りゅうじんの独断と偏見の人生哲学
(真理探究・宗教編)

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宗教が説くべきこと2017.2.14
いいとこ取りをする2008.5.1
「一理ある」というとらえ方2008.4.18
重要なのは、言った人ではなく、言ったこと2007.6.14
人に勧めることの難しさ2002.10.16
盲信の怖さ2002.5.29
信じるべきもの2002.5.20
悪人正機説2002.4.19
肉食に関して思うこと2002.3.15
他力の意味2002.1.12
善人と悪人2002.1.7
善し悪しの判断2001.9.7
信仰と人間2001.8.28
霊界通信の解釈2001.3.11
大切なのは真理に添って生きること2000.9.13
スピリチュアリズムと宗教の違い2000.7.4
教祖の役割2000.5.29
宗教に求めるもの2000.5.22
真理の山を登れ1999.12.26
真理は一つ1999.12.26

 

 

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宗教が説くべきこと

宗教が説くべきことは極めてはっきりしていると思う。

それは、『魂には始まりも終わりもなく、永遠だ』ということ。もちろん、信じるか信じないかは自由なわけで、本当にそうかどうかも完全な証明はできないが、宗教はまずここを主張する必要があると思う。

そして、人の魂はこの地球上で100年くらいの間過ごすために、肉体に宿って生まれてくる。その目的は第一に自分の『魂を磨く』こと。肉体が死を迎えれば魂は元の世界に帰り、必要とあらばまた生まれてくる。多くの人はこれを何度も繰り返している。そして、その経験は、つながりのある魂や、究極的には全体にも影響すると考えられる。

これはいわゆるスピリチュアリズムの考え方だが、どんな宗教でもこれがベースになっている必要があると思う。それを押さえずして、やれ祈れだの、信者獲得だのに躍起になっている宗教はいかがなものか。

地球上に生まれてくるにあたっては魂によってさまざまな目的があり、何を考え、どう行動するかは人それぞれだが、人類全体の使命としては、誰もが住みやすく、幸せな一生を送れるような世の中を目指すことだと思う。

万人がこれを認識すれば地球上はユートピアになるかもしれないが、宗教的なことなどまるで興味のない人も多い上、おかしな宗教もあるようだから下手なものを信じればかえって危険だし、何千年経っても人類はあまり進歩していないのが現状だろう。

さまざまなレベルの魂が生れ落ちる地球上だから、失敗を繰り返すのは仕方ないのかもしれないが、少なくとも宗教が人々を間違った方向に導くようなことは避けたいものだ。

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いいとこ取りをする

宗教や生き方を説くもの、あるいは科学も含めたすべての場合かもしれませんが、とにかく、誰かが気づきや論理を展開しているもの。そういうものを聴いたり、読んだりする際、「いいとこ取りをする」という基本スタンスが必要と思います。

教祖であれ、先生であれ、完璧な人はいないのです。その人を頭から信じ、教えを鵜呑みにしてしまえば、間違った部分も受け入れてしまうことになります。99%正しい人がいたとしても、言葉にした時点、文字にした時点で完全はありえないのです。

真理は永遠不変、完全無欠、時代や場所にも関係なく、あらゆる場合、どんな時にも通じるものです。しかし、それをこの3次元レベルに表した時、完全は失われます。

ですから、言葉や文字に惑わされず、自分でその中から真理を見つけ出していくしかない。判断するのはあくまでも自分であり、自分が反発を感じるものは、たとえ他のすべての人が受け入れようとも受け入れてはいけない。

自分の判断は間違うこともあるでしょう。しかし、それはその時点では仕方のないことであり、それも自分に必要な過程なのだと思います。

私の言うことは絶対だから信じなさい、言う通りにしていればよいなどという指導者は、必ずいつか尻尾を出します。盲信していればその時に多大なダメージを負うことになるのは自分です。

ただ、その教えには何らかの真理が含まれていると思うなら、指導者と一緒に捨ててしまうことはありません。盲信さえしなければ、あるいは特定個人を信じたりしなければいいのです。自分の成長の肥やし、生きる上での糧になると思えるものが見つかったのなら、それは価値あるものです。誰からでもいい、何からでもいいのです。大切なのは、自分で真理を見つけることです。

そんな判断は自分にはできない。自分にはいいとこ取りなんて無理だ。自分は、正しい教えを説いていそうな人がいたらその人を信じ、その人についていくしかない。そう思われる方もいるでしょう。

しかし、そう思っている限りは成長しないのです。せいぜい先生のお手伝いしかできない。もちろん、そういう役割の人が必要な時はあります。しかし、それだけでは先生の受け売りしかできない。それも先生がいなくなれば自信が持てない。先生の遺されたものにすがって生きるしかない。

大丈夫です。すべての人の心の中には、神の英知が内在されている。真理を見つける力は誰にでもあるのです。自分の心の奥底に聞いてみればきっとわかるはず。あらゆるものからいいとこ取りをして、自分の納得できる生き方をする。それがこの世を生きる上での知恵なのではないでしょうか。

さて、以上は私の考えです。真理が含まれているか否かはご自分でご判断ください。

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「一理ある」というとらえ方

講演会などで誰かの話を聴く場合、注意した方がいいことがあります。主に宗教や、生き方を説く講演会やセミナーの場合です。

まず、鵜呑みにしないことは大事ですし、それがすべてと思ったり、他を否定するようになることも危険ですが、ここではちょっと別の要素を考えてみます。

それは、言いたいことはわかるんだがいまひとつしっくり来ない、あるいは、それだけではないだろう、違うケースもあるだろうと感じたような時。

そういう場合は、その感情を抑えて話し手の言うとおりに思い込んだりしようとせず、どこに自分が疑問を感じるのか分析することが必要だと思います。ただ、講演中にそういうことを考えているとせっかくの話が聴けなくなりますから、講演が終わってから改めて考えた方がいいかもしれません。

