りゅうじんの独断と偏見の人生哲学
(生活・人間関係編1)タイトルをクリックしてください。
●能力と責任2001.12.4
●運命は変えられるか2001.11.14
●人間の多様性2001.6.16
●行動選択の基準2001.5.24
●続・利他的とは2001.5.5
●利他的とは2001.4.12
●差別問題2001.4.3
●他人の存在2001.2.15
●仕事から得るもの2000.12.31
●苦しみをどう受け止めるか2000.7.16
●組織と役割2000.4.20
●敵と味方2000.4.16
●甘えとは?(家族を通して考えてみる)2000.2.27
●「正しい・間違ってる」と「好き・嫌い」2000.1.6
●理想の家族像はあるのか、現実はどうなっているのか。
●道徳観・モラルはどう変わりつつあるのか、 どう変わっていくべきなのか。
●人はなぜ社会で生きるか1999.12.9
人は、さまざまな能力や才能を持ってこの世に生まれてきます。天才と言われるような人は希ですが、勉強でも運動でも芸術でも、自分の好きなことや得意なことは、多くの人が何かしら持っていると思います。持って生まれた能力は、できるだけ伸ばす努力はした方がいいと思います。
仕事に生かせるような才能を持っているならば、生かすのもいいでしょう。好きなことでも仕事にしてしまうと楽しいだけでは済まなくなるでしょうが、それを社会の役に立てられることは素晴らしいと思います。
画家や音楽家になれるような才能のある人は、人々に潤いを与えられますし、優れた頭脳の持ち主はさまざまな学問を発展させ、また、いろいろな発明や発見をするなどして、社会を豊かなものに出来るでしょう。スポーツ選手や技術者も然り。それは個人の才能であると同時に社会の財産とも言えると思います。
優れた能力や才能を持って生まれた人は、それを生かす責任もあると思います。その能力をいかに生かすかで、同じ力でもその価値は変わります。自分の利益のために使うだけでなく、他人や社会の役に立てるよう、広い視野と心で考えるべきでしょう。
また、特殊な才能ではないかもしれませんが、優れた営業センスや地道に業務をこなす力だって立派な能力だと思います。目立たなくても、そういった能力に社会は支えられています。
ですから、能力を生かすことはなにも特別な人に限ったことではありません。自分の出来ることは進んでやる、困っている人には手を差し伸べる、よりよい社会を作るよう協力する、などは誰もがどんな場合でも考えねばならないことだと思います。皆が自分さえよければよいという発想でいたら、社会の進歩はないでしょう。
せっかく才能を持って生まれても、さまざまな理由で生かしたくても生かせない場合もあるでしょう。でも、大丈夫です。それはこの世だけのこと。あの世では時間や物質的な制約がありませんから、やる気のある人なら、自分の能力を思う存分、生かせるようです。
運命というものはあるのか。自分の人生は自分の力で変えられるのか。
よく、人の一生ははじめから決まっているという話を聞きます。また、人間には自由意志があり、自分の努力によって、人生は変えられるとも言われます。これらは、一見矛盾することのようですが、私は人生には両方の要素があると思います。ではこの辺りをどう解釈すればよいか考えてみましょう。
人間のこの世での一生を図に表してみました。誕生してから死ぬまでは、いくつもに枝分かれする道に例えられます。人は生きていく上でさまざまな岐路に立ち、その都度なんらかの選択をして行動を起こします。いくつかの選択肢からどれかを選ぶという場合もあるでしょうし、どういう考えを持つかもあるでしょうし、努力するかしないかなどの選択もあるでしょう。社会的要因、他人の存在なども大きく影響してきますし、一挙手一投足の全てが未来を決めているのかもしれません。図は非常に単純化していますが、その選択肢は無限にあると言えそうです。
また、生まれる前に決まっていることや、避けられないこともあります。どんな国のどんな環境で、どんな親の元に、どんな肉体、どんな才能を持って生まれるかは、生まれた後では選択できません。また、この世で関わりを持つ人とは前世からもつながりがあると言われますし、一生のうちに必ず遭遇しなければならないこともあるのかもしれません。
私は、運命とは、このように決まっている部分と変えられる部分のある、そしてあらゆる選択の可能性を含んだ全体を指すのではないかと思います。ですから、その選択の仕方によっては全く違った人生になり、そこに人間の自由意思の存在する意味があると思うのです。
一生を終えた時、さまざまな要因が絡み合ったさまざまな選択肢の中から選んで生きてきた道は、一本の線につながっています。それが自分の人生です。振り返れば決まっていたようにも見えますが、実は無限の選択肢の中から自分が切り開いてきた人生であると考えられるわけです。
どんな環境に生まれ、どのような状況に出会っても、そこでいかなる考えを持ち、いかなる選択をし、いかなる行動を起こすかがその人の一生の価値を決めるのだと思います。ですから、避けがたいことは甘んじて受け入れ、投げやりにならず、常に自然体で、よく考え、後悔のないような選択をしつつ生きる必要があると思うのです。
世の中には実にさまざまな人がいます。一人一人、能力も性格も考え方も好みも違う。また、人の数だけ人生はあるわけで、同じ一生を送る人はふたりといません。皆が違った環境で育ち、違った経験をし、知識を得、それぞれの考えや価値観を持って生きているわけです。また、同じような経験をしてもその受け止め方、そこから得るものは千差万別でしょう。
人間は社会を作って生きる動物です。経験も考えも、完全に一致することなどあり得ない人間同士が社会生活を営む上では、他人への理解、思いやりが必要不可欠になります。皆が自分勝手に振る舞い、他人の気持ちを考えなかったら、社会はトラブルだらけになってしまうでしょう。
