12月18日

8X10カメラ製作顛末

 テスト撮影ポジを早速スキャンしてプリントする。 1,600dpiでスキャンしたら200MPixel(2億画素)になる。 これを16ビットモードでスキャンすると、
  200MP * 2 * 3Byte=1.2GB
 さすがにPCも、1.2GBは受け付けず、スキャン途中で止まってしまった。 まいったか。<-おいおい
 仕方なく8ビットでスキャンしB0にプリントする。 プリントは流石に凄い。 言葉で書き表せないほど凄い。 書き表せないから書かない。

鮮鋭度はこんな具合。
  ・200m先の団地の物干しの、パンツの柄が分かる
  ・人間の上半身を撮って、顔の産毛が数えられる。

 第2打席は手持ちのスタジオフラッシュを総動員し、室内撮影に挑む。 至近距離で子供を撮影した。 アンブレラが離れるため絞りはF22-1/2が限界だ。
 子供に動かないよう厳命し、なだめすかし、再三ピントを確認する。 ティルトよし、構図良し、ゴミ良しで慎重に撮影。 バックドロップをおろし、アンブレラをたたみ、フラッシュの配線を片づけ、暗室でホルダからフィルムを抜き取り写真屋に車をとばす。<-三行で済ませたが結構大変

 さぁ、ひと仕事終わった、と風呂でのんびりしている途中「あっ」と気が付いた。 撮影距離は80cm、撮影範囲は横幅50cm程度である。 ごく普通の撮影だが、8x10ではフィルムの幅が25cmだから倍率1/2の接写になってしまうではないか。 脳天気に風呂桶に浸かっているときではない、どう考えても露出補正が必要だ。 風呂を飛び出し、写真屋に電話して+1の増感を頼み、間一髪無駄玉を免れた。

 三人中二人には奇跡的に眼にピントがあったが、残り一人は鼻の頭にピントがあって、歯は既にぼけている。 F22で被写界深度は+/-1cmである。 被写界深度はとんでもなく浅い。
 バックがほんのすこしでもティルトしていると、被写体側合焦面が傾いてしまうが、深度でカバーできないから調整ミスは隠せない。 脳天気な調整は命取りになる。 加えてフレネルがないので、周辺のピント合わせはきつい。 8X10は大きいが大雑把ではない。 非常にデリケートであることを痛感。

 なるほどなるほどで、実体験はいろいろ勉強になった。 何事もやってみないと分からないものだ。 カメラは使い物になりそうだし、これでしばらく遊べる。


12月17日

問題

 『問題を無視する』というのは問題解決のための〔昔ながらの、しかし効果的な方法〕である。
との力強くのたまったのは、G.M.ワインバーグである。 まさに含蓄ある名言。 私の座右の銘として切り札の地位を保っている。
 そのワインバーグの、もう古典になってしまった「プログラミングの心理学」を再読。 原著が1988年にしては例題がPL/1、APL、FORTTRANで、CやPascalにさえ触れていないから、少々取りつきにくいが、中身は一級品である。 どうすればソフト開発がうまくいかないか、実によく分かる。 ワークショップでもやったら、ソフト開発のマネージメントに役に立つだろう。<-せこい


12月16日

デパート

 ちと所用があって、日頃足を踏み入れないデパートへでかける。 景気は沈没して回復の兆しなく、リストラ続きで失業率は史上最高、賃金カットで消費低迷というニュースに毎日どっぷり浸かっている。 デパートなどはさぞかし閑散として、経費節減のため電気も消え、暗い顔をした店員たちが在庫の山を抱えてうつろな表情で、と期待して行った。<-おいおい
 なんと新宿高島屋は、ざわざわと満員盛況ではないか。
 勝手の分からないデパートで、婦女子の買い物にうろうろと付き従うのは潔しとしない。 貴金属売り場のソファで、一般市民の買い物状況を精査観察していたが、不景気はどこへ行ったのか、結構盛況である。 まだ日本も大丈夫か。 


12月15日

松下のデジカメ

 『このレンズはズミクロンの名を冠しているが、柔らかさを持つ落ち着いたピントは、良質のズミタールやズマロンの描写を思い起こさせる。・・・・
 このクリア感は従来のパナソニックのデジタルカメラには見られなかったものだ。これもライカレンズの威力かも知れない』(注:ズミタール、ズマロンはライカのレンズ)
パナソニックDMC-LC5(キヤノン製Vario-Sumicronレンズ)の雑誌評である。