ものごとには多くの場合、例外があります。また、話し手も人間であり、限られた言葉を使って話しているのですから、表現には限界がありますし、そこで言ったことがすべてに通じるとは限りません。また、特殊な場合ばかりを考えていると、本質を見失います。話し手の本当に言いたいことは何なのか、それを自分からつかもうとする努力が必要でしょう。

すべてに当てはまらなくても納得できる部分があるとすれば、それも「一理ある」と受けとめればいいのではないでしょうか。その上で自分なりにもっと発展させ、掘り下げていけば、より深い気づきが得られるのではないかと思います。

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重要なのは、言った人ではなく、言ったこと

宗教をはじめとする生き方などを説くものには、教祖などの指導者がいます。その人の言っていることが真理に通じているなら、その教えは人々の心を揺さぶり、眠っていた目を開かせ、多くの人の生きる支えになるでしょう。

しかし、ここで注意しなければならないのは、大事なのはその教えであって、教祖や指導者本人ではないということです。たとえブッダやイエスであっても、その個人に価値を求めすぎることは危険であり、本末転倒になると思います。

個人をあがめてしまうと、せっかくの教えも、その人ありきになってしまいます。信者が本当に教えを理解していなければ、教祖がいなくなった後、その宗教は間違った方向に進みます。

また、どんな立派な教祖であっても、肉体を持ってこの世に生まれた時点で、あくまでも一人の人間なのです。人間である以上、完全ではなく、誰もが修行の身です。

あの教祖は口では立派なことを言っているが、私生活は違うからだめだといった声を耳にしたことはありませんか。もちろん、自分が説いている以上、あまりその教えに反するようなことをすれば信頼を失って当然でしょうが、教祖とはいえ、一人の人間に完璧を求めても所詮限界があるのです。

私生活が気に入らないからといって、その人の言っていることまで否定する必要はないのではないでしょうか。犯罪を起こすような教祖は別としても、教祖になれるような人は、それなりの大切な役割の人だと思います。少なくとも教えを説いている時だけは、霊界からのメッセージを受け取っているのかもしれません。

重要なのは、言った人ではなく、言ったこと。誰が言ったかではなく、何を言ったかです。それを言っているのが誰であれ、その人の普段の生活がどうであれ、自分の心に響いた言葉は自分の宝として、自分が生活の中で実践していけばいいのではないでしょうか。

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人に勧めることの難しさ

宗教などで自分の気に入ったものが見つかると、多くの人は、他の人にも勧めたくなるようです。自分はこんなに納得できたんだから、この教えは絶対正しい、きっとみんなもこれを知ったらそう思うに違いない。以前、私もそういった気持ちが強かった頃もありました。

しかし、世の中そう単純なものではありません。宗教などを信じている人が自分の信じたものに対する信頼は絶大なものがあり、余程自分の宗教に不信感でも抱いていない限りは、人に勧められたくらいで、まず乗り換えるなんてことはないでしょう。

無宗教の人は、はなっから宗教の必要性など感じていないのですから興味もなく、唯物論者からは目に見えないものを信じるなんて狂っていると思われるのがオチです。実際、私も昔は唯物論者でしたから、その気持ちはよくわかります。

宗教的なことに目覚めている人でも、霊や霊界の存在に関する見解は千差万別。事実はひとつしかないはずなのに、面白いくらいみんなバラバラなことを考えています。もっとも、霊界が自分の作り出す世界であるならそれも納得できるんですが。

同じ宗教からでも受け取り方は人それぞれ。教祖は嘆いてるんじゃないかと思うくらい、勝手気ままな解釈が為されます。時間が経つうちにどんどん変化していってしまうのもよくあること。普遍の真理だったら、変わるはずはないのに、皮肉なものです。

そこで私は思いました。みんなバラバラでよい。同じにしよう、ひとつにしようと思うことが間違いの元。私が正しいんだからあなたは間違っているはずだという理屈が許容範囲を狭め、包容力を無くし、分裂や孤立を生んでしまう。

きっと、それぞれにはそれぞれの良さがある。どんな宗教にも、余分な飾りや垢はたくさん付いているようですが、正しさを含んでいるものなら泥の中には真理という宝石が光っている。それがほんとにほんとに小さな宝石だとしても、それを認めることに意味がある。それをせずに泥がついているからといって宝石も一緒に捨ててしまうと、結局、お互いの理解、宗教の融合は図れないと思います。

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盲信の怖さ

世の中にはたまに、端から見たら呆れるような宗教を信じ込んでいる人がいます。唯物論者から見ればどんな宗教でも信じられる人は変かもしれませんが、霊的なことを受け入れている私が見てもおかしいと思うことはよくあります。

宗教が、単に儀式を行うことや信者を戒律で縛ることが目的になっては救いはないでしょうし、営利目的ではただの商売と変わりありません。そもそもの動機が不純なのでは宗教とは言えないと思いますが、初めはまともでも、年月が経ち、人が増え、組織ができて、だんだんおかしくなって行くものも多いようです。人を救うためにあるはずの宗教同士がいがみ合い、ついには戦争を起こすなんていう悲劇は愚の骨頂でしょう。

宗教をマニュアルにしてはいけません。宗教は行動を規制するものではなく、あくまでも自分の心に問いただすものです。教祖がこうしろと言った、教典にこう書いてあるという理由で自分の行動を決めてしまうのは、責任を他者に押しつけているだけです。そうやって起こした行動は、正しそうに見えても良い結果は生まないでしょう。

宗教やそれに類するものがおかしくなってしまう大きな原因に盲信があると思います。一人の教祖や指導者、教典などを絶対的なものと思い込み、その人の言ったこと、教典に書いてあることは全て鵜呑みにする。宗教的なものに関わる場合、自分の理性が反発を感じるものは受け入れてはならないのですが、それをできない人は多いようです。

盲信にも二通りあります。ひとつは間違った教えを鵜呑みにするもの。それがきっかけで犯罪などに至れば、被害は外部にまで拡大します。この場合、一番責任が重いのは教祖です。真偽を見極められなかった信者にも責任はありますが、間違ったことなど初めから説かなければ悲劇の原因にはならなかったのですから、教祖の罪は重大です。