人間が複数集まる社会には、秩序が必要です。全ての人間が良識の元に生きられれば、規則や法律はいらないかもしれませんが、そこは成長段階もそれぞれの人間の集まりですから、なにがしかのルールも必要になるでしょう。ただ、それが人権を無視しかねない行き過ぎた拘束だったり、誰かの好き嫌いで作られたものだったりすると、かえって問題の種になります。
全体の秩序を保った上で、個人個人が自覚と責任を持ち、自由に考え、行動し、他人に思いやりを持って接することのできる社会が理想だと思います。個々が自立していない、或いは自立を認めないような社会では、指導者の過ちやある種の洗脳により、皆で悪い方向に進んでしまったり、共倒れになったりする危険性もあるでしょう。
人間同士が理解し合うには意見交換が必要になります。議論も、意思統一や結論が必要な場合、参考意見を出し合う場合など目的はさまざまです。いろいろな人間がいるのですから、自分と違った意見が出るのは当然のこと。議論を進める上では常に客観性を忘れずに、他人の意見を尊重するよう努めることが大切です。
ある種似た考えを持つ人間が集まったとしても全く同じということはないのですから、意見の食い違いにより摩擦が生まれることもあるでしょう。しかし、表面的なことや細部にとらわれず、共通する部分を確認し合い、お互いのプラスになる方向を探る努力が必要だと思います。
自分と違う考えを認めることは自分の考えを曲げるということではなく、相手の考えも理解することだと思います。勿論、納得いくまで話し合い、自分が間違っていることがわかった場合は改めるべきですが、相手の意見を理解した上で、自分の意見を再検討できれば、その考えはより大きく、確かなものになっていくでしょう。
仮に、この世の人間が全く同じ人間ばかりだったら、そこには新しい発見も進歩もないと思います。違うからこそ一人一人の存在意義と、個々及び全体の向上の可能性があるのではないでしょうか。違う人間が集まることによって偏りが無くなり、お互いに磨き合え、全体としての強さが増すのではないかと思います。
人には得手不得手があります。できないことを無理にやろうとするのではなく、学問でも芸術でも仕事でも遊びでも何でもいいから、とにかく自分で納得のいく生き方をとことんしてみる必要があるのではないかと思います。何にもしないという行為からも発見があるかもしれません。そして、それぞれが得たものを示し合い、共有する。あらゆる知識、経験、思考の真髄に、真理が発見できるのではないかと思います。
人間は多様性があるからこそ、何倍にも何十倍にも大きくなれる可能性があるのだと思います。一人のできること、考えられることは知れていても、それぞれの人間がそれぞれの分野で見出したものを重ね合わせ、総合的に考えることによって進歩し、理想的な社会に近づけられるのではないでしょうか。私は、人間はやはり全体で一つであると感じます。
人は自由意志により、自らの行動を選択して生きていきます。行動を起こす目的はさまざまですし、価値観も人それぞれですから、選択肢は無数にあると思いますが、ここでは、より正しく生きようとする時、何を基準に行動を選択すべきかを考えてみたいと思います。
行動を起こす対象がある場合、同じ行為でも対象によっては良くも悪くも作用しますからその選択は難しいですが、私は第一に、対象に思いやり、或いは愛を持つことが大切だと思います。原則としては、対象を傷つけない、対象に何かしらプラスになると思われる行動を選ぶ。でも、仮にその行動が対象を一時的に傷つけたとしても結果として望ましい効果が得られるのなら、その行動は正しいと言えるかもしれません。予測を誤った場合は罪になるでしょうが、少なくとも目的は対象を傷つけることではなかったのですから、その後の反省、対処の仕方によっては救いもあるでしょう。
しかし、行動は正しく選択できるに越したことはありません。「動機が大切」ということはスピリチュアリズムではよく言われることですが、動機は個人の考え次第ですから、それによって起こした行動が望ましい結果を生むとは限らず、よかれと思ってやったとしても結果が悪ければ、害悪であることに変わりはありません。「動機」は、よくない結果が出た後、罪の重さを計る材料にはなりますが、それ以前に、行動を起こす時点で正しい動機を持てる判断力が必要だということです。
では、正しい判断とは何を基準にするのか。これは真理に添ったものということになるでしょう。真理とはすべての存在の源である神の摂理です。それは完全無欠であり、善悪も含めて絶対的に正しく、あらゆる法と秩序を包括しています。勿論、人間の存在もその中に含まれ、比喩的には、人は神の子である、或いは神の一部であると言うこともできます。
例えば、戦争や殺人、自殺などによって人間が自らの死期を早めること。この世に目的を持って生まれてきた人間が、天寿を全うしないうちに殺し合う、或いは自らを死に至らしめるような行為を、親である神が正しいとするはずがありません。殺人は例外的に判断が難しいケースもありますが、それは別の犯罪などが原因でやむを得ず悪を呼んでいるような場合であり、私は死刑制度も含めて、原則として人が人を殺すことを正しいとは思いません。この絶対的な基準を曖昧にしているから、心に隙ができ、マインドコントロールなどによって殺人を正当化するような事態が生まれるのだと思います。
それもこれも全ては自然の成り行き、神の意志だろうから何が起きても仕方ないと運命論的に考えることもできますが、それはあまりにも神をつかみどころのないもの、人間を意志薄弱なものとし過ぎる発想ではないかと思います。確かに起きてしまったことは受け入れるしかないわけで、その場合はそこから何を学ぶかが重要になりますが、天災などは避けられないとしても、人為的に起こしたものまでを結果だけから判断してしまっては進歩はないでしょう。仕方ないで済まされるのであれば、神は人間に自由意志も理性も与える必要はなかったと思います。起きてしまったことを受け入れるのは起きた後のこと、間違ったことは起こさないようにするのが自由意志を正しく使うべき人間の使命ではないでしょうか。
