理は必要ですが、ある程度は楽天的に考えないと人生は楽しくないと思います。また、他人の悪いところばかりに目が行ってしまう人は、友だちもできにくいでしょう。

● 自分で考えない
自分で考えない人は、自分の行動に責任を持ちません。人の言いなりで動いて失敗でもすれば、責任転嫁と逆恨みです。下手なアドバイスはする方も悪いですが、結局痛い目に遭うのは自分です。自分で考え、行動すれば、結果がどうであれ納得できると思います。自立は人間にとってとても大事なことだと思います。

●固定観念に囚われている
教育や、周囲の環境によって植えつけられた固定観念は、多くの場合、不自然です。それに合わせて生きようとしなければならないと思うから苦しいことも多いのではないでしょうか。この経済社会においてはある程度仕方ないところはありますが、ものごとは本質を見極めた上で、柔軟に対処できれば、生きるのも楽になると思います。

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あなたのしたいことをすればいい

あなたのしたいことをすればいい。
何をしてもかまいません。
こうしろとも、こうしてはいけないとも言いません。
あなたがあなたのしたいことを
あなたのしたいようにすることを望みます。

ありのままのあなたでいい。
どんなあなたでもかまいません。
こうあってほしい、こうでなければいけないとは言いません。
ありのままのあなたが
ありのままに生きることを望みます。

すべての人が、すべての人に対してこう思えたら、
依存や責任転嫁はなくなるでしょう。
過干渉や支配はなくなるでしょう。
独占や束縛はなくなるでしょう。
嫉妬や羨望はなくなるでしょう。
見栄や背伸びはなくなるでしょう。
比較や競争はなくなるでしょう。

みんな楽に生きられるでしょう。

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いいところを見る

好きな人、嫌いな人はいますか?

好きな人はどんなところが好きなんでしょう。嫌いな人は、どんなところが嫌いなんでしょう。嫌いな人でもいいところはありませんか?いいところが見つかったら、好きになるかもしれません。

私は、どんな人でもいいところを見れば好きになれるし、いやなところを見れば嫌いになるのではないかと思います。

いいところ、いやなところも人によって感じ方は違うでしょう。人の好みはいろいろですから。また、好き嫌いというのも変化するし、曖昧なものです。

例えば、恋愛をしている時は、あばたもえくぼなんて言葉もあるように、何でもよく見えたり、見ようとしたりします。でも、何らかのきっかけで嫌いになると、すべてが悪く見えたりします。

何ごとも、あまり好きと嫌いに分けない方がいいのではないでしょうか。好きだと思い込んでいると、何かの折に裏切られたと感じることもあるかもしれません。嫌いだと思い込むと、いいところが見られなくなります。

好き嫌いにこだわらず、誰に対しても、いいところを見るようにした方が人間関係はうまく行くと思います。

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自分にとって今必要なこと

自分にとって今必要なことが起こる。
自分にとって今必要な人が現れる。

今起きているのは自分にとって必要なこと。
今周りにいるのは自分にとって必要な人。

それは移り変わる。
必要なだけはとどまるが、
必要がなくなれば流れて移り変わる。

流れに任せないとよどむ。
流れに逆らったり、何かにしがみついたりしていると
水が汚くなり、自分も汚くなる。

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やりたいならやればいい

やりたいならやればいい。
やりたくないならやらなきゃいい。

もし、誰かに「やって」と言われることがあったら、
やりたいことなら「喜んで」と言ってやればいい。
できるかなとか、やれなかったらどうしようなんて 考えなくていい。
やれないことは人は頼んでこない。

ただ、やりたくないならやらなきゃいい。
その時は、できないからじゃなくて、
やりたくないからと言えばいい。

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「受け止める」と「受け入れる」

高木善之さんの言われている五事の三番目に「受け止める」があります(「五事を大切に」参照)。

人の話を聴くとき、大事なのは相手の話をとにかくよく聴き、受け止めることです。受け止めずにいきなり反論したりすると、相手はちっとも自分の話を聴いてくれていないと感じ、理解し合うどころか、こちらを信頼できなくなり、次から何の話もしてくれなくなるでしょう。

夫婦、親子、上司部下など、人間関係のコミュニケーション上のトラブルのほとんどは、この「受け止める」ができていないために起こっているのではないでしょうか。

ここで大事なのは、「受け止める」は「受け入れる」ではないということです。相手の意見に賛同し受け入れるか、受け入れないかは、受け止めた後に考えればいいことなのです。相手にはとにかく受け止めてもらえたと感じてもらうことが大事です。

たとえ、話を聴いたあとで賛同できず、反対意見を言うことになったとしても、この人は自分の話をちゃんと聴いて、受け止めてから言ってくれていると感じるのと、ろくに話を聴きもしないで自分の意見を押しつけていると感じるのでは、同じ話をしても今度は相手の受け止め方に天と地ほどの差が出るでしょう。

とにかく受け止めさえすれば、こちらは何も言わない方がいい場合も多いかもしれません。相手は言葉にすることによって自分の考えを整理し、自分で答えを見つけることも多いのです。余計なアドバイスならしないほうが相手のためでもあり、その後の相手との関係を考えると自分のためでもあるでしょう。

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腹は立たない、立てているだけ

腹は立たない、立てているだけ。高木善之さんが言われている言葉です。

あなたはどんな時に腹が立ちますか?自分の思い通りにならなかった時。人が自分の思うように動いてくれなかった時。

でも自分が腹を立てなければ、腹は立ちません。他人はあなたに腹を立てさせるようなことはできても、あなたの腹を立てることはできないのです。腹を立てたのはあなた自身なのです。

腹を立てると疲れます。体にもいいことはありません。腹が立っているのを無理に抑えるのもよくありませんが、そうなる前に、腹は立てなければいいのです。

腹を立てると多くの場合、その怒りは増幅します。あまりエスカレートすると物を壊したり、暴力をふるって人を傷つけたりすることもあります。そしてそこまでいくと、まず例外なく後悔することになります。

ということは腹は立てない方がいいし、少なくとも早めに沈めた方がいいということです。そもそも、誰かに何かを期待したりしなければ腹を立てるようなことはないのです。自分に腹を立てさせる原因を作るような人に期待するからいけないのです。

腹を立てねばいけないようなことは何一つありません。腹を立てている人を見て格好いいと思ったことがありますか?腹を立てるのは幼稚な人間です。

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決められたことに従う怖さ

決められたことに、ただ従う。自分で考えず、判断せず、行動をマニュアル化する。それがなぜ怖いかという簡単な例です。

赤信号があります。横断歩道の手前で青になるのを待ちました。青になったので渡りはじめました。信号無視の車にひかれて死んでしまいました。

もちろん、ルールを無視した車が悪いでしょう。しかし、死んでしまえば、もともこもありません。決められたことを守ればよいわけではないのです。

この世は、常識、習慣、法律など、決めごとだらけです。もちろん、守らねばならないルールもあるでしょう。しかし、どうでもいいことや、植えつけられた価値観、既成概念にとらわれ、苦しみを生み出している場合も多々あるのではないでしょうか。

たとえば、結婚しなきゃいけない、子供ができなきゃいけない、学校に行かなきゃいけない、お金を稼ぐために働かなきゃいけない、家を継がなきゃいけない。自分がそうしたいならまだしも、それを人に押し付けたり。

したいようにすればいいんです。なるようになればいいんです。自分の人生は自分で考え、自分で切り拓くもの。人の人生の邪魔もしないようにしましょう。

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守らねばならないもの

あなたには、守らねばならないものがありますか?

