りゅうじんの独断と偏見の人生哲学
(こんなものいらない編)

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政党なんていらない2013.7.4
法律なんていらない2005.9.22
夕食なんていらない2005.6.23
大人なんていらない2005.1.19
相続なんていらない2005.1.11
高校なんていらない2004.11.23
民主主義なんていらない2004.11.7
戸籍なんていらない2004.10.30
結婚なんていらない2004.9.19
名字なんていらない2003.9.8
お墓なんていらない2003.8.26

   

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政党なんていらない

日本では、政治家の多くは、政党に所属しています。政党は、同じような意見を持った人が集まり、その党としての考えを打ち立て、選挙などの時に国民の支持を得ようとします。政党という形にすることによって、有権者は候補者一人ひとりの意見を調べなくても投票がしやすくなる、政党としてまとまれば力を持てるなどのメリットがあるようです。それはそうかもしれません。しかし私は、政党という制度はデメリットも大きいと思うのです。

例えば、参院選を控えた2013年7月現在の状況で考えてみます。大きな争点になっている原発問題の場合、原発を推進したいのは自民党のみで、他の党はすべて、少なくとも将来的には廃止を訴えています。有権者の半数くらいが原発賛成、半数は反対ではないかと思うのですが、賛成の人は今回の選挙で自民党の候補者に票を入れるでしょう。反対派の票は他のいくつもの党に分散しますから、当然自民党が有利になります。

そうなれば衆議院に続いて参議院も自民党が多数となり、ねじれが解消されて衆参議院とも自民党の天下、当然原発は推進に向かうでしょう。自民党以外のすべての党が反対していて、国民の半数が反対しているであろう原発が推進されるのです。

仮に政党が二つしかなく、原発賛成と反対に分かれているならいい勝負になるでしょう。しかし、現在の日本のように、自民党に相対していた民主党が力を失い、たくさんの政党が乱立している状態では、少なくとも平等に民意が反映される選挙にはなり得ません。また、問題は原発に限らず、TPPへの参加や、憲法改正もあるわけで、一つの政党の考えにすべて賛同できない場合も当然あるでしょう。

そう考えますと、私はそもそも政党は必要ないのではないかという気がします。政党などなくなっても、選挙の時、有権者は、その地域の立候補者個人の意見を知って投票すればいいわけですから、特に難しいことはないと思います。また、そうなれば、力の弱い政党を初めから除外して考えるようなことがなくなり、どの候補者にでも投票しやすくなると思います。

どうも今の政治家の多くは、政党や派閥といったしがらみに左右され、あるいはそこに甘えて、政治のことを個人が責任を持って考えているようには思えません。現実に可能なのかどうかはわかりませんが、政党など無くしてしまった方が個人の自覚も芽生え、すっきりするのではないでしょうか。

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法律なんていらない

日本をはじめ世界各国には、さまざまな法律がありますが、法律はなぜ必要とされているんでしょう。人間社会は、法律が無ければ秩序が保てないのでしょうか。

法は生き方の規範になるものかもしれませんが、本来、人間とは、一人一人が人としてどうあるべきかを考え、生きていくものだと思います。法律で決まっていようといまいと、それは変わりません。また、法律に縛られて自由を失う、或いは法律があることによって、法に触れなければよいといった判断も生まれるとすれば逆効果です。

法律もお金と同じで、人間が作ったものです。私は突き詰めれば法律も、お金が存在するから必要とされているだけという気がしてなりません。

例えば現在は、市民の間で金銭トラブルなどが起きた時に裁判をしたり(民事訴訟)、誰かが法に触れると思われる行為をした時に捕らえて裁判にかけ(刑事訴訟)、法律に従って罪の重さを決めます。

お金が存在するから法律で罰金の額などは決めておく必要があるのでしょうが、私は、お金で解決するものは別として、それ以外の刑事訴訟の場合、法律で刑期などを決める必要はないのではないかと思います。

何をもって罪とするかですが、要するに、人に迷惑をかけるような行為をしてはいけないということでしょう。それは別に法律で決められなくても当たり前のことです。また、現在では、法律に違反していないうちは警察は捕らえることができず、迷惑をかける者を野放しにしたり、みすみす犯罪を起こさせてしまう危険性もあります。