 よくここまで書く。 書き写していて蕁麻疹が出そう。<-だったら書くなよ
 それにしても異様に無骨なスタイルで、ヨドバシの展示でもひときわ目立つ。 ちょっと売れないだろうと見ているが、ランキングでは現在そこそこの3位である。 他にないからという理由もあるだろうが、しばらくウオッチング。

 同じパナソニックでもLUMIXの方はスタイルがよく、くらっと来るところがある。 女の子の首にかけさせたり露骨にIXYのコンセプトににじり寄っているところは、マネシタ電気の名に恥じない。 このコンセプトならライカの名前にこだわることはないだろう。 これはデザインでそこそこ売れると見た。


12月14日

12月のデジカメ

 12月に入ったら年末商戦は既に佳境に入って、目を引く新製品はない。 Canon1Dの発売時期が22日に決まった程度が話題か。 いまごろラインは突貫工事。 今年中に出れば立派なもので、開発担当者は正月休みを取れる。 慶賀。

 NikonのCP5000は12/13発売だが、そう爆発的に売れる筋ではない。 売れるのか。 全部盛り込んだにしてはにやけた外装で、駆逐艦に戦艦大和の兵装を載せたようなもの。 道具の切れ味を感じさせない。 胸に迫るところがないし、仕様を潔く切って捨てたスマートさもない。 中途半端という感じがして仕方がない。 さほど売れないのではないか。
 実売12万では、多少高いがE-20の方が使い物になりそうだ、と書いていたら、発売翌日の14日、CP5000は既に「不具合」で早速ファームのバージョンアップだそうだ。<-おいおい

 オリンパスはデジカメで100億円の赤字を出しながらも、大広告を続けるその根性は立派なもの。 ここは見習うべき。


12月12日

図書館

 良く図書館を利用する。 絶版本、金を出してまで読みたくない本は借りることにしている。 だからほとんどは借りることになる。

 ・検索システムは石器時代みたいなシステムで、カメのように遅い。
 ・5時きっかりに終わる。 利用者を全部追い出して鍵をかける時間が5時である。 優雅な時間がここにはあった。
 ・火曜日も祝日も休む。
 ・上下巻の本はそれぞれ一冊づつと勘定される。 上下をリクエストして下巻から来たらどう読めばいいのか。
 ・リクエスト本は本人のカードでないと借りられない。 貸し出し冊数をオーバしていると、家族のカードも使えない。
   リクエストでなければ誰のカードで借りてもかまわないということと矛盾すると思うが。
 ・新刊雑誌は記事の「半分」までしかコピーできない、と言う規則がある。 誰がこんな珍妙な規則を作ったのか。
 ・リクエストした本を取りに行ったら、「児童図書ですけど良いですか」とカウンターのおばさんがメモを見ながら聞く。 「ポストモダニティの条件」は児童図書か。

  八王子の図書館は東京都で一番遅れていると言う噂も聞く。 こういうところで働くのも大変だろう。 官僚機構でがんじがらめにされているから、神経症先生とか恐喝警察官などが出てくる。 いっそのこと民営化してしまったらどうか。


12月11日

「いらっしゃいませ、こんにちは」

 と最近ファストフードでよく言われる。 この「こんにちは」は居心地が良くない。 マニュアル通りの機械的慇懃さも嫌だし。 通常「こんにちは」などとは今誰も言わない。 ただ昼飯を食べに来ただけだ、こんにちはとすり寄られる筋合いはない。


12月10日

昔は良かった?

 昔は人情があってとか自然が豊かで良かったとか、情緒的無条件賛成的反応があるようだ。 そうか?
 昭和30年代のはじめ頃までいったいどういう生活だったか。 その当時は高度成長が始まる前で、小学生だったからおぼろげながら記憶はある。 

 まず水道がない。 井戸なのである。 すべて水は井戸のポンプをわっせわっせと足を踏ん張り腕に力を入れてこがないと、出てこない。 炊事の水はまだ良い。 風呂の水もわっせわっせと汲み、バケツで桶に運ぶ。 仮に二日に一回でも、風呂桶一杯の水を井戸から汲むのは楽ではない。 沸かすのもいちいち風呂釜を炊かなければいけない。 