守らねばならないと感じるのは、なくなっては困るもの、壊れては困るもの、あるいは盗られては困るものでしょうか。

お金?この世はお金の存在する社会ですから、ある程度のお金は必要です。でも、あまり余分に持たなければ、失う心配も少なくて済みます。

お金以外の財産?これも無い方が気楽でしょう。また、物質は永遠のものではありませんから、守ろうとしても限界があります。

地位?それを失うのは時間の問題です。名誉?それは既に過去のものです。

家族?支え合いは必要だと思いますが、守ろうとするより、束縛しないように気をつけた方がいいでしょう。

主義、主張?個人の自由ですが、柔軟性を失うと対立を起こし、孤立あるいは自滅するでしょう。

地球環境?これは守るというより、破壊をやめることです。生きる場所を与えられ、守ってもらっているのは人間の方です。

命?命が危険にさらされるような世の中がおかしいのです。仮にこの世の命を失っても消えてなくなるわけではありませんが。

このおかしな経済社会だから、余計なものが必要とされ、大事なものが勘違いされ、奪い合いが起こり、いろんなものを守らねばならないと思い込んでしまうのではないでしょうか。所有という概念は幻想だと思います。守るものは少なければ少ないほど気が楽です。私は、本来、守る必要のあるものなどないのではないかと思います。

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自分の幸せ、みんなの幸せ

幸せとは自分の気持ち次第ですから、どんな状況においても、自分が幸せだと思うなら幸せであり、他人が「あなたは幸せだ」とか「幸せではない」などと、決められることではありません。また、幸せにもいろいろな次元や種類があるでしょう。

それを踏まえた上で、ここではとりあえず、生きていく上に必要なものは過不足なく手に入れられ、基本的に安全な社会に暮らせることを幸せということにします。

そこで、自分の幸せと他人の幸せについてどう考えますか?自分以外の人が幸せとはいえない状況におかれているとしても、自分は幸せだと思えるでしょうか。

たとえば、同じ地球上にありながら、飢餓、貧困の国では、毎日4万人以上の子供たちが亡くなっています。身近に起きていることではないかもしれませんが、では仮に、死にゆく子供が隣にいても、自分は幸せだと思えるでしょうか?

自分だけの幸せはあり得ないのです。自分が幸せであるためには、すべての人が幸せでなくてはならない。みんなの幸せと自分の幸せはひとつなのです。自分だけの幸せを求めても、本当の幸せはやってこない。みんなの幸せが実現してはじめて、自分も本当に幸せになれるのです。

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行動のベースになるもの

行動を起こそうとする場合、そのベースになるものが何であるかが重要になります。その動機となった思いは何かということです。

たとえば、「怒り」によって運動を起こす。「憎しみ」によって殺人を犯す。「正義」のために戦争をする。

本来、持たなくてよい感情である「怒り」、「憎しみ」をベースにした行動は、対立を生み、被害者、犠牲者を出します。

行動を起こすなら、そのベースは「愛」である必要があります。どんな些細な行動でも、ベースが「愛」であればよい結果を生むでしょう。

「愛」がベースの運動なら、対立は起きないでしょう。殺人は、他人を殺すにしろ、自分を殺すにしろ、人が最もしてはいけないことですが、「愛」がベースの殺人というのも、非常に例外的にはあるかもしれません。

さて、やっかいなのは「正義」です。これは一見正しそうに見えます。しかし、「正義」とは多くの場合、一面的な見方、自分に都合のよい思い込みです。「正義」のために戦争を起こす場合、そこには「愛」がないのです。

「愛」がベースの戦争はありません。だから、戦争はどんな理由があっても起こしてはならないのです。

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非対立のすすめ

「非対立」これは、ネットワーク『地球村』代表、高木善之さんが掲げられている言葉です。

「非対立」とは、文字通り、対立しないということです。相手が誰であっても、どんな人であっても、何を考えていても対立しません。自分は全く違う考えであっても、対立はしません。とにかく相手を認めます。

自分の主義、主張を押し付けません。抗議もしません。反対もしません。戦いません。説得もしません。

ただ、ここで大切なのは、「非対立」は「避対立」ではないということです。対立を避け、我慢したり、問題から目をそらしたり、逃げたりするわけではありません。

問題の原因を徹底的に探り、相手の立場や気持ちを理解し、愛と勇気をもって解決に向けて努力する。目先の利害に惑わされず、単純な勝ち負けで決着しようとせず、焦らず、長い目で考える。こちらさえ敵愾心を持たなければ、対立は起らないはずです。

それには自分の幸せばかりでなく、相手の幸せ、すべての人の幸せを考えて行動することが大切です。自分の幸せはすべての人の幸せがあって初めて生まれる。その気持ちが相手に通じれば、対立は起こさなくて済むし、問題は解決に向かうのではないでしょうか。

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人生の目的

あなたの人生の目的は何ですか?

人生を航海していく上では、海図(チャート)が必要になります。海図がないと、道に迷い、目的を見失い、船は難破してしまいます。海図を作るには、次の3つのことを自分で設定する必要があります。

1.目的……最終的に目指すこと 一生をかけて目指すこと
2.目標……途中の地点で実現していくこと
3.課題……日々努力し、実践していくこと クリアすべき問題

たとえば、お金をたくさん貯めることが、人生の目的だと思っている人。お金は、使う目的がはっきりしていなければ、貯めてもきりがありません。ですから、お金を貯めること自体は目的とは言えず、その人の海図はこんな感じかもしれません。

1.目的……なし
2.目標……お金をたくさん貯めること
3.課題……勤勉に働くこと

これは結構、世に言う、いいお父さんかもしれません。しかし、目的のない人生は、満足した一生になるでしょうか。

では、仮に目的をマイホームを建てることとしてみましょう。しかし、人生の最終目的がマイホームだったら、建った後は生きている必要はないことになります。これも、空しいのではないでしょうか。

同様に、組織に属している間しか意味のない「地位」や、手にした時点で過去のものになる「名誉」も、目標にはなったとしても、目的にはなり得ません。

では、目的を、自分あるいは家族が幸せに暮らすことにしてみましょうか。しかし、それは今すぐ必要なことです。目的ではなく、課題でしょう。

また、自分や家族が幸せならいいのでしょうか。幸せとは何ですか?目的となり得る幸せとはどんなものでしょう。海図はそこまで考えなければ作れません。

さあ、以上を踏まえて、ご自分の海図(チャート)を作ってみてください。

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臓器移植について

受け売りの部分が多くなりますが、ぜひお伝えしたいことなので記しておきます。

人類の医学は、他人の臓器を移植するということまで可能にしました。人として、生かせるものはできるだけ生かしたいという思いはあって当然でしょう。また、さまざまな見解があると思いますから、一概に、いい悪いは決められないかもしれません。

しかし、臓器移植は、数々の深い問題をはらんでいます。

たとえば、脳死とはどんな状態を指すのか。臓器移植の際は、脳死状態の人から臓器を取り出すわけですが、臓器移植が行われるようになる以前は、「脳死」という言葉はなかったそうです。それまでは、「脳不全」と呼ばれていました。不全とは、不完全という意味で、腎不全、肝不全と同じように、死んでいるわけではありません。

脳死状態の人の肉体にメスを入れると、筋肉の収縮や痙攣が起こるそうです。以前、臓器摘出は麻酔なしで行われていましたが、それが手術の妨げになるので、今は全身麻酔が義務づけられたそうです。死体にメスを入れても筋肉の収縮や痙攣は起きませんから、脳死状態の肉体は死んではいないということになります。そして、脳死状態の肉体から臓器を取り出すと、肉体は死んでしまいます。

