りゅうじんの独断と偏見の人生哲学
(生活・人間関係編2)

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タイトルをクリックしてください。

トラブルの原因2022.10.26NEW
猛獣が襲ってきた2022.10.15NEW
同性婚について2022.10.13NEW
偏った思考2022.10.11NEW
好き嫌い2022.10.8NEW
議論は必要か2022.9.5
続・
役割分担2022.7.12
役割分担2022.7.8
続・教育2022.7.7
教育2022.7.5
家と名前2022.4.20
記憶と反省2022.4.7
縁と、好き嫌い2021.12.12
怒る2021.7.11
若い人たちへ2021.3.4
会話のコツ2020.8.13
エキストラ2020.7.22
演技のコツ2020.7.20
身近な人の自殺2020.7.19
盆と新盆2020.7.13
指示待ち族の是非2019.2.27
人が生きる上ですること2018.5.12
選べるもの選べないもの2017.10.14
芸術を生業にすること2017.5.7
子育てのコツ2017.5.5
怒りを覚える相手には2015.9.8
想像力と人間性2014.4.29
すべては気づくためにある2014.4.05
悪口を言おう2014.3.24
まじめは危険2013.3.16
腐りきった世の中2013.2.18
伝える時のコツ2013.2.5
成功と失敗2012.12.27
思ったことが言えない社会2012.12.04
思考の幅2012.11.30
与えることと受け取ること2012.5.19
喧嘩するほど仲がよい2012.1.31
どうでもいい世の中2010.10.6
ご近所づきあいのすすめ2010.8.5
人間はいかに生きるべきか2008.10.24
動物と人間2008.5.22
喜べること、喜ばれること2008.3.31
本物と偽物2008.3.7
苦しむ人のパターン2008.1.29
あなたのしたいことをすればいい2007.4.10
いいところを見る2007.1.31
自分にとって今必要なこと2006.10.9
やりたいならやればいい2006.10.4
「受け止める」と「受け入れる」2006.7.21
腹は立たない、立てているだけ2006.5.23
決められたことに従う怖さ2006.4.2
守らねばならないもの2006.3.9
自分の幸せ、みんなの幸せ2006.2.18
行動のベースになるもの2006.2.17
非対立のすすめ2006.2.14
人生の目的2006.2.13
臓器移植について2006.1.23
こうすればいい、こうしてはいけない2006.1.21
五事を大切に2005.12.1
自信について2005.10.29
昨日にとらわれず、明日を案じない2005.10.20
怒りと悲しみ2005.10.15
自立の大切さ2005.10.12
不毛な議論2005.6.23
生きるのはつらい?2005.3.19

脳味噌とは2005.1.12
人は自分を映す鏡2004.3.9
意見の食い違いの対処2004.1.24
比較は必要か2003.4.10
期待と不安2003.3.25
生き方にマニュアルはない2002.12.22
認められることの喜び2002.11.14
嘘はいけないか2002.10.13
否定の招くもの2002.9.14
いつも幸せでいるには2002.8.25
仕事上のトラブル2002.3.14

 

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トラブルの原因

私は、多くのトラブルの原因は「他を認めない」ことだと思います。理解できない、気に入らないものは認めたくないというのは人間心理かもしれませんが、それをあからさまに相手にぶつけると、トラブルになります。

人の考え、意見というのはさまざまで、全員が一致することはほぼないでしょう。みんなで一つに決めなければならないようなことは何らかの方法を考える必要がありますが、そうでない場合は、お互いを認め合うことが重要だと思います。

理解する必要はないのです。ただ存在を認めさえすればいい。意見が合わないのであれば、お互い干渉せず、その後、接点を持たないようにすればいいでしょう。

友人や、家族親戚、ネット上でも、人が集まれば必ず、意見の食い違いが起きます。ある程度の意見交換をして折り合わないことがわかったら、可能な限り、関わらないという選択が、私は賢明だと思います。

どちらが正しいということは別にして、相手を自分と同じ考えにしようなどと考えるのは傲慢だと思います。言い負かしたり、説得して、一時的に従わせたとしても、相手が納得しているとは限らないし、長い目で見ればいい結果を生むとは思えません。

他の存在すら認めないという意識がエスカレートすると、最悪は「ジェノサイド」と言われる現象が起きます。ナチスによるユダヤ人迫害が代表的ですが、特定の人種、民族などを皆殺しにするというもので、国家間の戦争もそれに含まれます。

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猛獣が襲ってきた

猛獣が襲ってきたらどうしますか。クマとかトラとかライオンとか。

まず、逃げることを考えるでしょう。
武器があれば戦うでしょうか。

一頭を倒しても、後ろにたくさんいたらどうでしょう。
自分の仲間がいれば一緒に戦うでしょうか。

猛獣を全部倒せたとします。
でも仲間が死んでしまったらどうでしょう。
戦うという判断は正しかったのでしょうか。

私は戦争をこのように考えます。

もちろん、相手が人間なら襲われる前に話し合う必要がありますが、それができなかったのなら、戦わずに逃げた方が賢明なのではないでしょうか。命以上に守るべきものなどあるでしょうか。

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同性婚について

世間では他国も含めて、同性婚を認める、認めないという論議があるようだ。

私は、同性愛などに関して、それぞれの個人がどう思うかは別として、そうしたいと思う人たちがいるのなら、認めればいいと思う。

私の提唱する「お金のいらない国」では、そもそも婚姻制度がないので、誰が誰と暮らしていようと自由である。

今の社会では、婚姻制度というものがなぜ必要とされているのか。お金の存在が大きく関係しているように思う。

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偏った思考

人は誰でも自分が生まれ育った環境、経験を通してものを考えます。だから、皆が同じであるわけはなく、ある程度偏った思考になるのも仕方のないことです。しかし、少し気をつければ、考えが整理されたり、コミュニケーションがスムーズになるかもしれません。

●視野を広げる
自分の置かれた立場、視点からだけで世の中を見ていると、全体像がつかめません。例えば、宇宙から地球を見れば、国境もなく、ヒトは単なる動物の一種です。戦争などは不思議な現象でしょう。

●現状ありきで考えない
世の中で決まっているルールにはとりあえず従う必要はありますが、現状に不都合を感じるのなら、よりよい状態を想像しましょう。例えば、お金や婚姻などの制度は人間が作り出したものです。不都合があるとすれば、どこをどう変えればいいのか、考えてみましょう。

●マニュアルを決めない
決めごとを作っておくと、その都度考えなくて済むので楽ですが、それが常に正しくすべてに当てはまるわけではないだろうし、臨機応変な対応が必要でしょう。

●他人の気持ちを想像する
身近な人はもちろん、他人の気持ちを察することは思いやりにつながるでしょう。自分には関係ないと思われることでも、当事者の状況、立場を想像することは疑似体験になるかもしれません。

●他を認める
自分以外の人は、それぞれの立場や経験からものを考えています。自分の考えと違っても、自分の意見を押し付けるようなことにはならないよう注意が必要です。一つに決めなくていいことは認め合えばいいし、相容れなければ棲み分けを考えた方がいいと思います。

●好き嫌いは問題にしない
好き嫌いは千差万別で、それは正しいかどうかの基準にはなりません。好き嫌いを論じ合っても解決の道はないでしょう。

●論点をすり替えない
何が論点、問題なのか、相手は何を言おうとしているのか、それを的確につかまないと、話は混乱し、どんどん別の方向に行ってしまいます。

●特殊な場合にこだわらない
何にでも例外はあるものです。特殊な場合にこだわると、本題から外れてしまうでしょう。

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好き嫌い

好き嫌いというのは誰にでもあるものです。人に対して、食べ物に対して、その他あらゆる物や事に対して、自分は何が好きか嫌いかが、人生における価値判断や行動に影響してきます。

しかし、あまり好き嫌いにこだわると、トラブルの元にもなります。人の好みというのは千差万別で、当然、食い違う場合が多くあります。世の中の問題は、好き嫌いのぶつかり合いで起きていることが多いと思います。

好き嫌いをアピールすることによって、自分の個性を主張できたり、他人にわかってもらえるよさはありますが、関係性によっては周りに余計な気を遣わせたり、喧嘩の種にもなりかねません。

なぜ自分はそれが好きなのか、あるいは嫌いなのか。一度、自分の好き嫌いについて考えてみるのも面白いと思います。

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議論は必要か

私は、対立が前提の議論は意味がないと考えています。意見が違う場合でも、お互いの意見を示し合い、お互いが受け止め合えるならいいと思いますが、ただ違う意見をぶつけ合ったり、どちらかが言いくるめたところで、何も解決はしないと思います。

結論を一つに決めなければならない場合は、多数決か、どちらかが折れるしかありませんが、そうでなければお互いがお互いの考えを認識した上で、可能ならそれ以降は別々の道を歩めばいいのではないでしょうか。

政治でも、男女関係でも、ネット上でも。

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続・役割分担

家庭でも役割分担は必要になる。昔は、家事全般は女性の仕事で、男は外で金を稼いでくることが多かったが、時代は変わった。

閉鎖された家庭の中では、すべての家事は、家族の誰かがやらなくてはならない。例えば、料理や掃除。もちろん、誰かがやれれば問題はないのだが、私はそのあたりも一番無理のない形を考えてみたい。

人には得手不得手がある。例えば、料理は苦手で、作りたくないし、うまくできない。掃除や片付けは嫌いで、家の中はいつも散らかっている。そういう人は結構いるだろうし、我慢してやっていることも多いだろう。

私は、料理は、得意な人が、たくさんの人が食べられるように作ってくれれば質も高く、材料なども効率がいいし、食べたい人はそこに行けばいいと思う。掃除は、定期的に専門の人に頼んでもいいのではないか。

現在でも、レストランはあるし、スーパーなどではそのまま食べられるものもたくさん売っており、ハウスクリーニングの会社もあるが、お金がいらなくなったら、もっと自由に利用できるようになると思う。

家庭では、すべてのことが卒なくできないとだめだとか、手抜きだとか言われる節もあるが、できないことを無理してやるより、できることで多くの人の役に立てることを考えた方がいいのではないか。

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役割分担

地球上に出現した、初めの方の人類は、他の動物のように、まず自分の食べる物を獲ることが仕事だったろう。子供にも与えていただろう。

身を覆う物や、風雨をしのぐ家を作る必要もあったろう。石器や土器などを作るようになると、それも仕事になったろう。

初めのうちは自分ですべてをやらなくてはならなかったかもしれないが、大きな獲物を獲ることや、家を作ることは、皆で協力してやるようになったのではないか。

文明が進むにつれ、さまざまな仕事が生まれ、役割分担をするようになる。真偽のほどはわからないが、そこにお金の発明が必要だったとすれば、人間の進化の過程でお金も一役買っていたことになる。

現在の人間の社会は、仕事が非常に細分化している。まだ進化の余地はあるにしても、それぞれの仕事や研究開発はかなりのレベルに達し、それが見事に絡み合って、複雑な社会が構成されていると言えるだろう。

私は、これでお金というものがなくせたら、もっと人それぞれが個性を生かせ、やりたいことがやれて、満足度の高い、成熟した社会に近づくと思う。

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続・教育

教育には社会に出てからの教育もある。会社などでは経営理念やさまざまな研修、いろいろな仕事における技術の習得も教育が必要になるだろう。

宗教やそれに類するものも教育と言えるかもしれない。ただ、こういったものは洗脳になると危ない。

よくあるのは、教祖などが絶対的な力を持ち、信者は神のように崇め奉り、教祖の言うことは味噌も糞も闇雲に信じ込んでしまうような場合。

それを逆手にとって信者を食い物にしたり、必要以上の金集めに走るような宗教は最悪である。

何の生まれ変わりでもよいが、教祖も、肉体を持ってこの世に生まれてきている以上、あくまでも一人の人間である。

自分自身の判断で、よいことを言っていると思ったら、その部分はいただき、疑問に感じる部分は受け取らないことが肝心だ。

要するに大切なのは、「誰が言ったか」ではなく、「何を言ったか」である。

宗教でなくても誰かを信じすぎるのは危険である。特に金の社会では、心の隙間に付け込んでくる輩もいる。

「お金のいらない国」も自分自身でご判断ください。

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教育

一般的に教育は大切だと言われる。たしかに必要な教育はある。しかし私は、しなくてもいい教育も多いと思うし、「教える」という行為にはかなりの注意を要すると思う。

学校教育の場合、日本では小中学校が義務教育である。社会でコミュニケーションを取る上では知識として知っておいた方がよいこともあるので、基本的な教育は必要だと思う。

しかし私は、高校以上の教育は、すべての人には必要ないと思うし、もっと専門分野に分けた方がいいと思う。また、中学校までに教えられた内容を全て覚え、忘れずにいられる大人がいたら、相当な博学である。

家庭教育の場合、教えるとしたらマナーだろう。マナーは、基本的な習慣、美しく効率のよい動作、人に不快感を与えないための知恵だから、これはある程度は知らないと恥をかくし、他人に迷惑がかかる。

そして、家庭に於いて一番やってはいけないのは、親の考えや趣味、好き嫌いを子供に押し付けることだと思う。

子供が小さいうちは、親は絶対的な存在である。親を頼り、親の真似をし、親の言うことは信じる。中学生くらいになると、自我が芽生え、自分の考えや好みを持つようになり、親が正しいわけではなかったのだと気づき、親との対立が始まる。

もちろん、親が自分の意見や好みを子供にアピールするのはよいだろう。ただ、それが正しいと信じさせたり、子供に同じように強要するのは絶対によくない。親はあくまでも自分個人の意見として発言し、子供の自由は認めるべきである。

中学生くらいになれば、学校でも、教える必要のあることはもっと他にあるだろう。環境問題然り、社会情勢然り、性教育然り。経済やお金のことも、通り一遍のことではなく、本質に迫ってほしいものである。

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家と名前

この社会には「家」というものがあります。この場合の家とは、建物ではなく「〇〇家」といった名前、「家系」ですが、特に一昔前は、現在より、「家」を存続させる、「跡継ぎ」を残すということに非常にこだわっていたと思います。