 炊飯器もない。 米を研いで水加減をしてへっついに火をくべ、火加減をしてという途方もない重労働なのである。 暖房のない冬も、暗い朝からこの労働である。

 ホンの40年前はこうだったこと、それが普通だったことをまだ思い出せる。 いまが良くないとはいえ、その時代に戻りたいとは、冗談でも言えない。

 こういう記憶がない団塊世代以降は、生活ということをどうとらえているのだろう。 電気もガスも水道もない世界を想像力でとらえるのは難しいか。


12月8日

社長

 旧聞になるが「週刊東洋経済」10月13日号の富士通秋草社長のインタビューで、 「就任以来ずっと下方修正が続いている。社長の責任をどう考えるのか」という 質問に対し、 「くだらない質問だ。従業員が働かないからいけない。(後略)」との凄まじい 解答が掲載された。
 これで議論が沸騰している。 近頃珍しい勇気ある発言と言っていい。 これが許されるなら社長業は楽なものだ。 まぁこれはこれで、サラリーマン社長の馬鹿な発言だと黙殺しておけばいいが、大企業社長がこのレベルでは、日本経済の浮上はまず無理だな。


12月7日

 この数ヶ月、のら猫と仲が良くなった。 朝30分ほど近所の岡を散歩するが、団地の中を歩いている私を見つけると、植え込みの影から、のら猫がみゃーんと一声鳴いてすり寄ってくるのである。 最初はおそるおそる近づいてくる猫の背中をなでる程度だった。 最近は地面に大の字になり腹をさすってくれとねだる。 あまつさえ飛びかかって顔をなめたりかじったりする。 こちらも猫好きだったからこうなったのだろうが、情は移る。 しかし団地はペット禁止だし、女房は猫嫌い。

 こちらとてそうながいこと寒風に吹かれたまま猫と戯れているわけにはいかない。 健康増進中なのである。 目的遂行のため「ばいばい」とすたすた歩き始めると、猫は悲しそうにみゃーんと鳴きながら数十メートル追ってくる。 毎朝のことながらこの別れはすこし寂しい。 


11月29日

Y電気にて

 茶髪の男が店員に
 「あのー、インターネット繋ごうとしたんですが、カード番号を聞かれて・・・クレジットカード持ってないんですが」
 「クレジットカードがなくとも、当店でOCNの契約は可能ですが」
 「電話がいるんですかぁ。 携帯は持ってるんですが」
 「電話持ってないんですか」
 「電話線きてるんですが、電話は繋いでないんですよ」
 「...」

 どれからどう展開したのだろう、レジが済んでしまって傍聴は終了。


11月28日

ラウム車検終了

 買ってから3年間で修理らしいのは、通勤途中でおばさんに追突されたときだけだし、JAFも呼んだことがないし、日本車はそもそも車検整備などは要らない。 「ミッションオイルを換えればあと3年は大丈夫です」「これだけ出せば3年間無償保証が付きます」「底の清掃を」「あれも」「これも」というディーラー整備の営業トークを大きく振り切って、10万円で上げる。 バッテリはそろそろ換え時だが、今年の冬はこれと心中する。 バッテリが壊れて動かなくなることはあっても、暴走することはない。 

 「パワーウィンドーのスイッチが時々聞かなくなるんだけどついでに見といてくれる?」
 「あーそれ良くお客さんから言われるんですよねぇ、換えときます。 無料ですから。」
 「ってーことは、リコールものかい」

 アメリカでも6年間10万キロカムリに乗った。 車検や定期点検などない。 その間は、エンジンオイル交換とバッテリ交換だけで、至極快調だった。 オークランドの帰りに底をぶつけてオイルパンを壊し、オイルをぶちまけエンジンが瀕死になったのは秘密。


11月25日

百草園

 日野の百草園を家族で散歩。 快晴で暖かく、紅葉のなかを気持ちのいい散歩だった。

 ここは6年前に日本に帰って日野に住んでから、お気に入りの散歩コースだ。 駅から丘陵頂上の百草園まで、山道を歩く。 丁度往復5千歩程度で、勾配もきつくもなく、良い運動になる。 手軽だが峠道、尾根道、牛小屋、栗林と田舎道が続き、のどかで金もかからずいい。 カメラはいつも持っていくが、記念写真撮影ポイントは大体同じ場所になる。 場所はは同じでも、季節、時刻、天候で全く違った写真になる。


11月23日

8X10カメラ製作顛末-5

予定より3日早く現像上がり。 一枚は隅の方に光線引きがあったが、どうやら引き蓋の抜き差しのときにフィルムホルダを浮かしてしまったらしい。 改めて8X10の被写界深度の浅さに驚く。 バックがほんの5mmティルトしていても被写体側では合焦面が45度程度に傾いてしまい、深度でカバーできない。 その他にも使い勝手やスキャナとの相性など実体験してみないと分からないことが一杯あった。 良い勉強になった。