もし、自分がドナーだったとしたら、臓器移植の際、どんな気持ちでいるでしょう。意識は近くをさまよいながら、これから自分の肉体に起こることを見ているかもしれません。

スマトラ大津波の際、孤児が臓器売買のために捕らえられ、売られたという事実があるようです。それ以外にも、臓器は高く売れるのでビジネスになっているという話を聞いたことがあります。そして、貧しい国の子供たちの臓器は、金持ちの国の子供たちに移植されます。

人はいつか必ず死にます。どんな治療をしようと、死は先延ばしにされるだけで、誰にも必ず訪れます。生物にとって、本来、死は忌み嫌うものではなく、必要な、受け入れざるを得ないものです。臓器移植によって、犯罪、悲劇などが生まれる可能性があるとしたら、私はやめたほうがいいのではないかと思います。

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こうすればいい、こうしてはいけない

人はよく、いい、悪いをどちらかに決めたがったり、決めてもらいたがったりします。こうすればいい、こうしてはいけない。あるいは、これはしていい、これはしてはいけない。

いい、悪いが決められていると、ある意味、楽です。自分が行動を起こそうとする時、その都度どうすべきか考えたり、悩んだりする必要がないからです。

しかし、いい、悪いは、時と場合によって、人によって、ものの見方によって変わることがあり、単純に行動のマニュアルのように思い込んでしまうことは危険です。

価値観や判断基準の違う相手と、いい、悪いを押し付けあうと、問題が起きます。誰々がこう言った、この本にこう書いてあるなどというのは正しいという保証にはなりません。それを唱えた人も、常にすべてに当てはまることを言っているとは限らず、受け手が曲解し、間違って解釈していることもよくあります。また、問題が起きた時に人のせいにするのは責任転嫁であり、考えずに従った自分が悪いのです。

現在の人間社会では、昔から決まっているから、常識だから、みんながそうしているから程度のことで、いい、悪いを決めつけてしまっていることも多いのではないでしょうか。当たり前だと思っていることが実は間違っているから、対立が起きたり、苦しんだり、トラブルになっているようなこともよくあると思います。

私は、いい、悪いで、唯一、決まっていると思うのは、「人の命を奪うことは悪い」です。しかし、人間はこの一番大事なことが守れません。お金と人の命を天秤にかけたり、正義という名のもとに戦争をしたり、自らの命を絶ったりします。

ただこれも、例外はあるかもしれませんし、例えば、必要以上の延命や、治療をしなかったことを、命を奪った、だから悪いと解釈すれば曲解です。

法律にしても、いろんな規則や宗教などの戒律にしても、一つ間違うと、人を縛り、自由を奪い、洗脳し、さまざまな苦痛や悲劇を生みます。どんなことであろうと、すべては鵜呑みにせず、自分で考え、納得したことだけを、自分の責任において受け入れることが大切でしょう。

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五事を大切に

五事とは、

1.よく見る
2.よく聴く
3.受け止める
4.わかる
5.変わる

これは、ネットワーク『地球村』代表、高木善之さんが、人と関わりながら生きる上で最も大切、と言われていることです。私も非常に共感していますので、自分の言葉で述べてみたいと思います。あらゆる人間関係や話し合いの場において、この五事ができていれば、トラブルは最小限に抑えられ、人間は進歩、成長するのではないかと思います。

1.よく見る
見るというのは、ただ目を開いている、見えているというのとは違います。視界に入っているというだけでは、何も理解できないでしょう。話を聴く時にも、話し手の目を見、表情を見、しぐさを見て、言葉の真意、感情を読み取ることが大切です。

2.よく聴く
聴くというのも聞こえているのとは違います。ただ耳に入っているだけでは何も頭には残らないでしょう。相手が何を言おうとしているのか、なぜそのように言っているのか、何を聴いてほしいのか。相手の立場も考え、本当に伝えたいことに耳を傾ける必要があります。そして、相手が話している時、自分の意見、次の発言を考えてはいけません。その時点で人の話は聴けなくなります。

3.受け止める
相手の言いたいことは、自分の考えは別として受け止める必要があります。よく見、よく聴いて、真意をつかみ、とにかくしっかり受け止める。ここでも、自分の意見が違っていたとしてもそれに囚われてはいけません。相手の意見を受け止めるだけです。ちゃんとこちらに伝わったことを態度で示せれば、カウンセリングなどは、この時点で90%は目的達成です。

4.わかる
そして、相手の本当に言いたいことを理解する。気持ちを理解する。共感できることは自分の腹に落とす。気づきが得られるのはこの段階です。もし、これ以前に自分の意見を言っているとしたら、自分もわからないし、相手には、自分の話を聴いてくれていない、自分の気持ちをわかろうとしてくれていないと思われるでしょう。

また、共感できないとしたら、どこに問題があるのか、じっくり考えてみる。相手または自分の理屈に無理がないか、感情に流されていないか、あるいは感情を無視していないか。そこまで考えて初めて、自分の意見を言うことを許されるのなら言えばいいかもしれません。

5.変わる
そして、本当にわかったら、自分が変わることが大切です。わかったと思っても、それで自分が変わらなかったら意味がないし、それはわかっていなかったということだと思います。どんどん変わり、成長してこそ人間。自分が納得したことなら、変わることを恐れずに、勇気を持って変わるのです。小さくてもいい、新たな一歩を踏み出すことで未来は変わります。

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自信について

『認められることの喜び』の項で触れたこととダブりますが、ここでは「自信」について考えてみたいと思います。

自信がつくのは、人から認められたと感じた時だと思います。自分の容姿や行為、才能などを、誰かがほめてくれたり、喜んでくれたりした時。

ですから、人のいいところを見つけてほめたり、ありがたいと思ったことに感謝の意を表したり、面白いと思ったら素直に笑ったりするのはとても大事なことです。それは、相手の自信につながり、その後の活力になるでしょう。

よいと思っているのにほめもせず、感謝しているのにそれを表さないと、相手のためにも自分のためにもならないでしょう。特に身内などに対して、恥ずかしがったり照れたりして気持ちを伝えないと、気づかないうちに気まずい関係になってしまうかもしれません。

自信が持てるとエネルギーが湧いてきます。その力は、その後の努力、精進の源になるでしょう。過剰な自信で傲慢になったり、力を過信することは危険ですが、ある程度の自信を持つことは誰にも絶対に必要なことです。

多くの現代人の悩みは、自分は誰にも必要とされていないのではないか、世間で生きていける自信がないといったもののようです。これは本人の思い込みもあると思いますが、周囲の人の、ほめることや、感謝の気持ちのアピール不足によるのではないかと思います。

大人でも子供でも、生きていくには自信が必要です。周囲の誰に対しても、ぜひ、よいところを見つけてほめてあげましょう。

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昨日にとらわれず、明日を案じない

人が苦しむのは多くの場合、過去のことを悔やんだり、未来のことを心配したりするのが原因です。でも、自分が生きているのは今なのですから、少なくとも今起きていることでなければ苦しむ必要はないし、苦しむくらいなら過去や未来のことは考えない方がましです。

過去に辛いことがあったのなら、その原因を探り、反省すべき点があったら反省すればいいのです。それができたらそれでおしまい。それ以上苦しむ必要はありません。忘れられないようなことがあっても、今から解決できないことなら考えても苦しんでも無駄です。