仮に、法律がないと罪が成立しないから作っておく必要があるとすれば、「人に迷惑をかけてはいけない」でしょうか。しかし、そんな幼稚園児でもわかるようなことを決めておくのも滑稽です。

人間は多かれ少なかれ人に迷惑をかけながら生きるものですが、迷惑をかけられた側がそれを不快に思い、社会にその審判、対処を求める場合、警察や裁判所など、何らかの体制は必要になると思います。しかしそれでも法律は必要ない気がします。

誰かにとって迷惑な行為が発生した場合には、被害者、目撃者などが警察に通報。警察は現行犯逮捕、或いは事情聴取をし、必要に応じて、容疑者を警察に連行、拘留する。これは現在でも同じですが、本当は、現在法律で決められている犯罪に当たらないような場合でも、警察などはもっと細やかな対応をする必要があると思います。

そして、容疑者が裁判で有罪になっても、刑期などは決めなくていいと思います。犯罪者のこの先の反省の度合いを裁判時に予測することは難しいでしょうし、完全に更正していない人を刑期が過ぎたからといって出所させることは危険です。

決めるとすれば、すべて無期懲役。でも、刑期を定めず、社会復帰可能と判断されれば出所できるということですから、短くて済む場合もあるかもしれません。常にその人の精神状態、反省の度合いを判断できる人が観察していて、状況に応じて出所させるのです。

その判断は難しいと思いますが、そういった業務には信頼のおける人が複数で当たれば、弁護側と検察側の技量に左右される今の裁判で決定される刑期などより、納得の行く結果が出るような気がします。

私は、犯罪者は病人だと思います。ですから、罰として拘留するというよりは、病気が治るまで入院させておくという考えです。そして、拘留されている間、人としての生き方を考え、犯してしまった罪に対して深く反省してほしいと思います。

人間の作った現在の法律は、完全なものではありません。ですから、法改正ということも起こるわけです。正しい方向に改正されるならよいのですが、その時の都合で人道に外れた方向に改正されるようなこともあるかもしれません。そして、法律で決めてしまったことには、それが間違っていても従わざるを得なくなります。法律とはそういう怖さをはらんだものです。

現在では法律というものがありながら、戦争が起きたりしています。人への究極の迷惑である人殺しに正当な理由がつくはずはありません。本当は、戦争をしていいなどという法律はあり得ないし、絶対に作ってはならないのです。

お金が存在しなかったら、犯罪は激減すると思います。お金を盗むという行為はありませんし、ほしいものはだいたい手に入りますから、物を盗む必要もなく、お金がらみのトラブルは全てなくなります。人々の精神に余裕が生まれれば、その他の犯罪も病気も減るでしょう。ですから、お金のいらない国には、多分、法律もありません。

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夕食なんていらない

現代人の食事は、朝、昼、晩の3回摂るのが一般的です。朝は時間や食欲がなくて食べられないという人もいると思いますが、それはあまり健康的な話ではありません。

しかし、一日3回の食事が本当に必要なんでしょうか。必要なカロリーは人によって違いますが、どうも今の日本人の平均的な食事を、朝、昼、晩と全部摂ると、カロリーの摂りすぎのように思います。

その証拠に、太り過ぎて困っている人、ダイエットに挑戦してもうまくいかない人が大勢います。自分では頑張っているつもりでも、痩せないとしたら、カロリーを摂りすぎているのです。

ダイエットするにも、3回とも食べながら、それぞれの食事の量を減らす方法もあるでしょう。しかし、一度食べ始めてから少ない量で我慢するのはかえって苦しいのではないでしょうか。だったら、一日2食にしてみたらどうでしょう。夕食を抜いてみるのです。

因みに私が試してみたところ、一週間で体重が2〜3kg減り、体調が良くなりました。ただ、私の場合、今までのパターンのまま夕食だけ抜いたので、昼食から翌日の朝食までが18時間くらいあり、空腹感を覚える時はありました。時間が自由になるのなら、昼食の時間を遅らせればもっと楽にできると思います。

