りゅうじんの独断と偏見の人生哲学
(霊性の目覚め編)

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あの世に持って行けないもの2023.5.7NEW
私の人生を変えた本
2020.5.9
地上世界の条件
2017.11.27
救われたくない人2017.6.23
知り合いの本を読んで32014.2.3
知り合いの本を読んで22014.2.3
知り合いの本を読んで2014.2.3
経験の意味2013.11.21
唯一の存在2013.4.2
人間は中間的存在なのではないか2013.3.5
人間は自然の一部である2013.3.5
意識の成り立ち2013.2.27
人は成長の過程を楽しむ生き物2010.8.17
肉体に宿る意味2010.6.25
反省と修正が成長への道2008.4.14
自分で自分の首を絞めている人間2005.2.28
殺さない、殺させない2004.5.10
人間の類魂2002.10.24
個と全体2002.10.18
全ては神の中にある2002.5.9
想像することの力2002.5.3
3次元空間の中で2001.11.7
幽霊2001.4.11
人間の視点2000.11.15
霊界の階層2000.11.4
人間の分類2000.11.2
人間のレベルは何によって決まるか2000.8.27

霊と物質2000.4.25
霊的存在としての自分2000.4.22
知識をどう生かすか2000.3.18
物質的満足と精神的成長2000.3.12
唯物論者と唯心論者の関係2000.3.4
人間にできること2000.1.4
崖に向かって歩む人1999.12.26
唯物論者は期待の星
2種類の人間
宇宙とバクテリア

 

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あの世に持って行けないもの

死んだ後、あの世があると思うか思わないか。これはこの世の生き方を大きく左右すると思う。

この世限りだと思うなら、金持ちになって贅沢に暮らし、社会的地位を得て人の上に立ち、名誉の一つも手に入れれば自他ともに認める成功者かもしれない。

しかし、あの世があった場合、金、地位、名誉はあの世に持って行けない。あの世に行けるのは魂だけで、あの世ではその大きさ、美しさしか意味がない。

そして、そういうこの世でしか価値のないものを得るために他人を踏み台にしたり、傷つけたりしていれば、それ相応の結果を受け取ることになるだろう。

何を信じるかは自由だが、もしあの世があってもあまり後悔しないような生き方をしておいた方が、自分のためなのではないか。

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私の人生を変えた本

Facebookのお友達から、『7日間ブックカバーチャレンジ』のバトン受け取りの打診がありましたが、規定に沿おうとすると悩みそうだったのでお断りさせていただきました。

でも、この機会に、私の人生に大きな影響を与えてくれた本をご紹介させていただこうと思います。

30歳過ぎまでガチガチの唯物論者だった私は、自分はこの世限りで消えてなくなると信じて疑わない傍ら、そのことに幼稚園の頃から苦しんでいました。そんなある日、書店で見つけたのが、新興宗教GLAの開祖、高橋信次氏の『心の原点』(現在は新装改訂版が出版されています)。

心の原点

人は、この世限りのものではなく、肉体が死んでも魂は生き続ける。肉体は魂がこの世を生きるための船であり、人生は、心の修行のためにある。死後、この世の地位、名誉、お金などはあの世には持って行けず、魂のみが霊界に行き、それぞれの心のレベルに合った世界で生きることになる。

衝撃でした。私のものの考え方は180度変わりました。高橋信次さんはその時すでに亡くなられていましたが、出されていた本は全て読みました。

そして、私に霊界の存在を確信させたのがその後読んだ『シルバーバーチの霊訓』です(現在は新装版が出ています)。

シルバーバーチの霊訓

第二次世界大戦の頃、イギリスで行われていた交霊会の参加者が、その様子を一冊ずつ綴ったシリーズ。シルバーバーチは、昔、アメリカ先住民だった人で、参加者の一人が霊媒となってシルバーバーチの言葉を伝えます。その真摯な態度、言葉の説得力、神の位置づけ、すべてが納得のいくものでした。

もちろん、その後私が書いた『お金のいらない国』も、こういったスピリチュアリズムの考え方がベースになっています。

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地上世界の条件

この地上世界では、人は個々の肉体に宿り、生きている。肉体は、呼吸したり、水や栄養分の補給などをしなければ維持できず、維持できる時間的限界もある。

また、この世界に存在する『時間』は戻せず、一度したことは過去に帰ってやり直すことはできない。

その条件の中で、人は個人として、或いは社会の一員として、考えながら生きる。

本来、与えられた条件の中では、他人を殺すこともできるし、自分が死ぬこともできる。たくさんの異性と交わることもできるし、子供を作ることもできる。

それがいいか悪いかは個人の考えや、社会の流れの中で決まるのであり、物理的には可能という条件を与えられている。

また、そこにはもともと何の制約も決まりもなく、現存するいかなる制度も、人間が考え、作り出したものに過ぎない。

実際、他人を殺したり、自殺したりする人も結構いるし、戦争になれば、殺し合いは公に認められる。男女関係に対する意識、制度なども、時代や国によって変わる。

個人的には、たしかに、人を殺すことはよくないと思う。戦争でたくさん人が死ねば、間違ったことをしたと後悔するのがまともな人間だと思う。

ただ、人が作った概念や制度ありきで物事を判断すると、人間は自分で自分の首を絞めることになると思う。そこは常に柔軟な発想を持たないと、進歩はないと思う。

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救われたくない人

人の究極の苦しみは『死』である。しかしそれは、肉体の死とともに自分の意識も消えてなくなると考えていることに起因している。

もちろん、自分の肉体が死ねば、この世での肉体的な楽しみなどは得られなくなる。また、現生の人と関わることはできなくなるし、少なくともこの世の人から自分を認識してはもらえなくなる。

でも、私が今までに知り、考えるところでは、肉体が死んでも、意識、魂は消えるものではない。肉体はなくなっても、自分は別の状態で生き続けるということだ。

意識が消えさえしなければよく、肉体が死んでも意識は残ると考えられるなら、『死』の苦しみからは大きく脱することができる。それが『救い』だと思う。

実際には死んでみなければわからない部分はあるが、『死』の苦しみを軽減したいのであれば、人は死んでも意識はなくならないかもしれないという観点から、自分で情報収集するなり、納得がいくまで考え尽くせばいいのだ。

そういった努力もせずに、ただ、自分は死んだらすべて消えてなくなると思い込み、やみくもに『死』を恐れる、あるいは死んでもかまわないと開き直る人は、結局自分で救いを拒んでいるのだと思う。

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知り合いの本を読んで

すべては一つなのだ。すべては神(仮名)なのだ。自分も神であり、他人も神なのだ。

神をあがめると、神と分離していくことになる。誰かをあがめても、自分が神と分離していくことになる。すべては神であり、すべては自分なのだから。必要なのは、分離でなく、統合なのだ。

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知り合いの本を読んで

自分は存在しているだけでよいのだ。幸せはすでにそこにある。こうなりたい、何かがこうなってほしいと思うのはエゴである。どう思おうと、何をしようと自由ではあるが、何かが叶わなければ幸せでない、満足できないと考えるのはそれこそが不幸である。

今を味わうのだ。今を楽しむのだ。すべては今で、今しかないのだ。過去や未来は、この世だけの幻想である。過去や未来を思い煩う必要はないし、未来に期待することもない。

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知り合いの本を読んで

知り合いが書いた、手づくりの本を読んで思ったこと。

もともとは一つの意識であった。意識は、自分のことを知りたくなった。そして宇宙を作り、星を作り、人間を作り、すべての動植物、その他を作った。意識は無数に分かれてそのすべてに宿った。そして、それぞれの意識が何を考え、どういう行動を起こすかを観察した。自分を知るためにはそうすることが必要だった。

それは、例えればウニのような概念だ。元はひとつであり、その1本1本のトゲが人間や動植物などである。人間はトゲをどんどん伸ばし、元からどんどん離れて行った。元ではつながっており、一つであることを忘れたトゲ同士は争った。