未来を心配するなら、今できることをすればいいのです。自分の力の及ばないことを心配する必要はありません。将来、後悔するのは、できることがあったのにしなかった場合です。今は、できることをする以外ないですし、できないことをやらなければいけないわけでもありません。

あなたが生きているのは今です。今この瞬間を生きているだけです。だから一瞬前のあなたと今のあなたは違うし、一瞬後のあなたも違うはずです。もちろん昨日のあなたと今日のあなたは違うし、明日のあなたも違います。明日はこの世にいない可能性もあります。

昨日はこうだったのだから、今日もこうだし、明日もこうなるはずだという発想でいると、何の進歩も発展も望めません。これはこういうもの、この人はこうあってくれるはず、と思い込んでいると、裏切られたと感じるようなこともあるかもしれません。逆にあまり期待していなかったのに、よくなることもあるでしょう。人も社会も、すべては良くも悪くも変化して行くものです。

昨日にとらわれず、明日を案じない。過去の苦しみを引きずらずに、未来を思い煩わない。或いは、今を犠牲にして未来に期待を抱かない。今この瞬間、自分がここに存在していることに喜びを感じ、自分の心の赴くままにできる限りのことをする。今に幸せを見出すことが、この世を悔いなく、満足して生きるコツだと思います。

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怒りと悲しみ

人間は、怒ったり、悲しんだりする動物です。誰かに対して、あるいは社会に対して。

「怒る」、「悲しむ」という感情はなぜ起きるんでしょう。何かが自分の思うようにならない、誰かが自分の思い通りに動いてくれない。しかし所詮は自分の感情に過ぎません。そして、自分の意思に反しているということが原因で起きる感情なら、怒りも悲しみも、考え方次第で持たなくて済むものなのではないでしょうか。

自分が腹を立てたり、悲しんだりした時のことを思い出してみてください。そして、まずその原因を探ります。

なぜ自分の思うようにならなかったのか、なぜ相手は自分の思うように動いてくれなかったのか。自分が無理なことを望んでいたのではないか。何かできない理由があったのではないか。相手の気持ちを無視していなかったか。期待した自分が悪いのではないか。自分中心に考えないで、相手の立場に立ってみましょう。

次にその対処を考えます。怒ったり、悲しんだりする前に、自分の納得できる対処の仕方を見つけるのです。

相手がそうしたいのなら仕方ない。相手の気持ち、考えがあるんだから尊重しよう。そういう人なんだから割り切って付き合おう。耐えられないから離れよう。どこかに、自分の納得できる対処の方法はあるのではないかと思います。

怒ったり悲しんだりすると、自分が疲れるだけです。怒りを相手にぶつけると、反発が来たり、お互いを傷つけてしまったりします。怒りをためるとストレスで病気になることもあります。

悲しみは、自分の無知が原因である場合もあります。例えば、誰かが死んでしまっても、人は死んでも消えてなくなるものではないということを知っていれば、悲しむ必要はありません。

また、制度や社会通念、教育に問題がある場合もあると思います。その場合はできる限りそれに縛られず、自分なりの道を探すか、無意味な制度を作った人間を哀れむしかないかもしれません。

怒りや悲しみは本来持たなくていい感情であるということを前提に考えると、世の中のおかしなことがいろいろと見えてきます。

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自立の大切さ

私は、この世を生きる上で最も大切なのは、自立することではないかと思います。言い換えれば、人を自立させること。もちろん、人は一人で生きられるものではありませんし、思いやり、助け合いは必要ですが、一番注意しなければいけないのは、安易に人を頼らない、また、他人の自立心を奪わないことだと思います。

何かに疑問を持ったら、とにかく自分で調べ、考えてみる。質問を受けた時には、できる限り自分で考えさせる。自分の頭で考えてからでないと、仮にその答えが目の前にあったとしても気づかない、理解できないことも多いと思います。

そして決して、こうしなさいとか、こうすれば大丈夫などと言ってはいけない。これはカウンセリングの基本ですが、指示に従わせた時点で、その人の成長や新たな発見の可能性が失われます。ですから、そういう言葉を安易に口にする指導者もどきを信用してはいけません。

人に言われたことに従って仮にうまくいかなかった場合、逆恨み、責任転嫁が起こります。逆に、自分で決めたことなら、失敗しても次のステップへ進むための反省材料になります。人が考えたこと、決められたことに従っていれば楽かもしれませんが、それでは自分の成長は望めないし、何でも鵜呑みにしてしまうのは非常に危険です。

子供が考える前に何でも決めてしまって従わせようとするような親の元では、自分では何も判断できない人間が育ってしまいます。束縛を与える宗教を信じれば、盲信者が生まれます。押し付け教育は、校内暴力、家庭内暴力や、精神的破壊を生みます。

この世の制度がそもそも押し付けのオンパレードです。狂った社会の中で、人間たちは狂わされてしまっています。自然界には存在しないお金というものがなければ社会が回っていかないと多くの人が本気で信じていることを見てもわかるように、人間は歴史的に洗脳を受けて生きてきたのです。

ですから、現在の社会システム、常識や、習慣などについても、まず疑って、自分で納得するまで考えてみることです。お金の存在が原因していることも多いですが、決めなくてもいいこと、縛られる必要のないことがたくさん見えてきます。

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不毛な議論

世の中ではよく議論が行われます。それぞれが意見を言い合い、相手の理解を得ようとする。

私の経験では、議論になった時点で、その問題は解決を見ない気がします。解決したように見える場合でも、それはどちらかが折れたか、言い負かされたか、あきらめたか。意見の違う者同士が、議論したおかげで心から理解し合ったということも稀にはあるのかもしれませんが、私の知る限りでは思い当たりません。

話し合って理解を得られるのは、相手と自分の意見が違うわけではなく、どちらかが事実を知らなかっただけのような場合。或いは、相手または自分が、相手の意見まで受け入れられるだけの視野、度量を持っている場合。この場合は大した議論にまで発展しません。

視野というのは人によって大きく違います。例えば、自分のことだけ考えている人、家族のことだけ考えている人、会社のことだけ考えている人、日本のことだけ考えている人、世界のこと、地球のこと、宇宙のことまで考えている人。世の中には実にさまざまな人がいるわけです。

人は、自分の生まれ育った環境、教育されたことなどから、なかなか抜け出せません。自分の価値観、考えたこと、信じたものが正しいと思い込み、固執する傾向にあります。それはそれである意味仕方ないので、だから、視野、或いは次元の違う者同士が議論をしても不毛なのです。

できるだけ視野を広く持つこと、相手の立場になって考えることは大切ですが、私はその上で、相手の理解を得ようと思わないことが大事なのではないかと思っています。「沈黙は金、雄弁は銀」という言葉もありますが、人間は自分で気付かない限り、人に言われてもなかなか理解できないもののようです。

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生きるのはつらい?