もうひとつは、正しい教えを信者が間違って解釈した場合。例えば、教典なども言葉で表されたものですから、理解力によって解釈は大きく違ってくるようです。そこに曲解が入ってきたり、一部にとらわれて全体を見失うと、真意は伝わらず、誤解が生まれます。この場合、信者に悪意はなく、理解力不足なので難しいところですが、やはり心のどこかに甘さがあったであろう信者に責任があると思います。教えの中に勘違いさせる要素を宿していたという意味では教祖にも責任がないとは言えませんが、完全は存在しないこの世でその責任を教祖に追及するのも酷な気がします。

盲信者の特徴としては、視野が狭まって他宗教の意見を聞けなくなり、排他的になるようです。そして、実は他を認められなくなることこそが、私は宗教が失敗する一番の原因であると思います。真理を説いている宗教なら、究極は一つになれるはずですが、それは上辺の違いに惑わされず、お互いの真意を理解し合った上ではじめて可能になることです。自分の所が正しいくらいのことは誰にでも言えるわけで、他を認めない限り、宗教の融合は不可能です。他を認めないということは相手から見た自分を認めないということに他ならないからです。

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信じるべきもの

宗教や霊的なことには少なからず信仰という要素が入ってきますので、何を信じるかということが大きな問題になります。十数年そういったことを考え続けてきた現時点での私の結論は、究極的に信じるべきものは「神」以外にないということです。こう言ってしまうとあまりにも単純、あるいは普通のことのようですが、実はこれがなかなか難しいようです。

「神」とは、この世、あの世を通じた完全なる法則です。無限の宇宙、あらゆる生命を存在させ、極大から極小の世界までを見事なバランスの中で微塵の狂いもなく動かし続けている絶対的な摂理です。全ての原因からは正確な結果を導き出し、そこには矛盾も不平等も一切の間違いもありません。

また、神とはあらゆる生命の源です。大宇宙の意識であり、人間であり、動物であり、植物であり、ひとつひとつの細胞であり、顕微鏡的世界の全てのものにも宿っています。全ての存在そのものが神の愛であり、その完全無欠の計画の中で、全ては生かされていると考えられます。

ですから、人間は、この世で何が起きようとどうなろうと、全ては自分に必要なこと、神の計らいであると割り切り、自然体で前向きに受け入れていくことが真理に叶った生き方であると思います。神の計画には、無駄も間違いも予定変更が必要になることもありません。人間が、その思考や行動によって作った原因は、良きにつけ悪しきにつけ正確な結果を生み、各人がそれ相応の責任をとることになります。神の摂理からは、何者も逃れることはできません。

人は太古の昔から、神の摂理、普遍の真理を求め、いろいろな宗教や哲学などがさまざまな表現を試みてきました。しかし、神は人知を越えたものであり、人間が真理の全てを理解することは不可能です。また、言葉や文字などこの世の表現方法に頼らなければならない以上、いくら真理に近づいたとしても表せることには限界が出てきます。

真理とは永遠不変であり、時代や地域によって変わることはありません。いつの時代でもどこの国でも人々はさまざまな宗教を信じたり、その表現の食い違いにぶつかり合ったりしてきましたが、どんな宗教でもそれが正しく真理を説いたものであるなら、表面上は違っていても大元の部分では共通しているはずなのです。

真理はひとつの宗教が独占できるものではありません。この世の特定の人間、特定の書物などに真理を閉じこめることは不可能です。いかなる宗教も、他を否定することに一生懸命になっているようでは、真理から外れていると言わざるを得ません。また、ひとつの宗教でもさまざまな人が関わり、時間が経つ間に、初めに説いた者の言葉がいろいろに形を変えられ、真理からかけ離れてしまうこともあったようです。

私は、自分の納得のいった宗教などを生き方の指針にするのはいけないことではないと思いますが、その教えが真理の全てではなく、あくまでもひとつの表現であると認識することが大事だと思うのです。どんな宗教に関わったとしても、自分の理性で判断することを放棄し、この世の特定の人間が言ったこと、特定の書物に書かれていることを一字一句まで鵜呑みにするような盲信に陥ると、自分はもとより、他人までも傷つけ、道を誤らせてしまうことになるのではないでしょうか。

「神」という呼び名自体、宗教によっていろいろな表現をしているわけですが、私の知る限り、正しいと思える宗教やそれに類するものは「信じるべきはあくまでも神であること」この一番大事なことを、少なくとも一番初めの教祖や指導者は、自らが声高に言っていたと思われます。

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悪人正機説

親鸞上人の「悪人正機説」に関して少し理解が進みましたので、まとめておこうと思います。非常に奥の深い教えなので、あくまでも現時点での私の解釈とお考えください。

「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」。善人すら往生を遂げられるのだから、ましてや悪人の方がなおさら往生を遂げられるのだ、という意味です。一見、善人と悪人が反対なのではないかと思ってしまう言葉です。悪人の方が善人より往生を遂げやすいなんておかしい、と。

善人と悪人の判断が難しいことは別項で触れました。自分では善いと思って起こした行動でも、悪になりうる要素はいくらでもある。人間は自分が思考し、行動を起こすという時点で既に完全とは言えない自分の判断に頼らざるを得ないわけですし、あらゆる面から絶対的な善である行動などこの世にはあり得ないのかもしれません。道を歩いただけでも小さな虫は踏みつぶしているのです。

また、人間には感情や欲があります。怒り、憎しみなどはよい感情とは言えませんが、どんな人でも多少なりとも持っているでしょうし、外には出さなくても抑えているだけでは、ないことにはなりません。また、肉体を持っている以上は食欲が生まれ、例え植物にしろ他の生命を奪って食べなければ生きていけません。

このように人間とは、少なくともこの世では、存在そのものに悪という要素が含まれていると言えそうです。私は、善であろうとすること自体は悪いことではないと思いますが、こうすれば善だというマニュアルは作れないし、これが善だと信じ込むことは危険だと思います。また、善を求めるあまり傲慢になり、悪という要素を持ったものを見下すようなことがあれば、その場合はその意識そのものが悪と言えるかもしれません。