この先、人はさらに元と離れ、他と争おうとするのか、それとも一つであることを思い出し、他と認めあうようになれるのか。

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経験の意味

もともと霊的存在である人間が、この宇宙の3次元空間に生まれてくる目的の一つは、自分を成長させるためである。そこには時間が存在し、それによって過去、未来といった概念がある。地球上で人は長くても100年足らずの時を過ごす間に、さまざまな経験をする。そして、そこで何を考え、どう行動するか、そこから何を得たかによって魂の成長度合いは変わる。

この世で生きる間、人がものを考える時は肉体の脳に頼らざるを得ない。脳味噌は物質だから、その性能には限界がある。だからこの世にいる間、記憶は薄くなったり、忘れたりする。しかし、その経験の記録は霊界にはすべて残っているから、肉体を離れればすべての経験は当時のまま実感することができる。

過去というものは本来なく、すべての経験から得たものが積み重なって、自分は存在しているということだ。どのような経験かによらず、その経験のうちの一つでもなかったら、今と全く同じ自分は存在していないだろう。

過去がないということは、未来もなく、すべては今である。本来の住処である霊界では、あるがままの自分の魂が今存在しているということ以外にない。3次元で経験をしてまた何かを学びたいと思えば、何度でもこの世に生まれてくる道を選ぶだろう。

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唯一の存在

意識だけがあった。私は存在を確認したくなった。3次元の空間として宇宙が出現した。円運動によってたくさんの星が生まれた。星たちはお互いに影響し合い、バランスを保った。私の意識は分散し、あらゆるものに宿って、さまざまな体験を始めた。とりわけ、後に銀河系と呼ばれる2000億個の恒星の一つ、太陽の惑星である地球には無数の生物などが生まれ、私はそのすべてに宿った。

物質の世界には時間が存在した。あらゆる物質は時間とともに形を変え、新たに生まれ変わった。私はその都度、そこに宿ったり、離れたりを繰り返して、無数の体験をした。光だけでなく、闇も存在する世界で双方を体験した。すべての現象は原因による正確な結果が生まれていった。

体験は、時間の存在する3次元では過ぎ去っていくように感じるが、そこを離れれば常に存在している。朽ちていく物質ではなく、時間も存在しない世界では、色あせることも、忘れることもなく、ありのままの事実としてすべてが存在している。それが私の存在する証である。

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人間は中間的な存在なのではないか

中間的存在私たちの住んでいる地球は太陽系の惑星の一つであり、太陽は銀河系の2000億個もある恒星の一つである。銀河もたくさん存在していて、その集合体がまたたくさん存在するというように、無限に続いているのかもしれない。

また、人間の体は60兆個もの細胞でできている。細胞は分子、原子とどんどん細かくしていくこともできる。そう考えると、私たちは物質の集合体の途中段階である肉体に宿り、自分と認識しているだけなのかもしれない。

霊的に見ても個人は類魂の一側面であり、現在の自分だけで独立しているわけではない。そして類魂も、霊団という形で、何段階もの集合体があるようだ。

また、これは私の仮説だが、自分の意識というのも、脈々と続いているものを自分という段階で表現しているだけと言えるかもしれない。

結局、物質的にも、霊的、精神的にも人間は、その連鎖している集合体の中間的段階なのではないだろうか。だから、いろんな意味で自分は独立した存在ではなく、あらゆるものとつながっていると考えることができ、究極は神なのかもしれない。

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人間は自然の一部である

人間は自立しているように見えるが、肉体だけを考えても紛れもなく自然の一部である。

人間は空気を吸い、酸素を体に取り入れて二酸化炭素を排出する。たとえ数分でもそれができなければ、生きてはいけない。

人間の体は約60%が水であり、水がなければ生きていけない。

人間は食べ物を口に入れ、体内を通過させることによって栄養分を吸収し、残骸を排出する。何も食べなければ普通の人は生きていけない。食べなくて済む人も稀にいるようだが、そういう人は空中から、あるいは太陽光などを利用して栄養を摂取しているのだろうから、より自然と一体であると言えるかもしれない。

だから、汚れた空気や水、体に害のある食べ物は人間の体に致命的な影響を与える。少なくとも人間が自らの手でこれらの貴重な命の源を汚すのは狂気の沙汰である。

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意識の成り立ち

意識の成り立ち複数の本などを読んで得た知識によりますと、人間の意識は3層構造になっているようです。

図は、私の解釈が加わっていますが、個人として自覚し、発現している意識が表面意識。人は、普段はこの意識によってものを考え、行動を決めています。

自分では意識していない、あるいは意識できないが、自分の思考や感情に大きく影響しているのが潜在意識。今生の経験や記憶に限らず、前世や悠久の過去から形成されてきたものです。そしてこれが良くも悪くも表面意識に多大な影響を与え、考えや行動を左右しているようです。

そしていちばん深いところで繋がっているのが神とも言える宇宙意識。これは万人に共通している意識であり、宇宙形成以前から存在していた、大いなる唯一の意識と言えます。

宇宙意識は完全無欠。人は本来、完全なる神であったのですが、さまざまな経験がしてみたくて、宇宙を作り、肉体を作り、そこに宿るというゲームを始めたのだと言っている人もいました。確かにそうなのではないかと思います。

人は現世ではとりあえず100年足らずを生きるにあたり、表面意識にとらわれず、潜在意識の影響を受けながらも、それを必要なら修正し、克服し、神である宇宙意識につながるような思考によって行動を起こしていくべきなのではないでしょうか。

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人は成長の過程を楽しむ生き物

時間の流れという観念のあるこの世では、何にしてもいきなり結果を得ることはできず、そのための努力や時間を必要とする。その過程の中で、人は楽しんだり苦しんだりしながら成長する生き物だと思う。

生まれてくれば子供のうちは体の成長をうれしく思う。年をとれば肉体は老化し、死ぬことはわかっているが、そういったある種の矛盾を抱えながらも、大人になっても人は時が過ぎることに何らかの喜びを感じている。

たくさんの本を読んだり、勉強するのも、本来は人として成長したいからであろうが、それも時間をかけ、それなりの過程を経なければ知識などを得ることはできない。

芸術やスポーツ、あるいは習い事などをすれば技術の向上を目指し、日々努力する。どんな道でも極めることは難しいし、また、極めるなどということはないのかもしれないが、やりたいという気持ちが継続でき、それなりの才能があれば、人は無限の可能性を求めて行くだろう。

結果ばかり求めて、その過程が楽しめなければ、人生はつまらないと思うし、結果だけを得ることができないのが人生だとすれば、その過程で努力したり、楽しむことは非常に大切なことだと思う。

少なくともこの世では、その過程を楽しみながら何らかの努力をし、人間としての成長を遂げてあの世に帰るのが、人がこの世に生まれてきた意味なのではないだろうか。

そして、あの世に帰っても、形は変わるかもしれないが、永遠の成長を目指し、人は常にその過程の中にあるのだと思う。

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肉体に宿る意味

人の正体は永遠不滅の魂。私たちは現在、この地球に来て、100年足らずの間、肉体に宿っている。

何のために来たのか。それは、自分自身の心の成長と、よりよい社会、世界の創造のためであろう。

肉体を持ったことにより、私たちはこの3次元の世界で、見ること、聞くこと、話すこと、食べることなどができる。それは肉体に宿る前よりある意味不自由ではあるが、この次元ならではの楽しみも味わえるというものだ。

楽しめることは存分に楽しめばいい。楽しいからといってそれに溺れれば身を持ち崩すが、足ることを知れば、適度に楽しむことを覚えるであろう。

また、肉体を持ったことによって味わう苦痛というのも、今しか味わえない貴重なものである。人為的な余計な苦痛は味わう必要も味わわせる必要もないであろうが、肉体的苦痛、不自由を感じることができるのも、肉体に宿っている間だけのことである。