もちろん、現在でもそういうことをとても重要視し、それが必要な「家」もあるでしょうが、一般の家庭では昔ほど気にしなくなったように思います。

昔は、「家」を存続させるためには男子が必要であり、「嫁」をもらって子孫を残す、また、女の子しか生まれなかった家庭では、娘に「婿(むこ)」取りをして、「名前、名字」を残すということをよくしていました。

子供ができない夫婦は、より大変で、特に女性はつらい思いをされた方も多かったようです。

また、「墓」を守るというのも最重要課題の一つで、そのためにも何としても、家、跡継ぎを残さなければならないと考えていたように思います。

しかし、子孫が途絶えることはままありますし、誰のものかわからない墓石だけが残っても困るので、最近では、そうなる前に、子孫自らが「墓じまい」することも多くなってきました。

そもそも自分の認識できている先祖は二代前、せいぜい三代前くらいまでで、戸籍も普通はそれ以上調べませんし、大昔のことはよくわからず、あまり関係ありません。また、何百年、何千年と遡っていけば、人類のほとんどの人が先祖になるように思います。

私の提唱する「お金のいらない国」では、名字もなく、戸籍もなく、墓もありません。下手に過去にこだわると、差別意識や選民意識が生まれることもあるでしょうし、あまりいいことはないように思います。

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記憶と反省

64年間生きてきて最近よく思うのは、過去の失敗である。

私はそういう記憶だけは、幼稚園に入る前くらいから、その場面、誰がどんな台詞を言ったかまで克明に思い出せる。楽しかったことを思い出せばいいのに、頭に浮かんでくるのはだいたい嫌なことばかりである。

叱られたことや、迷惑をかけたこと。その時にはあまり深く考えずにやってしまったことでも、後になって気づいたりする。

家族、友だち、学校、仕事関係……。怒られたり、喧嘩したり、ひどいことを言ったり、やったり。戻ってやり直すことはできないし、失敗から学ぶしかない。

人とは失敗するものなのだろう。他の人を見ていても、付き合いが長くなれば、指摘したくなるようなことが見つからない人はいない。

年を重ねれば、この先も失敗は増えていくだろう。あと何年生きられるかはわからないが、生きているうちに反省しておいた方がよいと思う。

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縁と、好き嫌い

人はこの世に生まれると、さまざまな人との関りを持つ。

まず、自分を産み落とすのは母親である。そして、それに必要だったのは父親。自分の前には兄、姉がいる場合もあるし、自分の後に弟、妹が生まれることもある。祖父、祖母が健在ならいるし、血のつながった人としては親戚もいる。

学校に行けば友達ができ、先生がいる。社会に出れば、同僚、上司、部下、得意先、その他さまざまな人と関わることになる。また、結婚すると夫や妻ができ、子供や孫ができる場合もある。

こういった出会いは何かしらの縁があって生まれるのかもしれない。しかし、縁があったと言っても、この世だけで見れば、多くの場合、出会う人は自分で選べるわけではない。

生まれた時点で、親は決まっている。兄弟姉妹も自分とは関係なく生まれてくる。友達はある程度選べるかもしれないが、先生は選べない。仕事関係の人も、多くは自分で選べるわけではない。結婚相手は特殊な場合を除いて選べると思うが、子供は選べない。

さて、ここで考えるのは「好き嫌い」である。前述のように、多くの場合、自分の関わる人は自分では選べない。だから、好き嫌いに関わらず、必要なら付き合っていくことになる。

親兄弟でも、好きでいられるとは限らない。もちろん、お互い好意的に思えればそれに越したことはないが、長年のうちにはいろいろなことも起き、そううまくいかない場合もある。

仕事関係では特に、人間性、嫌な面も出やすいし、苦しむことも多いと思う。

しかし、「好き嫌い」というのは変化もするし、人は誰でもいろいろな面を持っている。見方にもよるが、悪いところが一つもない人間など、いないと思う。

だから私は、縁のある人とは、あまり好き嫌いを考えずに、それなりの距離を保ちながら、無理のない範囲で付き合っていけばいいと思う。

自由に選べたはずの結婚相手だって、一緒に暮らせばいろいろな面が見えるし、感情はさまざまに変化しても何ら不思議ではない。

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怒る

「怒る」という言葉は、「おこる」「いかる」と読めますが、「腹を立てる、いかる」という意味と、「叱る(しかる)」という意味があります。

「先生に怒(おこ)られた」というと、先生は注意することを目的に叱ったとしても、怒りの感情をあらわにしていた感じがします。

世の中には、同じ目に遭っても、怒る人と怒らない人がいるし、相手や場合にもよりますが、他人に注意する場合は、あまり怒った口調で言わない方がいいと思います。

また、実際は怒っていたとしても、顔や声に出さなければ怒っているとは気づかれないかもしれません。

感情をあらわにして怒る(叱る)と、相手は萎縮したり、反発したりするだろうし、結局、注意したいことは伝わらないように思います。

人間、腹を立てることもあるし、それは抑制すればいいというものでもないと思いますが、他人に注意する場合、どのような態度、言い方をするかはよく考えた方がいいと思います。

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若い人たちへ

最近の若者は、年寄りから「物欲がない、働かない、結婚もしない、困ったものだ」と言われて傷ついているというようなことを聞いた。

私も年寄りの一人として言わせてもらうが、余分な金儲けのために働く必要はないし、したくなければ結婚などしなくてよい。

私のような高度経済成長期に育った世代、あるいは戦後、何もなかった時代からさまざまなものを作り、現在のような物的には満たされた社会を築いてきた世代は、がむしゃらに働いて金を稼ぐことがよしとされてきた。

ある程度の年齢までには、マイホームを持って、そこそこいい車に乗り、家族が幸せに暮らしているような家庭が理想像であった。

たしかに便利で快適な世の中にはなったし、金のために働くという意識も、その発展を勢いづけてきただろう。しかし、その結果、森林破壊などの致命的な環境破壊を生み、人々の心身は疲弊した。

近年では物があふれ、必要なものは十分に満たされたが、それでも経済を発展させ続けるためには、何かで金を儲け、会社を大きくしなければならない。当然、必要ないものでも作って売り、たくさん捨てることになる。

年寄りは、若い人にとにかく働いてもらい、自分たちの年金を払ってもらわねば困るので、若者に、働け、結婚して子供を作れと言うのだろう。

最近の若い人は、家をシェアするとか、車を持たないなど、自分さえよければいいとか、見栄を張るという意識も昔より大分減ってきているようで、これはとてもいいことだと思う。

私はこれなら将来、お金のいらない社会も実現可能ではないかと思っている。

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会話のコツ

会話する場合、一番大事なのは、素直に「聞く」ことだと思います。とにかく、相手、話し手の言っている内容の真意をとらえ、誤解のないように理解しようとすること。

話し手の目や表情を見て、ときにはうなずくなどの反応を見せ、ちゃんと聞いていることをアピールし、相手に話しやすくさせることも必要でしょう。

受け入れる必要はないのです。自分が相手の言ったことについてどう思うかは置いておいて、とりあえずは相手の話がひと段落するまで黙って聞き、相手の言いたいことを「受け止める」ことが大切です。

相手の話の途中で口を挟むことはできるだけ避けた方がいいでしょう。その内容を予測して自分の知識をひけらかすと、「知ったかぶり」と思われたり、その予測が間違っていた場合などは、「早合点」と評価されます。

相手の言ったことに対して、自分が意見を言う場合には、反対意見であっても、逆説的な言葉からは始めない方が賢明です。いきなり「でも」「だけど」などから始めますと、それだけで相手は身構えます。

反対意見を言うにしても、「そうですね」「なるほど」などから始めると、相手はとりあえず自分の言いたい内容は理解してくれたと感じるでしょう。結果的には受け入れなくても、「受け止めてくれた」と感じさせることが重要なわけです。

自分の意見を言う場合は、長くなりすぎないように、一度にいろんなことを言わないようにすべきでしょう。話が長いと感じると内容は全く入ってこなくなりますし、話が複雑になると相手は理解できなくなります。

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エキストラ

映画やドラマの撮影では、エキストラが必要となる場合が多くある。町の通行人であったり、喫茶店のお客であったり、劇場や野球場の観客であったり、怪獣から逃げ惑う群衆であったり。

稀に台詞があったりする場合もあるが、ほとんどは風景としての役割であり、エキストラで参加しても、映らない、ボケているなどは普通である。

だからエキストラ参加する場合は、現場にいるメインの俳優に近づいたり、話しかけるなどはもってのほかで、目立ってはいけないし、撮影の邪魔にならないよう、風景になり切らなければいけない。

ただ、これがなかなか難しい。だいたい素人の場合は、カメラが回ると緊張し、全く動けなくなったり、動きがぎこちなくなる。また、動作が大げさになったり、余計な動きをしたりする。

エキストラが下手でも撮り直しにはなかなかできないだろうし、撮影隊もそこまで見ていないかもしれないから、そのまま使われることも多いのではないか。

私など、昔からよくエキストラの方を見ていたりするから、いろいろ気になることもある。

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演技のコツ

舞台などで役者は、台本の中の何らかの役を演じるわけだが、私は、演技に必要なことは、一言でいえば、その役に「なりきること」だと思う。

台詞を言うにしても、その人がどういう人で、どんな性格で、どんな場合に、どういう関係の人と、どんな感情でその会話をしているのかを、いかにリアルに自然に演じられるか。

一つの台詞の中にもさまざまな感情の変化もあるだろうし、喜怒哀楽はもちろん、ため息をつきながら言うとか、その言葉の中に込められた感情をいかに表現できるか。もちろん、微妙な表情や動作で表すことも重要。

また、相手との台詞の間をどのくらいとるのか。あらかじめお互いの台詞はわかっているのだが、それを知っていたかのような間や反応を見せては、不自然になる。

演技も、他の芸術やスポーツなどと同じように、才能の有り無しはあると思うが、すべての人は少なくとも自分の人生においては自然な会話などをして生きているわけで、そこは他のジャンルとは少し違うかもしれない。

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身近な人の自殺

身近な人が自殺したことを知ると、相当なダメージを受け、当分の間、その人のことが頭から離れなくなる。

私など、何十年経っても、生きている人のことより、自殺した人のことを思い出す方が多い気がする。

芸能人だって、一方的にとても身近に感じている存在だから、大勢のファンにもその衝撃は大きいし、まして、共演者や、スタッフたちへの影響は計り知れない。

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盆と新盆

祖先の霊を祀る『盆』は仏教用語の「盂蘭盆会(うらぼんえ)」の略で、時期は8月と認識されている人も多いと思うが、もともとは7月の行事で、東京や一部の地域では現在でも墓参りなどは7月に行われる。

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(以下、ウィキペディアより引用)
かつては太陰暦の7月15日を中心とした期間に行われた。明治期の太陽暦(新暦)の採用後、新暦7月15日に合わせると農繁期と重なって支障が出る地域が多かったため、新暦8月15日をお盆(月遅れ盆)とする地域が多くなった(引用ここまで)。
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また、『新盆』とは亡くなった方が最初に迎えるお盆のことだが、

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(以下、ウィキペディアより引用)
人が亡くなり49日法要が終わってから次に迎える最初のお盆を特に初盆(はつぼん、ういぼん)または新盆(しんぼん、にいぼん、あらぼん)と呼び(引用ここまで)。
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ややこしいのは、東京などの7月のお盆を「新盆」と呼ぶこともあるらしい。ネット上にはいくつかそういった説明もあったが、その場合、8月のお盆を「旧盆」と言うそうで、後からできた方が「旧」というのも変だし、誤解や混乱を招きそうだ。

広辞苑にはどう載っているのか、どなたか教えてください。

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指示待ち族の是非

世間では、いわゆる『指示待ち族』は良くないと言われることが多い。しかし、一概にそう言えるものではないと私は思う。

指示を待つということは、そこには指示を与える者と、指示を受ける者という両者が存在することが前提となり、そこには立場や役割の違いがあるはずである。

指示を受けた場合、まずその指示通りに、ことを行う必要がある。指示する方にすれば、そうしてくれればまず及第点はつけられると思う。困るのは指示通りにできない場合。これは落第。

同じ『指示待ち族』であったにしても、そういう差はあると思う。また、指示した方が考えていたことを越えて、良い結果を出した場合は評価が上がると思う。

また、指示を待たないにしても、行動を起こす場合は、その管理者や責任者には事前に提案、相談しておくことが必要である。

一番困るのは、指示してもいないことを間違った判断で勝手にやられること。その尻拭いをさせられるのは最悪である。

だから私は以下のような順番になると思う。

1. 指示がある前に的確な判断をし、責任者に提案、相談してから行う。
2. 指示を受け、指示された以上の結果を出す。
3. 指示通りに、ことを行う。
4. 指示通りにできない。
5. 指示されていないことを間違った判断で勝手に行い、人に尻拭いをさせる。

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人が生きる上ですること

野生動物は、だいたい食べ物を探すことに大半の時間を使っているのではないかと思います。肉食動物などは、何日も、何カ月も獲物を探してさまようなんてこともあるようです。

ヒトも動物の一種です。人間も、原始時代は食べ物を見つけることが、一番大事な、最初の仕事だったのではないでしょうか。動物を捕まえたり、木の実なども、あれば食べていたでしょう。そして、農耕を覚えると、植物を育てて食べたでしょう。

食べることと並んで大事なことは交尾でしょう。最初は、その行為にどんな意味があるのかわからなかったと思いますが、本能によって子孫が残せるようになっているのだと思います。

そうこうした後、日が沈めば寝たでしょう。火を発見してからは多少変わったかもしれませんが、明るくなったら起き、暗くなったら寝るというのが自然な姿だと思います。

食べ物を得ること以外に時間を使えるようになって、人間は遊ぶことを始めたのかもしれません。踊る、歌う、言葉ができてからは話す。楽しむということを覚えたのではないでしょうか。

仕事は多種多様になりましたが、現在でも人間のすることは基本的には変わりません。娯楽としては、音楽、ダンス、スポーツ、おしゃべり、ゲームなどなど。やらなくても死ぬわけではないかもしれませんが、生きる上で、遊びは必要不可欠のようです。