私の場合、会社勤めなので昼食の時間をずらすわけにはいきませんが、それでも慣れるとどうってことはなくなったので、お付き合いのある日以外は、現時点では、夜は食事もアルコールも摂らないことを続けています。

そもそも現代人は、自然に逆らった生活をしています。日が昇って大分経ってから起きだし、日が沈んだら電気をつけ、寝るまでの時間を過ごすのが当たり前。深夜まで起きている人も少なくないでしょう。本来なら、明るくなったら起き、暗くなったら寝るというのが自然だと思います。食事時間もそれに合わせて決めるのが健康的なのではないでしょうか。

例えば、朝5時に日が昇り、夜7時に日が沈むとしたら、5時に起きて、食事を8時と、午後2時くらいに摂り、7時に寝る。まあ、電気をつけてもう暫く起きていてもいいですが、このくらいのパターンで暮らせれば、太ることもなく、体にいいかもしれません。

いずれにしても食べるものが豊富にあるというのは非常にありがたいことで、世界ではたくさんの人が飢餓に苦しみ、餓死しています。痩せることを目的とする以前に、食べ物は無駄にしない、必要以上のものは食べないという心がけが大切でしょう。

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大人なんていらない

現在の日本では、人は、20歳までが子供、20歳を過ぎると大人という分類がされています。私はこの大人、子供という分け方に、昔から非常に釈然としないものを感じていて、成人式にも参加しませんでした。

20歳になると一体何が変わるのか。現在の制度の上では、飲酒、喫煙が許される、選挙権が与えられるなどがありますが、交通運賃は中学生から大人料金ですし、パチンコなど18歳から許されるものもあります。

精神面から見ても、20歳という年齢には意味を感じません。人は時間の流れの中で経験を積み、成長して行くものですが、個人差があるし、環境などによってもその成長度はさまざまです。そして、何歳の時点でも、社会の一員としての、それなりの自覚と責任感は必要です。

「親」に対する「子供」という言葉は別として、私は、大人、子供という分類も呼び名もやめてしまって、「何歳の人」でいいと思います。今の社会はいろいろな決め事を作り、全ての人をそれに従わせようとしますが、もっと各自に選択の自由を与え、責任を持って生きるようにさせた方が、自立心も生まれ、反発も起きない、無理の無い社会が作れるのではないでしょうか。

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相続なんていらない

仮に今の人間にとって、お金は便利かつ必要な道具であり、すぐには無くせないとしても、とりあえず必要以上の遺産相続は認めないことにしたらどうでしょう。収入の無い配偶者や扶養家族にはある程度まではいいとしても、莫大な財産を遺す必要はないと思います。

金持ちになったのが努力か運かは知りませんが、100歩譲って自分で稼いだお金は自分が死ぬまで使いたいように使うのはいいとしても、それを孫子の代まで遺そうとするのはどうかと思います。それは余計な心配、或いは見栄や欲であり、結局は誰のためにもならないのではないでしょうか。多額な財産を遺して、親族、子孫の相続争いや堕落を生むくらいなら、もっと有意義な使い方を考えた方が賢明だと思います。

世界には、莫大な財産を持った人がいるかと思えば、日々の食べ物にも困っている人がたくさんいます。私はこれは、お金の「貯められる」という性質によって生まれた不公平、悲劇的な結果だと思います。誰がいくら稼ごうと、自分の必要な分だけ取ったらそれ以外は恵まれない人に回せば、飢餓や貧困は減らせるのではないでしょうか。

この世の不公平の責任を金持ちばかりに押し付けるつもりはありませんが、お金は、最終的に使わなかった分は必要ではなかったということです。余分な財産は稼ぐ必要もなかったとも言えます。余計なお金を持っていないと心配なのは、福祉の行き届かない社会に問題があるわけですが、私は、仮に金持ちが生活レベルを落とさなくても、余ったお金をうまく分配できさえすれば、多くの人が救われる気がします。

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高校なんていらない

現在の日本の教育制度は、6歳から、6年間の小学校と3年間の中学校、その後、3年間の高等学校、4年間の大学、或いは2年間の短期大学、2年間の大学院などから成っています。小学校、中学校は義務教育ですから日本人であれば原則として全員が行きますが、その後の高等学校も多くの人が進学するようです。