できあがりカメラ


11月18日

8X10カメラ製作顛末-4

 手持ちのレンズで唯一8X10をカバーするのがフジノンW250mmである。イメージサークルはほとんどアオリの余裕はない。250mmレンズは35mm相当の写角になる。広角ではあるが被写界深度は狭く、開放F6.3では2mの距離で1cmしかピントがこない。十分絞らないととても使えないが、回折限界を考慮すると32程度までしか絞れない。しかしそこまで絞ると曇天ではシャッタースピードが1/4秒になるから、人物はきつい。晴れの日だけの出番になる。またルーペでピントグラスをと押さえるとたわんで、結果的に前ピンになると言うことを発見。結構ピントに関してはデリケートである。いろいろ勉強になる。

 日曜日に実写テストを敢行した。気分はスティーブン・ショアかリチャード・アベドンである。
 団地風景と子供を撮る。
 「シャッターが遅いから動くなよ」
 「フィルムは高いんだから」
と、念を押したから子供たちは固い顔をしていた。
 何回も空シャッターを切って確認する。本番レリーズも緊張する。三脚、カメラ、付帯道具一式を両手と肩に下げ、視線を浴びながら歩いた。くたくたになった。
 現像上がりはKodakに外注して1週間後である。どんな具合に撮れているだろう。


11月17日

8X10カメラ製作顛末-3

 カメラの製作は、力仕事だった。段取り以外あまり頭を使わず、しこしこと木工細工である。部品をサンド掛けし、直角を出しながら、接着とネジ止めでブロックを組み立てていく。フロント、バック、スタンダード、など合計8ブロックである。気を使うのはピントグラスのストッパー位置で、きちんとフィルムホルダの乳剤と同じ位置になるようにしないといけない。それ以外組み立ては、そう難しくない。血豆も作らず、バンドエイドのお世話にもならず、無事木組みは終了。
 組み立て後ステインで塗装して木目を出し、内部をつや消し黒で塗装。ベローズを接着して完成。外見は迫力がある。図体が大きいこと、ちょっとしたバケツの容積がある。4X5が中判カメラに見えると言ったら、分かってもらえるだろうか。

 完成後光漏れチェックをする。肉眼では見えない光漏れをチェックするのだから、これは面倒。洗面所を家族立入禁止にしてにわか暗室に仕立て、カメラの内部に35mmネガフィルムをセットして、1時間ほど直射日光に晒す。
 現像してみると光漏れがずいぶん出た。べローズ接着部の布の折り畳み隙間、ブロックのそりの隙間など洩れ箇所が出て、それをひとつづつつぶしていく。カメラ自体が大きいから小さなそりが積み重なってくる。チェック・修正を繰り返し、かなり時間のかかる作業になった。
 単なる漏れだけではなく、フィルムに赤がかぶる(ネガだから全体がシアンになる)現象も出た。これはわからなかった。ベローズが赤外を透過するのか、黒塗装が赤を反射するのかと随分苦しんだが、あるときレンズボードのプラスチック板を日にかざしてみたら、太陽がくっきり赤く見えるではないか。速攻でカーボン入り黒塗装で遮光しOK。


11月16日

8X10カメラ製作顛末-2

 何故8X10か。
 インクジェットの実質最高画質の200dpiで、B0サイズ(1030X1456)にプリントしてみたいのである。
 今は最高の解像度を選るには4X5を1,600dpiでスキャンするしかない。やっと50Mpixelの画像になる。それでもB0プリントでは140dpi以下になってしまい、近づくと明らかにジャギーが見える。

 B0で200dpiを達成するためには、100MPixel以上(一億画素!)のデータが必要になる。CCDを使ったフラットベッドやフィルムスキャナできちんと解像できるのは2,000dpi程度が限度だから、4X5でも100MPixelに足りない。ドラムスキャナという手もあるが、スキャン代が半端ではない。そこで到達したのが「フィルムサイズを大きくする」、という単純明快な結論なのである。

 一度は8X10を試したいと思っていたので決断は早いが、年中使うものではない。カメラを買うのは躊躇する。レンタルもない。そこでシアトルBender社(http://www.benderphoto.com)の木製ビューカメラキットを使って「カメラを作る」ことにした。10年ほど前に4X5キットを作ったことがあり、経験は十分ある。ラックピニオンもなくフレネルもない究極のローテクカメラだが、写真は所詮レンズとシャッターと暗箱があれば写る。レンズさえきちんとしたものを使えば、写りに変わりはない。幸い手持ちに8X10をカバーできる、フジノンの250mmがある。
 仕事でカメラを作り、家でもカメラを作る。たしかに物好きだと言うことは認める。