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選べるもの選べないもの

スピリチュアル的な観点から見れば、あるいはあの世的に見れば、自分のこの世での境遇は、霊界にいるときに自分で選んで生まれてきたと考えられます。例えば、どの時代、どの国の、どの両親の間に生まれるか。自分の魂の修行に必要な境遇を自分で選んでいるというわけです。

しかし、この世的に見れば、選べないものが多いと思います。例えば、生まれた時すでにいる両親。兄弟姉妹や親戚、生活環境。学校に行けば、先生、クラスメイト、会社に入れば上司、同僚、得意先の人。学校や会社のどこに入るかは選択する余地はありますが、入った後関わる人などは選べません。

友人や同僚の誰と親しく付き合うかは自由ですが、同じクラスや部署になった人とは、少なくとも表向きには誰とでもうまくやっていくことが基本なわけで、それができなければ嫌われたり、仲間外れにされるでしょう。

ですから、この世では、自分の好き嫌いとは関係なく関わらざるを得ない人が多いということです。そこにいちいち好き嫌いの感情を持ち込み、判断材料にしていたら、物事はスムーズに進みません。人付き合いもある意味、仕事と割り切る必要があるわけです。

私は、たとえ親であろうと家族であろうと、好きである必要はないと思っています。もちろん、好きでいられるに越したことはないかもしれませんが、どのみちこの世的に見れば選べない人たちなわけですから、敢えて好きでなければいけないと思う必要もないし、その都度、必要となった関わり方ができれば十分だと思います。

また、好きだとしても、家族だからといって、例えば悪いことをしても許したり、冷静な判断を下せなくなるようなことになる方が危険だと思います。

では、選べる人とは誰でしょう。それは自分から親しく付き合おうと思う友人、結婚相手などでしょうか。その場合はとりあえず、自分が相手を人間として好きだったり、恋愛感情を持ったりしているのだと思います。

しかし、時の流れや、付き合っていく上で人の感情は変化することもあるので、離れたくなった場合はそれなりの気づかいと対処が必要になるでしょう。

いずれにしても私が言いたいのは、この世では自分と関わる人は選べない場合が多いし、好き嫌いの感情に振り回されずに、うまく付き合っていく必要があるということです。

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芸術を生業にすること

この社会では、生活のためにする仕事のことを飯の種、○○で飯を食うなどと言うが、美術や音楽、演劇などの芸術系で飯を食うのはなかなか難しい。

もちろん、それぞれのジャンルにもさまざまな仕事があるわけで、それを生業にして金に結び付けることができないわけではないが、たとえば美術なら、自分の好きに描いた絵を売るだけで飯を食えるようになる人は滅多にいない。

学校でも、だいたい学年に一人や二人は非常に絵のうまい奴がいるもので、そういう人が真剣に美術の道を目指せば美大に行ったり、それなりの職業にはつけるかもしれないが、確率的にもものすごい数の絵のうまい人間がいるわけで、ほぼ画家にはなれない。

そもそも今ではその作品が高額で取引されている有名な昔の画家だって、生きている間は貧乏で、死んでから有名になった人も多い。

音楽だって、歌のうまい人や上手な演奏家はたくさんいるが、なかなか歌手で飯が食えたり、たくさんCDが売れる人はいないだろう。

私が思うに、芸術系で有名になったり、飯が食えたりするのは、他人にはないオリジナリティーを持っていて、チャンスをものにした人だと思う。

美術なら、他人に真似のできない個性やアイデア、音楽なら、独自の作詞作曲の能力、演奏方法、あるいは個性的な歌声を持っていること。そして、それを他人に認めさせる努力をする、また、認められるチャンスを逃さないこと。

『お金のいらない国』なら、売れない絵を描いていようと、何を歌っていようと食いっぱぐれることはないが、お金のいらない国こそ、誰も喜んでくれないような仕事は存在価値がない。

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子育てのコツ

子育てする上で一番重要なのは、子供の人格を尊重すること。そして、親の思いを押し付けないこと。特に、親の好き嫌い、価値観などは子供とは違うのだから、親が、自分と同じだろう、それが正しいと思うのは間違いのもと。

転ばぬ先の杖もある程度は必要かもしれないが、転んでみなければわからないこともあるし、親は先回りして手を出し過ぎてはいけない。子供が助けを求めてきたときには相談に乗ればいいが、基本的には自分で考えさせる、自分でやらせることが重要。

親に頼らせすぎると自立できない人間に育ち、親に縛られることに不満を持って育った子は大人になってから親を怨み、エスカレートすれば親が殺される場合もある。

ただし、躾やマナーは必要なものは親が教えなければいけない。それは他人に迷惑をかけない、不快感を与えない、所作を美しく見せるためのもので、社会を生きる上では重要。そのためには親自身が知っていなければいけない。

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怒りを覚える相手には

怒る、腹をたてるという行為は、あまりいいことではないかもしれません。怒っても問題は解決しないし、自分にも他人にもあまりいい影響はなさそうです。しかし、聖人君子でもない限り、大抵の人は怒りを覚えることもあるでしょう。

怒りを溜め込んでしまうとストレスで病気になるかもしれませんから、何かで発散する必要があるでしょう。話しても問題ない相手に聞いてもらうとか、メモに書きなぐって捨てるというのも効果があると聞いたことがあります。

私が思うのは、ここで怒りの対象である人に何かすべきではないということです。当人に文句を言ったり、喧嘩をふっかけたり、仕返ししようとしたり。また、冷静に話し合えるならいいかもしれませんが、説得しようとはしないほうがいいと思います。

問題のある相手とはなるべく関わらない。同じ土俵に立たず、こちらが腹を立てている素振りも見せない。そして時間が経って仮に相手が過ちに気づいた時には、何事もなかったように受け入れてあげるくらいの寛容さがあったらすばらしいと思います。

また後に、もし自分に非があったと気づいたような場合でも、怒りを露わにしていなければ謝る必要もありません。

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想像力と人間性

他人から好感を持たれたり、人間関係を円滑に保てる人というのは、想像力があると思う。相手の気持ち、立場や状況を想像できるから、相手に対してどんな言葉で何を言うか、何をするかが的確で、相手の気を悪くさせない。

相手の気持ちが想像できない人の言動は、自分勝手な、的外れなものになり、相手に嫌な思いをさせ、あるいは傷つけ、結局、相手の自分に対する評価を下げ、信頼を失う。

かくいう私も過去を思い出すと、相手の気持ちが想像できなかったために数々の失礼や、失敗を繰り返してきた。あの時なぜ気づかなかったのかと後悔することもしばしばで、申し訳なく思う。

想像力のある人は、世の中のあらゆる場面において、自分がその人だったらと想像し、できるだけその気持ちをわかろうとする。もちろん当事者でなければわからないことも多いと思うが、そういう優しさが愛なのだろうし、愛が言動の源になるから好感や信頼も得られるのであろう。

想像力は人間性を高める上で欠かせない要素だと思う。あらゆる人があらゆる人の立場になって考え、愛をもって行動に移せるようになれば理想的な社会になると思う。

ただ、特に経済社会においては想像力があってもそれを悪用し、相手を油断させておいて貶めるような人もいるから、そういう人間には注意が必要である。

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すべては気づくためにある

この世の中、あまりにもひどすぎる。経済中心の社会はあらゆる分野が金のために腐敗し、人々は金儲けの競争に明け暮れ、自然破壊、環境破壊を続けている。お金の不自然なしくみによってついた極端な貧富の差は、この資源豊かな地球上で、食べるものもなく死んでゆく人を大量に生みだしている。

例えば理想社会の一つの形、お金の存在しない社会でも想像できれば、すべての人が幸せに暮らせるであろう社会の姿の見当も付くと思うのだが、それができない人も多い。お金の存在しない社会の実現は、多くの人の理解が得られないまま強制的にすべきことではない。ということは永遠に理想社会の実現はできない可能性が高い。まったく、なぜこんな社会になってしまったのか。こんな社会を生きる意味があるんだろうか。

しかし、もし初めからお金の存在しない社会だったらどうだろう。たぶん、生きるのに必要なものはすべての人に十分に行きわたり、人々は多くを望まず、社会のために自分の個性を生かし、やりたい仕事をして満ち足りた暮らしをしている。それはさぞ幸せな世界だろうと思う。しかしそれは、今のこの社会を知っているからそれが本来あるべき理想的な社会であることに気づけるのかもしれない。この地獄のような社会を知らなければ、お金の存在しない社会は当たり前で、そのすばらしさを身にしみて感じることはできないのではないか。

と考えると、この社会を経験するのは、ここで不自然な社会の矛盾を感じた上で、お金の存在しない社会のすばらしさを想像し、次の世でそういった社会に行けるとすれば、そこでそのありがた味を実感するためなのではないか。そう考えると、今この社会を生きながら本来あるべき社会の姿に気づき想像することこそが、この社会を生きる意味であり、そのためにここに生まれてきたのかもしれないと思う。

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悪口を言おう

人の悪口や陰口などは言うものではない、あまり言ってはいけないというのが世の常でしょう。しかし、私は敢えて悪口を言うことをおすすめしてみたいと思います。

この世において、少なくとも自分から見て誰かの言動がいいとは思えない、自分なら絶対にそのような言動はしないと判断し、その人に怒りを覚えたり、そのような言動をする人間を良くは評価できないと考えることはままあると思います。

自分の判断が正しいかどうかは別として、少なくとも現在の自分はその人の言動に対して違和感を覚え、ストレスを感じるわけですから、それ以降その人に好意を持てなくなったとしても、人間である以上仕方のないことでしょう。

そして、その評価を他の人に伝え、対象者が共通の知り合いである場合に相手の評価と一致したりすれば、自分の下した判断が間違っていなかったと安心、納得もできるというものです。悪口を言いたくても誰にも言わずに抱え込んだままにしておくと、ストレスがたまり、体に異常をきたすことにもなりかねません。

ただ、人に誰かの悪口を言う場合、誰に言うか、いつどこで言うかなどには、十分な注意が必要です。特に共通の知り合いの場合は後日当人に伝わってしまうようなことがあっては困りますし、聞いてくれる気のない人に話しても相手に迷惑になるでしょう。場所も注意しないと、他の誰かに聞かれてしまうかもしれません。

そういったことに気をつけさえすれば、私は悪口などは我慢しないで言った方がいいのではないかと思います。ただ、その悪口が誰の賛同も得られないような場合は、自分の方に問題があるのかもしれません。

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まじめは危険

世間では、学生にしろ、社会人にしろ、たいてい、まじめな人がよしとされます。まじめに学校に行ってまじめに勉強する。まじめに仕事をしてまじめに生きる。

私もまじめがいけないとは思いません。しかし、そのまじめさがどういう意識から来ているものなのか、どの程度のものなのかで、生きやすくも生きにくくもなる気がします。こういうものだからこうしなければならない、そう決められているから従う、というだけのまじめさは危険なのではないでしょうか。

また、結果的には同じまじめな行動を起こす、あるいはまじめに見えるように行動することになっても、本人がどこまで考え、どこまで納得してそうしているかによって、大分違う気がします。

例えば、勉強にしても、したいからするのか、しろと言われたからするのか。仕事にしても、社会の役に立ちたいからするのか、お金のためにするのか。喜んでするのか、仕方ないからするのか。

この社会では、したくないこと、嫌でもしなければならないことも多々あると思いますが、まじめな人はそこで無理をしたり、頑張ってしまったりするのではないかと思います。ある程度は割り切って、可能なら少し手を抜くくらいのこともないと、ストレスが大きくなるのではないでしょうか。

あまりストレスをためると、病気になったり、自暴自棄になって自殺などということにもなるかもしれません。そして、そのまじめさを家族や周りの人に押し付けたりすると、自分だけの問題に留まりません。

やりたくないことはやらない、他人のことは気にしない、苦しいことは我慢しない……。この社会を生きる上では、適度ないい加減さ、開き直りも必要だと思います。

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腐りきった世の中

あらゆる分野が金のために腐りきってしまっている世の中。ほとんどの仕事が、金のために、余計なものを作り、無意味な競争をし、資源を無駄に使い、自然を破壊し、地球にも人類の心身にも計り知れない犠牲を強いている。

多くの人がそういう仕事に人生の大半の時間を使い、金のために目的の歪んだ仕事に翻弄され、不自然な原因から生まれた問題に頭を悩ませ、大切なものに気づかず、あるいは気づいても為すすべもなく一生を終っていく。

そんな社会で無難に一生を終えられたところで何だというのか。少なくとも、本来、社会はどうあるべきなのか、仕事とは何を目的とすべきものなのかを考えでもしなければ生まれてきた意味もないだろう。

この社会でいくら金を貯めようと、何の意味もない。貯めれば貯めるほど、搾取の証拠を山積みしているようなものだ。金の社会において大金を得たなら、少なくともその金を社会のためにどう生かしたかで初めてその価値は生まれるだろう。

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伝える時のコツ

人に何かを伝える場合、内容をわかりやすく、簡潔にまとめることが必要です。特に電話やEメールのような、時間やスペースに限りがある場合、それは欠かせないことです。

スピーディに円滑なコミュニケーションをとるには、予め伝えるべき内容、順序などを整理しておく必要があります。まず第一に何を話さなければいけないのか。相手の反応によって、次はどう話を進めていくのか。

電話では思いつくままだらだら話していると、時間ばかりかかって要点が伝わらないこともありますし、メールの場合など、何日経っても話が進まないなんていうことも考えられます。

5W1Hとはよく言われますが、いつ、どこで、誰が、何を、なぜ、どのように、というポイントをまずきっちり押さえることが大事だと思います。言葉は多過ぎると相手の集中力を失わせますし、少な過ぎて肝心なことが伝わらなくては意味がありません。

伝え方次第で、その人の能力、人間性も判断されるでしょう。私も周囲からどう思われているかはわかりませんが、できるだけ簡潔に、どのタイミングでどのように話を進めていくかということについてはかなり気を使っているつもりです。

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成功と失敗

人はよく、成功、失敗と口にします。何かの目標に対して、望んだ結果が得られれば成功したと喜び、得られなければ失敗したと残念がります。例えば、受験や、結婚や、事業などでよくそんな言葉を聞きます。もちろん、望む結果を得るために計画を立てたり、努力したりしたのでしょうから、期待通りの結果が得られればうれしいでしょうし、得られなければ悲しいでしょう。