生きるのはつらいですか?なぜつらいんでしょう。

●お金がないからつらい?
お金がないと生きていけない社会のシステムがおかしいんです。単なる道具であるお金に人間が振り回されていることがおかしいんです。本来必要のないお金が存在しないと社会が回っていかないと、多くの人が思っていることがおかしいんです。

●勉強しなければならないからつらい?
やらなくてもいいようなことを学ばせる教育がおかしいんです。いつまでも全員に同じことを教えて、点取り競争で順位付けをする学校がおかしいんです。学歴が無ければ就職できない会社がおかしいんです。

●仕事がつらい?
お金のために必要ない仕事を作り、それをやらなければならないことがおかしいんです。常に業績を拡大しなければいけないと思っている会社がおかしいんです。お金の奪い合いや足の引っ張り合いが仕事であるかのように思わせる経済社会がおかしいんです。

●出世できないからつらい?
人と比べているからつらいんです。人の上に立つことを目的としているからつらいんです。結果として受け入れるべき出世を、目的にしてしまっているからつらいんです。

●恋人や結婚相手とうまくいかないからつらい?
相手に期待し過ぎるからつらいんです。相手を束縛し、独占しようと思うからつらいんです。結婚なんていう契約にこだわるからつらいんです。

●戦争が起きることがつらい?
いかなる理由があっても、人の命を奪うこと以上の罪はないと、国民や国家の上に立つ者が認識していないからおかしいんです。相手の立場に立って考えられない人間がおかしいんです。お金や物質と、人の命を天秤にかけることがおかしいんです。

本当は、生きるのはそんなにつらいことではないはずです。世の中の常識やシステムをすべて「ありき」で考えず、根本から問い直してみましょう。確かに天災や、肉体的な障害、病気のような避け難い苦しみもあるでしょう。しかし、それも人的な原因であることもあるし、多くの苦しみは、人間や社会が未熟なために生まれていることに気づくはずです。

いくらおかしいからといって、社会を変えるのは容易なことではないでしょう。でも、生きるのがつらいと思ったら、自分が弱いからとか、運が悪いからとか、能力がないからと落ち込んでしまう前に、社会構造を見直し、苦しみの原因を探って自分なりの答えを見つけ、割り切った考え方ができれば、ずっと楽に生きられるようになるのではないでしょうか。

そして、理想的な社会とはいかなるものか、常に描きながら生きる人が増えれば、いつかユートピアも実現するかもしれません。

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脳味噌とは

これは、学校での成績のいい、或いはよかった人にしばしば見られる現象ですが、自分は勉強ができる、頭がいいということが何よりの拠り所である人がいます。学歴や何らかの実績などが誇りで、人によっては、人間の価値は頭の良し悪しによって決まるくらいに思っているかもしれません。

勿論、学校でいい成績をとるには努力も必要でしょう。同じいい脳味噌を持った人でも、知らないことはわからないわけですから、勉強しなければいい成績は残せません。競争が主になると本末転倒の気もしますが、知識を貯え、思索を巡らし、いい成績をとることにはそれなりの意味はあると思います。

私は、脳味噌はコンピュータだと認識しています。要するに機械も同じですから、性能の良し悪しが当然あり、得意とする分野もいろいろです。また、あくまでも物質なので、それ単独では機能せず、運転者が必要となります。そして、運転者こそが本来の自分です。

人にはそれぞれいろいろな特長があり、頭がいいというのもそのひとつに過ぎません。良い脳味噌を持って生まれてきた人は、性能のいいコンピュータを授かったわけですから、その優秀な頭脳を社会に役立てる責任があります。そして、それをどう生かし、何を考え、どんな行動を起こすかは、すべて運転者にかかっているのです。

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某大統領の犯罪

200X年、某大国の某大統領は、某中東の一国に対し戦争を仕掛けた。理由はその国が大量破壊兵器を所有しているというもの。暫くして攻撃を受けた国の主は捕らえられた。しかしその後も泥沼化した戦闘は続き、兵士は勿論、多くの民間人が犠牲になった。結局、大量破壊兵器は見つからず、某国大統領の主張するところの大義は立たなくなった。

しかしである。本来、大量破壊兵器などあろうとなかろうと戦争を起こしていい理由などない。人が人を殺せば罪なのである。それは法律以前の問題だ。この世の不完全な法律をもってしても、隣のおじさんが人を殺せば、とりあえずは捕まえられる。仮に殺人にやむを得ない理由があったとしても、罪の重さは、まず殺人者を逮捕してから裁判で決めるべきことだ。

殺人は、個人ではいけなくて、国単位ならいいなどという理屈はおかしい。某大統領は命令しただけ、自分の手を汚したのではないなどと許されるものでもない。次期大統領選などに立候補させている場合ではない。死刑にする必要はないが、犯罪者はさっさと捕まえて処分を検討すべきだ。

また、その大国の力に屈し、手を貸した某島国首相、諸国代表もそれなりの処分を受けるべきである。そういう人間を代表に選出したという意味では全国民、全人類の罪ではあるが、人の上に立つ者にはそれなりの責任が伴う。しかし、悲しいかな現在のところ地球上には、戦争という国単位の犯罪を取り締まれるだけの正当且つ強力な組織はない。

人類はその歴史上で戦争を正当化しようとしてきた。勝てばよしとする幼稚な考えが支配していた時代もあった。しかし、武力によって得たものには必ず暗い影がつきまとうのだ。戦争では何も解決しない。もうそろそろ人間は、本当の正義に気づいてもいいのではないか。

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人は自分を映す鏡

自分が怒れば、みんなも怒る。
自分が優しくなれば、みんなも優しくなる。
人を許すことは、自分を許すこと。
人を許せなければ、自分が苦しい。

人間は、みんな未熟なんだ。
みんな苦しんでいるんだ。
強けりゃいいってもんじゃない。
人間は、みんな弱いんだ。

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意見の食い違いの対処

人は皆それぞれ違った考えを持って生きています。性格も、好き嫌いも、生まれ育った環境も違うのですから、違わないわけがありません。普遍の真理に基づくことは一致しなければおかしいのかもしれませんが、真理ですら完璧な表現手段はないし、証明できるものでもありませんから、それこそ何を信じるかという問題になり、食い違いが起きてきます。

人と人が関わりを持つ場合、この考えの違いでよく衝突が起きます。自分と違った考えに出会った時、どう対処するかでその人の性格が表れたり、その後の人間関係にも影響するようです。いかなる相手も所詮自分ではないのですから、意見が食い違うのは当然です。人となるべく幅広く、或いは末永く付き合おうと思ったら、自分とは違う考えに対して許容範囲を広げる必要があると思います。

図は、自分の考えと相手の考えの関係を表しています。自分の考えは持った上で、自分と違う考えでも認められる範囲を増やすことによって、相手との関係は保ちやすくなると思います。少なくとも好き嫌いに関することなどは、相手がどういう考えを持っていようとかまわないと思っていないとつまらないトラブルの元になるでしょう。また、許容範囲の狭い人は、自分を許容してくれる相手とでなければ付き合えないことになり、人間関係は限られてくると思います。

相手が誰であるかによっても許容範囲の広さは変わります。親なのか、友だちなのか、恋人なのか、仕事上の仲間なのか。内容にもよるでしょうが、親しい間柄の人ほど自分の考えに賛同してほしいと思うし、相手との関係によって、腹が立ったり、許せなかったりする度合いも変わってくるようです。

どうしても許せない、受け入れられないものもあるでしょう。人道に関わる理不尽なことを相手が言いだした場合などは、認めるわけにはいかないでしょうし、相手の考えが自分の生活に影響を及ぼしたり、こちらの責任問題に発展するようなことも受け入れられなくて当然でしょう。

しかし、ことを丸く収めたい場合は、自分が無理に賛同したり、意見を変える必要もないのであれば、たとえ相手の意見が間違っていると思っても敢えて衝突は避けた方がいいかもしれません。そこで自分が意見を主張しなかったことにより第三者に迷惑がかかるような場合は別ですが、そうでなければ、相手が間違った考えを持つことによって後に何らかの形で本人が良からぬ結果を招く、或いはその責任を負うことになるとしても、それは相手自身の問題だからです。