悪が存在する以上、悪から目を背け、全否定しようとすることは、全てを理解することから遠ざかり、弱さに通ずるように思います。病気を防ぐためには免疫が必要というのも、そのことを表しているかと思います。善悪を含めて全ては神の意思である。だとすれば、自分の中にある悪を否定するのではなく、それを認め、正面から向き合うことで神への理解が深まるのではないでしょうか。

悪人正機説の中でいう「善人」とは、自分の悪という要素に気づかずに自分を善人だと思っている人、「悪人」とは自分の悪を自覚している人のことで、言ってみれば悪人の方が身の程わきまえた人間ということになります。ですから、往生しやすいのは「悪人」という理屈になるわけです。

親鸞上人は、阿弥陀仏の願いとして、人間に本当の幸せをつかんでほしい、そのためには自分の中の悪という要素に気づき、自覚してほしいと考えられたようです。思い上がりは最大の悪と言えるかもしれません。やはり、謙虚さが悟りの第一歩なのではないでしょうか。

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肉食に関して思うこと

スピリチュアリズムなどに関わっていますと、肉食の是非はよく話題に上ります。ひとつの結論としては、動物を殺して食べることは、その罪に気づいた者にとっては罪であり、気づかない者にとっては罪ではないというもの。それはそれで一理あるようにも思いますが、肉食をする者は低レベルであるという一方的な論理にも繋がりそうなので、私はもう少し原点に返って考えてみたいと思います。

動物には、ウシやウマのように草食のものと、ライオンやヒョウのように肉食のものがいます。彼らが単なる好き嫌いでそれを決めたとは思えませんから、自然界ではどちらも認められていると考えられます。言ってみればそれが神の意志なのでしょう。ライオンやヒョウが、ウシやウマに比べて低レベルであるとも思えません。

人間は、個人的な好き嫌いはあったとしても、肉と野菜の両方を食べることができる動物です。ということは、どちらかを食べてはいけないと決めるのも不自然な気がします。どちらも食べられる環境にあるのなら、食べたい方を食べればいいのではないでしょうか。野菜を食べないと健康的ではないかもしれませんが、それはまた別の話です。

私の場合は、肉と野菜、どちらも食べています。確かに動物を殺すのはかわいそうだし、自分で殺さなければならないとすれば肉は食べないかもしれませんが、現状で敢えて肉食を避けようとも思いません。私は、食に対して特にこだわりはなく、口に入るものなら、だいたい何でもありがたくいただくというスタンスです。また、これがなくては困るという食べ物もなく、とりあえず今そこにあるものを食べて満足しています。

宗教などでは、いろいろと決めごとをしたがります。肉食にしてもそうですが、宗教的なものに惹かれる人は、いいのか悪いのかをとりあえず決めて、それに従わないと安心できないのかもしれません。戒律を作り、それを守ることによって満足感を得る。苦痛を伴うことでも決められたことはひたすら信じ、場合によっては命まで懸けてしまう。

私は、本当の宗教とはその逆で、あらゆる束縛から自分を解き放ち、自分自身で生き方を見つけていくものではないかと思います。決められたことに従うわけではありませんから、これはある意味大変な生き方です。でも、だからこそ面白くもあり、あらゆる人の共感を得るものを見つけられる可能性もある気がするのです。

価値観を一つに決めるということは、他を否定することに繋がります。自分の価値観に添わないものを否定して片づけるのはたやすいことです。しかし、万人に通じるものが真理であるとすれば、一部にしか通用しないものは真理ではありません。単なる好き嫌いを真理とはき違えることは、過ちと言えるでしょう。

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他力の意味

私はこのホームページの中でも何カ所かで「他力」という言葉を使っていますが、私の「他力」の解釈は、仏教で使われるところの他力の意味とは大きく違っていたようですので、気づいた範囲で少し触れておこうと思います。

私は宗教などに関して特に勉強したわけでも詳しいわけでもなく、あくまでもスピリチュアル的な考え方を元に、それらとの関連性を探っているだけですから、用語などで誤解を招くこともあるかもしれません。幸い、今のところさしたる問題も起きていませんが、お気づきの点は何なりとご指摘ください。

仏教で使われる「他力」とは、一切の衆生を救うという阿弥陀の力。阿弥陀とは、一人の仏というより、スピリチュアリズムで言うところの「神」「大霊」に近いようです。「自力」が自分の力であるのに対して、「他力」は全てを包む大いなる力。ですから、神を信じ、自然体で生きるということが、仏教では他力にお任せする、阿弥陀にすがる、という表現になるのかもしれません。私が思うのは、全ての物は一つのエネルギーであり、全てはその中に含まれるということ。仏教の言葉を借りれば、自分は他力の中に存在していると言えるかと思います。

私が今まで使っていた「他力」の意味は、「他人の力」。自分で考えたり行動したりせずに、他人に頼っていては進歩はないという話になりますから、言うことは全く逆になってしまいます。辞書には両方の意味が載っているので、どちらも間違いではないと思いますが、勝手な思い込みで使っているとトラブルを招く危険性もありそうです。

言葉、文字は意思を伝えるのに非常に有効な手段ですが、送り手は誤解を招かないように注意を払い、受け手は細かい部分にとらわれず大意をつかんで、送り手の意思を曲解しないようにすることが必要なようです。やはりコミュニケーションは思いやりが大切ですね。

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善人と悪人

おそらくこの世の人の多くは、自分のことを善人だと思っているのではないでしょうか。私は真面目に生きてきた、悪いことはしていない…少なくとも悪人ではない。

善人とは何でしょう。法律に触れるようなことをしなければ善人でしょうか?或いは善行らしきことを施せば善人なのでしょうか?人のためと思って起こした行動が、結果的に相手を傷つけていたとしても善行でしょうか?

悪人とは何でしょう。犯罪者のことでしょうか?誰でもやむなく犯罪に当たるようなことを起こしてしまう可能性はないでしょうか?犯罪を犯さない悪人もいるのではないでしょうか?