肉体から離れてしまえば、肉体に宿っていた時のことを懐かしく思い出すのではないか。し足りなかったことを悔み、また肉体に宿りたいと思うかもしれない。

今、肉体に宿っていることによって得られるこの短い間の経験は、永遠の魂にとって、とても貴重なものであろう。

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反省と修正が成長への道

人間はみな未熟です。未熟だからこそ、この世に生まれてきているのです。

未熟だから失敗もします。人に迷惑をかけることもあるでしょう。そこまでは誰でも同じです。そして、違いが出るのはその先です。

失敗したら、あるいは人に迷惑をかけたことがわかったら、その事実を素直に認め、反省することができるか。そして、反省した上で、適切な対処と、その後の自分の心、行いの修正ができるか。それができるかできないかが、その人が人間として成長するかしないかの分かれ目になると思います。

自分は悪くない。相手が悪い。誤解だ。もちろん、誤解されている場合もあるでしょう。しかし、誤解だったにしても自分が誤解されるようなことに関わったのは事実なのです。そして、私の経験から考えますと、そういう言い訳をする人ほど、自己防衛と、自分だけの価値観、思い込みで事実を認めようとしないことが多いようです。

火の無いところに煙は立たぬ。例えば自分にとっては寝耳に水のような話でも、そういう話が持ち上がったのにはなんらかの理由があるはず。すべては冷静に受けとめ、私情を挟まずに事実を分析し、反省すべきところは反省して、その後の態度、行動にあらわすこと。それができる人は、誤解であったなら誤解も解け、自分も成長し、その後の人間関係も良好になっていくのではないでしょうか。

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自分で自分の首を絞めている人間

人類は、水が豊富で、絶妙な成分バランスの空気があり、海の幸、山の幸、さまざまな資源に恵まれた地球に生まれてきました。人間が生きていく上で、完璧な条件が整っている星と言えます。

初めは、国境もお金も存在しませんでした。土地は誰のものでもなく、貧富の差も、身分の上下もありませんでした。しかし人間は、社会を作り、制度を作り、お金を貯め込み、所有という概念を生み、権力の奪い合いをはじめました。本来、地球の資源であり、借りているだけのものを、人間は自分のものと勘違いし、奪い合い、お互いを傷つけ合い、殺し合うようになりました。

現在でも人間は、所有すること、人の上に立つことを生きる目的のように考え、お金を得るために必要の無い仕事を作り出し、自分たちの作った制度に縛られて苦しんでいます。固定観念や悪習を当然のもののように考え、人間本来の自由な生き方を見失っています。

また、そういった不自然な社会に順応できる、ある意味強い、言い換えれば無神経な人間が良しとされ、繊細な人間は病気になったり、淘汰されて当然のような風潮になっています。

人間の苦しみは、その大部分が、人間自らが作り出したものです。金の奪い合い、権力闘争、さまざまな差別。それらは人間のエゴイズムが生んだものであり、生まれながらにして与えられたものではありません。そして、本来無かったものなら、無くすことができるはずです。人間は今こそ、真の自由に目覚め、既成概念を打ち破り、理想社会を目指す時が来ているのではないでしょうか。

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殺さない、殺させない

人間は、この世に生まれ、さまざまな経験をし、いずれ死んでいきます。肉体は永遠のものではなく、誰ひとりとして死を免れることはできません。本来は霊である人間ですから、死んだからといって消えて無くなるわけではありませんが、であるからこそ、この世に生を受けた以上は、神の定めた寿命の尽きるまで生きることが人間の使命であると私は考えます。

ですから、人間の都合や身勝手な判断で、自分や他人の死期を左右することは真理に反していると思います。あらゆる場面に於いて、人は人を殺すべきではなく、誰かが誰かを殺すことになるような状況も作ってはならないでしょう。自分が殺さないと同時に、他人にも殺させてはならないのです。

例外があるとすれば、自分の犠牲により、他の人命が救われるような場合でしょうか。しかしそれも、そうなるに至った原因を考慮しなければいけないし、本当にそこまですべきだったかどうかの判断も微妙だと思いますから、単なる美談で済ませていいものかどうかは難しいところです。

暴漢に襲われた場合などの正当防衛は致し方ない場合もあるかとは思いますが、そもそも暴漢がいること自体が問題なわけだし、別の犯罪が新たな殺人を生むような悲劇的な連鎖は、元から断つよう社会のあり方から考えねばならないと思います。

人間にとって、最優先させるべきは全ての人命を守ることです。例えば誰かが危機に瀕しているような場合、その人がどういう人間であるか、なぜそうなったのかは別として、まず命を救おうとすることが最も重要です。その大前提を揺るがすと、判断の拠り所が無くなり、多くの混乱を招きます。

戦争に正当な理由など決してつきません。敵にしろ味方にしろ、人が一人でも死んだ時点で、戦争を始めた人間は取り返しがつかないほどの重大な罪を犯したことになります。国家や権力が、真理に逆らうことはできません。人間の都合で生み出された勝手な理屈など、神の法の下には微塵の価値もありません。

少し話は変わりますが、病気などの場合は、やみくもに延命を試みることが正しいわけではありません。死は、先延ばしにすることはできても、免れることはできません。自然の流れに逆らった延命は、当人にとっても苦痛でしかないかもしれません。この場合は、肉体の死が生命の終わりではないことを認識すべきでしょう。

また、仮に肉体が永遠のものになったら、この世は肉体を持った人間で溢れかえってしまい、存続不可能になります。死は必要であり、受け入れざるを得ないもの。死する者との今生での別れは、残された者にとって寂しくはありますが、死は、死者のあの世への帰還に他ならず、本来、悲しむべきものではありません。

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人間の類魂

人間にも類魂と呼ばれるものがあります。ただそれは、一種族でひとつという動物たちの類魂とは違って、霊的に関係の深い人間の魂たちで構成されるグループです。類魂の中の誰かが地上に生まれ出ると、グループの霊たちはさまざまな形で力になろうとします。

でも、霊界とこの世が相通ずるのはなかなか困難です。地上に生まれ出ると霊界での記憶は心の奥底にしまわれてしまい、自分を援助しようとする霊たちの存在に気づきません。また、地上での取り越し苦労などで心を閉ざしていると、霊界からも手の出しようがないようです。

地上での心のあり方が霊界と通ずる道を作るようです。自然体で真理に叶った生き方をすることにより、霊界からの援助も受けやすくなって、身も心も健康に、有意義な人生を送れるようになるのではないでしょうか。これは信仰心のありなしではなく、あくまでもその人の生き方、行動が問題になると私は思います。

また、自分自身も霊界に帰ると、この世に顕現している自分だけではありません。この世の自分とは、実は自分の一側面に過ぎず、霊界にはたくさんの側面を持った大元の自分が存在するようです。ダイヤモンドのカットした面にも例えられますが、現在自分だと思っている自分だけが自分のすべてではないということですね。

この世に顕現した自分も含めて、霊界に存在する、自分のあらゆる側面の集合体としての自分は、この世での経験をそのまま共有し、成長します。次に再生する場合はまた別の側面が生まれてくるので、全く同じ今の自分が再生するわけではないようです。

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個と全体

生物学的に見ますと、人間は動物の一種です。しかし、霊的に見ますと、人間とそれ以外の動物には、大きな違いがあるようです。その違いとは何か。これは私が考えたことではないので、受け売りになりますが、人間とその他の動物は、霊としての存在の仕方が違うようです。

人間の霊は、個として存在しています。一人一人が独立した霊。その他の動物はこの世にいる間は個体として存在しますが、霊界に帰って暫くすると、その種族でひとつの、類魂という霊の中に帰っていくようです。人間以外は、動物も、魚も、虫などもみな類魂として存在しているようです。