11月15日

8X10カメラ製作顛末-1

 究極の大判銀塩、8X10カメラ製作に挑戦した。
 ローテク、重厚長大、守旧派、懐古趣味、頑迷固陋。

 8X10はA4サイズの一回り小さいサイズで、六ッ切ともいう。フィルムはヨドバシで一枚1,000円。面積は4X5の4倍、35mmのフィルム2本分になる。
 まだ上のサイズには11X14があるが、どのみちフィルムが手に入らないし、E6の現像をしてくれるところもないだろう。
 堅気が手を出せる実質最大のフィルムサイズが8X10である。

 最近の高級機は評価測光が組み込まれ、シーンを解析して適当と「思われる」露光を決めてくれる。結構優秀で便利な露出だが、意図したとおりにはなるとは限らない。
 評価測光のアルゴリズムはブラックボックスだから、深読みして補正を入れるのだが、相手はAI。何を考えているか分からない。機械を相手に心中を忖度して補正を施すというのも、いらいらするものである。
 結局大事なところはスポットか単体露出計で測り、経験から補正する。少なくとも機械相手の裏読みよりは精神衛生上いい。究極の露光はマニュアルということになる。
 AFも同じ。どこにピントを合わせるかは撮影者が決めるしかないし、どのあたりをどの程度ぼかすかという精妙なコントロールになると、やはり人手でピント合わせをし、被写界深度を計算していくしかない。
 詰まるところ写真は、レンズとシャッターと暗箱と露出計があればそれで十分用が足り、機械の中途半端なお節介はいらない、それで十分、という素朴な原点に戻る。
 45点測距、毎秒8枚連写のハイテクも否定はしないが、たまには写真の原点にひたるのも良い。8X10こそ究極の原点だろう。


11月14日

デジタル一眼

 富士は自力で「カメラ」を作る力はないから、残るデジカメ一眼候補はミノルタ。しかし見えない。
 AFレンズの資産を生かした形で来るのか、オリンパスの4/3"の土俵に乗るか。しかし、交換レンズとシステムを一式作るのは開発費が莫大になる。APS一眼の失敗にも懲りているはずだから、余力のないミノルタは躊躇すると見ているがどうなるか。
 オリンパスの4/3"は、提案自体はリーズナブルだ。しかし自社AFレンズを持たないメーカが、土俵を変えたい気持ちがあからさまだから、環境作りは少しきつい。家電系は交換レンズ一眼に手を出さないだろうし、レンズを持つメーカは乗り換えるリスクは犯さない。


11月11日

コンタックスデジタル一眼発表

 コンタックスのデジタル一眼が、めでたく正式発表された。まずは慶賀。
 仕様的には600万画素35mmサイズCCD以外、心ときめくところはなし。発表された仕様一覧もカラースペースの設定がなく、ホワイトバランスも3種類だけと、よく言えば銀塩風味を踏襲していてデジカメとしてはあまり多機能には見えない。Raw対応ソフトも未定だし、大丈夫かと人ごとながら心配になる。

 秒間たった3枚連写(それもJPEGで5枚が限度!)に加えて、遅いので定評があるコンタックスのAF性能では、業務用にはごめんなさいだ。ボディーは1kg未満でD1、1Dよりも軽いが、コンタックスはレンズ、特に最近のレンズが十分重い。ボディーと相殺して携帯重量はCanon/Nikonと同じ程度になる。仕様が軽くて重量が重い。いいのか?

 購入対象はデジタルになじみがあって、Zeissのブランドにしびれる金持ちアマチュアと言うことになるから、限られる。このマウントの新しいレンズを持っている人もそうはいない。経験から見てもコンタックスはボディーが弱体だし、ディジタルの実績の少ない京セラからこの新製品を買うのは冒険になる。心情的にはしばらく様子眺めか、1世代待つ人も多いだろう。

 ひいき目に見てもあまり売れそうにない。一眼レフ購入ユーザの1%として、年間5,000台が良いところと見た。80万円で月に1,000台目標としているが、開発投資は回収できないだろう。
 ヤシカグループは京セラの3%の売り上げだが、デジタルのコンタックスブランドが定着するまで続けられるかどうかが勝負だ。定評が出来るまでヤシカが持ちこたえて欲しい。フィルム移動合焦方式のRXの轍を踏んで、話題倒れにならなければいいが。