私の経験から考えますと、小学校、中学校で勉強したことは大人になってからも役に立つと思いますが、高校で学んだことは自分が現在就いている職業に関係する科目以外、ほぼ必要なかったように思います。中学校でもかなり高度なことまで学びますし、一般常識としては中学校で教わったことだけで十分なのではないでしょうか。

現在の高等学校は、言ってみれば中学校の延長で、かなり幅広い科目を難しいことまで学ばせますが、果たして全員にそこまでの教育が必要なのかと考えると、首を傾げたくなります。大学にしても、専門知識や技術の必要な職業に就くなら別ですが、多くの人は自分が専攻した学部とは関係のない職種に就いているようです。

ではなぜ、多くの人は高校や大学に行こうとするのか。それは、現在の世の中では就職するのに学歴が必要だからではないでしょうか。多くの会社は就職試験の際、学歴の条件をつけます。ですから、今の日本の教育は、学問をすることそのものより、学生の学力の順位付けをし、学歴を得させるというのが主たる目的になっているのだと思います。

就職するために、就職しても必要の無い知識を得なければならないという矛盾はなんとも滑稽であり、空しくもあります。そのための勉強に多くの時間を割くくらいなら、もっと他にすべきこと、学ぶべきことがあるのではないでしょうか。

お金の存在が、お金を得なければ生活できないという社会を作り出し、余計な仕事や競争を生み、学校教育にも影響しているのかもしれません。いずれにしても私は、現在の教育制度は根本的に見直したほうがいいと思います。

例えば、高校からはもっと専門分野に分け、画一的な教育や年齢制限をなくし、学びたい人は誰でもいつでも自由に学びたいことを学べるようにしたらどうでしょう。お金の存在しない世界なら、そんなこともたやすくできる気がします。

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民主主義なんていらない

ちょっと大胆なタイトルですが、ここでは現在の民主主義の危険性、不公平性について考えてみたいと思います。はじめに、その定義を百科事典から引用します。

民主主義(みんしゅしゅぎ)は、デモクラシー(democracy)の日本語訳で、民主とは君主の対概念として人民(ないしは国民)が主権(支配の正統性および実際の政治権力の双方を含む)をもち、為政者と人民が同じ(治者と被治者の自同性)であるとする政治的な立場・原則。
転じて、個人の人権(自由・平等・参政権など)を重んじながら、多数で物事を決める原則を民主主義と呼ぶ場合もある。 単純な多数決と混同されることが多いが、多数決が単に多数であることに正当性の根拠を求めるのに対し、民主主義は最終的には多数決によるとしても、その意思決定の前提として多様な意見を持つ者同士の互譲をも含む理性的対話が求められる点でこれと区別される。(出典: フリー百科事典『ウィキペディア (Wikipedia)』 )

実際に、このような原則が理想的に守られればいいのかもしれませんが、昨今の世界情勢を見ていますと、私は民主主義国に於いても危険思想の独裁者がトップに立ち、自国や世界に混乱を招いているように思えてなりません。一応、国民からの選挙によって選ばれた人が、それなりの過程を経てそういった地位を得ているのでしょうから、文句を言えた筋合いではないかもしれませんが、なぜこの人がと首を傾げたくなるような人がのし上がって行くのを見るにつけ、民主主義の限界を感じざるを得ません。

民主主義国家で採用されている採決方法の多数決は、ある意味公平とは言えません。多数決での採決は、最大ほぼ半数の人の意見は受け入れられないわけですし、満場一致でない限り、少数意見は無視されることになります。確かに皆で何かを決める際に全員が同じ意見になることはまずないでしょうし、最終的には多数決はやむを得ないのかもしれませんが、少なくとも民主主義や多数決が最善の方法であると信じきってしまうことは危険だと思います。