神は常に人間の成長を願い、限りない愛を持って私たちを見守っています。神は人間のようにミスを犯すことはありませんから、人間に試練を与えられることはあっても、それは結果的に人間のために必要なことなのでありましょう。大いなる神の元で、いかに正しい行動が選択できるかも人間の成長度によるところであり、やはり真理に一歩でも近づくことが大切ということになります。無理してはいけないと思う。
自分の心に素直に従えばいいと思う。
やりたいと思ったことをやればいいと思う。
できないことはやらなくていいと思う。
必要なことは必要な時にやれるようになると思う。
自分のできることを、それを必要とする人がいたら
やりすぎない程度にさせてもらえばいいと思う。
必要としない人に与えようとしてはいけないと思う。
人に感謝されたいとか、よく思われたいとか
そういう動機からでは何をやってもいい結果は生まないと思う。
自分のためとか人のためとか考えずに、
自分がやろうと思ったことをやって、
誰のためになったかはわからなくていいと思う。
本当に誰のためになったかは、誰にもわからないと思う。
誰かのためになると思ってやったことがその人のためにならないことはよくあると思います。相手が望む、望まざるとに関わらず、した方がよいか、しない方がその人のためになるのかの判断は容易ではありません。また、誰かのためと思ってやったつもりが実は自分のためだったり、別の人のためになったりすることもあるでしょう。それは、表面的に見えるものとは全く別の結果を生んでいる可能性もあり、その時はわからなくても、長い間に効果が出たり、堕落につながることもあるかもしれません。
ですから、誰のためなどと考えずに、自分が心のままにすべきと思ったことをすればよいと思います。人に迷惑がかからなければ、その目的がとりあえず自分のためであっても何らいけないことではないと思います。結果誰のためになるかは神のみぞ知るといったところでしょうか。
自分がよいと思っても、求めていない人に押しつけてはいけないと思います。必要ない人にとっては迷惑であり、かえって傷つけてしまうこともあるでしょう。自分にできることがあったら、それを必要とする人に、必要な時、必要なだけするというバランスと自制心が必要だと思います。
ただ与える、言うことを聞く、優しくすることなどがいい結果を生むわけではありません。いつ何をどうするかの判断は非常に微妙です。例えば食べ物が無くて困っている人に、食べ物そのものを与えるのか、それとも種のまき方、育て方を教えるのか。勿論、緊急の場合や一時的に必要な場合は食べ物自体を与える必要があるでしょう。でも、継続する場合は、それだけではいつまで経っても「与える人」が必要になります。相手が自分で育てられるようにしなければ、与えたとは言えないのではないでしょうか。また、育て方を覚えた人は他人に与えることができるようになります。
付き合いや強制などにより、納得のいかないことはしない方がいいと思います。つらくても自分が必要だと思うことならできるでしょうが、気の進まないことやできないことは無理してやろうとしない方がいいし、やる必要もないと思います。また、自己の判断をおろそかにしたり、他人を信用しすぎて盲目的になるのは危険だと思います。
本当に必要なことなら、それをするのに必要な能力や、やる気は自然と生まれると思います。見栄や、周囲の環境にとらわれて多くを望み過ぎたり、自己の能力を過信したりすることは危険だと思います。
そもそも、自分が誰かのためになれるなどと考えること自体、おこがましいのではないかと思います。ただ自分の心に従い、よしと思ったことをして誰のためになるかにはこだわらない。勿論、失敗した場合は深く反省すべきですが、結果を見越した利他的行為はあり得ない気がするし、自分のためにならない利他的行為もないのではないかと思います。スピリチュアリズムなどに関わっていると、「利他的に生きなければいけない」という言葉をよく聞きます。辞書を引くと、【利他】自己よりもまず他人の利益・幸福をはかること。などとあります。確かに利己的になって自分のことしか考えない人は社会の迷惑ではあります。でも、利他的も、自分の利益や幸福を考えないことではないと私は思います。
私は自分が幸福だと思えたとしても、他人が不幸だったら、あまり気持ちよくありません。世界中の誰もが幸福だと思えることはまずないと思うので、そういう意味では自分も完全に幸福と思えることはないと思います。私は、この世に「完全」は存在しないということは真理だと思っていますので、これはそれを証明することにもなるんですが、一人でも多く、幸せを感じてもらいたいのでスピリチュアリズムの普及などに関わっているわけです。
例えばスピリチュアリズムの普及によって、もし誰かが救われたとしたら、それは他人の幸福であると同時に自分の幸福です。自分の幸福のために他人を幸福にしようとしていると言っても間違いではありません。私は所詮その程度の人間だからかもしれませんが、利他を考えるにしてもまず自分ありきです。
これはスピリチュアリズムに限らず、何でもそうだと思います。私の場合、人のためと思って何かをするにしても、物質的な見返りは求めないまでも、その人の喜ぶ顔が見たいとか、何らかの形で誉められたいとか、必ず自分が満足できる結果を期待しています。ですから、何をするにも結局は自分のためであると思っています。
すべての人間は神の子であり、究極は一つであると考えると、他人の幸福が自分の幸福につながるのは当然のことです。他人さえよければ自分はどうでもよいと言う人がいたら、私は逆にあまり信用できません。自分を大事にできる人こそ、他人の立場にもなれ、気持ちを理解でき、利他的にも生きられるのではないかと思うのです。