しかし、経験という観点から考えると、私は成功も失敗も大差ない気がします。なぜなら、成功した場合は失敗という経験ができないからです。人生の上では、思うようにならないという経験も必要だと思います。すべてがとんとん拍子に進み、一度も挫折を知らない人など、人間として成長が足りないのではないかと心配になってしまいます。

また、失敗したことによって他の可能性が生まれることもあります。どこかの学校の受験に失敗すると、他の学校に行く可能性が生まれます。結婚の場合は、離婚すると失敗と言われますが、別れて他の人と再婚した方が、あるいは結婚などしない方が幸せになれるかもしれません。事業に失敗したことによって、他の仕事で大成功を収めることもあるでしょう。

いずれにしても、あらゆる経験は貴重なものだと思います。世の中にはあまり経験したくないことがあるのも否めませんが、船井幸雄さんの言葉を借りれば、すべては「必要、必然、ベスト」。何事も自分にとって必要があって起こるようですから、そこから何を学ぶかで経験は生きてくるのだと思います。

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思ったことが言えない社会

この社会は、仕事の上で、あるいは立場によって、思ったことが言えなくなったり、自分が良いと思わないことをしなければならないことも多い。

例えば、仕事上では、お金をくれる依頼主の希望や、上司の命令に従い、自分の思いは違っても割り切って仕事をすることもあるし、また、ある立場になれば、その立場の人間としての考え方、発言をせねばならなくなる。仕事の依頼主や上司も、その立場で個人の意思とは違う依頼をしているかもしれないから、誰も良いとは思わない連鎖が続いて行っているようなこともあるかもしれない。

経済社会では、お金中心にものが考えられるため、仕事は客観的な善し悪しより、利益が優先されることも多い。そして、仕事に携わる人間は、個人の意思には目をつぶり、お金のために働くという現象が起きる。そうやって、最悪は犯罪につながることもあるのではないか。これは、一般企業でも政治家でも同じだと思う。

お金の社会は、お金を儲けることが仕事の大きな目的となることが多いため、それによってたいへんな無駄が生まれたり、自然破壊が起きたりする。だから、人類全体、地球規模で考えれば当然するべきではないことが、どんどん進んでしまう。

お金のいらない国なら、自分の意思に反することをする必要はなくなるか、少なくなると思う。共同作業の場合は、意見が食い違うこともあるとは思うが、目的がお金儲けでなければ最終的に目指すところは一致する気がするし、お互いの信頼があれば、仕事の進め方を含め、みなが納得するようなやり方が見つかるのではないだろうか。

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思考の幅

物事について考える場合、その考え方や方法、そして、その幅は、人によって大分違うと思います。もちろん、個人の能力や性格によると思いますが、例えば、何かについてその先をシミュレーションするような場合。いろいろな展開が想像できて、そこからベストと思われる行動を選べる人もいれば、想像できる選択肢が乏しく、思い込みで行動を起こしてしまう人もいると思います。

図は、想像できる選択肢の多い人と少ない人を表してみました。ちょっと無理はあるかもしれませんが、ピンクとブルーで、プラス思考(肯定的)、マイナス思考(否定的)も表しています。Aは考える幅が広い人、Bはあまり展開は思いつかず、少ない選択肢の中から行動を起こす人です。あくまでも一例ですから、例えば、選択肢の狭いプラス思考の人などもいると思います。

プラス思考、マイナス思考は一概にどちらがいいとも言えないと思いますが、考えられる幅は広い方がいいと思います。選択肢が広いと迷うこともあるかもしれませんが、最良、最悪の事態まで考えた上で自分がベストと思える行動を選ぶわけですから、何が起きても予想できていることが多いと思うし、結果がどうであっても納得はいくのではないでしょうか。

 

 

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与えることと受け取ること

与えることと受け取ることは、両方があってはじめて成立します。与える人がいなければ受け取れませんし、受け取る人がいなければ与えたくても与えることができません。

例えば何か作っても、それを使ってくれる人がいなければ作る意味はありません。また、例えば歌手が誰かに自分の歌を聴いてもらいたいと思っても、お客さんが来てくれなければ聴いてもらえません。

そういう意味で、与える方と受け取る方は同等であり、そこに上下はありません。ややもすると、お金の社会ではお金を払う人の方が偉いというような錯覚も起きますが、それは経済社会ならではの勘違いでしょう。

また、例えば一方的に誰かが誰かの面倒を見ているような場合は、面倒を見ている方が上と思えるかもしれませんが、それも双方にとってその経験をする必要があって起きていると考えれば、やはりどちらにとっても同じように意味があることになります。

そして、与える側、受け取る側に最も必要なことはお互いへの感謝の気持ちです。与えるにしろ、受け取るにしろ、お互いが存在しているからできることであるという認識の元に、お互いに、またそういう経験をできることに感謝する気持ちが大切だと思います。

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喧嘩するほど仲がよい

「喧嘩するほど仲がよい」という言葉があります。喧嘩にもいろいろあるでしょうから一概にはそうも言えないかもしれませんが、言いたいことを言える間柄だから喧嘩にもなるんだろうし、仲がいい人間同士でもちょっとした行き違いが起きることは間々あると思います。

過去を振り返ってみてください。自分と近しい関係の人、例えば親子、兄弟姉妹、夫婦、恋人、友だち、会社の同僚、上司部下など。長い時間一緒にいるような近い関係の人ほど、過去に必ず何度かは言い合いになったり、気まずい思いをしたことがあるのではないでしょうか。

人間というのは全く同じ人はいないわけで、好き嫌いや、習慣、性格の違いなどで必ず意見の食い違いが出てきます。近しい関係であるほどいろいろ言いたくなるし、たまには喧嘩になるのも当然だと思います。

言い合いや喧嘩をしてみて、本当にその人とは合わない、関わりを続けることが苦痛だと思ったのなら、可能なら離れるなり、遠ざかるなりすればいいと思います。でも、本当に自分が必要とする人なら、お互いが思いやりを持つことで、その後、仲良くやっていけるようになるのではないでしょうか。

近しい関係ならたまには喧嘩をするのも当たり前、喧嘩もしないような関係は、お互い正直になれないということかもしれません。

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どうでもいい世の中

どうでもいいことを学び、どうでもいい仕事をし、どうでもいいことでがんばり、どうでもいいことで悩み、どうでもいいことで苦しみ、どうでもいいことを心配し、どうでもいいことを不安に思い、どうでもいいことを恐れ、どうでもいいことで怒り、どうでもいいことで争い、どうでもいいことで傷つき、どうでもいいことで疲れ、それがどうでもいいということにも気づかず死んでいくのが人生であるような世の中はなんとかしたい。

今の世の中、どうでもいいことが大切だと思われていたり、大切なことがどうでもいいと思われていることがとてもたくさんある気がします。お金のいらない国になれば本当に大切なことがはっきりし、どうでもいいことはなくなると思います。

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ご近所づきあいのすすめ

昔の日本は、今よりご近所づきあいが盛んだったようです。古典落語などを聴きますと、江戸時代では一般庶民は長屋に住んでいて、町内にはご隠居さんが居り、みな家族のように暮らしていたみたいです。また、私の記憶では昭和30年代くらいでも、近所の商店街で買い物をしたり、お風呂屋さんに行ったり、ご近所さんとの関わりは深かったと思います。

もちろん、都会と田舎では違うでしょうし、文明の進歩や生活様式の変化などにより、ご近所との関わり方も変わってきて当然でしょう。現在ではお隣の人がどんな人で何をしているのかもわからないということも多いと思いますが、それも仕方のないことかもしれません。

しかし、人間は一人で生きていけるものではないし、私は、核家族のように家庭が少人数で孤立してしまうことにとても危険を感じます。

家庭内で起こった問題は、すべて家族の中だけで解決しなければならない。家族といっても人と人。他人でない分、遠慮もなくなり、喧嘩になればエスカレートもするでしょう。一緒にいるのが嫌だと思っても簡単に家を飛び出すわけにもいかず、ストレスを抱えたまま長年暮らしていかなければならないこともあるのではないでしょうか。

ですから、ご近所、あるいはそう遠くない距離に気心の知れた友人なり別の家族がいることは、とても大切なことだと思います。そこに行けば、家族には言えないことを言える人がいる。誰かが話を聞いてくれる。そういう環境はぜひ作っておくといいと思います。

もちろん、誰にでも何でも話せるわけではないし、相手は選ぶ必要があるでしょう。余計な口をはさむことなく、ただ黙って話を聞いてくれる人が理想的かもしれません。

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人間はいかに生きるべきか

人間は、この地球上に生を受けた動物の一種です。人間は、最大でも地上10kmほどの大気の存在する範囲の中でしか生きられません。また地上も、水や食べ物、気候などの環境が整っていなければ人間は生きることができません。

人間はこれまで、地上、あるいは地下からさまざまな資源を発見し、それを利用してきましたが、資源は再生する速度より早く使い続ければ、いずれはなくなります。

資源がなくなれば、少なくともその資源を利用した生活はできなくなります。その場合はそういった生活をやめるか、代わりになる他の資源の利用法を開発することが必要になります。

しかし、いずれにしろ、限りある資源を無計画に使い続ければ、そのうち行き詰まるのは目に見えています。それが生きるのに欠かせないものであるなら致命的です。

では人間はいかに生きるべきでしょうか。それは明白です。

資源は再生可能なものを、時間的にも量的にも再生できる範囲で使い、環境に悪影響を及ぼすような使い方はしなければいいのです。今までそうしてきてしまったと気づいたのなら、やめればいいのです。

人類、あるいは地球上の生物の存続を望むなら、それ以外に生きる道はありません。

人間がいかに生きるべきかは明白です。

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動物と人間

自然界の動物たちから、人間はいろいろなことを学べます。

彼らにとって大事なのは、食べることと交尾すること。非常に明快な、動物として生きる上での基本です。そして動物たちはそれらが必要なだけ満たされれば、それ以上は求めないし、天敵が現れなければ寝ているでしょう。

食物連鎖の関係上、襲われれば逃げるし、戦うこともあります。また、摂食や繁殖のための縄張り争いなどもあるでしょう。しかし、動物たちの争いは生きる上に必要なことであると言えます。

人間はどうでしょう。先進国では食べきれない食料をたくさん捨てています。太り過ぎて困っている人もいます。交尾は人それぞれでしょうが、結婚などの制度に縛られ、苦しみを作っているようにも見えます。

また、人間は食べるためでもないのに、戦争をして人間同士で殺し合っています。動物の一種であるはずの人間の求めているものは、生きるという目的から外れているのではないでしょうか。

動物たちは人間のように、生きることに直結しない欲望は持たないでしょうし、人間のように苦しむことも悩むこともないでしょう。そういう意味では、人間は動物としての原点に返り、生き方を見直す必要があると思います。

しかし、人間は他の動物とは違うことも事実ですから、すべて動物と同じにすればいいというわけではないでしょう。

人間は複雑な思考ができ、さまざまなものを生み出す能力を与えられています。与えられるものに無駄なものはないはずですから、その能力を生かすことも人間の使命なのだと思います。

悩むのも人間の特権であるなら、必要なことなら悩むのもいいでしょう。考え、悩み、そこから何かしらの答えを見つけていく。これも他の動物にできることではない、人間の生かすべき能力でしょう。

私たち人間はそれだけのものを与えられているのですから、何を思い、何を目的に、どのように生きるかということを考える必要があると思います。

人生は、いたずらに食べることや交尾することを目的にすればよいわけではなく、また、殺し合い、傷つけあうことや、とどまるところを知らない物質的発展を目指せばいいわけでもないでしょう。

つまるところ、ある面では動物たちを手本にしながら、人間にしかない能力を生かしつつ、あらゆる生物が幸せに生きられる世界を築いていくことが、人間に与えられた使命であり、人間としてあるべき姿なのではないでしょうか。

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喜べること、喜ばれること

行動を起こす場合は原則として、相手あるいは誰かに喜ばれること、自分も喜べることをしようとするといいと思います。

ひとりよがりや押しつけは迷惑になりますが、人に喜んでもらえ、自分も喜べることを誰もが自然にできる社会なら、みなが幸せに生きられるのではないでしょうか。

敢えて相手が喜ばないことをしようと思う場合もあるかもしれませんが、それはよくよく考えた方がいいし、自分の責任や負担も大きくなると思います。少なくとも、正義感や、復讐心をベースにはしないほうがいいでしょう。

ある人は喜ばないであろう行動でも、他の人には必要なこともあるかもしれません。そういう行動を起こそうとする場合は、大局的に見た冷静な判断と、先を読む力が特に必要になります。

喜ばれると思ってしたことが喜ばれなかったような場合は、読みが甘かったのかもしれません。その場合は原因を追究し、反省することが必要でしょう。また、すぐには喜ばれなくても、後々喜ばれるような結果が出ることもあるかもしれません。

人間である限り、誰もが永遠に未熟です。生きて行く上では、人の嫌がることをしてしまう、あるいは、よかれと思ってしたことがよい結果を招かないことも多々あるかもしれません。

それを踏まえた上で、人が喜び、自分も喜べることをしようと思いながら生きて行きたいものです。

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本物と偽物

世の中には本物、あるいは偽物と言われるものがあります。どれが本物で、どれが偽物か。この判断はなかなか難しい。

ブランドもののバッグのように、本物があって、それに似せて作った偽物がある場合は、見分けはつきにくくても本物と偽物の違いは調べればわかるでしょう。

しかし、例えば薬のような場合。こういうものは偽物とは言わないかもしれませんが、プラシーボ効果も含めて、その人に効けば本物であり、効かなければ本物ではないということになる。人によって効果、判断は違ってくるわけです。

宗教などでもそうです。その教えに納得し、自分になんらかのプラスになればその人は本物だと判断するだろうし、そう感じない人には、インチキだ、詐欺だ、信じているやつはおかしいと言われたりする。もちろん、人道に反するようなことをしていればおかしいと言われて当然ですが、要は、こういったものも本物かどうかは一概に決められないということです。