お金の存在するこの世に於いては、純粋に世界をよくしたい、平和にしたいと考えている人が政治家になろうとするとは限りませんし、選挙をする国民も、自分の地域のメリットのみを考えて投票しているようでは理想的な代表者の選出にはほど遠くなると思います。実際、民主主義国の代表になった人が、目に余る独裁ぶりを発揮している光景は昨今よく見られ、民主的であったはずの選挙自体が、結果的に独裁者を選ぶためのものであったのかと考えると、そら恐ろしくなります。

でも私は、国家の理想的な治め方は、ある意味、独裁ではないかと思っています。ただし、その独裁者は、絶対的平和主義者であり、常に全世界の人民の幸せを考えられる人でなくてはなりません。すべての国のトップがそういう人になれば、戦争など起こりようもありません。そうなったらお金も存在しなくなるかもしれないし、地球上のすべての難民は救われることでしょう。

ただ、理想的独裁者の選出こそ容易ではなく、そういった社会を作るには、まず全ての人間の意識改革が必要かと思います。また、選ばれた理想的独裁者も人間ですから、常にトップに相応しい人物であるかどうかのチェック機関も必要になるでしょう。民主主義の威力は、そういったところで発揮されればいいと思います。

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戸籍なんていらない

いつの頃からか知りませんが、社会には戸籍というものがあります。子供が生まれると、名前、出生地、誰の子供であるかなどを役所に届け出ることになっています。これが出生届。結婚すれば婚姻届、離婚すれば離婚届などが必要になり、その都度、戸籍に記録されていきます。人の一生をそこまで管理されるのも大きなお世話と思いますが、皆、当然のように従わされています。

望むと望まざるとに関わらず、人生はいろいろ複雑な人間関係を生み出します。現在の社会は、結婚だ、養子縁組だとややこしい制度を作っていますので、ことあるごとに名字が変わるなど面倒くさい話になり、その都度、届け出をして、戸籍を書き換えなければなりません。

なぜ、そんな制度や戸籍が必要になるのか、それはお金が絡むからではないでしょうか。誰が誰の子供で、親族が誰かがわからないと、保護者を特定したり、遺産相続の時に混乱を招きます。それがなければ、そんなことは当人たちさえわかっていればいい情報であるはずで、やはりここでもお金の存在がネックになっています。

誰の子供であろうと、生まれてきた者を殺すわけにはいかないのですから、本来、子供を育てるのは人類全体の義務で、自分の子供でないからといって育てなくていいわけではありません。また、たとえ親がいなくても、そこにお金さえ絡まなければ、育てることは十分できると思います。

遺産相続などはお金の存在する社会のばかげた習慣の最たるもので、子孫に財を残すことに一生をかけるほどくだらない生き方はないと私は思います。当然、お金さえなければ相続も必要なく、それによって子孫を堕落させることも、親族の醜い争いも無くなります。

お金が存在しなくなれば、結婚制度や、現在のような戸籍はいらなくなると思います。国が管理する上で、国民の人数や居場所を知っておく必要があるのであれば、個人単位の名前、性別、生年月日と現住所くらいで十分。それも名字は廃止し、子供が生まれたら自由に数文字の名前を付けて、親とは別に新規に登録すればいいと思います。

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結婚なんていらない

この世には男と女がいて、互いに引かれ合う性質を持っています。引かれ合った男女は、近くにいたいと思い、二人が性交渉をもつと、女性の体内に子供ができ、いずれ子供は生まれてきます。子供は成長すると異性を求め、また子供を作ります。人間、或いは動物はずっとこれを繰り返してその種を保存してきました。

結婚という制度がいつできたのかは知りませんが、人間社会においては、ただ男女が一緒に暮らしたり、子供を作ったりするのに、わざわざ契約が必要になるというのもおかしな話です。また、現在採用されている一夫一婦制は、表面上の独占欲は満たしますが、自由と可能性を奪い、所有意識と依存心を増幅させる気がします。

結婚して家庭を持つことは、ある意味閉鎖的な環境を作り出します。常に、家族、家庭という単位でものごとを考えるようになると、ややもすると自分の家と他人の家、うちの子とよその子といった差別意識が生まれ、自分のうちさえよければいいという発想につながると思います。と同時に、家庭内のトラブルは全て家族の間で解決せざるを得ないような事態に陥ります。