私の利他的の解釈は、「自分と他人、両方のため」ということになりましょうか。この世には、さまざまな差別を受けて苦しんでいる方が大勢いらっしゃいます。残念なことですが、人種、出身地、性別、身体障害など、いわれ無き差別は現実にたくさん存在しています。それが原因で、就職や結婚など社会生活への弊害を被ることもあり、これは人権を考える上でも、大きな社会問題です。
こういった差別が起こるのは、この世の肉体的なこと、地理的なことに起因しています。霊的な見方をした場合、それがいかに愚かで意味のないものかは明白です。人間は霊であり、この世にいる間だけ肉体をまとい、地上で生活すると考えれば、どんな肌の色をしていようと、どこに生まれようと、本質的には何の差もないことがわかるからです。
霊的な見方をもう一歩進めますと、この地上の人生は自らが選んで生まれてきたと考えることができます。その環境、肉体も、自分の修行のため、或いは過去世の何らかの理由で選んだと考えると、何事も試練であり、その人に必要なことであるという解釈ができます。この考え方は、前向きに受け取ればもっともなのですが、一つ間違うと冷たい印象を与えてしまいます。極端に言うと、霊的に見たら意味がないことに苦しむ必要はないということになるからです。
私は、どんな人でも、やはり差別を受ければ傷つくし、苦しんで当たり前と思います。また、それに同情する気持ちが起きるのも、人として自然な感情でしょう。どんな考え方をしたとしても、人の痛みがわからなくなっては、その方が問題だと思います。人間ひとりひとりが、人の立場に自分をおいて考え、苦しみを理解するよう努め、原因を探り、社会から歪みや悲劇を無くすよう努力することが大切なのではないでしょうか。
差別問題に限らず、私は物事を考える上では、この世的視点、霊的視点、どちらも欠かせないと思います。片方だけでは偏った見方しかできません。何事も常にこの両方の面から検討することを忘れず、客観的で冷静な、また人間的感情も十分考慮した判断を下すことが必要だと思います。また、思い込みや理屈に縛られず、柔軟な発想と思いやりを持つことが大切だと思います。人はこの世に生まれ、気がつくと自分がいて、自分以外の人間もたくさんいることを知ります。成長と共に多くの人と出会いますが、直接知り合わなくても情報として一方的に存在を知っている人もいるし、世界中にはものすごい数の人がいることも認識しています。ここでは他人を自分以外の人と定義しますので、家族も他人の部類に入れようと思いますが、一体、他人の存在とは自分にとってどういう意味があるのでしょう。
この世では、特殊な能力を持っているか、幽体離脱でもしない限り、人は常に自分が五感で感じられるものだけを認識し、自分の頭で考え、行動しています。他人の気持ちはある程度察せたとしても、その人に成り代わることはできないので、結局は自分というものであり続けながら生きていくしかありません。これだけの数いる人間ひとりひとりが皆そういう意識を持って生きているわけです。
極端に自己中心的に考えますと、自分さえよければよい、自分以外はどうなったってかまわないという発想になります。自分以外は全部敵。これは孤立します。次に、自分の家族、身近な人、自分の好きな人だけよければいいと考える。自分の地域、自分の国。何をどこまでどう考えるかは人それぞれですが、その範囲が広いほど、できた人間と言えるかもしれません。人間は多かれ少なかれ自己中心的な部分はあると思いますが、いい大人が国を挙げて戦争を起こしてしまうことを考えても、人間とは本当に勝手な生き物だと思います。
競争社会では、肉体的には傷つけないまでも、他人を立場として敵にせざるを得ない状況が生まれます。人を蹴落として自分が優位に立つ。受験戦争や出世争いなど、現代社会では行き過ぎの感がありますが、悔いのないようやれるだけのことをやったら、結果は素直に受け入れるという割り切りが必要でしょう。思い通りにいかなかったことを悔やんでも、ストレスになるだけです。他人を良きライバルと思うか、憎むべき敵と思うかでも、心の有りようは大分変わってくるでしょう。
他人を敵と見なすのと反対に、他人を頼りすぎる、頼らせすぎるという失敗もあります。親と子、先生と生徒、上司と部下、親友など、よい関係が保てれば生きていく上での支えにもなるでしょうが、ある人がいなくては困る、何でもその人の言いなりになるような意識や関係は、非常に危険です。この世における肉体は、いつなくならないとも限りませんし、他人に頼ってばかりでは自分の成長は望めません。宗教の教祖と信者などもその典型ですね。ここに自立の必要性が生まれます。
他人のために何かをする、それは同時に自分のためでもあります。もし完全に人のためで自分は犠牲になっているだけ、それによって自分は何も得ていないと思うのだったら、それは苦痛以外の何ものでもなく、続けることはできないでしょう。どんなにつらいことでも、そこには何らか自分のためになる要素が含まれている、それが何かを見つけることが大事なのではないかと私は思います。
また、自分が他人にしたことを恩に着せたり、報酬や見返りを必要以上に求めたり、自分が相手より優位であると植え付けたりすることは慎まねばなりません。自分がどんな立場で相手とどんな関係にあろうと、常に相手から自分が何かを教わっているのだという意識や態度が必要だと思います。
人生で、他人がいなかったら自分のしたことを見てもらえないし、話も聞いてもらえません。私のように自己顕示欲の非常に強い人間は、仕事にしろ遊びにしろ、自分が考えたこと、作ったもの、自分がしたことで人に喜んでもらうのは無上の喜びです。単なる自己満足や自信過剰は迷惑かもしれませんが、度を超さなければ、おだてに乗ったり、あきれられたりしながら自分をアピールしていくことも何らかのプラスになるのではないでしょうか。
勿論、他人のしたことに喜び、感動し、刺激を受け、自分の成長に役立つことも多いです。世の中には驚くような才能のある人、努力をする人、心の温かい人がいます。そういった人たちの話や仕事や生き方や人間性から、さまざまなことを学んでいくのも人生では重要なことです。