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比較は必要か

人はよく比較をしたがります。背の高い低い、力の強い弱い、成績のいい悪い、技術の上手下手、品質のいい悪い、値段の高い安い、など。

比較することは、いい面と悪い面があると思います。優れたものに憧れ、或いはライバルに刺激され、自分が向上すべく努力するきっかけになるようなら、いい比較と言えるでしょう。しかし、どうしようもないことを比較して落ち込んだり、人を傷つけたりすることはいい比較とは言えません。

例えば、背の高さ。大きいの小さいの言っても、人間は大人でだいたい1メートルから2メートル前後です。空から見たら誤差でしかありません。背が高かろうが低かろうが個性と考え、デメリットよりメリットに目を向けた方が幸せに生きられるのではないでしょうか。

例えば、力。熊に勝てる人間はまずいません。チータより速く走る人間はいません。魚に追いつける人間はいません。スポーツとしての鍛錬は得るところも多いでしょうが、所詮は人間の肉体の限界までのこと。力を過信し、傲慢になったりすれば、心は堕落するでしょう。

例えば学校の成績。仮に同級生の中でトップであっても、学校など腐るほどあって全てにトップがいます。努力は大切ですが、脳味噌は機械も同じ。自分に与えられたものを、できる範囲で生かしさえすれば、それ以上を求めても仕方がないでしょう。また、例え、世界で一番賢いと認められたとしても、人間に宇宙の果てとその起源はわかりません。

例えば技術。これはものにもよるでしょうが、比べても仕方のないものを比べて無理に順位をつけたり、必要以上に比較の結果にこだわる傾向があるような気がします。名誉は得た時点で過去のもの。向上を目指す者は常に前向きであるべきでしょう。

例えば品質。品質は基本的には良い方がいいでしょうが、必要以上に良いものを求める、或いは見栄でブランドにこだわることなどはあまり賢い選択とは思えません。持ち物の品質より、自分の品質を磨く方が大事なのではないでしょうか。

例えば値段。同じものなら安い方がいいと考えるのは当然でしょうが、売る方も買う方も安さに走りすぎると経済は破綻するでしょう。お金の存在する社会では無理な競争も生まれやすいですが、自分で自分の首を絞める前に、考える必要がありそうです。

また、人間社会ではよく平均、標準ということが引き合いに出されます。平均とは両極端があって初めて生まれるもの。不平等、不公平とは別の意味で、平均がいいわけではないし、すべてが標準、皆が同じである社会などあり得ません。標準に満たないことを嘆いたり、標準に甘んじたりせず、足ることを知った上で自分なりの生き方を見つけるべきでしょう。

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期待と不安

人はよく、こうなってほしい、こうなったらいいなと期待をします。そして、期待通りにことが運べば喜び、思うようにならないと、悲しんだり、落ち込んだりします。また、こうなったらいやだ、こうなっては困ると考えると、不安を感じます。不安は苦しみにつながり、ストレスになってしまいます。

例えば自分が何かをする場合、期待が大き過ぎたり、こうなって当然と思っていることがうまくいかないと、ショックも大きくなります。それを防ぐためには、あまり期待はしない、やれるだけのことをやったら、結果にはこだわらないという気持ちが必要です。

ものごとの成り行きを考える、或いは何か行動を起こそうとする場合は、幅広いシミュレーションが必要になります。それが招くあらゆる結果の可能性を考えてみる。うまくいった場合、いかなかった場合、最悪の事態を招いた場合。十分なシミュレーションができていれば、いかなる結果になろうと、ショックは最小限におさえられ、その後の対処も考えておけるのではないでしょうか。

ただ、シミュレーションによって悪い結果を恐れるあまり、行動を起こせなくなったり、取り越し苦労で落ち込んだりしてしまっては逆効果です。あらゆる可能性を考えておいた上で、大胆且つ冷静な行動を起こせれば、最大限の結果を得られるかもしれません。

期待せず、あきらめず、取り越し苦労はしない。不安な感情は自分の周りに曇りを作り、霊界からの援助もしにくくするようです。

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生き方にマニュアルはない

人はこの世を生きる上で、ひとつの理想的パターンを考えるようです。すなわち、恵まれた環境の中で、健康に育ち、十分な教育を受け、仕事を持って安定した収入を得、結婚して子供をもうけ、円満な家庭を築き、事故や災害には遭わず、長生きして安楽な死を遂げる。これは表面的なことですが、多くの人が目標にするパターンではないでしょうか。

しかし、なかなかそううまくことは運ばず、いろいろとつまずいて人は悲しんだり、ストレスを感じたりします。また、理想的な形で進んだとしても生きていく上ではそれぞれの過程でいろいろと問題は起きてくるわけで、その中で本人が満足して生きられるか否かは別の次元にあるようです。

そもそも、人間とは思い通りにならないことを克服することによって成長するものかもしれませんし、霊的に考えた場合、その人が克服できないような試練は与えられないのだとすれば、その苦しみこそ意味があるわけで、何不自由ないような人生を送っている人は、それ以上の試練を克服できない人だからそれで済んでいるとも考えられます。

私は、あまり前述のようなパターンにこだわることなく、成り行きに逆らわない生き方の中で、人生の意味を見つけていくことも大切なのではないかと思います。少なくとも生き方をマニュアル化してはいけない。人生に正解なんてないはずですし、誰が決められるものでもありません。

端からどう見えようと、人の本当の気持ちはわかりません。物質的には羨ましがられるような環境にある人が絶望の淵にいることもあるでしょう。現在の日本は、個人差はありますが、理想的とは行かないまでも、食べるものもないような状況の諸外国に比べれば、幸せと思えなければ申し訳ないような国です。しかし、この日本でも人間関係や、経済的その他の理由で生きる望みを失う人も多く、自殺者は後を絶ちません。

物質的な豊かさのみでは満足できないことに気づいた人、或いは苦しみから開放されたいと願う人は、精神的な豊かさを求めます。その一つの方法が宗教でしょう。しかし、宗教も、生き方のマニュアルにすべきものではない、それに従えば済むものではないと私は考えます。

私は、宗教の教えであれ、戒律であれ、どんなことでも鵜呑みにせず、自分の意思で判断し、納得してから受け入れることが非常に大事だと思っています。強制的に従わせようとする宗教は、それだけで信用できません。自分で判断することは、宗教に限らず、世の中を生きていく上のどんな場合でも最も重要なことであると私は思います。

習慣や常識や固定観念は一度全て疑ってかかってみる。自分の中で検証し、組み立て直して納得できたものだけを修正可能な範囲で受け入れる。人間の考え出す、作り出すものは不完全であるとしても、現在の世の中は、古い習慣・常識から最先端の科学まで、あらゆる分野でさまざまな理由から間違ったものがはびこっていると私は考えています。

パターンに縛られず、マニュアルを求めることなく、自分の生き方を見つけていくのは、容易ではないかもしれません。自分だけの問題では済まない場合もあるでしょう。また、パターンやマニュアルにしても自分が正直な気持ちから求めるのなら、それが進むべき道なのかもしれません。しかし、少なくとも疑問や苦しみを感じるなら考えた方がいいし、その努力こそが満足のいく、価値ある人生につながって行くのではないかと私は思います。

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認められることの喜び

人は、自分の才能や行為を誰かに認められた時に喜びを感じます。その認められ方はさまざまですが、人からの賛美が自信につながり、その先の精進、努力のエネルギーになるようです。