縁あってできた家族が協力し合って生きるのは大切なことでしょう。しかし、そこに所有意識や依存心が生まれると、個人としての自覚、責任感が希薄になります。本来、人が人を所有することはできませんし、他人の自由を奪う権利もありません。人間の存在はあくまでも個であり、全ての行いは本人の意思に基づいて為されるべきものです。また、その行いの招く結果を受け入れるのも個人の責任であり、他人が肩代わりできるものでも、すべきものでもありません。

一夫一婦制の採用されている今の社会では、一度結婚した人とは生涯連れ添うことが望ましい、或いは同時に複数の人と関係を持つことはタブー視されていますが、それも今の人間の固定観念であり、不自然な気がしてなりません。一度決めた人が最良のパートナーであるという保証はないし、相手を一人に決めねばならないということは、その相手以外の人との可能性を排除し、離婚や悲劇的な別れの原因にもなります。

また現在は世間の固定観念もあってなかなか離婚はしにくいので、男にしろ女にしろ、それを逆手に取り、相手に迷惑を掛けることがわかっていながら、身勝手な振る舞いをする人もいるようです。結婚という制度が無くなると、相手に嫌われたらおしまいですから、そのあたりの甘えも許されなくなり、いい意味での緊張感と責任感が生まれると思います。

独占欲を中心に考えると、確かに一夫一婦制は無難かもしれません。人間の考えもさまざまですから、別の形に決めることも問題があるでしょう。私は、結婚に関しては一切の制約を設けず、男女や家族のあり方は、自由に、さまざまでよいのではないかと思います。人それぞれが自分の心に素直に、すべての人を思いやりながら、自覚と責任を持って選んだ形をとればいいことであって、それを無理に一つの型にはめようとするところに無理があるのだと思うのです。

現在、敢えて結婚という制度が必要になる理由を挙げるなら、未熟な社会だから必要とされているのであろうお金の存在です。どんな形にしろ、今の世で生活する上では、ある程度の金銭収入が必要になります。例えば専業主婦の場合などは、収入面は夫に完全に依存することになるので、そう簡単には逃げられないような契約をしておく必要があるかもしれません。反対に、お金が存在しなくなれば、経済上の理由で別れられないという事態は無くなります。

結婚という制度を無くせば、結婚しないという選択もしやすくなると思います。いずれにしろ、ただ人生のある時点において、一緒に暮らしている異性のパートナー、或いは子供などがいるかいないかだけの違いです。そうなると、家、血筋、跡継ぎなどにこだわるような感覚も消え、子供ができないというような要らぬ苦しみも無くなるのではないでしょうか。

お金も結婚制度も無くなったら、人々の、性に関する認識も大分変わる気がします。全ての男女関係は平等になり、どこにでも子供ができたら生み、育てることが当然となります。お金が存在しないのですから、経済的な理由で子供を産めないということはないし、中絶する必要もありません。逆に、産めない、育てられない理由があるとすれば、なぜ作ったのかという問題が浮き彫りになり、今よりずっと自覚と責任を求められることになると思います。

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名字なんていらない

人間の名前というのは、人間自らが自分たちに付けた記号。頭、胴体、手足、目、鼻、口と、どのみち似たような形をしている動物なわけですから、誰が誰だかわからなくなるような混乱を避けるためには、何かしらの固有の呼び名も必要だったのでしょう。

しかし、名字は何のために付けたのか。いつついたのかは歴史の時間に聞いたような気もしますが、私は名字は単なる記号以上の余計な意味を持ち、縛りを生んでしまう、いらないものではないかと思います。

普通、結婚した男女は、戸籍上、同じ名字になる。どちらかは相手の姓を名乗ることになり、今まで親しんできた名字を捨てねばなりません。結婚相手と同じ名字になることを喜べる人には結構なことかもしれませんが、特に近頃は、それに抵抗を感じる人も少なからずいらっしゃるようです。結婚しても社会で仕事を続ける女性の場合などは、利便性を考えて仕事上の名前は変えないという人も多いです。