また、他人の失敗から学ぶことも多いと思います。人の失敗を喜んでいいわけではありませんが、他人が起こしてしまったことでも人ごとと思わず、同じ過ちを繰り返さないように、自分に置きかえて考えられれば自分の成長につながると思います。自分は失敗せずに学べるわけですから、これを逃す手はありません。反面教師の存在も、必要あってのことだと思えばそう腹も立ちませんね。
人間はやはり他人と関わることによって学び、成長し、磨かれ、愛を育むのだと思います。人間がもっと、他人がいればこそ自分も存在できるのだと謙虚に考えられれば、地上はもっと優しく、温かく、住みやすくなるのではないでしょうか。私は西暦2000年の今年、現在勤めている会社で勤続20年を迎えましたので、これを機に、人間は仕事から何を得られるのかを考えてみました。仕事のうちには家事やボランティアなどいろいろな性格のものがありますが、ここではあくまで私が一社員として携わってきた、会社での仕事を前提に考えてみます。
まずわかりやすいところで、私のしてきたような地上での仕事はお金という報酬を得るためのものと考えられます。お金は額の多少に関わらず、現在の世の中の制度では生活していくために必要なものです。しかし、お金を得られればいいと割り切るのなら、できるだけ少ない労力で多くの収入を得るのがよい、究極は何もしないでお金が手に入れば理想的ということになります。確かに考えようによってはそれも正しい気もしますが、私の経験から感じるところでは、仕事はお金のためばかりではないようです。では、人は仕事に一体何を望み、そこから何を得ているのでしょう。
個人差はあると思いますが、仕事はできれば自分の好きなこと、自分の才能の発揮できるものを選びたい、そして自分も満足でき、人や社会のためにもなりたいというのが素直な気持ちでしょう。まあ、誰しもそうはっきり自覚できる能力はなかなか持っていないでしょうし、思うような仕事に就けない、仮に就けたとしても理想と現実は違っていたというのが世の中でしょう。理想ではなくても、自分の就くことになった仕事に誇りを持って従事できれば問題はありませんが、金のためなのだからとあきらめて嫌々仕事をすることは、自分にも社会にもいい影響は与えないと私は考えます。
人は仕事と、人生の大半、かなりの長時間付き合うことになります。ですからその選択も関わり方もおろそかにはできないし、そこから自分が受ける影響は、家庭生活に匹敵するか、或いはそれ以上に大きいものになるでしょう。ですから、その仕事から報酬以外にも何か得るものを見つけていければ、より有意義な社会生活を送ることができるでしょうし、人間としての成長も望めるかもしれません。
収入以外に仕事から得るもの。私の経験から考えますと、それは人間関係から学ぶことが多いようです。仕事を進めていく上で大切なのは、人からの信頼を得ること。約束を守る、責任を果たす、的確な判断で必要に応じた決断を下す、TPOをわきまえる、人を思いやることなど。そして柔軟性と包容力、できればかわいげのある人間味がほしいところです。金のためと割り切るだけではとてもスムーズに仕事は進みません。そこには情熱や愛や、優しさや厳しさ、協調性や人の立場に立ってものを考えることも必要になってきます。仕事を通して人と関わることにより、それらを学べれば、仕事のできる、信頼のおける人間になれるでしょう。
勿論、完璧な人間なんていうのはいないし、それぞれの要素に対する比重のかけ方によって個性も生まれるから面白いのだと思いますが、一人前の社会人としてやっていくためには、それなりの人格と信用が必要になり、仕事を進めていく上でそういった人間形成がなされることは確かだと思います。世に言う天才肌の人はその為せる仕事のすばらしさゆえ、周りもある程度犠牲になりながらも盛り立ててゆくということもあるようですが、それは特殊な例でしょうし、周囲の人も本人も、場合によってはある程度傷つくというリスクは負うことになると思います。
仕事というのは面白いもので、人間性がもろに出ます。遊ぶだけならたいていの人とは楽しく遊べても、仕事となるとそうはいきません。トラブルのない仕事など全くと言っていいほどありませんが、一緒に仕事で関わると、その人がどういう人間であるか、はっきりとわかるものです。勿論、好みや、馬が合う合わないということもありましょうが、ある人に対して複数の人間が同じような評価をした場合、ある程度の信憑性はあるように思います。そういう人といかにうまくやっていくかというのも能力であり、修行だとは思いますが、反面教師のような存在には私自身はあまりなりたいとは思いません。人がどう見ているかは知りませんが。
また、少なくとも仕事や会社生活で付き合っている限り、仕事面、人間性、或いは両方のバランスにおいて、驚くほど優れた人もいます。そういう人が必ずしも出世するわけではないというのがまた会社の面白いところですが、やはり会社というのはいろいろな人がそれぞれの役割で支えているのだなあと実感するところです。この世を生きていると、苦しいことにたくさんぶつかります。子供だろうと大人だろうと、人間は生まれてから死ぬまで苦しむために生きているようなものかもしれません。人によって、出会う苦しみ、何をどの程度苦しいと感じるかはさまざまでしょうが、苦しみを全く知らずに一生を終わる人などいないでしょう。
災害、戦争を経験することもあるでしょうし、事故に遭うこともあるでしょう。病気や怪我、仕事上のトラブル、金銭問題、生活苦や将来への不安、人間関係や恋愛の悩み、受験戦争。物理的に避けようのないものから、社会が生んでしまった矛盾、人間の思い込みやわがままなど、苦しみを生む原因はさまざまです。
しかし、苦しみとは自分が感じるものです。自分が感じさえしなければ苦しみは存在しません。同じような目に遭っても、苦しいと感じるか、さほど感じないかの個人差はかなりあると思われます。そこで、いかにして苦しみを感じないようにするかということが苦しみから解放される手段になると思います。