つまるところ、何かを自分が本物だと判断し、人にすすめたいと思ったような場合でも、その存在と客観的な事実を知らせるにとどめ、後は当人の判断に任せるしかないということになります。執拗な勧誘や押しつけは、逆に信頼を失わせ、人間関係を壊すことにもなりかねません。

また、良くも悪くもこの情報にあふれた社会では、本物の情報とニセ情報を判断することも至難の業です。当局の都合で、巧みな情報操作が行われ、大衆は嘘を信じ込まされていることも多々あるかもしれません。何ごとも安易な思い込み、判断をせず、柔軟な思考をする必要があると思います。

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苦しむ人のパターン

世の中には苦しんでいる人がたくさんいます。要因はさまざまでしょうし、この世を生きる上では誰でも多少の苦しみは感じていると思いますが、日本のような一応平和な国で、苦しみがずっと続いている、あるいはいつも何らかの原因で苦しんでいるような人は、本人に問題がある場合も多いのではないかと思います。そういう人のパターンを考えてみました。

● 人の話が聴けない
人の話が素直に聴けない人というのは、自分の檻から出られません。自分の思い込みや固定観念に縛られ、それが原因で苦しむことになります。どんな人の話でも鵜呑みにすることは危険ですし、自分は違うと思えば受け入れる必要はありませんが、人の話にはとりあえず耳を傾けてみましょう。問題解決のヒントが見つかるかもしれません。

● 事実を受けとめない
起きたことは、それが事実なら否定のしようがありません。自分に都合の悪いことはなかったことにしたいと思っても、起きたことが消せるわけではありません。どんな経験も事実として受けとめ、そこから学ぼうとしないと、悔やんでいても苦しいだけで進歩はないでしょう。

● ものごとを整理して考えられない
問題が起きる場合、その原因は一つではないことが多いと思います。問題の起きた原因や過程を分析して整理し、急を要するものから対処していかないと、トラブルは解決しないばかりか悪化することも多いでしょう。パニックに陥ったり、感情に流されて冷静さを失うとそれが特に困難になります。

● マイナス思考
何でも悪く考えてしまうと、せっかくの可能性を失います。不可能なことは不可能でしょうが、初めからできないと思っていたら、できるわけがありません。危機管理は必要ですが、ある程度は楽天的に考えないと人生は楽しくないと思います。また、他人の悪いところばかりに目が行ってしまう人は、友だちもできにくいでしょう。

● 自分で考えない
自分で考えない人は、自分の行動に責任を持ちません。人の言いなりで動いて失敗でもすれば、責任転嫁と逆恨みです。下手なアドバイスはする方も悪いですが、結局痛い目に遭うのは自分です。自分で考え、行動すれば、結果がどうであれ納得できると思います。自立は人間にとってとても大事なことだと思います。

●固定観念に囚われている
教育や、周囲の環境によって植えつけられた固定観念は、多くの場合、不自然です。それに合わせて生きようとしなければならないと思うから苦しいことも多いのではないでしょうか。この経済社会においてはある程度仕方ないところはありますが、ものごとは本質を見極めた上で、柔軟に対処できれば、生きるのも楽になると思います。

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あなたのしたいことをすればいい

あなたのしたいことをすればいい。
何をしてもかまいません。
こうしろとも、こうしてはいけないとも言いません。
あなたがあなたのしたいことを
あなたのしたいようにすることを望みます。

ありのままのあなたでいい。
どんなあなたでもかまいません。
こうあってほしい、こうでなければいけないとは言いません。
ありのままのあなたが
ありのままに生きることを望みます。

すべての人が、すべての人に対してこう思えたら、
依存や責任転嫁はなくなるでしょう。
過干渉や支配はなくなるでしょう。
独占や束縛はなくなるでしょう。
嫉妬や羨望はなくなるでしょう。
見栄や背伸びはなくなるでしょう。
比較や競争はなくなるでしょう。

みんな楽に生きられるでしょう。

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いいところを見る

好きな人、嫌いな人はいますか?

好きな人はどんなところが好きなんでしょう。嫌いな人は、どんなところが嫌いなんでしょう。嫌いな人でもいいところはありませんか?いいところが見つかったら、好きになるかもしれません。

私は、どんな人でもいいところを見れば好きになれるし、いやなところを見れば嫌いになるのではないかと思います。

いいところ、いやなところも人によって感じ方は違うでしょう。人の好みはいろいろですから。また、好き嫌いというのも変化するし、曖昧なものです。

例えば、恋愛をしている時は、あばたもえくぼなんて言葉もあるように、何でもよく見えたり、見ようとしたりします。でも、何らかのきっかけで嫌いになると、すべてが悪く見えたりします。

何ごとも、あまり好きと嫌いに分けない方がいいのではないでしょうか。好きだと思い込んでいると、何かの折に裏切られたと感じることもあるかもしれません。嫌いだと思い込むと、いいところが見られなくなります。

好き嫌いにこだわらず、誰に対しても、いいところを見るようにした方が人間関係はうまく行くと思います。

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自分にとって今必要なこと

自分にとって今必要なことが起こる。
自分にとって今必要な人が現れる。

今起きているのは自分にとって必要なこと。
今周りにいるのは自分にとって必要な人。

それは移り変わる。
必要なだけはとどまるが、
必要がなくなれば流れて移り変わる。

流れに任せないとよどむ。
流れに逆らったり、何かにしがみついたりしていると
水が汚くなり、自分も汚くなる。

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やりたいならやればいい

やりたいならやればいい。
やりたくないならやらなきゃいい。

もし、誰かに「やって」と言われることがあったら、
やりたいことなら「喜んで」と言ってやればいい。
できるかなとか、やれなかったらどうしようなんて 考えなくていい。
やれないことは人は頼んでこない。

ただ、やりたくないならやらなきゃいい。
その時は、できないからじゃなくて、
やりたくないからと言えばいい。

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「受け止める」と「受け入れる」

高木善之さんの言われている五事の三番目に「受け止める」があります(「五事を大切に」参照)。

人の話を聴くとき、大事なのは相手の話をとにかくよく聴き、受け止めることです。受け止めずにいきなり反論したりすると、相手はちっとも自分の話を聴いてくれていないと感じ、理解し合うどころか、こちらを信頼できなくなり、次から何の話もしてくれなくなるでしょう。

夫婦、親子、上司部下など、人間関係のコミュニケーション上のトラブルのほとんどは、この「受け止める」ができていないために起こっているのではないでしょうか。

ここで大事なのは、「受け止める」は「受け入れる」ではないということです。相手の意見に賛同し受け入れるか、受け入れないかは、受け止めた後に考えればいいことなのです。相手にはとにかく受け止めてもらえたと感じてもらうことが大事です。

たとえ、話を聴いたあとで賛同できず、反対意見を言うことになったとしても、この人は自分の話をちゃんと聴いて、受け止めてから言ってくれていると感じるのと、ろくに話を聴きもしないで自分の意見を押しつけていると感じるのでは、同じ話をしても今度は相手の受け止め方に天と地ほどの差が出るでしょう。

とにかく受け止めさえすれば、こちらは何も言わない方がいい場合も多いかもしれません。相手は言葉にすることによって自分の考えを整理し、自分で答えを見つけることも多いのです。余計なアドバイスならしないほうが相手のためでもあり、その後の相手との関係を考えると自分のためでもあるでしょう。

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腹は立たない、立てているだけ

腹は立たない、立てているだけ。高木善之さんが言われている言葉です。

あなたはどんな時に腹が立ちますか?自分の思い通りにならなかった時。人が自分の思うように動いてくれなかった時。

でも自分が腹を立てなければ、腹は立ちません。他人はあなたに腹を立てさせるようなことはできても、あなたの腹を立てることはできないのです。腹を立てたのはあなた自身なのです。

腹を立てると疲れます。体にもいいことはありません。腹が立っているのを無理に抑えるのもよくありませんが、そうなる前に、腹は立てなければいいのです。

腹を立てると多くの場合、その怒りは増幅します。あまりエスカレートすると物を壊したり、暴力をふるって人を傷つけたりすることもあります。そしてそこまでいくと、まず例外なく後悔することになります。

ということは腹は立てない方がいいし、少なくとも早めに沈めた方がいいということです。そもそも、誰かに何かを期待したりしなければ腹を立てるようなことはないのです。自分に腹を立てさせる原因を作るような人に期待するからいけないのです。

腹を立てねばいけないようなことは何一つありません。腹を立てている人を見て格好いいと思ったことがありますか?腹を立てるのは幼稚な人間です。

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決められたことに従う怖さ

決められたことに、ただ従う。自分で考えず、判断せず、行動をマニュアル化する。それがなぜ怖いかという簡単な例です。

赤信号があります。横断歩道の手前で青になるのを待ちました。青になったので渡りはじめました。信号無視の車にひかれて死んでしまいました。

もちろん、ルールを無視した車が悪いでしょう。しかし、死んでしまえば、もともこもありません。決められたことを守ればよいわけではないのです。

この世は、常識、習慣、法律など、決めごとだらけです。もちろん、守らねばならないルールもあるでしょう。しかし、どうでもいいことや、植えつけられた価値観、既成概念にとらわれ、苦しみを生み出している場合も多々あるのではないでしょうか。

たとえば、結婚しなきゃいけない、子供ができなきゃいけない、学校に行かなきゃいけない、お金を稼ぐために働かなきゃいけない、家を継がなきゃいけない。自分がそうしたいならまだしも、それを人に押し付けたり。

したいようにすればいいんです。なるようになればいいんです。自分の人生は自分で考え、自分で切り拓くもの。人の人生の邪魔もしないようにしましょう。

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守らねばならないもの

あなたには、守らねばならないものがありますか?

守らねばならないと感じるのは、なくなっては困るもの、壊れては困るもの、あるいは盗られては困るものでしょうか。

お金?この世はお金の存在する社会ですから、ある程度のお金は必要です。でも、あまり余分に持たなければ、失う心配も少なくて済みます。

お金以外の財産?これも無い方が気楽でしょう。また、物質は永遠のものではありませんから、守ろうとしても限界があります。

地位?それを失うのは時間の問題です。名誉?それは既に過去のものです。

家族?支え合いは必要だと思いますが、守ろうとするより、束縛しないように気をつけた方がいいでしょう。

主義、主張?個人の自由ですが、柔軟性を失うと対立を起こし、孤立あるいは自滅するでしょう。

地球環境?これは守るというより、破壊をやめることです。生きる場所を与えられ、守ってもらっているのは人間の方です。

命?命が危険にさらされるような世の中がおかしいのです。仮にこの世の命を失っても消えてなくなるわけではありませんが。

このおかしな経済社会だから、余計なものが必要とされ、大事なものが勘違いされ、奪い合いが起こり、いろんなものを守らねばならないと思い込んでしまうのではないでしょうか。所有という概念は幻想だと思います。守るものは少なければ少ないほど気が楽です。私は、本来、守る必要のあるものなどないのではないかと思います。

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自分の幸せ、みんなの幸せ

幸せとは自分の気持ち次第ですから、どんな状況においても、自分が幸せだと思うなら幸せであり、他人が「あなたは幸せだ」とか「幸せではない」などと、決められることではありません。また、幸せにもいろいろな次元や種類があるでしょう。

それを踏まえた上で、ここではとりあえず、生きていく上に必要なものは過不足なく手に入れられ、基本的に安全な社会に暮らせることを幸せということにします。

そこで、自分の幸せと他人の幸せについてどう考えますか?自分以外の人が幸せとはいえない状況におかれているとしても、自分は幸せだと思えるでしょうか。

たとえば、同じ地球上にありながら、飢餓、貧困の国では、毎日4万人以上の子供たちが亡くなっています。身近に起きていることではないかもしれませんが、では仮に、死にゆく子供が隣にいても、自分は幸せだと思えるでしょうか?

自分だけの幸せはあり得ないのです。自分が幸せであるためには、すべての人が幸せでなくてはならない。みんなの幸せと自分の幸せはひとつなのです。自分だけの幸せを求めても、本当の幸せはやってこない。みんなの幸せが実現してはじめて、自分も本当に幸せになれるのです。

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行動のベースになるもの

行動を起こそうとする場合、そのベースになるものが何であるかが重要になります。その動機となった思いは何かということです。

たとえば、「怒り」によって運動を起こす。「憎しみ」によって殺人を犯す。「正義」のために戦争をする。

本来、持たなくてよい感情である「怒り」、「憎しみ」をベースにした行動は、対立を生み、被害者、犠牲者を出します。

行動を起こすなら、そのベースは「愛」である必要があります。どんな些細な行動でも、ベースが「愛」であればよい結果を生むでしょう。

「愛」がベースの運動なら、対立は起きないでしょう。殺人は、他人を殺すにしろ、自分を殺すにしろ、人が最もしてはいけないことですが、「愛」がベースの殺人というのも、非常に例外的にはあるかもしれません。

さて、やっかいなのは「正義」です。これは一見正しそうに見えます。しかし、「正義」とは多くの場合、一面的な見方、自分に都合のよい思い込みです。「正義」のために戦争を起こす場合、そこには「愛」がないのです。

「愛」がベースの戦争はありません。だから、戦争はどんな理由があっても起こしてはならないのです。

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非対立のすすめ

「非対立」これは、ネットワーク『地球村』代表、高木善之さんが掲げられている言葉です。

「非対立」とは、文字通り、対立しないということです。相手が誰であっても、どんな人であっても、何を考えていても対立しません。自分は全く違う考えであっても、対立はしません。とにかく相手を認めます。

自分の主義、主張を押し付けません。抗議もしません。反対もしません。戦いません。説得もしません。

ただ、ここで大切なのは、「非対立」は「避対立」ではないということです。対立を避け、我慢したり、問題から目をそらしたり、逃げたりするわけではありません。

問題の原因を徹底的に探り、相手の立場や気持ちを理解し、愛と勇気をもって解決に向けて努力する。目先の利害に惑わされず、単純な勝ち負けで決着しようとせず、焦らず、長い目で考える。こちらさえ敵愾心を持たなければ、対立は起らないはずです。

それには自分の幸せばかりでなく、相手の幸せ、すべての人の幸せを考えて行動することが大切です。自分の幸せはすべての人の幸せがあって初めて生まれる。その気持ちが相手に通じれば、対立は起こさなくて済むし、問題は解決に向かうのではないでしょうか。

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人生の目的

あなたの人生の目的は何ですか?