私はこの問題を考える場合、善悪とは別に、人間の成熟度を考慮しなければならないと思います。大ざっぱな図に表してみたら、このようになりました。この分類で善人といえるのはどこでしょう。Aだけでしょうか。悪気がないという意味ではBも入るでしょうか。Dも未熟なのだから仕方ないと考えれば、Cよりは善人に近いかもしれません。でもCだって犯罪を犯しているわけではありません。勿論、これは私の勝手な分類です。しかし、善人悪人の判断はこのくらい曖昧なものだと私は思うのです。

よく、犯罪を犯してしまった人の言い訳で「魔が差した」という言葉を聞きます。犯罪に当たるような行為がそれで許されるわけではないでしょうが、誰でもそういった行動を起こす可能性はあるという注意を喚起する意味では、私は心に留めておくべき言葉だと思います。人間は誰でも腹を立てたり、欲に駆られたりします。何かのきっかけで「たが」がはずれれば、冷静な時には予想もしなかったような行動を起こす可能性もあると思うのです。

また、例えば自分の命を懸けて誰かを助けなければならないような場面に遭遇した場合、どうするか。私は助けようとするかしないかもその人の自由であり、簡単に善悪の判断はできないのではないかと思います。結果的に、助けられたか助けられなかったかも、たまたまそうなったという要素が大きいように思います。確かに体を張った勇気などは称賛に値することかもしれませんが、どういう行動を取るのが正しかったかと考えれば、状況にもよると思いますが、私は一つには決められない気がするし、少なくとも当事者がどういう行動をとろうと、他人がとやかく言うべきではないと思います。

人間のできることには限界があります。例えば、仮に目の前の飢えた人に食べ物を与えたとしても世界中の人を救うことはできません。世界中の人がその気になれば可能なのかもしれませんし、小さな積み重ねが大事なのでしょうから、決していけない行為ではないと思いますが、例え一人が全財産をなげうっても全体を救うことはできないでしょう。与えることも必要ですが、与えれば済むという性質の問題ではないということです。

だから何をしても無駄だというつもりはありませんが、少なくとも、自分はしたくもないのにこうしなければいけないのではないかとか、人から良く見られたいからとか、感謝してほしいからとか、そういう理由で自分の行動は決めない方がいいと思うのです。

親鸞上人の教えに「悪人正機」説というものがあります。「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」。善人すら往生を遂げられるのだから、ましてや悪人の方がなおさら往生を遂げられるのだ、という意味です。この場合の「悪人」とは、いわゆる現代の犯罪人とは意味が違って、煩悩を持った普通の人間、凡人くらいの意味だと私は思いますが、要するに、自分は善人だと思っているような思い上がった人間ほど往生は遂げにくいと親鸞は言っているのだと思います。

先程の図で考えれば、BもCもDも世の中にとっては害であるとも言え、勿論私を含めて、大部分の人はこういった要素を持っていると思います。そして、自分は善人である、立派なことをしている、人にも勧めようなどと思った時点で、真理とはかけ離れてしまうのかもしれません。私はこの世での表面的な善人、悪人と、実際の人間の善し悪しは、かなりのズレがあるのではないかと思っています。

(参考:吉本隆明著『今に生きる親鸞』講談社+α新書)

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善し悪しの判断

私は、この世にもあの世にも、神以外に「完全」はないと思っていますので、神以外の全てのものは不完全であると考えます。神は善悪をも越えた全ての存在の源であるという意味で完全だと思うのですが、それ以外のものは不完全であるが故に、良いところ、悪いところを併せ持っていると考えます。

ですから、何につけ、良さそうなものでも全てを鵜呑みにしないで疑問を持つことを忘れず、また、悪そうなものでも全部が悪であると決めつけずに、良いところに目を向ける必要があるのではないかと思うのです。これは人間に対しても、宗教に対しても、何に対しても同じです。

例えば人間を例にとると、どんなにすばらしい人でも必ず欠点はあると思います。欠点があるから駄目だと否定していれば全ての人間を否定せねばならなくなるでしょう。また、悪人と言われる人に良いところが微塵もないかと言えばそんなことはないと思います。勿論、いいところがあれば悪事が許されるわけではありませんが、神以外に完全が存在しない以上、神以外のものをいずれも全肯定、全否定すべきではないのではないかと思うのです。

また、良い悪いの判断も、人によって違ってきます。不完全な人間が判断するわけですから食い違って当然でしょうし、問題の性質によって答えが一つではない場合もあります。真理に照らして一目瞭然のものは、それができれば食い違いはないかもしれませんが、個人の感情や、好き嫌いが絡んでくると、それぞれが偏った判断を下すことになるのも仕方のないことでしょう。

宗教の場合は特に複雑です。宗教は、真理を歪めずに伝えることが主目的のはずですが、所詮人間であるところの教祖の言葉や、限界のあるこの世の文字で書かれた教典などで真理を表そうとしているのですから、その善し悪しはおいそれと判断できるものではありません。真理が伝わるか否かは受け手次第のところもあり、肌に合う合わないも千差万別のようです。

ただ、真摯な気持ちから始まってもこの世的な欲にとらわれると宗教は堕落しますし、実際にかなりおかしな宗教も存在しているようです。判断を間違えば知らず知らずのうちにとんでもないものを信仰していたなんていう悲劇も起きるでしょう。どんな宗教から何を学ぶかは個人の自由ですが、少なくとも、人に薦められたからなどという理由ではなく、自分が心から納得したものだけを受け入れること、一度信じたものでも全てを鵜呑みにしないで常に客観的な目で見ること、教祖や教典を信じるだけではなく、自分の経験に照らしてそこから真理を見出そうとすることなどの注意は常に払っている必要があると思います。

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信仰と人間

私は、広い意味では人間誰しも何らかの信仰を持って生きていると言えると思います。宗教や霊的なことに限ったことではありません。唯物論者だって、唯物論を信じているという意味では立派に信仰と言えるのではないでしょうか。