どんなことであれ、自分の思い通りにならないことへの不満から苦しみは生まれます。それを解消するには、何が起きても苦しみと受け取らないことです。自分は何も悪くないのに何でこんな目に遭わなきゃいけないんだとか、或いは自分はなんてだめな奴なんだという気持ちを持たずに、全てなるようになるものだと受け入れてしまえば、苦しみは消えるのではないでしょうか。
物事には必ず原因と結果があります。どんな苦しみでも、それが生まれたのには原因があるはずです。それを突き止め、自分の行為や考え方に落ち度がなかったか反省し、同じ過ちを繰り返さないようにすることで、人間は成長するのだと思います。全てに原因があるという意味で、世の中に偶然はないというのがスピリチュアリズムの考え方です。
そう考えますと、全ては起こるべくして起きたということになり、また、起きてしまったことは消すことはできないのですから、そこから学ぶべきものを見つけたら、もうくよくよ悩まず、同じ過ちを繰り返さないように前向きに生きていこうとするしかありません。誰かを恨んだり、自己嫌悪に陥ったりすることはそれからの人生の足を引っ張り、悪い影響を与えるだけです。
過去の悲惨な戦争や犯罪などは確かに起こすべきではなかったとは思います。しかし、私は、どんなことでもなかった方がよかったとは言えないのではないかと思うのです。その経験をしたからこそ反省もし、成長できたと考えれば、起きた意味もあったことになります。戦争などの犠牲者はこの世の肉体がなくなっても、霊が消えてしまったわけではありません。その死を無駄にしないためにも、そこから学ぶべきことを学び、人類の成長につなげるよう皆で努力すべきでしょう。
私の場合、性格かもしれませんが、過去を振り返ってみて思い出されるのは苦しかったことばかりです。楽しかったことは一時的なものであり、過ぎてしまうと影が薄くなるのに、苦しかったことは生々しく思い出されます。これはなぜかと考えますと、苦しかったことこそ自分にとって必要だったからではないかと思うのです。
過去の苦しみがすべてなかったとしたら、現在の自分はあったでしょうか。苦しみによって精神的な強さ、思考力、判断力などが培われ、人間は成長するものでしょうし、それ以後の苦しみを回避することができたとすれば、苦しみの存在も立派に意味があったのだと思えます。仮に過去に戻って苦しみの原因を取り除くことができたとしても、その苦しみから得たものを手放すとなったら誰でも躊躇するのではないでしょうか。
苦しみは突然やってきます。苦しみを予測して回避できれば苦しみにはならないと思いますが、回避できない苦しみを事前に予測できたら、これ以上の苦しみはないかもしれません。苦しみは予測できないから救われているとも言えます。いずれにしろ、わからないことを心配しても仕方がないし、何が起きても自然体で受け止めようとする気持ちがやすらぎにつながります。苦しみとなり得る要素が突然降りかかってきた時に、それを苦しみと受け止めず、慌てず冷静に対処できることが苦しみを減らすことになるでしょう。何も心配することはありません。スピリチュアリズムによれば、人間には、乗り越えられないほどの苦労は与えられないのですから。人が、ある目的のために複数集まった場合、そこに生まれた組織の運営をスムーズに行うためには役割分担が必要になります。会社でも、普通は、社長から一般社員までピラミッド型の人員配分で体制が作られます。社員はそれぞれの立場で自分の能力や経験を生かしつつ、仕事を進めることになります。
ピラミッド型がいびつになると、不都合が生じます。管理職ばかりが増え、現場で働く人が減ると、仕事の能率も下がり、無理な残業が増えたり、給与体系が崩れたりします。各地位、役割に適した能力を持った人間が、必要な場所に必要な数だけ配置されることが、健全な会社経営には欠かせません。
人にはさまざまな個性があります。性格も違う、能力も違う、得手不得手も千差万別です。ですから、皆が同じことをする必要もなく、できるわけもありません。それぞれの人間が自分に適した部署で、自分の個性を生かしつつ、自分なりのやり方で、持っている能力を最大限に発揮することにより、いい結果も生まれるというものです。
ひとりひとりが自覚と責任を持ち、仕事に励むことが大切です。自分の守備範囲の仕事を十分果たすよう努力した上で人と助け合って行くことが、スムーズな仕事の流れと信頼関係を生むコツです。あまり出しゃばるのは考えものですが、自分のすべきこともせずに他人に甘え、役割を全うしないと、会社のためにも自分のためにもならないでしょう。
地位は役割であり、地位イコール人間の価値ではありません。また、皆が管理職に向いているわけでも、全員が社長になれるわけでもありません。地位を得たいと思う場合、確かめるべきは動機です。いたずらに出世を望むことは欲。人を蹴落としてまで地位を得、見栄を張りたいような人間が上に立つことは、組織としての不調和を起こす原因となるでしょう。その地位を得ることによって社会のため、皆のためになると思われる人物が出世は望むべき、或いはまわりから押し上げられるべきでしょう。
上に立った人間はよく働き手のことを考え、物質的にも精神的にも、皆の仕事がやりやすくなるよう環境を整える義務があります。私的生活や会社の利益を優先し、働き手のことを考えない経営者は反感を買うでしょうし、信頼も得られないでしょう。また、働き手はやみくもに権利や報酬を求めず、経営者の考えを理解することが必要です。要するに、立場の違う者同士よく理解し合い、調和することが大切なのです。経営者と社員でも、上司と部下でも、相手の立場や気持ちを考えずに自己中心的になっていては信頼関係は生まれないし、良い仕事もできないでしょう。敵とは何でしょう。自分の命を狙う者?自分を攻撃してくる者?同じ目的で自分と争う者?自分と意見の違う者?