 それにしても、早く12ミクロンCCD600万画素の画像を、見てみたい。


11月10日

最近の高級デジカメ

 Canon1Dの画像がひどいという噂がある。たしかに文月データでは偽色らしいものが派手に出ているし、伊達サンプルの渋谷画像にも、かなり激しく偽色が出ている。
 山久美さんは褒めちぎり、文月は噛みつき、伊達はサンプルをアップして論評せずというスタンスで、デジカメ評論業界は相も変わらぬ展開だ。
 それにしても12月の発売までに1Dの偽色は直るか。無理だろう。

 松下のライカレンズデジカメは、レスポンスの改善や、パッシブAFとCCDAFのハイブリッドで、発想としては良い。しかし画質が悪いという噂が絶えない。

 Canonが1/2"400万画素CCD用に開発したレンズを、エプソン、カシオ、松下、ソニーが使っていることは公知だ。カシオはキャノンであることを明示しているが、松下はLeicaのVario Sumicronと表記、ソニーに行くとZeissのVario-Sonnarになる。
 松下のマーケ屋は「ライカの設計要求に忠実に...90年にもなるライカの伝統と歴史に培われた技術の蓄積のなせワザだと思い知らされました」などと吹きまくっている。開いた口がふさがらない。ここまで厚かましくユーザを馬鹿にしていて良いのだろうか。


10月29日

パキスタン人

 WTLテロ事件で思い出した。
 アメリカでアッサンという名の、パキスタン人技術者を雇っていたことがある。 顎髭を生やし優しい目をした寡黙な男で、Lexusを運転してやってきた。 時給100$と法外に高かったが、飛び抜けて優秀な男だった。
 イスラム教徒である。
 「一日一回会議室を占有して、お祈りをすることを許可すること」
 という契約条件が、最初のカルチャーショックだった。 無論ラマダンもある。
 脳天気にクリスマスを話題にすると、
 「異教徒の聖人など祝ってたまるか」と鋭く目が光る。 キリスト教は敵なのだ。
 自分がいかに宗教に鈍感なニッポンジンであったかを思い知らされ、たじろいだ。
 「なぜ日本は核武装しないのか。 絶対にするべきだ」
 と、突然詰め寄られたこともあった。

 信頼できるエンジニアだったが、この騒ぎの中今どうしていることか。


10月28日

Mac

 久しぶりに秋葉原を散策。
 秋葉原LaoxのMac館が消滅していたのを発見。 これで秋葉原のMac専門店は、秋葉館くらいになった。 昨今は通販の方が安いから、いずれ絶滅するかもしれない。 iMacのヒットも昔話になり、OS10もまだ出たばかりでどうなるか、Macには秋風が冷たい。
 家の2台のパソコンは、いずれもMacである。 MacPlus(ハードディスクなし)時代からのMacユーザで、四代目に当たる。 つまり私はMac党。 Mac命とまでは言わないが、Winは生理的に嫌い、巨人も嫌い(関係ないが)。

 Macオーナーは常に不安である。 いつかはAppleが壊滅して、いや壊滅しなくともMacがDTP/印刷業界の専用機になって庶民の手が届かなくなったら、白旗を揚げてWinに転ばないといけない。
 ここだけの話だけれど、ひそかにここ4-5年準備はしている。たまりにたまったMacデータの移植の準備である。 何Winはこんなに制約があるんだろうと思いながら、日記をテキストベースにしたり、画像ファイルに.jpgをつけたり、ファイル名から「/」を取ったりである。 泥縄式で首尾一貫した思想を感じない。 簡単なスクリプトはないしショートカットはたこ、設定が面倒でよくこける。

 転向の準備はしているもののAppleはもう少し持ちそうなので、そのままという状況がずるずる続いている。このまま大過なく続いておくれ。 「あなた変わりはないですか Mac恋しい北の宿♪」

 Macの次はUnix。 設計思想が明確で、まだいい(分かっているとは言わない)。 コマンドは明快で強力、スクリプトで大抵のことが出来るし。 支払いの悪い会社に5分ごとに督促のメールを送るなどは、パイプで一発だし(それって単なる嫌がらせか)。中身をいじってがしがし使うなら、Unixだろう。
 単なる判官贔屓か。


10月27日

まじめにデジカメ産業展望

 デジカメで日本の写真産業はどうなったか数字を追ってみた。

 2000年の産業統計によると、映画/写真関係の総生産額は8,000億円とあるが、何故かこれにはデジカメが入っていない。 デジカメの4,000億円を加えると、何と1兆2,000億になる。
 これはほとんど、バブル最盛期の生産額と同等ではないか。