魚は群を作り、示し合わせたように統制を保って泳ぎます。ある種の虫は、共同で見事な幾何学的な巣を作ります。なぜそんなことが可能なのか、実に不思議ですが、私は、魚や虫などは、この世でも、全体でひとつという意識が強く働いているのではないかと思います。

人間は一人でも、共同でも、物を作りますが、人間はある種の虫のようにいつでも同じものを作るわけではなく、工夫を凝らしていろいろなものを創造することができます。それは、人間は他の生き物たちとは違った特別な存在で、人間のみが創造力を与えられている、神の分身であるからだと考えられます。

個霊として存在している人間ですが、人間は、個であると同時に、全体としての意識も持たなくてはいけないと思います。人間は、魚や虫、他の動物よりも魂が進化しているのですから、他の生物の持っているものを人間がなくしてしまっていいわけではありません。人間の場合は、個であると同時に全体であるわけです。ですから、自分の個性を生かしつつ、社会にも貢献出来るよう努め、地球を支配している万物の霊長であるという自覚と責任感を持つことが大切だと思います。

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全ては神の中にある

はじめは神の意思だけがあった。

神の意思により、小さな小さな一点が大爆発、ビッグバンが起き、一瞬にして無限の宇宙が生まれた。地球上にはやがて生命が誕生し、大分経ってから人間が生まれた。現在ではこの世には数え切れないほどの生命が存在しているが、元はと言えば、小さな小さな一点の中に全ては包括されていたのだ。

ということは、この世の全ては神の元にひとつにつながっているということだ。そして、全てに神が宿っていることになる。だから、神は全てを知っている。全てを見ている。ひとりひとりの人間の考えていることは勿論、小さな虫や細菌の動きまで全てわかっているのだ。

神は完全なる法則である。人間が、思考や行動によって作った原因からは、何の矛盾もない、何の不平等もない、何の例外もない完全な因果律によって、微塵の狂いもない正確な結果が導かれる。それは目先の現象では判断できない、人間の頭では理解できない、永遠の時を越えないとわからないこともあるかもしれないが、一寸の疑う余地もない、絶対的な完全なる法則である。

全てに神が宿っている以上、全ての人の心の奥底には、神の意思がある。人間はこの世で疑問を抱え、悩み、苦しんで生きるが、実は自分の心の奥底にある神の意思に触れることができれば、偉大なる答えが得られるのだ。人間に神の全てを理解することは不可能だが、あらゆる思い込みを無くし、我欲を捨て、無理なく自然体で自分の心と向き合うことにより、内在する神の英知に触れることができるのだ。

神に忘れ去られる人などひとりもいない。見捨てられる人などひとりもいない。この世に必要のない人などひとりもいない。神は常に私たちを、誰ひとり差別することなく平等に見守っている。だから嘆くことはないのだ。悲しむことはないのだ。自分は神の中に存在しているのだから、何も苦しむことはないのだ。それに気づいた人にはやすらぎが訪れる。それが救いであると思う。

全てが神で、ひとつである以上、全てを救うのが神の意思だ。救われたものは幸せを実感する。他の犠牲によって成り立つような、一部の幸福はあり得ない。地球上の全ての人間、全ての生物が真の幸福を実感できた時、初めてそこにユートピアが生まれるだろう。

そういった世界を実現に近づけるためには、自分はこの世で何を考え、何を為すべきなのか。人間が、自分に内在する神の英知に基づいて行動を起こせたなら、どんな些細なことでも、人類に、社会に、全てに貢献したことになるかもしれない。

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想像することの力

ジョン・レノンの「イマジン(Imagine)」を聴いて考えました。

私は、想像とは全てを生み出すエネルギーであると思います。想像こそが創造につながるのではないでしょうか。この世もあの世も、神の想像によって生まれたと言えるかもしれません。

例えばこの世で何か「もの」を作る場合、まず、そのもののイメージを思い浮かべます。機能、素材、形や色など、いろいろと想像を巡らせ、何らかの設計図を作ってから具体的に物質を用いて、イメージした「もの」を作り上げます。この世では「もの」を形にするには作る時間が必要ですが、本質的には想像した時点でできていると考えることもできます。

あの世は意識の世界ですから、想像したものを形にしようとした瞬間に「もの」ができるようです。「もの」という定義をこの世的に考えると不思議な感じがしますが、あの世の「もの」は、この世の「もの」のように、時間と共に崩れ去る物質でできているわけではありませんから、より存在としてはっきりと感じられるようです。

絵でも音楽でも、はじめに想像無くしては何も生まれませんが、想像で生み出されるのは「もの」ばかりではありません。社会にしても、さまざまな想像を実現しようとすることによって、良くも悪くもなっていくのではないでしょうか。平和な世界をつくるのも、戦争の世界にしてしまうのも、想像次第の気がします。

この世でどういった社会を理想と考えるかは人それぞれかもしれませんが、自分の理想の社会が想像できたら、「もの」を作る時と同じように実現に向けて努力することが大切でしょう。いきなり全体を変えることはできませんし、自分一人の社会ではないのですから無理することも焦ることもありませんが、その理想に向かって、身近な、自分にできそうなことから行動を起こしていく必要があると思います。

そして、この世を去った後、あの世では、自分の想像によって作り出した世界で住むことになるのではないでしょうか。そこを天国にするのも地獄にするのも、自分次第ということになりそうです。

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3次元空間の中で

この世は、縦、横、高さの3次元の世界です。そこに一方向にだけ流れる「時間」という要素が加わり、その中で私たちは生活しています。図のAとA'、BとB'はそれぞれ同じ空間ですが、時間と共に中で変化が起きていることを表しています。物は、物理的法則により移動、変化する。命あるものは生長し、いずれ衰え、朽ちる。

AとA'の場合、コップを落とすと割れるというのは物理的な法則の中で起きます。Aの時点で物体にどういう力を加えるかで、A'まで時間が流れる間に起こる現象を決めることができるわけです。落として割ることも、きれいに磨くことも、水を飲むのに使うこともできます。自分がどういう意思を持ち、どういう行動を起こすかで、結果は大きく変わってきます。

BとB'の場合、生き物が生長するということは、物理的な力とは別の何らかのエネルギーが存在していると考えられます。外部から与えられる力によってではなく自らが大きくなり、変化する。ということは3次元の物理的な法則だけでは説明がつかない。4次元以上の世界が存在し、生命はそこと関わりのあるものではないかと考えるのが自然なのではないでしょうか。

そうなりますと、この世は、4次元以上の世界に通じた生命が、物理的法則に則った3次元の世界の中で生きていることになります。原因を作ればそれ相応の結果を生み、また、時間は戻せませんから、仮に失敗した場合でも、ものによって修復は可能だとしても、なかったことには出来ません。私たちはこういう3次元の世界に生まれ、何を学ばなくてはならないのでしょう。

人間は肉体という物質に宿り、予め用意された環境の中で、周囲のいろいろな物質を利用しながら生きるようにできています。そしてその資源は豊富に見えても限りがあり、いい気になって使っていればいずれはなくなってしまうものです。だとすればそれを失わないように循環させ、快適な空間を保ち続けるよう暮らしていくことを考えねばならないわけです。

また、地上にはさまざまな生物が暮らしており、微妙な生態系を保っています。人間はそのバランスを崩すことなく、他の動植物と関わる必要があります。動植物は人間が生きるための食料にすることも、愛情を傾けることもできます。無意味な殺戮や破壊はそのバランスを崩し、人間の生きていく環境も失わせるわけです。

人間はこの3次元空間において、必要以上の欲や自分勝手な行動が、自らの生命も他の生物も地球自体も破壊することを学ばなければならないでしょう。食料や資源は無駄にせず、戦争や無意味な破壊は避け、すべてに思いやりを持つこと。誤った行動に気づいた時には深く反省し、二度と同じ過ちを繰り返さないようにすることが大切だと思います。