大自然の中における天敵は、生物のバランスを保つために必要な存在ですから、自分が食べられるかもしれない、純粋な敵と言えるかもしれません。しかし、人間が敵と呼んでいるものは、私は人間の自己保存欲、未熟で小さな心が作りだしたものと思えてならないのです。
戦時中、敵国の人、少なくとも敵の兵士は殺すべきものとされ、たくさんの敵を殺した人は英雄と呼ばれました。平和な時代にその国の人を一人でも殺したらどうなるでしょう。明らかに犯罪で、大問題になります。お互い様とは言え、敵だと思っていたのは自分たちの勝手な理屈で、状況が変われば敵国の人もかけがえのない同胞であることが認識されるわけです。
平和な時代でも、人はよく敵を作りたがります。確かにさまざまな理由から、誰かに精神的、肉体的な攻撃を受けることもあるでしょう。自分に非が認められるならまず反省すべきですが、単に相手のエゴイズムだったり、嫉妬心だったり、或いは誤解だったりすることも多いと思います。しかし、攻撃されても、そこで自分まで相手を敵だと思ってしまうことは、私は避けるべきだと思うのです。
敵対心を持つと、争いが生まれます。それを避けるには、相手がどういう態度に出ようと、喧嘩は買わない、感情的な議論はしない、武力で戦わないという心構えで、解決方法を見つけて行くことが必要だと思います。原因を追及し、客観的に問題を見つめ、感情的にならずに平和的解決の糸口を探す。安易に暴力や言い合いの勝負で決着をつけようとしても、問題は大きくなり、長引くばかりで、根本的な解決にはならないでしょう。
そして、お互いの理解が得られる、或いは理解できなくともお互いの立場を認め合えれば、敵だと思っていた人も敵でなくなると思います。戦争でも、終わってしまえば敵などいなくなります。一時の感情や、ちょっとした出来事から、性急な判断を下して敵なるものをつくったり、縁あっての人間関係を安易に絶ってしまうような行動をとると、自らを孤立させる原因になるでしょう。
また、味方とは何でしょう。敵に対するものだとすれば、味方という発想も危険であると考えられます。そして、味方という意識の中から、悪いことでも許してしまうような甘えや、馴れ合いが生じると、善悪の判断も曖昧になり、味方同士で足を引っ張り合って堕落して行くことになるでしょう。
このように、敵味方という意識を持つことは、争いや堕落を生みやすいと私は考えます。そういうある種の差別意識を持つことなく、あくまでも個を主体に、自分で考え、判断し、行動してはじめて人ともいい関係が持てるようになると思うのです。誰かにこうしてほしいとか、こう思ってほしいとか期待することが甘えでしょうか。そういう期待をしていると、自分の思うようにならなかった時、腹が立ったり、傷ついたりします。裏切られた、こんなはずじゃなかったなんてぼやきはよく聞きますが、結局は自分の苦しみになるようです。その原因は相手にあるのではなく、自分の甘えにあると思った方がいいでしょう。
期待していたこと自体が見当違いだったってこともよくあります。例えば子供は親に甘える、まあ、これは当たり前でしょうが、親が甘やかしすぎると、わがままな子供、人とうまくやっていけない人間が育ってしまう。親があまり面倒を見すぎると、自分では何もできない子供、マザコンの大人なんかができてしまう。甘えさせてくれることを期待している子供にしてみれば、甘やかしてくれる方がその時はいいでしょうが、将来のことを考えたら、子供のためにも親のためにもならないってことですね。
親も、あまり子供に自分の言うことを聞かせたい、思い通りに育ってほしいなんて思っていると、子どもに対して腹が立ったり、場合によっては子どもに爆発されたりする。それは親の甘えが原因でしょう。自分が産んだのだから、自分がごはんを食べさせているのだから子供は自分のものだ、自分の言うことを聞かなくてはいけないのだなんて考えることは間違いのもと。放っておけばいいというものではありませんが、干渉しすぎることはそれ以上に悪影響のあることではないかと思います。また、親子に限らず、押しつけや思いこみで人に期待していることも多いようです。相手のためを思って、なんて言い訳したところで、結局は自分のわがまま、ただのお節介だったりします。
また、放っておいてほしいと思うのも甘えと言えなくはありません。自分にかまうなと人に期待しているわけですから。これも親子に限らず、夫婦でもどんな人間関係でもよくあることでしょう。となると、人間が複数で生活する場合、どんな場合であるにせよ、甘えの問題は避けて通れないことになります。自分がどういう行動をとりたくても、それを相手が許してくれなければ何もできないわけですから。ですから、お互いに相手に甘える、期待することもある程度は仕方ないし、必要なことなのでしょう。理不尽なことでなければ、相手の甘えをどこまで許せるかというのも、人間の大きさによるかもしれませんね。やはり、お互いの気持ちを察し、人格を尊重し、相手を認め合って暮らしていくことが大切だと思います。
そして家族とはいえ、一人一人は別々の人間であること、魂であることを認識し、お互いが伸び伸びと生きていけるような環境を作ることが大切でしょう。人が意見を持つとき、「正しい・間違ってる」と「好き・嫌い」という判断があると思います。
「好き・嫌い」は人それぞれ違いますから、これをいくら話し合っても、相手を認めない限り、喧嘩になります。「何であなたはこれが好きなんだ!私は嫌いだ!」なんて言ったところで、好き嫌いが一致するはずはないし、疲れるだけですね。でも世の中、意外とこんなことで起きているトラブルが多いのではないでしょうか。相手を自分の思い通りにしたいというエゴイズムです。