宗教的なものでもひとくくりにはできません。例えばスピリチュアリズムは霊界の存在を大前提としますが、仏教を研究されている方は霊界の存在を否定される方が多いようです。聖書の一字一句にこだわる方もいらっしゃいますし、霊的な感覚の強い方は自分の見えるもの聞こえるものを絶対と考える傾向がある。このように本当にさまざまなことをそれぞれが信じて生きているのが人間というもののようです。

私は人それぞれ何を信じようと自由だと思います。霊界の存在にしても、絶対ある、ないという証明はできないわけで、この世でどちらが正しいという結論の出る問題ではありません。ですから、各自が自分の納得できるように考え、人の信仰も認めながら生きて行くことが大切であると思うのです。

勿論、人に迷惑をかけるような信仰は問題です。殺人などは言語道断、犯罪に当たるようなことは起こしてはならないでしょうし、強制や執拗な勧誘なども避けるべきでしょう。また、よかれと思ってしたことでも、結果的に相手にプラスにならないことは正しい行動とは言えません。

この世を生きる上で大切なのは、何を信じたかではなく、何を為したかです。何を信仰しようと、それが元で社会や他人に迷惑をかけるようでは明らかに害です。いかにひとりよがりにならず、人間としてこの世のルールを踏まえた上で周囲や自分を救い、向上させるか。これは何を信仰するにしても最も大切なことなのではないでしょうか。

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霊界通信の解釈

霊界にいる霊が、人間にメッセージを伝えてくることがあります。地上にはそれを言葉や文章など具体的な形で受け取る、いわば受信機の役目のできる人がいて、霊媒と呼ばれます。シルバー・バーチの霊訓も、緻密に計画された霊界通信ですが、それ以外にも真偽はともかく、事例は沢山あります。

しかし、あくまでも言葉を発する、文字を書くのは生身の人間である霊媒のため、その通信が本当に霊からのものであるという保証はありません。また、霊からのものであったとしても、その霊媒の意識が混入していないとは言えないし、表現手段が、限界のあるこの世の言葉や文字ですから、完璧は期待できません。

霊界にはさまざまなレベルの霊がおり、通信してきたのが本当に霊であったとしても、その内容が正しいとは限りません。また、霊とは言っても、この私たちも地上で肉体をまとっただけの霊なのですから、本質的に私たちと変わりはなく、霊界にいる人間と考えることもできます。ただ、霊界では意識が地上よりはるかに大きくなるようですので、信頼のおけるものなら、参考になる部分は多いと思います。

内容的に正しくありさえすれば、それが霊からのものであろうと、人間のものであろうと変わりはないとも考えられますが、霊界通信と銘打ったものは人間に、より影響を与えやすいので、そういう形で公開する場合は、細心の注意が必要であり、その内容や手段はよほど考慮せねばならず、大きな責任を伴うと考えられます。

霊界通信の価値は、その内容によってのみ判断するしかありません。自分の理性が反発しないか、矛盾したことは言っていないか。受け取り側の成長度によって、正しくても受け取れない場合もあるでしょうが、それは少なくともその時点でその人には必要のないものと割り切り、納得のいかないものはあくまでも受け入れないというくらいの用心が必要なようです。

ですから、霊界通信だからといって何でも信じてしまうのは非常に危険です。この地上で宗教やそれに類するもの(スピリチュアリズムも含めて)と関わる時と同じように、自分の理性を最大限に働かせ、むやみに頼ることは絶対に避けねばいけません。失敗した後で霊のせいにしても、それは信じた自分の責任です。

私の場合、シルバー・バーチの霊訓はその内容に得心がいったため、本物であると認めました。また、霊界通信であると認めた時点で、霊の存在、霊界の存在も認めたことになり、それを自分が物事を考える上での基盤にするようになりました。ただし、私の場合、それ以外のことは参考程度にとどめています。この世をいかに生きるべきかを考える上で、それ以外のことはさして重要ではないからです。

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大切なのは真理に添って生きること

人間が生きる上で最も大切なことは何でしょう。私は、ひと言で言えば、真理に添って生きることだと思います。真理とは、永遠不変の摂理。無窮の過去から未来永劫、決して変わることのない、人間が人生において考え、行動する上での基盤にすべきものです。

霊的知識を得ることは真理に気づく近道ではありますが、真理に添って生きられるのであれば、私は敢えて、霊的知識は必要不可欠ではないと考えます。私のようなひねくれ者の理屈っぽい人間は、永遠の魂の存続や霊界の存在を知り、そこからいかに生きるべきかを考えることは必要だと思います。霊的知識がなければ、投げやりな生き方になるかもしれません。しかし、世の中にはそういう知識など持たなくても、物質に執着せず、人に愛を与え、世の中のためになって生きていける人もいらっしゃるようです。

元唯物論者だった私は、霊的知識を得てから、自分が悪いと思うことや、人を傷つけるようなことはしてはいけないと納得したのですが、死んで終わりと思い続けていたなら、死ぬまで自分だけ甘い汁を吸えればよしとしたかもしれません。実際にはそういう割り切りもできなかったために、悶々と悩み、真理に気づくことができたわけですが。

しかし世の中には、自分が死んで終わりであろうとなかろうと、霊界があろうとなかろうと、全く悩むことなく真理に添って生きられる人もいらっしゃるようです。そういう人は、死後、霊界に行っても、悪いこともしていませんから何も心配する必要はないわけです。生に執着せず、死に怯えることもなく、ただ淡々と正しく生きていける人、こういった人には霊的知識など必要ないと思われます。

でも、大半の人はそこまで純粋ではありません。欲にとらわれ、先の見えない人生に苦しみ、或いは苦しみから目を背け、自分をごまかして生きようとします。霊的知識はこのような人のうち、真理を受け入れる準備のある人には大変有効な人生の指針になります。物事の価値観をはっきりさせ、そこから生きることの意味を知ることができるからです。