 銀塩は確かに激減したが、デジカメが増えて、カメラ全体の生産額は激増している。 デジカメの単価が高いから、カメラの総生産額自体は上がっているのである。
 デジカメ特需でメーカの生産額は増えている筈だ。 利益はともあれ、キャッシュフローは潤沢になっている。 家電メーカの食い込みが大きいから、デジカメ負け組のカメラ会社は苦しいだろう。

 デジカメで打つ手が全て裏目に出たミノルタが、銀塩の国内生産を集約しなければならなかった理由が分かる。
 フルサイズCCD一眼レフを諦めた旭光学は、使い捨てデジカメに走った。
 Contaxは最初、今年の春頃発売と言っていたが、CCDの遅れという理由でフルサイズ一眼の発売を延期した。 キャノンにも出遅れ、Pentaxのおかげで、Contaxも横並びで中止を宣言しやすい環境にはなったが、そうなるとデジタル一眼市場は面白みがなくなってしまう。 京セラはヤシカを維持できるか危ういところだが、石にかじりついても出して欲しいものだ。

 国内販売では、銀塩カメラの出荷額は730億に対してデジカメは1,311億である。 既にカメラの主体はデジカメになった。 カシオのQV-10から6年でここまで来るとは夢にも思わなかった。 いやほんと。 CCDやプロセッサの周辺技術蓄積が、簡単に最後の一歩を超えさせてしまったのだろう。

 APSは激減した。 寿命は2年だった。 35ミリコンパクトカメラの命脈も、あとは海外市場の寿命だけにかかっている。 このあたりの領域はデジカメに浸食されていくだろう。
 意外にも銀塩のフォーカルプレーンカメラは善戦健闘していて、生産、国内出荷共に余り減っていない。 以前から長期低落産業と揶揄されていたが、そうでもない。高級カメラにはデジカメの影響はまだ出ていないようだ。
 
 日本の一世帯あたりカメラ保有台数は1.4台。 日本全国に銀塩カメラのパークがほぼ6,000万台あることになる。この調子でデジカメが年間300万台売れても、半分入れ替わるのに10年かかることになる。 まだまだ勝負はこれからだ。


10月26日

使い捨てデジカメ

 あっけなく使い捨てデジカメが出て、仕様的には予想通り。 安く作るだけで面白味はない。 コンビニを使ったセールスチャネルとビジネスモデルも意外性はない、 本命になるだろうが、銀塩と同様、デジカメの売り上げと共存することになると思う。
 神田三省堂では開店直後に売り切れたそうだ。まずは競合各社とマスコミ関係・おたくだが、どう展開するのか楽しみだ。

 この分野こそKodak/Fujiが、マーケティング的に地の利があって有利だろうに。


10月25日

BBS

スマートメディアとコンパクトフラッシュの違いは?優劣とかあんの?
答:記憶媒体としての大きな違いはありません。わかりやすく言えば、ビデオのベータとVHSの違い程度といえばわかるかな。(わからんよ)

デジカメで取った画像をそのままメールに添付して送ったらすごい容量になってしまいました。容量を小さくして送るにはソフトが必要だそうなんですが...私が買ったデジカメにはついていませんでした。(買いなさい)

写真ファイルなどが記録されたメディアは短期間なら問題はないが、長期間放置するとメモリが揮発性なため徐々に記録されている内容が消えて言ってしまう事があるので注意が必要。(おいおい)

最近デジカメが無性にほしくてし方がありません。今までカメラには興味がなかったので、カタログを見てもいまいちピンとこない。結局デザインとメーカーの売り文句で選びそうで、迷っています。なぜかカールツァイスと光学10倍ズームが心に響く。もしほかにお勧めがあれば教えてください。(デザインとメーカできめたら?)

デジタル一眼レフカメラ って、一番の長所はシャッタースピードの速さなんでしょうか?デジカメの難点はシャッタースピードにあるといっても過言じゃないでしょう??だからブレると思っているんですが、実際少し動きのある被写体に対してどの程度カバーできているんでしょうか?
シャッタースピードの性能見てみると問題ないようにも思えるんですが、全然問題ないんですか?(ない)

色収差とは、簡単に言えば「色のにじみ」です。各色波長が違うのでレンズ表面での反射も違います。遠くの小さな物体の色や強い光を浴びた物に色収差があるのは、当然ともいえますね。(おいおい)

ツァイスだけが収差を除去しているわけではなく、ニコンやキャノン・オリンパス・ミノルタ等、国産メーカーも独自の理論で除去しています。(独自の理論って?)