例えば、子供を育てる場合、誉めることはとても大切です。何でもかんでもただ誉めればいいというものではないでしょうが、できるだけ良いところを見つけ、誉めてあげることが子供の性格形成や成長には必要だと思います。子供の才能の芽を摘むも伸ばすも、誉め方ひとつかもしれません。

勿論、大人になっても、人から誉められる、認められることが大きな力になります。誰かが自分の行為を喜んでくれ、自分も楽しいと実感できた時、人は充実感や生き甲斐を感じるのではないでしょうか。仕事は勿論、趣味などでも、人に誉めてもらえると嬉しいものです。

私は、人間は誰か一人にでも認めてもらえれば、大きな力を得られると思うし、その行為は十分価値があったと言えると思います。より多くの人に認められたいという気持ちはあって当然かもしれませんし、チャンスは生かせばいいと思いますが、欲が先に立つと失敗するような気がします。

規模によっては何かの賞や名誉を得るということもあるでしょう。夢が大きいのはいいですが、名誉などは後から付いてくるものだと思うし、最初からそれを目的にするのではなく、まずは自分のやりたいことに挑戦してみることが大事でしょう。

誉め上手な人は、人に好かれます。見え透いたお世辞は考えものですが、やや大げさくらいの誉め言葉は人を気持ちよくさせ、その人に力を与えることになるでしょう。逆になんでもけなさないと気がすまない人は、友だちを減らすようです。

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嘘はいけないか

世間では、嘘をつくことはいけないとよく言われます。嘘とは、本当ではないことです。「嘘をつく」とは、本当ではないことを口にすること、自分が知っている事実、或いは思っているのと違うことを言うことでしょうか。確かに世間に混乱を招いたり、人に迷惑をかけるような嘘をつくのはいいことではないでしょう。

しかし、果たして嘘をつくことはいけないと言いきれるでしょうか。人間社会において、皆が、思ったことを全て正直に口にしてしまったら、どうなるでしょう。例えば誰かのことを快く思っていないような場合、面と向かって「私はあなたが嫌いだ」と言ったとします。これは相手とどういう関係であろうと好ましい状況には発展しないと思います。

嘘をつかないためには黙っているという方法がありますが、心で思っていることと違う態度を示しているとすれば嘘には違いないでしょう。個人差はあると思いますが、私は、どんな人でも思っていることと違うことをかなり言っているし、本心と違う態度をとっていると思います。できた人間ほどたくさんの嘘をついていることになるかもしれません。

嘘をつかなければ、嫌いな人間と付き合うなんてことは不可能です。遊びならともかく、仕事の場合など特に、自分の好き嫌いで人を選ぶことはできませんから、多かれ少なかれ言葉に態度に嘘をつくことになるでしょう。私は、それが人間社会というものだし、そこでうまく生きていくのが人間の大事な修行のひとつだと思います。

仕事をスムーズに進め、人間関係をうまくやるために嘘をつくのも、処世術でしょう。嘘をつくからにはばれるような嘘ではいけませんが、人を傷つけるような嘘でなく、その嘘で万事丸く収まり、嘘をついたことをストレスにしないくらいの割り切りができるのなら、それはある意味、仕事のできる人間のやることと言えるのではないでしょうか。

では、ついてもよい嘘か否かはどこで判断するか。それは動機ということになるでしょう。なぜ嘘をつく必要があったのか。嘘をつかなければ相手を傷つけてしまうような場合もあるでしょう。例えば不治の病の人に対するような場合、医師や家族が病人に嘘をつくことはしばしばあるようです。病人本人にとってそれが一番いいかどうかは個人差があると思いますが、少なくとも動機は悪いとは言えないでしょう。

時と場所、相手を考えず、なんでもかんでも正直に言ってしまわないといられない人は、地上の人間社会には混乱を招きます。霊界では考えていること全てが知れるようですから、嘘はつこうにもつけませんが、私は、自分と同レベルの人間しか周りにいないあの世は、この世とは全く違った状況なのではないかと思います。

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否定の招くもの

人はよく、自分の受け入れられないものに出会うと否定をします。それは、自分の知識に合わない、価値観に合わない、好みに合わない、生活習慣に合わない、信じているものに合わない、などという場合のようです。

自分の主張を持つのは大事なことだとは思いますが、それによって世界を狭め、柔軟性を失い、自分の理解できるもの以外は頭から否定するようになってしまうと進歩はなくなるし、他を傷つける危険性も出てくるでしょう。

科学とは、一見、客観的で、信頼のおけるもののように思えますが、実は現段階で人間が解明したことの限界を示しているに過ぎず、全てが普遍的なわけではありません。その証拠に次々と新しいことが発見され、仮説が覆され、変化していきます。そういう意味では科学者こそ未知の分野の研究に意欲的であって然るべきで、現在、解明されていること以外は頭から否定するような人は、科学者とは呼べないかもしれません。

宗教なども、自分の信じたものだけを全てと思い込み、他を否定しはじめると、真理からは遠ざかってしまうでしょう。宗教とは、あらゆるものを包括し、救うことのできる真理を求めているのですから、他を、少なくとも表立って否定するという時点で、本来の目的に反していることになり、他からの理解も得られなくなると思います。

趣味の世界のように、単に自分の好き嫌いを主張するためだけの否定なら、あくまでも自分個人の好みであるということを十分認識した上で、他を傷つけないようにできればよいと思いますが、言い方やタイミングには気をつけないと、つまらないトラブルの元になります。

多くの場合、表立った否定は、例え相手が間違っているとしても、少なくとも平和的問題解決の手段にはなりません。問題解決は、お互いの納得の元に為されるべきで、単に勝ち負けを決めるような方法をとっても、根本的な解決にはならないでしょう。平和的問題解決のためには、自分の意見を主張するばかりでなく、相手の言い分を理解するよう努め、焦らずにお互いが熟考する十分な時間をもつことが必要だと思います。

また、物事は何が正しいか自体が曖昧であることも多いですし、仮に否定された側が本当に間違っていたとしても、その時点では本人がそれに気づいていないために間違っているわけですから、間違いを簡単に認めることはないでしょう。また、例え指摘されたことによって自分の間違いに気づいたとしても、表向きはそれをすぐに認めはしないでしょう。ですから、例え相手が間違っていることが明らかであっても、逃げ場を失わせ、執拗に責めることは相手を傷つけ、問題を大きくするばかりだと思います。

相手との信頼関係が成り立っている場合、否定が相手にすんなり受け入れられることもあるかもしれません。しかし、その場合は、その判断が真理に照らして間違っていないこと、相手の自立心を奪わないこと、結果的に相手を傷つけないことなどの条件をクリアしていなくてはなりません。お互いの立場の認識に上下関係がある場合などは特に気をつける必要があるでしょう。ここにアドバイスの難しさがあります。人にアドバイスしたいと思う場合は、あくまでも命令でなく、自分の意見として発言し、それを受け入れるも受け入れないも、相手に自由な選択の余地を与える必要があるでしょう。

原因を作れば結果が生まれます。間違った原因を作れば、それ相応の正確な結果を招きます。人間が他の否定に躍起にならなくても、永遠の観点で見れば神の摂理は完璧に作用します。どのみち他人の責任はとれないのです。多くの場合、人間は、自分の許容しきれないものに対して否定したくなるようです。自己保存のための他の否定は、誰のためにもなりません。それは自分の器の小ささ、柔軟性のなさを露呈していることにもなります。他の否定に使えるエネルギーがあるのなら、それを自分を磨くことに使った方が賢明なのではないでしょうか。