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幽霊

本来あの世にいるはずの霊が、この世に姿を現すことがあります。自分が死んだことに気づいていなかったり、この世に執着を持っていたり、何らかの目的があってこの世に戻ってきたりするようです。

この世の多くの人は、そういった霊を「幽霊」と呼んで怖がります。でも、霊も生きている人間と同じで、良い霊も悪い霊もいるわけですから、霊だからというだけで恐れる必要はありません。

確かに恨みなどを抱えて死んだ霊はこの世に悪影響を及ぼすことがあるようですが、そういった霊が影響を与えられるのは自分と同じような気持ちでいる人間だけのようで、人間の方が同調せず、しっかりしていれば害はないと思われます。

この世には、霊の姿が見えたり、声が聞こえたり、霊と意志疎通できる人がいます。そういう人にとっては、あの世の霊もこの世の人間と同じように身近な存在であり、霊との関わりは日常茶飯事で、とりたてて驚くようなことではないようです。

幸か不幸か、私には今のところそういった能力は全くありません。霊からの影響は良くも悪くも受けているでしょうが、全く意識の外です。霊を認識できる、或いは霊と関われる能力は必要な人には備わるでしょうし、そういう人はそれなりの役目のある人だと思いますから、興味本位にそういった能力を求めるべきではないでしょう。

人間は本来が霊であり、この世にいる間、肉体をまとっているだけなのですから、あの世にいようとこの世にいようと、霊であることに変わりはありません。普通は肉体を失ったことを自覚すれば、自分が帰るべき霊界に行くでしょうから、死んだ後いつまでもこの世に残っている霊の多くは迷える霊と言えるとは思いますが、それだけで嫌ったり、恐れたりするのは筋違いということになると思います。

私は迷える霊と直接関わることはできませんが、そういう霊には、既にこの世に肉体はないこと、行くべき世界があることを理解させる必要があるようです。また、やみくもに同情したり、面白半分でそういった霊と関わることは慎まねばなりません。この世の人間と関わるときと同じく、愛をもって接し、思いやることは必要ですが、過ぎた干渉は避けるべきと思います。

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人間の視点

私たちは普段、常に自分の目の高さからものを見ています。高いところに上ると日常と違った視界が開け、遠くが見えて新鮮な気分になったりしますが、普段はなかなかそういった気分転換はできずに、目の前のものが全てで暮らしています。考え方も同じように、人間は自分の都合や理屈や癖に常に縛られています。それがその人の個性であり、人間臭さでもあるわけですが、たまには思い切って遠くから自分や人間たちを見つめ、考えを巡らしてみるのも意味のあることだと思います。こういう考え方をすること自体が私の個性なんでしょうけど。

常に自分ありきで物事を考えていると、自分の視点からしか判断することができません。その出来事は自分にどういう影響を与えるか、自分はどう感じるか、それによって自分は損をするのか得をするのか。喜んでばかりいられるならいいかもしれませんが、自分中心の主観的な判断になるため、苦しみや怒りにとらわれると、つらさはどんどん増幅していきます。なんでこんな目に遭ってしまったんだ。なんで思うようにならないんだ。こんなはずじゃなかった。もうだめだ。恨んでやる。なんて思っているだけでは問題は解決の方向には向かいません。

宇宙から地球を見てみましょう。そこには青い星があるだけで、人間など目に入りません。ほとんどは水である上、陸地では世界一高い山でも、地球全体から見たらミカンのでこぼこくらいのものです。その星の上で何が起こっていようと、宇宙の存在には影響がありません。誰が悲しんでいようと、苦しんでいようと、喜んでいようと、見た目には何の変化もありません。地球という星の上で、わずかな時間肉体に宿って生きているだけの人間が、そんなにつらい思いをしているなんてとても不思議なことです。

人間以外の動物や植物たちは多分、人間ほど苦しんではいないでしょう。自然のままに生まれ、生かされることを素直に受け入れています。弱肉強食は厳しい自然の掟ですが、他を生かすためには必要なこと。自然の摂理には従うしかありませんし、動物たちはそれを体でわかっているのでしょう。もしこの世に人間が生まれていなかったら、地球は見事な大自然を永遠に保てたでしょう。人間以外の動物たちは爆弾を落とすことも環境を破壊することもありませんから。

なぜ、人間だけが苦しむのか。自分たちを食料にする天敵もいず、資源にあふれ、美しく、環境の整った地球上で自由に生きることを許されている人間が、なぜつらい、死ぬような思いで生きているのか。それは人間自らが苦しみを作り出しているからでしょう。欲やわがままや自分勝手な感情が満たされないから、或いは自分がなぜ生まれてきたのかを知らないから苦しむのです。ひどい目に遭った。思うようにならない。この先どうなってしまうのだろう。将来が不安だ。自分は不幸だ。取り越し苦労や過剰な期待が自分を苦しめます。苦しみを克服することによって成長するのが人間なら、苦しむのも意味のあることでしょう。しかし、苦しみにとらわれ、思い込み、絶望し、投げやりになり、やけを起こすだけでは苦しむ意味もありません。

私は、人間は生きているだけで十分価値があると思います。頑張ったり、努力したり、役に立ったり、誉められたりしなくても、存在していること自体に意義があると思うのです。あまり自分や人に期待せず、むち打たず、今ここに存在していられることを喜んで、気楽に生きるようにした方が、自分の幸せ、人類の幸せにつながると思います。何にも心配はいりません。焦る必要はありません。人生は一度きりではありません。やり直しはいくらだってききます。誰だってすばらしい存在です。ひとりも忘れ去られることはありません。ひとりも見捨てられる人はいません。

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霊界の階層

霊界に階層があるのはおかしいという意見をよく聞きます。人間は本来、平等だと言っておきながら、心の世界である霊界で上下の差がつくというのは理屈に合わないではないかということです。たしかに、霊界の階層が、この人間社会の組織のように、「ピラミッド型」に地位を分けることによって管理されていると考えると不自然ですね。この世の宗教団体でも、組織を作ってピラミッド型の地位を定め、それから堕落していくところが多いようです。出世欲が芽生えると、霊的な意識も下降線を辿るということでしょう。

霊界の階層は愛の大きさによって決まるし、それはあくまでも心のありようの問題ですから、私は、図に表すと「同心円型」なのではないかと思います。ピラミッド型のようにそれぞれの階層が上下に分離しているわけではなく、小さいものが大きなものに包まれていると考えます。ですから心の大きな霊は、小さい霊を嫌ったり、責めたり、馬鹿にしたりするようなことは決してなく、常に愛をもって成長を願っていると思います。

他人と同じ経験はできないにしろ、人の苦しみが理解できないということは自分も同じように未熟、或いは苦しみと感じられない分、その人より未熟であるとも言え、その苦しみを包み込むことなど到底不可能だと思います。口先できれいごとを言っていても、悩んでいる人の心を解きほぐし、安心感を与えることなどできないでしょう。私は、同心円の外側に行けば行くほど、ありのままの人間の姿を見据え、自分の好みも、善悪をも越えた理解力と包容力が限りなく広がっている気がします。勿論、すべては許されるから何をしてもよいという意味ではなく、誰一人として神に見捨てられる人間はいないということを考えても、陰の部分を包み込めないような光は本当の光ではないと思うのです。円が大きくなればなるほど包容力が増し、その全体を包む外側が神ということになりましょうか。