人生を航海していく上では、海図(チャート)が必要になります。海図がないと、道に迷い、目的を見失い、船は難破してしまいます。海図を作るには、次の3つのことを自分で設定する必要があります。

1.目的……最終的に目指すこと 一生をかけて目指すこと
2.目標……途中の地点で実現していくこと
3.課題……日々努力し、実践していくこと クリアすべき問題

たとえば、お金をたくさん貯めることが、人生の目的だと思っている人。お金は、使う目的がはっきりしていなければ、貯めてもきりがありません。ですから、お金を貯めること自体は目的とは言えず、その人の海図はこんな感じかもしれません。

1.目的……なし
2.目標……お金をたくさん貯めること
3.課題……勤勉に働くこと

これは結構、世に言う、いいお父さんかもしれません。しかし、目的のない人生は、満足した一生になるでしょうか。

では、仮に目的をマイホームを建てることとしてみましょう。しかし、人生の最終目的がマイホームだったら、建った後は生きている必要はないことになります。これも、空しいのではないでしょうか。

同様に、組織に属している間しか意味のない「地位」や、手にした時点で過去のものになる「名誉」も、目標にはなったとしても、目的にはなり得ません。

では、目的を、自分あるいは家族が幸せに暮らすことにしてみましょうか。しかし、それは今すぐ必要なことです。目的ではなく、課題でしょう。

また、自分や家族が幸せならいいのでしょうか。幸せとは何ですか?目的となり得る幸せとはどんなものでしょう。海図はそこまで考えなければ作れません。

さあ、以上を踏まえて、ご自分の海図(チャート)を作ってみてください。

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臓器移植について

受け売りの部分が多くなりますが、ぜひお伝えしたいことなので記しておきます。

人類の医学は、他人の臓器を移植するということまで可能にしました。人として、生かせるものはできるだけ生かしたいという思いはあって当然でしょう。また、さまざまな見解があると思いますから、一概に、いい悪いは決められないかもしれません。

しかし、臓器移植は、数々の深い問題をはらんでいます。

たとえば、脳死とはどんな状態を指すのか。臓器移植の際は、脳死状態の人から臓器を取り出すわけですが、臓器移植が行われるようになる以前は、「脳死」という言葉はなかったそうです。それまでは、「脳不全」と呼ばれていました。不全とは、不完全という意味で、腎不全、肝不全と同じように、死んでいるわけではありません。

脳死状態の人の肉体にメスを入れると、筋肉の収縮や痙攣が起こるそうです。以前、臓器摘出は麻酔なしで行われていましたが、それが手術の妨げになるので、今は全身麻酔が義務づけられたそうです。死体にメスを入れても筋肉の収縮や痙攣は起きませんから、脳死状態の肉体は死んではいないということになります。そして、脳死状態の肉体から臓器を取り出すと、肉体は死んでしまいます。

もし、自分がドナーだったとしたら、臓器移植の際、どんな気持ちでいるでしょう。意識は近くをさまよいながら、これから自分の肉体に起こることを見ているかもしれません。

スマトラ大津波の際、孤児が臓器売買のために捕らえられ、売られたという事実があるようです。それ以外にも、臓器は高く売れるのでビジネスになっているという話を聞いたことがあります。そして、貧しい国の子供たちの臓器は、金持ちの国の子供たちに移植されます。

人はいつか必ず死にます。どんな治療をしようと、死は先延ばしにされるだけで、誰にも必ず訪れます。生物にとって、本来、死は忌み嫌うものではなく、必要な、受け入れざるを得ないものです。臓器移植によって、犯罪、悲劇などが生まれる可能性があるとしたら、私はやめたほうがいいのではないかと思います。

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こうすればいい、こうしてはいけない

人はよく、いい、悪いをどちらかに決めたがったり、決めてもらいたがったりします。こうすればいい、こうしてはいけない。あるいは、これはしていい、これはしてはいけない。

いい、悪いが決められていると、ある意味、楽です。自分が行動を起こそうとする時、その都度どうすべきか考えたり、悩んだりする必要がないからです。

しかし、いい、悪いは、時と場合によって、人によって、ものの見方によって変わることがあり、単純に行動のマニュアルのように思い込んでしまうことは危険です。

価値観や判断基準の違う相手と、いい、悪いを押し付けあうと、問題が起きます。誰々がこう言った、この本にこう書いてあるなどというのは正しいという保証にはなりません。それを唱えた人も、常にすべてに当てはまることを言っているとは限らず、受け手が曲解し、間違って解釈していることもよくあります。また、問題が起きた時に人のせいにするのは責任転嫁であり、考えずに従った自分が悪いのです。

現在の人間社会では、昔から決まっているから、常識だから、みんながそうしているから程度のことで、いい、悪いを決めつけてしまっていることも多いのではないでしょうか。当たり前だと思っていることが実は間違っているから、対立が起きたり、苦しんだり、トラブルになっているようなこともよくあると思います。

私は、いい、悪いで、唯一、決まっていると思うのは、「人の命を奪うことは悪い」です。しかし、人間はこの一番大事なことが守れません。お金と人の命を天秤にかけたり、正義という名のもとに戦争をしたり、自らの命を絶ったりします。

ただこれも、例外はあるかもしれませんし、例えば、必要以上の延命や、治療をしなかったことを、命を奪った、だから悪いと解釈すれば曲解です。

法律にしても、いろんな規則や宗教などの戒律にしても、一つ間違うと、人を縛り、自由を奪い、洗脳し、さまざまな苦痛や悲劇を生みます。どんなことであろうと、すべては鵜呑みにせず、自分で考え、納得したことだけを、自分の責任において受け入れることが大切でしょう。

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五事を大切に

五事とは、

1.よく見る
2.よく聴く
3.受け止める
4.わかる
5.変わる

これは、ネットワーク『地球村』代表、高木善之さんが、人と関わりながら生きる上で最も大切、と言われていることです。私も非常に共感していますので、自分の言葉で述べてみたいと思います。あらゆる人間関係や話し合いの場において、この五事ができていれば、トラブルは最小限に抑えられ、人間は進歩、成長するのではないかと思います。

1.よく見る
見るというのは、ただ目を開いている、見えているというのとは違います。視界に入っているというだけでは、何も理解できないでしょう。話を聴く時にも、話し手の目を見、表情を見、しぐさを見て、言葉の真意、感情を読み取ることが大切です。

2.よく聴く
聴くというのも聞こえているのとは違います。ただ耳に入っているだけでは何も頭には残らないでしょう。相手が何を言おうとしているのか、なぜそのように言っているのか、何を聴いてほしいのか。相手の立場も考え、本当に伝えたいことに耳を傾ける必要があります。そして、相手が話している時、自分の意見、次の発言を考えてはいけません。その時点で人の話は聴けなくなります。

3.受け止める
相手の言いたいことは、自分の考えは別として受け止める必要があります。よく見、よく聴いて、真意をつかみ、とにかくしっかり受け止める。ここでも、自分の意見が違っていたとしてもそれに囚われてはいけません。相手の意見を受け止めるだけです。ちゃんとこちらに伝わったことを態度で示せれば、カウンセリングなどは、この時点で90%は目的達成です。

4.わかる
そして、相手の本当に言いたいことを理解する。気持ちを理解する。共感できることは自分の腹に落とす。気づきが得られるのはこの段階です。もし、これ以前に自分の意見を言っているとしたら、自分もわからないし、相手には、自分の話を聴いてくれていない、自分の気持ちをわかろうとしてくれていないと思われるでしょう。

また、共感できないとしたら、どこに問題があるのか、じっくり考えてみる。相手または自分の理屈に無理がないか、感情に流されていないか、あるいは感情を無視していないか。そこまで考えて初めて、自分の意見を言うことを許されるのなら言えばいいかもしれません。

5.変わる
そして、本当にわかったら、自分が変わることが大切です。わかったと思っても、それで自分が変わらなかったら意味がないし、それはわかっていなかったということだと思います。どんどん変わり、成長してこそ人間。自分が納得したことなら、変わることを恐れずに、勇気を持って変わるのです。小さくてもいい、新たな一歩を踏み出すことで未来は変わります。

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自信について

『認められることの喜び』の項で触れたこととダブりますが、ここでは「自信」について考えてみたいと思います。

自信がつくのは、人から認められたと感じた時だと思います。自分の容姿や行為、才能などを、誰かがほめてくれたり、喜んでくれたりした時。

ですから、人のいいところを見つけてほめたり、ありがたいと思ったことに感謝の意を表したり、面白いと思ったら素直に笑ったりするのはとても大事なことです。それは、相手の自信につながり、その後の活力になるでしょう。

よいと思っているのにほめもせず、感謝しているのにそれを表さないと、相手のためにも自分のためにもならないでしょう。特に身内などに対して、恥ずかしがったり照れたりして気持ちを伝えないと、気づかないうちに気まずい関係になってしまうかもしれません。

自信が持てるとエネルギーが湧いてきます。その力は、その後の努力、精進の源になるでしょう。過剰な自信で傲慢になったり、力を過信することは危険ですが、ある程度の自信を持つことは誰にも絶対に必要なことです。

多くの現代人の悩みは、自分は誰にも必要とされていないのではないか、世間で生きていける自信がないといったもののようです。これは本人の思い込みもあると思いますが、周囲の人の、ほめることや、感謝の気持ちのアピール不足によるのではないかと思います。

大人でも子供でも、生きていくには自信が必要です。周囲の誰に対しても、ぜひ、よいところを見つけてほめてあげましょう。

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昨日にとらわれず、明日を案じない

人が苦しむのは多くの場合、過去のことを悔やんだり、未来のことを心配したりするのが原因です。でも、自分が生きているのは今なのですから、少なくとも今起きていることでなければ苦しむ必要はないし、苦しむくらいなら過去や未来のことは考えない方がましです。

過去に辛いことがあったのなら、その原因を探り、反省すべき点があったら反省すればいいのです。それができたらそれでおしまい。それ以上苦しむ必要はありません。忘れられないようなことがあっても、今から解決できないことなら考えても苦しんでも無駄です。

未来を心配するなら、今できることをすればいいのです。自分の力の及ばないことを心配する必要はありません。将来、後悔するのは、できることがあったのにしなかった場合です。今は、できることをする以外ないですし、できないことをやらなければいけないわけでもありません。

あなたが生きているのは今です。今この瞬間を生きているだけです。だから一瞬前のあなたと今のあなたは違うし、一瞬後のあなたも違うはずです。もちろん昨日のあなたと今日のあなたは違うし、明日のあなたも違います。明日はこの世にいない可能性もあります。

昨日はこうだったのだから、今日もこうだし、明日もこうなるはずだという発想でいると、何の進歩も発展も望めません。これはこういうもの、この人はこうあってくれるはず、と思い込んでいると、裏切られたと感じるようなこともあるかもしれません。逆にあまり期待していなかったのに、よくなることもあるでしょう。人も社会も、すべては良くも悪くも変化して行くものです。

昨日にとらわれず、明日を案じない。過去の苦しみを引きずらずに、未来を思い煩わない。或いは、今を犠牲にして未来に期待を抱かない。今この瞬間、自分がここに存在していることに喜びを感じ、自分の心の赴くままにできる限りのことをする。今に幸せを見出すことが、この世を悔いなく、満足して生きるコツだと思います。

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怒りと悲しみ

人間は、怒ったり、悲しんだりする動物です。誰かに対して、あるいは社会に対して。

「怒る」、「悲しむ」という感情はなぜ起きるんでしょう。何かが自分の思うようにならない、誰かが自分の思い通りに動いてくれない。しかし所詮は自分の感情に過ぎません。そして、自分の意思に反しているということが原因で起きる感情なら、怒りも悲しみも、考え方次第で持たなくて済むものなのではないでしょうか。

自分が腹を立てたり、悲しんだりした時のことを思い出してみてください。そして、まずその原因を探ります。

なぜ自分の思うようにならなかったのか、なぜ相手は自分の思うように動いてくれなかったのか。自分が無理なことを望んでいたのではないか。何かできない理由があったのではないか。相手の気持ちを無視していなかったか。期待した自分が悪いのではないか。自分中心に考えないで、相手の立場に立ってみましょう。

次にその対処を考えます。怒ったり、悲しんだりする前に、自分の納得できる対処の仕方を見つけるのです。

相手がそうしたいのなら仕方ない。相手の気持ち、考えがあるんだから尊重しよう。そういう人なんだから割り切って付き合おう。耐えられないから離れよう。どこかに、自分の納得できる対処の方法はあるのではないかと思います。

怒ったり悲しんだりすると、自分が疲れるだけです。怒りを相手にぶつけると、反発が来たり、お互いを傷つけてしまったりします。怒りをためるとストレスで病気になることもあります。

悲しみは、自分の無知が原因である場合もあります。例えば、誰かが死んでしまっても、人は死んでも消えてなくなるものではないということを知っていれば、悲しむ必要はありません。

また、制度や社会通念、教育に問題がある場合もあると思います。その場合はできる限りそれに縛られず、自分なりの道を探すか、無意味な制度を作った人間を哀れむしかないかもしれません。

怒りや悲しみは本来持たなくていい感情であるということを前提に考えると、世の中のおかしなことがいろいろと見えてきます。

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自立の大切さ

私は、この世を生きる上で最も大切なのは、自立することではないかと思います。言い換えれば、人を自立させること。もちろん、人は一人で生きられるものではありませんし、思いやり、助け合いは必要ですが、一番注意しなければいけないのは、安易に人を頼らない、また、他人の自立心を奪わないことだと思います。

何かに疑問を持ったら、とにかく自分で調べ、考えてみる。質問を受けた時には、できる限り自分で考えさせる。自分の頭で考えてからでないと、仮にその答えが目の前にあったとしても気づかない、理解できないことも多いと思います。

そして決して、こうしなさいとか、こうすれば大丈夫などと言ってはいけない。これはカウンセリングの基本ですが、指示に従わせた時点で、その人の成長や新たな発見の可能性が失われます。ですから、そういう言葉を安易に口にする指導者もどきを信用してはいけません。