また、ある意味純粋であっても、盲目的になんでも受け入れてしまう人には間違った霊的知識ほど怖いものはありません。世の中には、悪気があろうとなかろうと、またいろいろな思惑で、まがい物もたくさん存在します。そういったものを盲信しますと、真理はねじ曲げられ、泥沼から抜けられなくなります。霊的なものは、自分の心によくよく確かめてから受け入れるようにしたいものです。

私は、霊的知識で本当に必要なのは、全ての生命の根元である大いなる力の存在と、永遠の魂の存続だけではないかと思っています。細かいことはいろいろありますが、この世を離れた後のことは、それこそ後のこと。この世の生き方に影響しないことをあれこれ思い悩むことはあまり益があるとは思えません。霊界へ行った後は、この世をどう生きたかだけが問題になるわけですから、真理に添って生きられさえすれば、何も余計な心配をする必要はないと思います。

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スピリチュアリズムと宗教の違い

スピリチュアリズムの基本にある考えは、人間の本質は霊であり、霊は肉体が滅んだ後も霊界で永遠に生き続けるというものです。また、この世で学ぶ必要があるうちは、人間は何度もこの世に再生すると考えます。シルバー・バーチなど、霊からの通信を元にしているので、その現象を本物と認めるなら霊界の存在は大前提となり、その上で、魂の修行の場であるこの世をいかに生きるべきかを考えて行きます。また、全ての存在、生命の源は大霊(神)であるとします。

私の知るところでは、現在の仏教・キリスト教は、霊界の存在を曖昧にしています。ブッダやイエスを神格化する問題はさておき、これらの宗教は神の存在を信じることが基本になっているようですが、人間ひとりひとりが死後どうなるかを明確にはしていません。仏教・キリスト教は、魂の存続の是非よりも信仰そのものを重んじ、霊界のありなしを突き詰めることはしていないようです。

言ってみれば、スピリチュアリズムは知識を第一に、仏教・キリスト教は信仰を第一に考えているということになりましょうか。確かに、死んでどうなるかは実際に死んでみなければわからないわけで、スピリチュアリズムにも信仰という要素が無いわけではないのですが、最後の一歩手前までは事実で固めようとするのがスピリチュアリズムと言えそうです。シルバーバーチも、イエスの言った「信仰に知識を加えよ」という言葉を「知識に信仰を加えよ」といい替えています。

しかし、いずれにしても人間の力を越えた大霊=神の存在は認めており、人間にとって本当に大切な物、正しい生き方を探っていく上で出会う真理に変わりはありません。この真理を探究するという意味においてはスピリチュアリズムも仏教・キリスト教も同じであると言えるでしょう。広い意味では科学も同じ道を目指していることになります。スピリチュアリズムでも、仏教・キリスト教でも全てを鵜呑みにしなければ、自分の肌に合うものから真理を学んでいけばよいと思います。

私の場合は、子供の頃から死が最大の恐怖でしたので、スピリチュアリズムから、魂が永遠であることを知ったのは最も意味のあることでした。また、逆説的ですが、私はかなりの合理主義者ですので、唯物論者時代は、どうせ死ぬのなら生きていても意味がないという気持ちを常に持っていました。ですから、私にはスピリチュアリズムがうってつけであったと言えます。

死の恐怖に目をつぶった上で、或いは死そのものに恐怖を感じずに正しい生き方を見つけていける人は素晴らしいかもしれませんが、私のような肉体に執着を持った俗人にとっては死は何よりの恐怖であり、これを克服するための答えを見つけることが宗教的なものに期待する最大のものだったように思えます。

唯物論者時代の死に対する恐怖、虚しさに比べ、スピリチュアリズムを知った今は、死ぬことが人生最後にして最大の楽しみと言えるかもしれません。

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教祖の役割

宗教には教義というものがあります。それぞれの宗教の説く教え、決めごとなどが記されています。どんな宗教の教義でも、それを自分が心から納得でき、人に迷惑をかけず、生きる上での指針になると思われるのなら、全てを鵜呑みにしなければ受け入れて問題はないと思いますが、大切なのはその教義の中に含まれている真理を理解することです。逆に言えば真理の含まれていない教義は意味がないし、自分で真理さえ抽出できるのなら、どんな宗教でも学ぶ価値はあると思います。

真理は、教祖が考え出すものではありません。悟りとは、真理を作り出すことではなく、真理に気づくことです。真理とは、無窮の過去から、いつの時代でもどこの国でも通用するもので、新しいも古いもありません。時代やお国柄に合わせて表現方法は変わっても、真理そのものが変わることはありません。イエスにしろ、ブッダにしろ、気づいた真理に違いはなく、それを伝える時の表現の仕方が、人によって違ったというだけのことだと私は思います。

真理はひとつの宗教が独占できるものではありません。真理は、全ての根底に流れるもの、大自然の摂理であり、日常生活の中にもいくらでも発見できます。ですから、うちの宗教だけが正しい、教えは全て自分が考え出した、他に目を向けてはいけない、逃げると罰が当たる、などと言っている教祖の元は、さっさと失礼した方が賢明というものです。仮に、ある有能な霊能者が高級霊の啓示を受けられたとしても、そこで自分を崇めさせようとしたり、人を見下したりするのであれば、その人はそれでおしまいだと思います。

では、宗教の教祖、及びそれに類するものの指導者はどうあるべきか。私は、普遍の真理を、自分の思い込みで歪めることなく、できるだけ純粋な形で誤解のないよう伝えることが彼らの最も重要な仕事だと思います。そして、自分は真理を伝える通路のようなものである、そういう役割を霊界から与えられただけの人間なのだ、と考えるべきでしょう。あくまでも謙虚に、思い上がることなく、求める人に、その人の理解できる範囲で正確な知識を伝えることが大切だと思います。

また、求められている以上のことを与えようとする、自分を頼らせる、盲信させるということも避けねばなりません。自立心を失わせることも指導者の責任です。その指導者がいなくては真理を忘れてしまう、真理に添った生活ができないというのでは、真理を伝えたことにはなりません。真理は、自らの体験の中で見つけ、考えていくもの。各自が、自分の経験から実感してはじめて、それぞれの心の成長につながって行くものだと思います。