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人間の分類

人間のタイプを大きく4つに分類してみました。縦軸は「霊的─世俗的」、横軸は「感覚的─論理的」とすると、4つの部屋ができます。

Aは、生まれ持った能力や性格から素直に霊的なことを受け入れられる人で、感覚的なタイプ。宗教家や、宗教の敬虔な信者など、信仰心の厚い人に代表されます。Bは霊的なことは理解するが、信仰を第一とはせず、理屈で攻めようとするタイプ。ある意味、感覚は信じておらず、常に客観的な見方を保とうとします。Cは、霊的なことはかたくなに信じないタイプ。自分の五感で認識できること、人間の科学が証明した、或いはこれから証明できるであろうこと以外は認めようとしません。現実的とも言えますが、突き詰めると物質しか信じるものがないので、金、地位など世俗的なものを求めがちです。Dは楽しければ良しとするタイプ。いい方に出れば、気楽な人生を楽しめそうですが、欲に任せて遊びほうけると、破滅するタイプです。

勿論、誰もがこの4つのどれかに当てはまるわけではなく、それぞれの中間的な人も多いでしょう。また、破線のように移動して変化することもあります。例えば、宗教家でも欲に目がくらんで堕落した場合はA→D、唯物論者が霊的なことに気づいた私のような場合は、C→Bに移動したことになるでしょう。ただし、これはどのタイプが良いという意味ではなく、あくまでも考え方の分類です。レベルの高低はそれぞれのタイプの中にあるでしょう。

因みにスピリチュアリストはAタイプとBタイプがいるようです。両方を包括できるのが、スピリチュアリズムの許容範囲の広さと言えます。

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人間のレベルは何によって決まるか

霊的なことを語る場合、言葉をどういう意味で使うかが人によって微妙に異なるため、誤解も生みやすいし、意図を正確に伝えるのは非常に難しいと思います。「霊性」という言葉は、「霊性の目覚め」と使うと、霊的真理に関する理解力といったような意味になりますが、私はここでは人間の真価としての「霊性(人間性)」という意味で使いたいと思います。

私は、人間のレベルは、霊性の高さによってのみ決まると思っています。これは決してこの世における差別的な意味ではありません。人間はあくまでも平等であり、永遠という視点から見れば、チャンスも同じように与えられていると思います。しかし、ある時点での成長度としては違いがあります。それは、再生の回数の違いを含め、人生においていかに魂の成長につながる生き方をしたかによってできる差だと思います。

ただ、少なくとも人間には霊性の高さを正確につかむことはできませんし、誰がどう判断しようと、それが正しいという保証はありません。言ってみれば神のみぞ知るということになるでしょう。ですから、安易に人の霊性を判断することは非常に危険だと思います。しかし、魂の成長度には確かに差があり、あの世ではそのレベルによって住む場所が違ってくるようです。

人生でさまざまな知識を得、経験をし、人は生きていきますが、私は知識や経験をいくら積んでも、そこから自分の霊性の向上につながるものを発見できない場合、人間としての成長はないと思います。ですから、人間の真価は知識の多さでも、経験の豊富さでもなく、そこから何を得たかということによってのみ決まると思います。

図は、あくまで私が勝手に考えたもので、正しいという保証はありませんが、霊性(人間性)と、知識、経験の関係を表してみました。a、b、cはそれぞれ人間で、知識と経験の量によって三角形の形が変わっています。そしてその大きさ、形と、霊性の高さは比例しないということを表したものです。

そして、この図で言い添えなくてはいけないのは、霊性は常に上下しているということです。知識、経験は矢印方向に増えていきますが、私は霊性の高さも固定ではないと思います。少ない知識や経験からでも霊性を向上させる人もあるでしょうし、知識ばかり増やしても霊性は下がっていく場合もあるでしょう。知識や経験が多ければ、霊性を向上させるチャンスは増えるとは思いますが、堕落する可能性も多くなるとも言えます。知識や経験は、得ることよりも、そこから何を学ぶかが大切だということです。

また、この世に生まれた時点での霊性も、同じ高さから始まるわけではありません。人はそれまでの何度かの人生の中で培った霊性を持って生まれてくることになりますから、はじめから霊性の高い赤ん坊も生まれるわけです。これで、霊性は年齢にも関係がないということの説明がつきます。また、生い立ち、仕事や役割にも関係がありませんし、金、地位、名誉などと無関係であることは言うまでもありません。

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霊と物質

この世の、形あるものは全ていずれは朽ちていく物質であり、永遠のものはありません。生物の本質は霊であり、肉体となる物質に霊が宿ることによって、生物は存在しています。ですから、生物はあの世にいる間も、この世で肉体に宿っている時も霊であることに変わりはありません。肉体という物質が朽ちれば、生物の霊は肉体から離れ、霊界に帰っていきます。

しかし、多くの人は、自分が霊であることを知らないし、他の霊の存在にも気づかずにいます。それは、霊そのものは五感では感知できないからです。肉眼ではその肉体が見えるだけなので、人間は肉体があってはじめて存在できるものと思い込みがちです。心は肉体に付属したもの、意識も自分の死と共になくなると思っているのが現代の多くの人でしょう。自分が霊的存在であると気づくことは、それ以後の人生をやすらぎを持って、有意義に送るために、非常に大切なことです。

人間は皆、霊からいろいろな影響を受けて生きています。自分では意識できなくても、自分の心の状態、波長に合った霊と通じているのです。良い想念を抱いても、良くない想念を抱いても、それ相応のレベルの霊が集まってきます。ですから、霊からあまり良くない影響を受けて問題が起きたとしてもそれは自分の責任であり、自分の心を正さない限り、何も解決しないということになります。

霊である人間がこの世に生まれてくる第一の目的は、さまざまな経験を通して魂を成長させるためです。この世での経験は何一つ無駄なものはなく、そこでの自分の行いは、良くも悪くも魂に影響を与えます。苦しみこそ魂にとっては必要なもので、それを乗り越えたときに魂は成長します。あまり歓迎したくない体験も、悲しい出来事も、自分の成長に必要なものなのだと割り切り、前向きに受け止めて行くべきでしょう。

この世を生きていく上で、多くの人たちは物質的なことのみに振り回され、霊的なことをおろそかにしています。食欲、性欲など、肉体から発する欲を満たすことを第一に考えるため、一時的な満足しか得られず、この世に生まれてきた意味や、本当に大切なものは何かをつかめません。欲も必要があって存在しているのですから否定すべきものではありませんが、それを満たすことのみを目的とし、追いかけるだけで一生を終わっては、せっかくこの世に生まれて来ても、何も得ずに霊界に帰ることになってしまいます。

しかし、この世では肉体を持って生活している以上、物質的なこともおろそかにはできません。体を維持するのに必要な栄養を摂らねば健康を害しますし、適度な運動も必要でしょう。人類の子孫を残していくためには性欲も必要になります。大自然、或いは神から与えられた肉体には欲を含めて不必要なものはなく、体はこの世を生きていくのに欠かせない、大切な自分の乗り物です。肉体としての役目を十分果たせるよう管理するのも、持ち主である自分の責任であり、努力すべきことです。

ですから、人間はこの世にいる間は、霊的なことと物質的なことの両方を考える必要があり、片方に偏らないようにすることが大切です。霊と肉体、どちらかだけでは人間はこの世に存在していることは不可能です。勿論、人間の本質は霊ですし、この世を離れれば肉体は必要ないものになりますが、学ぶべきことがあってこの世に生まれてきている以上、乗り物である肉体、それに備わった欲も、うまく自己管理しながら使っていくことが大切でしょう。霊と肉体は次元の違うもの、どちらかに偏ることなく、二つのバランスをうまく取って生きていくことが、肝要だと思います。

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霊的存在としての自分

自分は霊である。今回、生まれてくるずっと前から霊として存在していた。この世に生まれる時にひとつの肉体に宿った。目を開けると、この世が見えた。手足の付いた体が備わっていた。ものを食べ、排泄し、栄養を摂って体は成長した。今まで、さまざまな経験をしながら生きてきたが、いつでも自分は生まれた時と変わらぬ自分という霊である。