人に言われたことに従って仮にうまくいかなかった場合、逆恨み、責任転嫁が起こります。逆に、自分で決めたことなら、失敗しても次のステップへ進むための反省材料になります。人が考えたこと、決められたことに従っていれば楽かもしれませんが、それでは自分の成長は望めないし、何でも鵜呑みにしてしまうのは非常に危険です。

子供が考える前に何でも決めてしまって従わせようとするような親の元では、自分では何も判断できない人間が育ってしまいます。束縛を与える宗教を信じれば、盲信者が生まれます。押し付け教育は、校内暴力、家庭内暴力や、精神的破壊を生みます。

この世の制度がそもそも押し付けのオンパレードです。狂った社会の中で、人間たちは狂わされてしまっています。自然界には存在しないお金というものがなければ社会が回っていかないと多くの人が本気で信じていることを見てもわかるように、人間は歴史的に洗脳を受けて生きてきたのです。

ですから、現在の社会システム、常識や、習慣などについても、まず疑って、自分で納得するまで考えてみることです。お金の存在が原因していることも多いですが、決めなくてもいいこと、縛られる必要のないことがたくさん見えてきます。

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不毛な議論

世の中ではよく議論が行われます。それぞれが意見を言い合い、相手の理解を得ようとする。

私の経験では、議論になった時点で、その問題は解決を見ない気がします。解決したように見える場合でも、それはどちらかが折れたか、言い負かされたか、あきらめたか。意見の違う者同士が、議論したおかげで心から理解し合ったということも稀にはあるのかもしれませんが、私の知る限りでは思い当たりません。

話し合って理解を得られるのは、相手と自分の意見が違うわけではなく、どちらかが事実を知らなかっただけのような場合。或いは、相手または自分が、相手の意見まで受け入れられるだけの視野、度量を持っている場合。この場合は大した議論にまで発展しません。

視野というのは人によって大きく違います。例えば、自分のことだけ考えている人、家族のことだけ考えている人、会社のことだけ考えている人、日本のことだけ考えている人、世界のこと、地球のこと、宇宙のことまで考えている人。世の中には実にさまざまな人がいるわけです。

人は、自分の生まれ育った環境、教育されたことなどから、なかなか抜け出せません。自分の価値観、考えたこと、信じたものが正しいと思い込み、固執する傾向にあります。それはそれである意味仕方ないので、だから、視野、或いは次元の違う者同士が議論をしても不毛なのです。

できるだけ視野を広く持つこと、相手の立場になって考えることは大切ですが、私はその上で、相手の理解を得ようと思わないことが大事なのではないかと思っています。「沈黙は金、雄弁は銀」という言葉もありますが、人間は自分で気付かない限り、人に言われてもなかなか理解できないもののようです。

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生きるのはつらい?

生きるのはつらいですか?なぜつらいんでしょう。

●お金がないからつらい?
お金がないと生きていけない社会のシステムがおかしいんです。単なる道具であるお金に人間が振り回されていることがおかしいんです。本来必要のないお金が存在しないと社会が回っていかないと、多くの人が思っていることがおかしいんです。

●勉強しなければならないからつらい?
やらなくてもいいようなことを学ばせる教育がおかしいんです。いつまでも全員に同じことを教えて、点取り競争で順位付けをする学校がおかしいんです。学歴が無ければ就職できない会社がおかしいんです。

●仕事がつらい?
お金のために必要ない仕事を作り、それをやらなければならないことがおかしいんです。常に業績を拡大しなければいけないと思っている会社がおかしいんです。お金の奪い合いや足の引っ張り合いが仕事であるかのように思わせる経済社会がおかしいんです。

●出世できないからつらい?
人と比べているからつらいんです。人の上に立つことを目的としているからつらいんです。結果として受け入れるべき出世を、目的にしてしまっているからつらいんです。

●恋人や結婚相手とうまくいかないからつらい?
相手に期待し過ぎるからつらいんです。相手を束縛し、独占しようと思うからつらいんです。結婚なんていう契約にこだわるからつらいんです。

●戦争が起きることがつらい?
いかなる理由があっても、人の命を奪うこと以上の罪はないと、国民や国家の上に立つ者が認識していないからおかしいんです。相手の立場に立って考えられない人間がおかしいんです。お金や物質と、人の命を天秤にかけることがおかしいんです。

本当は、生きるのはそんなにつらいことではないはずです。世の中の常識やシステムをすべて「ありき」で考えず、根本から問い直してみましょう。確かに天災や、肉体的な障害、病気のような避け難い苦しみもあるでしょう。しかし、それも人的な原因であることもあるし、多くの苦しみは、人間や社会が未熟なために生まれていることに気づくはずです。

いくらおかしいからといって、社会を変えるのは容易なことではないでしょう。でも、生きるのがつらいと思ったら、自分が弱いからとか、運が悪いからとか、能力がないからと落ち込んでしまう前に、社会構造を見直し、苦しみの原因を探って自分なりの答えを見つけ、割り切った考え方ができれば、ずっと楽に生きられるようになるのではないでしょうか。

そして、理想的な社会とはいかなるものか、常に描きながら生きる人が増えれば、いつかユートピアも実現するかもしれません。

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脳味噌とは

これは、学校での成績のいい、或いはよかった人にしばしば見られる現象ですが、自分は勉強ができる、頭がいいということが何よりの拠り所である人がいます。学歴や何らかの実績などが誇りで、人によっては、人間の価値は頭の良し悪しによって決まるくらいに思っているかもしれません。

勿論、学校でいい成績をとるには努力も必要でしょう。同じいい脳味噌を持った人でも、知らないことはわからないわけですから、勉強しなければいい成績は残せません。競争が主になると本末転倒の気もしますが、知識を貯え、思索を巡らし、いい成績をとることにはそれなりの意味はあると思います。

私は、脳味噌はコンピュータだと認識しています。要するに機械も同じですから、性能の良し悪しが当然あり、得意とする分野もいろいろです。また、あくまでも物質なので、それ単独では機能せず、運転者が必要となります。そして、運転者こそが本来の自分です。

人にはそれぞれいろいろな特長があり、頭がいいというのもそのひとつに過ぎません。良い脳味噌を持って生まれてきた人は、性能のいいコンピュータを授かったわけですから、その優秀な頭脳を社会に役立てる責任があります。そして、それをどう生かし、何を考え、どんな行動を起こすかは、すべて運転者にかかっているのです。

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人は自分を映す鏡

自分が怒れば、みんなも怒る。
自分が優しくなれば、みんなも優しくなる。
人を許すことは、自分を許すこと。
人を許せなければ、自分が苦しい。

人間は、みんな未熟なんだ。
みんな苦しんでいるんだ。
強けりゃいいってもんじゃない。
人間は、みんな弱いんだ。

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意見の食い違いの対処

人は皆それぞれ違った考えを持って生きています。性格も、好き嫌いも、生まれ育った環境も違うのですから、違わないわけがありません。普遍の真理に基づくことは一致しなければおかしいのかもしれませんが、真理ですら完璧な表現手段はないし、証明できるものでもありませんから、それこそ何を信じるかという問題になり、食い違いが起きてきます。

人と人が関わりを持つ場合、この考えの違いでよく衝突が起きます。自分と違った考えに出会った時、どう対処するかでその人の性格が表れたり、その後の人間関係にも影響するようです。いかなる相手も所詮自分ではないのですから、意見が食い違うのは当然です。人となるべく幅広く、或いは末永く付き合おうと思ったら、自分とは違う考えに対して許容範囲を広げる必要があると思います。

図は、自分の考えと相手の考えの関係を表しています。自分の考えは持った上で、自分と違う考えでも認められる範囲を増やすことによって、相手との関係は保ちやすくなると思います。少なくとも好き嫌いに関することなどは、相手がどういう考えを持っていようとかまわないと思っていないとつまらないトラブルの元になるでしょう。また、許容範囲の狭い人は、自分を許容してくれる相手とでなければ付き合えないことになり、人間関係は限られてくると思います。

相手が誰であるかによっても許容範囲の広さは変わります。親なのか、友だちなのか、恋人なのか、仕事上の仲間なのか。内容にもよるでしょうが、親しい間柄の人ほど自分の考えに賛同してほしいと思うし、相手との関係によって、腹が立ったり、許せなかったりする度合いも変わってくるようです。

どうしても許せない、受け入れられないものもあるでしょう。人道に関わる理不尽なことを相手が言いだした場合などは、認めるわけにはいかないでしょうし、相手の考えが自分の生活に影響を及ぼしたり、こちらの責任問題に発展するようなことも受け入れられなくて当然でしょう。

しかし、ことを丸く収めたい場合は、自分が無理に賛同したり、意見を変える必要もないのであれば、たとえ相手の意見が間違っていると思っても敢えて衝突は避けた方がいいかもしれません。そこで自分が意見を主張しなかったことにより第三者に迷惑がかかるような場合は別ですが、そうでなければ、相手が間違った考えを持つことによって後に何らかの形で本人が良からぬ結果を招く、或いはその責任を負うことになるとしても、それは相手自身の問題だからです。

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比較は必要か

人はよく比較をしたがります。背の高い低い、力の強い弱い、成績のいい悪い、技術の上手下手、品質のいい悪い、値段の高い安い、など。

比較することは、いい面と悪い面があると思います。優れたものに憧れ、或いはライバルに刺激され、自分が向上すべく努力するきっかけになるようなら、いい比較と言えるでしょう。しかし、どうしようもないことを比較して落ち込んだり、人を傷つけたりすることはいい比較とは言えません。

例えば、背の高さ。大きいの小さいの言っても、人間は大人でだいたい1メートルから2メートル前後です。空から見たら誤差でしかありません。背が高かろうが低かろうが個性と考え、デメリットよりメリットに目を向けた方が幸せに生きられるのではないでしょうか。

例えば、力。熊に勝てる人間はまずいません。チータより速く走る人間はいません。魚に追いつける人間はいません。スポーツとしての鍛錬は得るところも多いでしょうが、所詮は人間の肉体の限界までのこと。力を過信し、傲慢になったりすれば、心は堕落するでしょう。

例えば学校の成績。仮に同級生の中でトップであっても、学校など腐るほどあって全てにトップがいます。努力は大切ですが、脳味噌は機械も同じ。自分に与えられたものを、できる範囲で生かしさえすれば、それ以上を求めても仕方がないでしょう。また、例え、世界で一番賢いと認められたとしても、人間に宇宙の果てとその起源はわかりません。

例えば技術。これはものにもよるでしょうが、比べても仕方のないものを比べて無理に順位をつけたり、必要以上に比較の結果にこだわる傾向があるような気がします。名誉は得た時点で過去のもの。向上を目指す者は常に前向きであるべきでしょう。

例えば品質。品質は基本的には良い方がいいでしょうが、必要以上に良いものを求める、或いは見栄でブランドにこだわることなどはあまり賢い選択とは思えません。持ち物の品質より、自分の品質を磨く方が大事なのではないでしょうか。

例えば値段。同じものなら安い方がいいと考えるのは当然でしょうが、売る方も買う方も安さに走りすぎると経済は破綻するでしょう。お金の存在する社会では無理な競争も生まれやすいですが、自分で自分の首を絞める前に、考える必要がありそうです。

また、人間社会ではよく平均、標準ということが引き合いに出されます。平均とは両極端があって初めて生まれるもの。不平等、不公平とは別の意味で、平均がいいわけではないし、すべてが標準、皆が同じである社会などあり得ません。標準に満たないことを嘆いたり、標準に甘んじたりせず、足ることを知った上で自分なりの生き方を見つけるべきでしょう。

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期待と不安

人はよく、こうなってほしい、こうなったらいいなと期待をします。そして、期待通りにことが運べば喜び、思うようにならないと、悲しんだり、落ち込んだりします。また、こうなったらいやだ、こうなっては困ると考えると、不安を感じます。不安は苦しみにつながり、ストレスになってしまいます。

例えば自分が何かをする場合、期待が大き過ぎたり、こうなって当然と思っていることがうまくいかないと、ショックも大きくなります。それを防ぐためには、あまり期待はしない、やれるだけのことをやったら、結果にはこだわらないという気持ちが必要です。

ものごとの成り行きを考える、或いは何か行動を起こそうとする場合は、幅広いシミュレーションが必要になります。それが招くあらゆる結果の可能性を考えてみる。うまくいった場合、いかなかった場合、最悪の事態を招いた場合。十分なシミュレーションができていれば、いかなる結果になろうと、ショックは最小限におさえられ、その後の対処も考えておけるのではないでしょうか。

ただ、シミュレーションによって悪い結果を恐れるあまり、行動を起こせなくなったり、取り越し苦労で落ち込んだりしてしまっては逆効果です。あらゆる可能性を考えておいた上で、大胆且つ冷静な行動を起こせれば、最大限の結果を得られるかもしれません。

期待せず、あきらめず、取り越し苦労はしない。不安な感情は自分の周りに曇りを作り、霊界からの援助もしにくくするようです。

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生き方にマニュアルはない

人はこの世を生きる上で、ひとつの理想的パターンを考えるようです。すなわち、恵まれた環境の中で、健康に育ち、十分な教育を受け、仕事を持って安定した収入を得、結婚して子供をもうけ、円満な家庭を築き、事故や災害には遭わず、長生きして安楽な死を遂げる。これは表面的なことですが、多くの人が目標にするパターンではないでしょうか。

しかし、なかなかそううまくことは運ばず、いろいろとつまずいて人は悲しんだり、ストレスを感じたりします。また、理想的な形で進んだとしても生きていく上ではそれぞれの過程でいろいろと問題は起きてくるわけで、その中で本人が満足して生きられるか否かは別の次元にあるようです。

そもそも、人間とは思い通りにならないことを克服することによって成長するものかもしれませんし、霊的に考えた場合、その人が克服できないような試練は与えられないのだとすれば、その苦しみこそ意味があるわけで、何不自由ないような人生を送っている人は、それ以上の試練を克服できない人だからそれで済んでいるとも考えられます。

私は、あまり前述のようなパターンにこだわることなく、成り行きに逆らわない生き方の中で、人生の意味を見つけていくことも大切なのではないかと思います。少なくとも生き方をマニュアル化してはいけない。人生に正解なんてないはずですし、誰が決められるものでもありません。