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いつも幸せでいるには

いつも幸せでいるにはどうしたらいいでしょう。幸せとはどういう状態かと考えると人それぞれかもしれないし、幸せでいたくない人は考えなくてもいいと思いますが、ここでは幸せとは、心が安らいで、ああよかったなあと思える時くらいのことにしておきましょうか。

幸せとは自分の感じ方次第ですから、日常の些細なことにでも幸せを感じられる人は、幸せでいられる時間も長いかもしれません。しかし、生きていく上ではいろいろ嫌なことも起こりますから、それだけでは、いつも幸せではいられない気もします。

何かがこうなったら幸せ、誰かがこうしてくれたら幸せ、という意識でいると、思うようにならないと幸せは感じられません。彼が好きだと言ってくれたら幸せ、お金が入ったら幸せ、旅行に行けたら幸せ、子供がいい成績をとったら幸せ、こういう幸せは、いつもというわけにはいきませんね。思うようにならなければ、大きな不幸を感じてしまうかもしれません。

いつも幸せでいるためには、いろいろなことに幸せを求めるよりも、常にあるものを幸せと感じた方がいいようです。では、いつもあるものとはなんでしょう。お金や物はなくなります、家族や友だちもいなくなるかもしれません。神を信じられる人なら、神はなくならないのでいいのですが、私は、誰にでも、あると実感できるものは何かと考えました。

それは自分です。自分の存在。とにかく自分がここに存在していること自体に常に幸せを感じていられれば、いつでも幸せです。どんなに嫌なことがあっても自分はいるのですから幸せなはずです。深く考えていきますと、自分の存在自体が曖昧になる人もあるようですが、私は自分の存在は絶対的なものと考えています。

ああ、自分はここにいる。なんて幸せなことなんだろう。思うようにならなくても、何がどうなろうと、とにかく自分が存在しているだけで幸せ。基本が幸せからスタートするので、周りの人に接するのにも、自分のすることにも余裕が持てる気がします。

成功しても幸せ、失敗しても幸せ。一人でも幸せ、誰かがいても幸せ。うちにいても幸せ、外に出ても幸せ。肉体が死んでも自分の意識は残ると思えれば、幸せはこの世限りのことではありません。生きていても幸せ、死んでも幸せ。ずっと幸せ、永遠に幸せ。

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仕事上のトラブル

私は、会社勤めをはじめてもう20年以上になりますが、仕事をしていますと、実にさまざまな問題にぶつかります。無理難題を、予算も時間もない中でこなさねばならないことも多く、また、ひとつの仕事にしても、自社、他社を含め、さまざまな性格や能力の人間が関わるわけですから、なんの問題もなく済むことの方が希です。

そういった条件である上、どのみち人間のやることですから、ミスは当然のように起こります。細心の注意を払ったつもりでも、思わぬ落とし穴が見つかることもしばしばです。些細なミスをトラブルに発展させるか否かはミスが起きた後の対処によります。即座に、或いは頃を見計らって、適切な手を打っていれば防げたことも、対応を誤ると思わぬ大きなトラブルにつながります。

仕事は、人と人とがさまざまな関係の中で進めていくものです。ミスの起きる原因としては、意思の疎通が図れていなかった、能力や努力、注意力が足りなかった、計画や予算が練られていなかった、会社の体制や環境に無理があった、などがあります。約束を守れないとか、嘘をつくなどの基本的な人間性に関わる原因もありますが、これは仕事以前に社会人としての素養の問題でしょう。

私の経験から考えますと、トラブルというのは複数の原因によって起こるようです。きっかけは誰かのミスだったとしても、それをチェックする人が気づけばトラブルは事前に回避できます。チェック機関が多いほど、確率としてはトラブルは起きにくい計算になりますが、その仕事に与えられた条件、そこに携わる人の性格や能力が影響しますし、見事に網の目をくぐり抜けてトラブルが起きてしまうこともあります。

同じようなミスをしても、人によってトラブルに発展させてしまう人と、そうせずに済ませられる人がいます。何が起きても、冷静に、臨機応変な、誠意ある対応ができればよいのですが、自分の思い込みや感情に束縛され、解決策を練らずに、安易に人を責めたり、他人に責任を押しつけたりする人は、結局は余計な問題を引き起こし、トラブルメーカーと呼ばれることになります。

仕事は人間が進めるものですから、結局は人間性がものを言います。自分がミスをした場合、周囲が協力して解決しようとしてくれるか、この時とばかり足を引っ張ろうとするかでは大きな違いになります。それはその人のそれまでの行い、築いてきた信用がものを言うのではないでしょうか。また、私は、人道の許す範囲なら、他人のミスにはなるべく寛容であったほうがいいように思います。

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成人の日に思う

近年、成人の日の度に、成人式でのトラブルが新聞ダネになります。新成人が会場に酒などを持ち込み、騒いだり、式を妨害したりしているようです。嫌なら行かなきゃいいと思うんですが、そういう人は行って騒ぎたいんでしょうね。

校内暴力や暴走族なども同じような気持ちなのかもしれませんが、体制に対する反発なんでしょうか。確かに納得のいかない決めごとや、住みにくい社会への不満や不安でうっぷんを晴らしたくなる気持ちもわかります。ただ、暴力沙汰にしたり、人に迷惑をかけても問題は解決しないと思います。

私自身は、二十歳というのは、単純に生まれて20年経ったからなったのであり、昔から大した意味はないと思っています。振り袖が着たいとか、20年間も死なずに生きられてよかったねと祝うという意味ではめでたいかもしれませんが、それだけで今日から大人だなどと言われても、大きなお世話でピンとこないんですね。

でも、だからといって公共の式典を妨害していいわけではなく、やはり人に迷惑をかけるのは問題だと思います。私の場合は二十何年か前に二十歳になり、成人式への誘いもありましたが、私は出席しませんでした。「自分は今まで子供であったつもりもないし、この先、大人になるつもりもない」と思ったからで、その気持ちは40過ぎた今でも変わっていません。

私は本来、大人、子供というのは年齢ではなく、霊性の高さではかられるべきものではないかと思います。そういう意味ではこの世にいるうちの判断は不可能です。私はこのホームページの中で、知識、経験と霊性の関係について触れましたが、だいたい自分が年食ったことだけで自分を大人だと勘違いし、年齢を笠に着なければものを言えないような人間にろくな奴はいないと思います。

ただ、社会に出ると、年齢を意識することも秩序を保つ上で必要になります。それはあくまでも表面的なことなのですが、特に日本の社会では、年上の人には失礼に当たらない程度の敬語を使う、それなりの態度を示すことが必要です。腹ではその人のことをどう思っていてもいいんです。そして年齢に優先して気をつけるべきは地位。言葉づかい、タクシーに乗る位置、エレベーターに乗り降りする順番などは社会常識として心得ていないと、つまらない評価、トラブルの元になります。これが結構大事なことなのです。

社会での地位は、命令系統の責任の所在を決めるものです。これはとても重要なことですから、人の間で生きていこうと思ったら、守らないと人に迷惑をかけることになるし、自分のためにもなりません。今時の会社では、地位は年齢を逆転することも日常的に起こります。相手が年下だという理由だけで偉そうにしていると、地位が逆転したときに言葉を失うでしょう。勿論、地位に関係なく思ったことは大いに発言するべきですが、マナーとして守るべき所を守れないと、社会ではものを言うこともできません。

この世のルールを守ることは、秩序を保つ上でとても重要なことなのです。表面的なことのようですが、これができない人間は、会社で人とうまく付き合えるかどうか以前に、満足な仕事もできないでしょう。そして、これは霊性にも関係のあることかもしれません。

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