まわりのものはどんどん移り変わっている。物質は時間が経つにつれ変化していき、ひとところにとどまっているものはひとつもない。どんなに美しいものであろうと、物質である以上は必ず朽ちていく。自分の体も成長が止まると、今度は老いていく。霊が宿っていることができなくなるほど肉体が傷んだ時、自分は肉体から離れることになるだろう。それが死だ。死を迎えた後、自分は霊界へ戻ることになる。

生まれた時、身近に両親という霊がいた。両親も肉体に宿っていた。両親に育てられて肉体は成長し、その過程でいろいろな体験をした。いろんな人と関わった。友だちもできた。みんな肉体に宿った霊たちだ。そして肉体に宿っていない霊の存在も知った。自分の目には見えないが、自分のことをいつも思いやってくれている霊たちの存在を知った。自分の体験が、悩んだことが、そのまま影響する霊たちもいることを知った。そして、自分のこの世での行いのひとつひとつが、いかに大切なものであるかも知った。

そして霊も物質もそれら全てを存在させている偉大なる力、神と呼ばれるエネルギーがあることも知った。自分が、他人が、全存在がその中に含まれ、ひとつの大きなエネルギーであることも知った。全ての存在が自分と切り離せないものであることがわかると、全てがいとおしくなった。

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知識をどう生かすか

人間にとって知識を得ることは、ある程度必要だと思います。どういう知識をどの程度必要とするかは人それぞれ違うと思いますが、自分が生きていく上で知っておいた方がよいと思うことは、得るように努力すべきでしょう。人からでも、本からでも、新聞・テレビからでも、インターネットからでも、現代は情報収集には十分過ぎるくらいのツールが揃っています。

しかし、知識は得ただけでは意味がありません。知っているというだけでは、ただ脳味噌というコンピュータのデータが増えたに過ぎません。知識を得たら、それをどう生かすかでその価値は変わります。自己満足に終わらせる人と、社会のために役立てる人とでは同じ知識を得てもその価値は大きく違ってきます。

また、得た知識を自分なりに考えて消化する、或いは正しく発展させることができれば自分にとって社会にとって、より大きな意味を持つでしょう。例えば霊的知識。本などから魂の存続、霊界の存在などを知ったとしても、ではその後、この世で自分はどう生きるべきなのかを考えなければ、ただ知ったというだけに終わってしまうでしょう。自分の経験を霊的視点で分析し、ぶつかっている問題を考え、悩み、そこから真理を発見する。そして、それからの生活、行動に生かしてはじめて魂の成長、社会への貢献につながるのだと思います。それを怠って本を読むだけ、人から教えてもらうだけで満足してしまっては、ただの情報収集にすぎないでしょう。

せっかく縁あって得られた知識は宝の持ちぐされにせず、自分の生き方に、社会のためにできる限り役立てていきたいものです。

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物質的満足と精神的成長

人間が生きる上で関わることには、物質的なことと精神的なことの二つがあります。

物質的なこととは、肉体を持ってこの世を生きる上では必要でも、自分の魂の成長にはつながらない、永遠の財産とはなり得ないこと。例えば衣食住に関すること、それを得るためのお金を稼ぐ仕事、物欲を満たすための趣味など。仕事や趣味などは、内容によって、或いはそこでの人との関わりにおいて精神にも影響がありますが、そこから自分の得るべきものを発見できないと、この世的な意味だけで終わってしまうでしょう。

精神的なこととは、肉体が死んで霊界に行ってからも永遠に自分の財産となり得る、自分の魂の成長につながること。例えば、愛、思いやり、いたわりなど、自分の心によって生まれることです。ここで言う愛とは、性欲につながる恋愛感情は含みません。それは物質的な感情に入ると思います。精神的なものでは愛のマイナス表現として、憎しみ、恨み、嫉妬などもありますが、これは魂に悪影響を与えます。

この世では、生活費を稼ぐための仕事は生きる上で最も大切なことのように思われるふしもありますが、精神的成長につながる仕事でなければほどほどにした方がよいというのが私の考えです。食べるのに困らないくらいの収入を得られれば、必要以上に金をもうけようとは思わない方がいいし、もっと自分の魂が磨かれるようなことに目を向けるべきでしょう。

先日、私の仕事で、ある女優さんを取材しましたが、彼女は人に勧められて山登りを始めてから、そこでの生活や人との関わりを通じて人間らしい生き方を知り、人生の価値観が一変したようでした。内容によっては、趣味の方が、実は自分の本質的な成長につながっているということはよくあることだと思います。

生きている間に物質的満足ばかりを求めて精神的なことをおろそかにした人は、地上でいくら年を食っても、自分の本質である魂は成長しません。肉体を持っていることによって生まれる欲や感情に振り回されず、物質的なことと精神的なことは分けて考えるようにしないと、生きていく上で何が大切かの判断を誤ってしまうでしょう。

肉体を持っている限りは、物質的なこともある程度必要ではありますが、人はそれぞれが自分の魂の成長に役立つものを見つけ、そこからいかに生きるべきかを模索して行くことが大切だと思います。

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唯物論者と唯心論者の関係

あの世はないと考える唯物論者と、あの世はあると考える唯心論者は、まったく違うようでいて実は考えていることは近いのではないかと私は思います。何故かというと、どちらかに仮定してこの世のあり方を考えているわけですから。

(図1)のように一本の直線で考えますと両極端になりますが、(図2)のようにそれを円にしてつなぐと、両者は隣同士になります。唯物論を徹底して突き詰めていけば、かなり徹底した唯心論に近づく。そしてその一線を越えたところで唯心論者になる。私はまさにこのタイプでした。

そして両者に最も遠い考え方は何か。それは(図2)を見ていただけばおわかりのように、あの世の存在についてなど考えない人ということになります。わからない、どちらでもよい、死んでから考える。それで満足して生きられるのであれば否定はしませんが、唯物論者、唯心論者から見ると、どうして考えなくて平気なの?という疑問の残る方たちです。

また、その間にいる人も多いと思います。図でいけば赤でも青でもグラデーションの部分。あるような気がする、ないような気がする。こういう人たちは、考える気があれば濃い色に進んでいくかもしれないですね。この世を生きていく上で悩みや疑問にぶつかった時に変化があるかもしれません。

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人間にできること

人間はこの世に誕生して以来、さまざまな研究を重ねてきました。たくさんのものを発明し、いろいろな法則を発見しました。そして文明社会を作り、便利な生活を手に入れました。地球上はどこへでも行けるようになり、宇宙進出も始まりました。この進歩には目を見張るものがあります。人類のたゆまぬ努力の成果でしょう。

しかし、人間は何でも自分の力でできるようになったのでしょうか。医者は人間の体にメスを入れ、患部を治療した後、傷口を縫い合わせます。しかし、傷口をくっつけて元通りにするのは医者ではありません。一体、何の力がそうするのでしょう。人はこの世に生まれた時は赤ん坊です。それがだんだん成長して大人になるのはどうしてでしょう。人間が頭脳を持ち、手足、指を持った形に育っていくのはなぜでしょう。人間の体はなぜこのように複雑で、精巧な構造になれたのでしょう。DNAによるものだとすれば、なぜそのような小さいものに、人間の遺伝の全てを組み込むことができたのでしょう。

人間には生命を作り出すことはできません。大人になれば男女で子供を作ることはできますが、できるのは肉体が実を結ぶきっかけを作ることだけであって、魂を作り出せるわけではありません。また、クローンを作ることに成功しても、それはあくまでもDNAを利用して同じ形をした肉体を作れたというだけのことで、クローンには別の魂が宿ります。結局、人間にできるのは物質を操作することだけです。

宇宙の星たちは、なぜ気が遠くなるほど長い間、決められた動き方を守って運動していられるのでしょう。空気や水はどうして私たちが生きていくのにちょうどいい状態で存在しているのでしょう。海の幸、山の幸はなぜ私たちに味覚的な満足と、体に栄養を与えてくれるのでしょう。