端からどう見えようと、人の本当の気持ちはわかりません。物質的には羨ましがられるような環境にある人が絶望の淵にいることもあるでしょう。現在の日本は、個人差はありますが、理想的とは行かないまでも、食べるものもないような状況の諸外国に比べれば、幸せと思えなければ申し訳ないような国です。しかし、この日本でも人間関係や、経済的その他の理由で生きる望みを失う人も多く、自殺者は後を絶ちません。

物質的な豊かさのみでは満足できないことに気づいた人、或いは苦しみから開放されたいと願う人は、精神的な豊かさを求めます。その一つの方法が宗教でしょう。しかし、宗教も、生き方のマニュアルにすべきものではない、それに従えば済むものではないと私は考えます。

私は、宗教の教えであれ、戒律であれ、どんなことでも鵜呑みにせず、自分の意思で判断し、納得してから受け入れることが非常に大事だと思っています。強制的に従わせようとする宗教は、それだけで信用できません。自分で判断することは、宗教に限らず、世の中を生きていく上のどんな場合でも最も重要なことであると私は思います。

習慣や常識や固定観念は一度全て疑ってかかってみる。自分の中で検証し、組み立て直して納得できたものだけを修正可能な範囲で受け入れる。人間の考え出す、作り出すものは不完全であるとしても、現在の世の中は、古い習慣・常識から最先端の科学まで、あらゆる分野でさまざまな理由から間違ったものがはびこっていると私は考えています。

パターンに縛られず、マニュアルを求めることなく、自分の生き方を見つけていくのは、容易ではないかもしれません。自分だけの問題では済まない場合もあるでしょう。また、パターンやマニュアルにしても自分が正直な気持ちから求めるのなら、それが進むべき道なのかもしれません。しかし、少なくとも疑問や苦しみを感じるなら考えた方がいいし、その努力こそが満足のいく、価値ある人生につながって行くのではないかと私は思います。

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認められることの喜び

人は、自分の才能や行為を誰かに認められた時に喜びを感じます。その認められ方はさまざまですが、人からの賛美が自信につながり、その先の精進、努力のエネルギーになるようです。

例えば、子供を育てる場合、誉めることはとても大切です。何でもかんでもただ誉めればいいというものではないでしょうが、できるだけ良いところを見つけ、誉めてあげることが子供の性格形成や成長には必要だと思います。子供の才能の芽を摘むも伸ばすも、誉め方ひとつかもしれません。

勿論、大人になっても、人から誉められる、認められることが大きな力になります。誰かが自分の行為を喜んでくれ、自分も楽しいと実感できた時、人は充実感や生き甲斐を感じるのではないでしょうか。仕事は勿論、趣味などでも、人に誉めてもらえると嬉しいものです。

私は、人間は誰か一人にでも認めてもらえれば、大きな力を得られると思うし、その行為は十分価値があったと言えると思います。より多くの人に認められたいという気持ちはあって当然かもしれませんし、チャンスは生かせばいいと思いますが、欲が先に立つと失敗するような気がします。

規模によっては何かの賞や名誉を得るということもあるでしょう。夢が大きいのはいいですが、名誉などは後から付いてくるものだと思うし、最初からそれを目的にするのではなく、まずは自分のやりたいことに挑戦してみることが大事でしょう。

誉め上手な人は、人に好かれます。見え透いたお世辞は考えものですが、やや大げさくらいの誉め言葉は人を気持ちよくさせ、その人に力を与えることになるでしょう。逆になんでもけなさないと気がすまない人は、友だちを減らすようです。

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嘘はいけないか

世間では、嘘をつくことはいけないとよく言われます。嘘とは、本当ではないことです。「嘘をつく」とは、本当ではないことを口にすること、自分が知っている事実、或いは思っているのと違うことを言うことでしょうか。確かに世間に混乱を招いたり、人に迷惑をかけるような嘘をつくのはいいことではないでしょう。

しかし、果たして嘘をつくことはいけないと言いきれるでしょうか。人間社会において、皆が、思ったことを全て正直に口にしてしまったら、どうなるでしょう。例えば誰かのことを快く思っていないような場合、面と向かって「私はあなたが嫌いだ」と言ったとします。これは相手とどういう関係であろうと好ましい状況には発展しないと思います。

嘘をつかないためには黙っているという方法がありますが、心で思っていることと違う態度を示しているとすれば嘘には違いないでしょう。個人差はあると思いますが、私は、どんな人でも思っていることと違うことをかなり言っているし、本心と違う態度をとっていると思います。できた人間ほどたくさんの嘘をついていることになるかもしれません。

嘘をつかなければ、嫌いな人間と付き合うなんてことは不可能です。遊びならともかく、仕事の場合など特に、自分の好き嫌いで人を選ぶことはできませんから、多かれ少なかれ言葉に態度に嘘をつくことになるでしょう。私は、それが人間社会というものだし、そこでうまく生きていくのが人間の大事な修行のひとつだと思います。

仕事をスムーズに進め、人間関係をうまくやるために嘘をつくのも、処世術でしょう。嘘をつくからにはばれるような嘘ではいけませんが、人を傷つけるような嘘でなく、その嘘で万事丸く収まり、嘘をついたことをストレスにしないくらいの割り切りができるのなら、それはある意味、仕事のできる人間のやることと言えるのではないでしょうか。

では、ついてもよい嘘か否かはどこで判断するか。それは動機ということになるでしょう。なぜ嘘をつく必要があったのか。嘘をつかなければ相手を傷つけてしまうような場合もあるでしょう。例えば不治の病の人に対するような場合、医師や家族が病人に嘘をつくことはしばしばあるようです。病人本人にとってそれが一番いいかどうかは個人差があると思いますが、少なくとも動機は悪いとは言えないでしょう。

時と場所、相手を考えず、なんでもかんでも正直に言ってしまわないといられない人は、地上の人間社会には混乱を招きます。霊界では考えていること全てが知れるようですから、嘘はつこうにもつけませんが、私は、自分と同レベルの人間しか周りにいないあの世は、この世とは全く違った状況なのではないかと思います。

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否定の招くもの

人はよく、自分の受け入れられないものに出会うと否定をします。それは、自分の知識に合わない、価値観に合わない、好みに合わない、生活習慣に合わない、信じているものに合わない、などという場合のようです。

自分の主張を持つのは大事なことだとは思いますが、それによって世界を狭め、柔軟性を失い、自分の理解できるもの以外は頭から否定するようになってしまうと進歩はなくなるし、他を傷つける危険性も出てくるでしょう。

科学とは、一見、客観的で、信頼のおけるもののように思えますが、実は現段階で人間が解明したことの限界を示しているに過ぎず、全てが普遍的なわけではありません。その証拠に次々と新しいことが発見され、仮説が覆され、変化していきます。そういう意味では科学者こそ未知の分野の研究に意欲的であって然るべきで、現在、解明されていること以外は頭から否定するような人は、科学者とは呼べないかもしれません。

宗教なども、自分の信じたものだけを全てと思い込み、他を否定しはじめると、真理からは遠ざかってしまうでしょう。宗教とは、あらゆるものを包括し、救うことのできる真理を求めているのですから、他を、少なくとも表立って否定するという時点で、本来の目的に反していることになり、他からの理解も得られなくなると思います。

趣味の世界のように、単に自分の好き嫌いを主張するためだけの否定なら、あくまでも自分個人の好みであるということを十分認識した上で、他を傷つけないようにできればよいと思いますが、言い方やタイミングには気をつけないと、つまらないトラブルの元になります。

多くの場合、表立った否定は、例え相手が間違っているとしても、少なくとも平和的問題解決の手段にはなりません。問題解決は、お互いの納得の元に為されるべきで、単に勝ち負けを決めるような方法をとっても、根本的な解決にはならないでしょう。平和的問題解決のためには、自分の意見を主張するばかりでなく、相手の言い分を理解するよう努め、焦らずにお互いが熟考する十分な時間をもつことが必要だと思います。

また、物事は何が正しいか自体が曖昧であることも多いですし、仮に否定された側が本当に間違っていたとしても、その時点では本人がそれに気づいていないために間違っているわけですから、間違いを簡単に認めることはないでしょう。また、例え指摘されたことによって自分の間違いに気づいたとしても、表向きはそれをすぐに認めはしないでしょう。ですから、例え相手が間違っていることが明らかであっても、逃げ場を失わせ、執拗に責めることは相手を傷つけ、問題を大きくするばかりだと思います。

相手との信頼関係が成り立っている場合、否定が相手にすんなり受け入れられることもあるかもしれません。しかし、その場合は、その判断が真理に照らして間違っていないこと、相手の自立心を奪わないこと、結果的に相手を傷つけないことなどの条件をクリアしていなくてはなりません。お互いの立場の認識に上下関係がある場合などは特に気をつける必要があるでしょう。ここにアドバイスの難しさがあります。人にアドバイスしたいと思う場合は、あくまでも命令でなく、自分の意見として発言し、それを受け入れるも受け入れないも、相手に自由な選択の余地を与える必要があるでしょう。

原因を作れば結果が生まれます。間違った原因を作れば、それ相応の正確な結果を招きます。人間が他の否定に躍起にならなくても、永遠の観点で見れば神の摂理は完璧に作用します。どのみち他人の責任はとれないのです。多くの場合、人間は、自分の許容しきれないものに対して否定したくなるようです。自己保存のための他の否定は、誰のためにもなりません。それは自分の器の小ささ、柔軟性のなさを露呈していることにもなります。他の否定に使えるエネルギーがあるのなら、それを自分を磨くことに使った方が賢明なのではないでしょうか。

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いつも幸せでいるには

いつも幸せでいるにはどうしたらいいでしょう。幸せとはどういう状態かと考えると人それぞれかもしれないし、幸せでいたくない人は考えなくてもいいと思いますが、ここでは幸せとは、心が安らいで、ああよかったなあと思える時くらいのことにしておきましょうか。

幸せとは自分の感じ方次第ですから、日常の些細なことにでも幸せを感じられる人は、幸せでいられる時間も長いかもしれません。しかし、生きていく上ではいろいろ嫌なことも起こりますから、それだけでは、いつも幸せではいられない気もします。

何かがこうなったら幸せ、誰かがこうしてくれたら幸せ、という意識でいると、思うようにならないと幸せは感じられません。彼が好きだと言ってくれたら幸せ、お金が入ったら幸せ、旅行に行けたら幸せ、子供がいい成績をとったら幸せ、こういう幸せは、いつもというわけにはいきませんね。思うようにならなければ、大きな不幸を感じてしまうかもしれません。

いつも幸せでいるためには、いろいろなことに幸せを求めるよりも、常にあるものを幸せと感じた方がいいようです。では、いつもあるものとはなんでしょう。お金や物はなくなります、家族や友だちもいなくなるかもしれません。神を信じられる人なら、神はなくならないのでいいのですが、私は、誰にでも、あると実感できるものは何かと考えました。

それは自分です。自分の存在。とにかく自分がここに存在していること自体に常に幸せを感じていられれば、いつでも幸せです。どんなに嫌なことがあっても自分はいるのですから幸せなはずです。深く考えていきますと、自分の存在自体が曖昧になる人もあるようですが、私は自分の存在は絶対的なものと考えています。

ああ、自分はここにいる。なんて幸せなことなんだろう。思うようにならなくても、何がどうなろうと、とにかく自分が存在しているだけで幸せ。基本が幸せからスタートするので、周りの人に接するのにも、自分のすることにも余裕が持てる気がします。

成功しても幸せ、失敗しても幸せ。一人でも幸せ、誰かがいても幸せ。うちにいても幸せ、外に出ても幸せ。肉体が死んでも自分の意識は残ると思えれば、幸せはこの世限りのことではありません。生きていても幸せ、死んでも幸せ。ずっと幸せ、永遠に幸せ。

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仕事上のトラブル

私は、会社勤めをはじめてもう20年以上になりますが、仕事をしていますと、実にさまざまな問題にぶつかります。無理難題を、予算も時間もない中でこなさねばならないことも多く、また、ひとつの仕事にしても、自社、他社を含め、さまざまな性格や能力の人間が関わるわけですから、なんの問題もなく済むことの方が希です。

そういった条件である上、どのみち人間のやることですから、ミスは当然のように起こります。細心の注意を払ったつもりでも、思わぬ落とし穴が見つかることもしばしばです。些細なミスをトラブルに発展させるか否かはミスが起きた後の対処によります。即座に、或いは頃を見計らって、適切な手を打っていれば防げたことも、対応を誤ると思わぬ大きなトラブルにつながります。

仕事は、人と人とがさまざまな関係の中で進めていくものです。ミスの起きる原因としては、意思の疎通が図れていなかった、能力や努力、注意力が足りなかった、計画や予算が練られていなかった、会社の体制や環境に無理があった、などがあります。約束を守れないとか、嘘をつくなどの基本的な人間性に関わる原因もありますが、これは仕事以前に社会人としての素養の問題でしょう。

私の経験から考えますと、トラブルというのは複数の原因によって起こるようです。きっかけは誰かのミスだったとしても、それをチェックする人が気づけばトラブルは事前に回避できます。チェック機関が多いほど、確率としてはトラブルは起きにくい計算になりますが、その仕事に与えられた条件、そこに携わる人の性格や能力が影響しますし、見事に網の目をくぐり抜けてトラブルが起きてしまうこともあります。

同じようなミスをしても、人によってトラブルに発展させてしまう人と、そうせずに済ませられる人がいます。何が起きても、冷静に、臨機応変な、誠意ある対応ができればよいのですが、自分の思い込みや感情に束縛され、解決策を練らずに、安易に人を責めたり、他人に責任を押しつけたりする人は、結局は余計な問題を引き起こし、トラブルメーカーと呼ばれることになります。

仕事は人間が進めるものですから、結局は人間性がものを言います。自分がミスをした場合、周囲が協力して解決しようとしてくれるか、この時とばかり足を引っ張ろうとするかでは大きな違いになります。それはその人のそれまでの行い、築いてきた信用がものを言うのではないでしょうか。また、私は、人道の許す範囲なら、他人のミスにはなるべく寛容であったほうがいいように思います。

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