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宗教に求めるもの

この世には昔から数多くの宗教があります。いつの時代も人間は人生に苦しみ、救いを求めるようです。私の知る限り、長い歴史を持つ宗教は形骸化され、さまざまな人間の思惑が入り込み、真理が見えにくくなっている。新興宗教は、教祖を神格化することで盲目的になる傾向があり、また、完全な営利目的で、犯罪組織にまで成り下がっているひどいものもあるようです。

近頃は、本来人間の生き方を説き、救いになるべき宗教というものによって、人々が苦しめられてしまう悲劇があまりにも多いと思います。脅され、金を巻き上げられ、家庭崩壊に追い込まれる。こんなものが宗教であるはずがありません。

なぜそのようなものがはびこってしまうのか。私は、それは人々が宗教というものを間違って認識し、そこに求めるものを勘違いしているからだと思います。金を儲けたい、病気を治してほしい、自分の将来を知りたいなど、この世的なものの解決を宗教に求めることが悲劇の始まりだと思います。

金は、この世の道具であり、大金持ちになったところで霊界に帰る時にはこの世に置いていかねばならないものです。そんなものを手に入れるために正しい宗教が役に立つはずはありません。金運を呼ぶなどという宗教は、欲望をあおる詐欺以外の何ものでもありません。

病気を治すというのも、高額なお布施などを取るのであれば、人の弱味につけ込んだ危険なものと思った方がいいでしょう。心霊治療は存在しますが、そういう才能を持った人は心霊治療家になればよく、教祖になる必要はありません。イエスやブッダのように、偉大なる悟りを得た後、病気の治癒能力、過去未来を見通す力を得る場合もあるようですが、高級霊はその力を少なくとも金儲けには使わないでしょう。

病気によっては悪霊の憑依ということもあり、その場合は除霊という作業によって病気が治る場合もありますが、憑依されるのは、された人間の霊的レベルによるところが大きく、やみくもに除霊してもすぐまた憑依されてしまうことが多いようです。憑依された人間も憑依している霊も、正しい霊的知識を知り、霊性に目覚めることが問題解決の近道になります。

本来の宗教とは、人間は霊的存在であり、肉体の死後も魂は存続すること。人間が生まれてきた目的は霊性を向上させるためであり、苦しみを乗り越えることこそ自分の成長につながること。よってこの世にいる間も物質的なことや欲望に惑わされることなく、いかに生きるべきかを考えるよう説くものでなければなりません。

また、あくまでも自分が主体性を持って考え、判断し、行動することが大切です。他力本願で宗教に頼り、信じることによって助けてもらおうという心構えでは、悪霊の食い物にされても仕方ありません。

新興宗教の教祖は、何かしらの霊能力を持った、霊能者がなっていることが多いようです。霊能者のレベルによっては高級霊界からの啓示を受けられることもありますから、一概に否定はしませんが、問題はその教祖を神に祭り上げることです。いかに有能な霊能者であろうと、人間は人間です。私はイエスやブッダもあくまでも人間という見方をしています。彼らは、高級霊界と通じられるだけの霊格を備えていましたが、自らが神であるとは言っていません。神格化してしまったのは後の人間です。

肉体に宿っている霊そのものが神であることはあり得ません。神とは、全ての生命の源、大自然の摂理ですから、あらゆる存在は神の顕現とは言えますが、神は、人間的個性を備えられるほど小さなものではありません。われこそは神であると言っている教祖にはついていかない方がいいでしょう。

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真理の山を登れ

この世にはさまざまな学問があり、熱心な学者もたくさんいます。しかし、それはほとんどが物質的な研究です。そして、科学がここまで進歩した現在、優れた学者たちは、物質だけでは説明のつかないところまで行って壁にぶつかり、発想の転換を余儀なくされています。医学も物理学も天文学も、物質以外の、精神の世界に足を踏み入れないことには先に進めなくなっているのです。

なぜか。それはこの世が物質だけで成り立っているのではないからです。どんな学問でも突き詰めれば必ず心の領域に入らざるを得ません。そしてあらゆる学問は、さまざまな分野から真理を目指すことになります。人間は、この世でもあの世でも、どんな道を選ぼうと、真理という山の頂を目指して登り続けることになるのです。宗教もスピリチュアリズムもその道の一つです。

そして真理の山は永遠の高さを持っています。どんなに登っても頂には着かないでしょう。しかし、だからこそ人間は永遠の生命を与えられているのであり、進歩する可能性も限りなくあるのです。自分が自分として命を与えられたことに喜びと誇りを持ち、みなそれぞれの役割を果たしつつ、助け合いながら真理の山を登って行こうではありませんか。

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真理は一つ

世の中にはたくさんの宗教があります。僕はそのひとつひとつについて詳しいことは知りませんが、これだけは言えます。真理は一つ。真理とは永遠に変わることのない、普遍のもの。真理は、宗教の種類によって変わることはありません。

宗教によって教義に差異が生じているのは、説いた人や時代によって、その表現方法が違うため。本当は、大切なのは真理だけで、誰がいつ、どういう表現をしたかなどは問題ではないのです。また、特定の人間が真理を作り出せるわけではありませんから、個人を信仰することは危険。高級霊からの啓示を受けられた人がいても、優れた霊能者と解釈するのが妥当でしょう。勿論、高級霊からの啓示を受けるにはそれなりの素養が必要になりますが、だからといって人間を神に祭り上げることはナンセンスです。

どの宗教から真理を読みとるかは自分にしっくりくるものを受け入れるのがいいでしょう。納得できないものは決して鵜呑みにしてはいけません。真理をちらつかせて人を騙すあくどい宗教もたくさんありますから、自分で真理を見極め、余計なものに惑わされないことが大事です。高額な寄付や、物品の購入を強要する宗教は、まずまともなものではないと疑ってかかった方がいいでしょう。また、脱会すると罰が当たるなどと脅すところも、やめたところで少なくとも神からの罰が当たることはありません。

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