自然にそうなっているから、で済ませられることでしょうか。では、自然とは一体なんでしょう。さまざまなものが形を持ち、お互いに切り離せない関係の中でバランスを保って存在しているこの大自然。そこに何らかの偉大な力が働いていることに疑問を挟む余地があるでしょうか。それを自然の力と呼ぶか、神の力と呼ぶかは別として、人間は、そこに自分たちの計り知れない力が存在していることは誰も否定できないと思います。私たちは自然、あるいは神という大きな力によって生かされていることになります。その、何ものにも増す大きな力の存在を認めずして、人間が自分たちの力だけで何でもできるなどと思っていると、大きな落とし穴が待っているのではないでしょうか。

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崖に向かって歩む人

自分の命はこの世限りで消えてなくなると思っている人、そういう人は崖に向かって歩いているようなものです。崖っぷちにたどり着いてしまえば進みようがない。目の前には底の見えない谷、残りの人生はその恐怖におびえながら足踏みしているしかありません。ただ時の過ぎるままに任せて死を待つか、何かで気を紛らすかしか生きる方法が見つからない。

例えば会社を定年退職した人。一生懸命働いて、家族を養ってきたが、さてどうしよう。この先いくつまで生きられるかわからないが、果たして死を冷静に受け入れられる時は来るんだろうかと、不安になるのではないでしょうか。

或いは死を宣告された人。死ぬ日まで頑張ろうと思えればまだいいのかもしれませんが、やり残したことがあるから死ねないと焦ったり、やけをおこして自殺してしまう可能性もあるでしょう。

人間、死んだら自分はいなくなると思っている限り、いくつになっても、もう死んでもいいと思えるほど満足した人生は送れないと思います。あたりまえです。人間は死んでも消えてなくなったりしないんですから、大元の発想に問題があるのです。視点を180度変えて、崖の向こうに続く道を見つけましょう。物質でできたようなもろいものではない、しっかりとした永遠の道を。

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唯物論者は期待の星

30年以上、唯物論者をやっていた私にとって、唯物論者の気持ちはよくわかります。
「霊界?そんなものあるわけないじゃん。目に見えないものなんてありっこないんだよ。この世が全てに決まってる。人間死んだらおしまいさ。霊媒なんてただの金儲けだよ。その証拠に、テレビによく出てくるやつなんて決定的なことは何も言わずにごまかすだろ。心霊写真もみんなトリックさ。」
たしかにインチキ臭いものが世の中にはびこっているのが唯物論者を意固地にさせる原因でもありますが、霊的なことって、否定しようと思えばいくらでも否定できるように仕組まれてるんですよね。この世にいる限りは決定的な証拠はつかめないようになっている。

でも、心ある唯物論者は「霊界はない」と仮定して、この世のあらゆる問題に取り組もうとします。全てのものの根元は物質であるということを大前提にして考え、悩みます。そして自分の心の奥の方で感じることと、物質だけで組み立てた論理のギャップに苦しみます。

例えば、「世の中、お金がすべてじゃない」という言葉。心では、そうだよな、なんて思うのですが、理屈では「やっぱり、お金はなるべくたくさんあった方がいい」となってしまう。この世限りのことなんだから、いい家に住んで、いい服を着て、おいしいものを食べて暮らすことが人間として幸せだということになる。でも、心ある唯物論者は心の奥で、なんか変だなあと思います。

そして「霊界はない」という大前提の根っこで考えられた理屈は、たくさんの枝葉をつけた悩みだらけの大木を作ります。心ある唯物論者はその木に寄りかかって、なんか頼りないなあと思いながらも暮らしていくのです。

しかし、心ある唯物論者は大きな可能性を持っています。根っこの「霊界はない」という大前提さえ覆せば、一気に変われる可能性を持っているのです。いっとき、大前提を「霊界がある」と仮定すれば、頼りなかった自分の大木はみるみるたくましくなり、見事な生命力を見せるのです。悩んでいたことは一気に解決され、大きな安心感と共に、どのように生きるべきかの道も開けます。

心ある唯物論者は、徹底的に悩むべきです。そうすれば、霊的真理に目覚めるきっかけをつかんだ後は、きっと明るい未来が待っています。私は、そのためのお手伝いはいくらでもしたいと思っています。

で、問題は、心ない唯物論者です。

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2種類の人間

この世には2種類の人間がいます。あの世の存在を信じる人と、信じない人。わからないという人も多いでしょうし、実際のところは死んでみなければわからないのですが、私のように、どう思うかが生き方に影響するような人にとっては、どちらかに仮定しなくてはならない問題なのです。また、あの世はあるかないかのどちらかなのですから、中間という答えはありません。

以下に、その2種類の人間の典型的な考えをまとめてみます。

A.「あの世の存在を信じない人」
人間はこの世で死ねば、肉体と共に意識も一緒に消えてなくなる。意識は脳味噌あってのものだから。
人は健全な肉体を持って生まれ、恵まれた環境で育つことが望ましい。一度きりの人生だから、不幸な目には遭わず、好きなことをやれるだけやって、なるべく楽に生きたい。
できるだけ多くの金銭を所有し、社会的地位や名誉を得、人に羨ましがられて生きる一生でありたい。
気に入らない奴はいなくなればいい。凶悪な犯罪者は死刑も当然だ。悪い奴はこの世から消してしまえば問題は解決する。

B.「あの世の存在を信じる人」
人間はこの世で死ぬと、魂が肉体から離れる。肉体は滅んでも、魂はあの世とこの世を行き来して永遠に生き続ける。肉体の一部である脳味噌はこの世でものを考えるための機械に過ぎない。
人は持って生まれた肉体、環境がどんなものであれ、それを素直に受け入れ、その中で魂の成長を目的として生きるべきである。生きていく上での苦労も、皆自分の魂を成長させるために用意されたことなのだ。
金銭は生活に必要なだけあればよい。自分の社会的な地位、名誉よりも、本当に人や社会のためになる人間を目指したい。
自分が敵と思っている人間も、自分を成長させるためにいるのだ。凶悪な犯罪者を死刑にしても、魂は残って社会にもっと悪影響を及ぼすだろう。それよりも、この世にいる間に反省できる機会を与えよう。

これは、極端な例かもしれません。しかし、突き詰めていけばこの2つの考えはそれぞれ、このような方向を向いてくると思います。そして、これよりもっとエスカレートしていく可能性も十分にあります。

因みに私は30過ぎまでAタイプの人間でした。Bタイプを目指すようになってから、人生の視界が明るく開けたことは言うまでもありません。

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宇宙とバクテリア

人間の頭では理解不可能な、無限の広さを持つ宇宙。無数の星雲は現在望遠鏡で確認できるだけでも数十億個もあり、そのうちのひとつが銀河系です。銀河系を作っている、約2000億個の恒星のひとつが太陽。その太陽の周りを回っている惑星のひとつが地球です。地球は半径約6300〜6400kmの星。空気があるのはその地表からの高さ、たった12kmのところまで。そしてその空気を吸って地表2m足らずのところにへばりつくようにして生きているのが私たちです。宇宙から見たらバクテリア以下ですね。

そして、たかが100年足らずしか生きられないバクテリアたちは時々喧嘩をします。全部手に入れたってせいぜい地球なのに、仲間同士で殺し合いまでして領土や資源を奪い合います。自分たちの住処である環境を破壊し、自分たちの首を絞めています。

ほとんどの人たちは自分たちがバクテリアであることに気づいていません。と同時に、物質的にはバクテリアであっても精神的には宇宙にも匹敵する大きなものであることにも気づいていません。ほとんどのバクテリアたちは、ちっぽけな物質的なことにばかり目を向け、霊的なことをおろそかにしているのです。霊的な視点が持てるようになれば、自分たちがこの世だけのものでなく、いかに大きな存在であるかわかるのに。

全ては一人一人の心次第、この世は良くも悪くもなります。

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