夫婦に子供が生まれると、子供は親と同じ名字になります。家族3人が同じ姓を名乗るわけです。見ようによっては家族としての連帯感の持てる、いい制度のように思えます。しかし、私は、そもそも世の中の人は、家族としての意識を持ち過ぎ、何でも家族単位で考え、家族さえよければいい、或いは家族は常に一緒でなければいけないという意識が強過ぎる気がするのです。

そして、この名字の存在が、知らず知らずのうちに個人の自由を奪っている。夫婦がうまくいっている時はいいかもしれません。しかし、ひとたび、離婚を考えるようになった場合など、この名字が厄介な代物。離婚に対する必要以上の絶望感と、思い切りの悪さを生んでいる気がします。勿論、夫婦はうまくいくに越したことはないでしょう。しかし、制度によって自由を奪われないと続かないような夫婦なら、早めに解消してそれぞれの道を進んだ方がいいというのが私の考えです。

家族の絆というものはそれなりの意味はあるでしょう。家族愛も否定はしません。しかし、それは名字が同じでないと生まれない、存続できないというようなものではないと思います。また、名字というものの存在が、何々家という差別意識だとか、跡取りを作らなければいけないという強迫観念、墓などにこだわる状況、或いは家族に対する所有意識、依存心などを生むことに大きく影響している気がするのです。

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お墓なんていらない

この世には、いらないものがあふれていると思いますが、私に言わせれば、お墓もその最たるもの。火葬という技術がないならともかく、せっかく死体を、元の肉体に未練を残さないような形にまで変化させることができるのですから、わざわざ骨を残してお墓に入れておくことはないと思います。

現在では、協力者がいれば、骨は散骨という形で、海や山に撒くことも可能なようですが、それも手間のかかる話。本当は、骨は全部無くなるまで燃やすか、肥料などカルシウムとして利用することをシステム化した方がよいと思います。

霊が肉体を離れた以上、その抜け殻に固執するのはナンセンスというもの。現段階では、人によって心霊に対する知識や考え方があまりにも違うので何ともならないのでしょうが、私は、お金同様、お墓などは、ほんとは無くてよいものだと思います。

お墓はすごく場所を取る。特に日本など、狭いのに、至る所にお墓があります。お墓を無くせたら、人の住む場所を増やせるし、もっと有効な土地活用ができるでしょう。また、分家した場合は新たに墓を作らねばなりません。既にある墓は無くせないとすれば、増える一方です。このままでは、そのうち地球上は墓だらけになってしまうのではないでしょうか。

お墓がある以上、お墓参りが必要になりますが、例えば先祖代々の墓の場合、自分は何代前までの先祖を知っているのか。多くても曾祖父、曾祖母が限度ではないでしょうか。霊からしてみれば、少なくとも曾孫の子となると自分を知らない、先祖という概念はあっても、自分のために墓参りをしてくれているとは考えにくいでしょう。墓参りの対象になる先祖は比較的新しい人に限られているわけです。

歴史に名を残しでもしない限り、100年も経てば自分がこの時代に生きていたことなど誰も知らない世の中になります。自分の存在は、肉体と共に全ての人の記憶から消え去るのです。この世的に見れば、人間の存在なんてそんなもの。ただ、墓に骨が残っていることに何の意味があるのでしょう。

そもそも墓は霊の住処ではなく、成仏できずに残っている人がいるとしたら、その方が問題です。身近にいて亡くなった親や、祖父、祖母にしても、墓参りに行って喜ぶかどうかは怪しいものです。墓参りはせいぜい気休め、習慣だからやめるわけにもいかないが、面倒くさいだけという人も多いと思います。また、唯物論者が墓参りをするという図も滑稽です。

ただ、現在の社会ではお金同様、お墓を無くすのは至難の業でしょう。お金が存在する以上、お墓関連で発生する仕事が収入源になっている人も多いですし、長年の習慣はおいそれと変えられるものではありません。実際にお墓に取り憑いている地縛霊もいるようですから、私も祟りが無いとは言えません。

骨は一切残さない、墓には何も入れないということが当たり前になって何百年も経って初めて、墓は無くしてもいいんじゃないかなんて誰かが言い出すかもしれません。実際、この世からお墓を無くすことは、お金を無くすことより難しいかもしれませんね。

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