「正しい・間違ってる」という判断は、一致してもいいようなものですが、これも時代やお国柄、個人の思い込みで変わってきます。親と子は生まれた時代が違うから価値観も違うし、夫婦は出身地の違いで生活習慣が違います。国家レベルで考えても、戦争で敵を殺すことは正しくて、平和な時代に人を殺せば犯罪になります。人間の決めた法律や習慣で判断していると、「正しい・間違ってる」の判断も誤りやすいということですね。正しい判断は、それではできないことになります。
本当に普遍的なものだけを探し出そうとするのが真理探究です。真理とは、時代や習慣、個人の意志に関係なく、無窮の過去から未来永劫変わることのないものです。ですから、「正しい・間違ってる」という判断は、真理に基づいたものであれば信用できることになります。真理に照らした判断であれば、いつの時代でも、どこの国でも共通です。この万能のバイブルを手に入れることは人間の大きな目的です。完全には無理でしょうが、真理に一歩でも近づこうと努力することが人間誰しも必要だと思います。家族というのは、自分と他人の中間的存在です。ですから、どう付き合っていくかはなかなか難しい。自分なら思ったように行動すればいいし、他人ならば、嫌な相手でも一時的に我慢して表面上うまく付き合っていけばすみますが、一緒に住んでいる家族となるとそうもいきません。
家庭にいる時は、たいていの人はあまり気を使いたくないし、わがままも出ます。家族くらい自分の思うように行動してほしいと、つい期待してしまいます。しかし、向こうも同じような気持ちでいるわけで、そううまくいくものではありません。家族は、自分でもなければ、他人でもない。血のつながりはあっても皆別の人間で、考えていることも違うのですから、家族をあまり自分の思い通りにしようなどとは思わない方がいいでしょう。また、常に誰かが気を使って我慢しているという状態もよくありません。
しかし、遠慮しすぎるのも考えものです。家族に自分の本当の気持ちを伝えられないと、誤解の元になります。また、あまり我慢していると、長い間には大きな不満となって自分や周りに悪影響を及ぼすかもしれません。家族と付き合っていく上では、このバランスがとても大切だと思います。
ひとつ屋根の下に暮らしていればトラブルは起きます。トラブルも起きない家族は他人と変わらないのかもしれません。そして例えば喧嘩をしても、暫くすれば元通りになっている、そんな家族が理想だと思います。お互いの人格を尊重した上で、言いたいことは言い合い、喜びも悲しみも分かち合える家族。必要以上に馴れ合いにならず、お互いに期待し過ぎず、誰もが相手の気持ちを考えながら付き合っていくことが理想なのではないでしょうか。
しかし、現実には、本心で話し合うことができなかったり、上辺だけ繕ってうまくいっているように見せている家族も多いようです。若者の自殺や、定年後の離婚が増えているのも、家族がお互いの気持ちを理解していないことの現れだと思います。道徳観・モラルはどう変わりつつあるのか、どう変わっていくべきなのか。
多くの人々が物質のみに価値を求め、心をなおざりにして生きてきた20世紀。この世紀末、物質文明の行く末に何かを期待していた人たちは、その先には何もないことを予感し、進路を見失っています。そうなると、価値観を何に求めていいかわからない、どういう生き方をしたらいいかわからない。その不安の中でできることは、周りの人に合わせて自分をごまかすことくらいです。自分自身では何も判断できない状態で、自分の行動を人に委ねることになれば、みんなで間違った方向に進む可能性は大です。
一時的な快楽、欲望の虜となって堕落の一途を歩み、それがまた人に悪影響を及ぼす。覚醒剤やエイズなども、生まれるべくして生まれた人類への警告でしょう。また、自分で判断して行った行為が生んだ結果なら、後悔することになっても納得できるはずなのですが、人の決めたことだと人に責任を押しつけたくなる。道徳観・モラルの低下はこういった悪循環の中で生まれたものと思います。
今後、人々は自分の心に深く問いかけるべきでしょう。人間は心の奥底で、誰でも正しいことを知っているのですから。人は気がつくとこの世に生まれ、社会の中で暮らしています。社会では、いろんな人間に出会い、いろんな経験をし、喜んだり、悩んだり、苦しんだりします。現在では、新聞やテレビなどから毎日どんどんニュースが入ってきて、直接自分に関係のあることでなくても、なんだかんだと頭を悩まされます。残酷な事件とか、悲惨な災害とか、果てはタレントがどうしたとか、どうでもいいようなことまで丁寧に伝えてくれるので、考えるネタには事欠きません。
現在の社会は、情報過多であったり、心をなおざりにしていたり、決して正しいとは言えません。しかし、こういう社会に生まれてきた以上、自分が知り得たことには何か意味があると思って、自分なりにしっかり受け止めた方がいいでしょう。自分が実際に体験しなくてもいろんなことを疑似体験できるわけですから、その中に吸収できるものがあれば、それを利用しない手はありません。
戦争にしろ、犯罪にしろ、本当はない方がいいに決まっています。しかし、さまざまなレベルの人間が混在しているこの世では、起こることも仕方ないとも言えます。ですから、起きてしまったことに対しては目をつぶることなく、二度と同じ過ちを繰り返さないよう、誰もがよく考え、自分なりに消化する必要があるのです。
よく、ある種の考えを持った人が集まってグループをつくり、社会から自分たちを隔離して、集団生活をしているようですが、私はこの世に生まれてきた以上、そういう生き方が正しいとは思えません。たとえ、背を向けたくなるような社会であっても、そういう社会を作った責任の一端は自分にもあり、そこにはきっと自分の心の成長に必要な、悩むべき課題があると思うのです。
長くても100年くらいの人生、好むと好まざるとにかかわらず、自分が触れることになった現象は無駄にせず、できる限り自分の栄養にし、心を成長させて、霊界に帰って行きたいものです。