デジタルカメラからパソコン内に画像を取り込むのにはどうしたらいいんでしょうか?やはりケーブルなど必要と思いますがどんなケーブルでもいいんでしょうか?またパソコン上ではどのような操作をすればよいのでしょう?お教えください。パソコンには富士通のFMDとかかれてます。(全部聞くなよ)

光学3倍zoomってそんなに必要なんですか?デジカメなのに光学なんていうなよ、ってカメラ初心者は思ってしまうんですが.(ははは)

デジカメを買ったんですけどインストールできません、エラーナンバー13とかでるんです。どうしてでしょうか?教えてください!(トホホ)

最近finepix1300を購入したのですがパソコンへの保存方法がわかりません。USBで接続している間は画像は見られるのですが、はずしてしまうとファイルがなくなってしまいます。接続せずに画像を見ることはできないのでしょうか?ソフトの使い方が全くわかっていないため詳しく教えてもらえると嬉しいです。(説明書読めよ)

超初心者の質問で申し訳ないのですが、デジカメで撮った画像(jpeg)を友人のMACに送ると、どうしても開けないらしいんです。原因は何なのでしょうか。当方WINで、WINに送った場合開けます。よろしくお願い致します。(あのねぇ)

添付ファイルでデジカメの画像が送られてきたんですが開くことができません。自分が使っているパソコンはiMacの333MHzです。相手もMacから送ったらしいんです。(あのねぇ)

私は大学の研究で人間の瞳の色を写したいのですが、精密に接写できて標準光 D65での色が正確に出るカメラってどれを買ったら良いのでしょう?(正確な色って?)

会社のHPの立ち上げにあたり、商品のPRにデジカメで撮影したのですが、バック(背景)だけ抜いて商品だけを切り抜いた状態にして乗せたいのです。アドビのフォトショップとかを使えばいいのでしょうか?ソフトはそれが使えないのだとしたら、何がいいのでしょうか?操作方法も教えてもらえたら・・・と思っています(おいおい、全部聞くなよ)

FINEPIX4700ZかCybershotP-1にしようか迷っています。値段は後者の方が一万円ぐらい高いようです。どちらがきれいに写りますか?性能はどっちが良いですか? 教えてください。(トホホ)

Fine Pix4700で撮った写真をメイルに添付して送ろうとしているのですが、どうしても遅れません。モデムの光が異常に早く点滅して、いつまでも送信が終わりません。1枚だけじゃなくて、他の写真でもそうなのです。JPEG方式の730kくらいのものなのですが...。(モデム?)


10月18日

土門拳のついでに、荒木経惟批評

 とは言ってみたものの、荒木経惟は切りにくい。近刊の「天才アラーキー写真の方法」荒木経惟を読むが、わからない。言葉は快く響くが、何も伝わってこない。何か言っているようで何も言っていない。韜晦の連続で、最後はエロダジャレで締めくくって強引に終了する。
 所々本音は出る。
  「写真っつーのは、事件がない方がドラマチックだし、重要なものが入っているワケよ」
  「言行が一致してくると、まずいんだけどなー」

 土門拳には、写真と言葉が直結しているという信仰があった。土門拳は名文家でもある。文章は簡潔にして達意、また非常な読書家でもあった。だからこそ自分の内部回路で写真と言葉が緊密に繋がり、分離することが難しかったのだろう。

 荒木にとっては「写真と言葉の関係を切り離すこと」が方法論だ。めったやたらに脈絡のない駄洒落、エロ言葉を繰り出し、論理に絨毯爆撃を加え、言葉に対する信頼をとことん崩し去る。その言葉の廃墟で写真をみせようという深謀遠慮が見える。確信犯である。

 普通の写真家はシャイなもので、自分の写真を余り説明しようとはしない。写真は説明しきれるものではないし、説明して語り尽くせる内容なら写真など撮る必要はない。
 しかし荒木は、言葉に対する中立を保つのではなく言葉を饒舌で破壊する。ここに荒木の特異さが際だつ。自分の写真がいかに「エロ」という言葉に絡みとられやすいかを熟知して、あらかじめエロ感覚、言語感覚を麻痺させ、映像世界に籠絡しようという戦術である。知能犯である。
 だから荒木は、常に写真を語ろうとはしていないし、語っているように見せても何も語ってはいない。

 荒木の写真論ではなく、戦術論になってしまった。
 写真は、つまらない言い方だが、うまい。天才になる前は、電通で冷蔵庫の撮影のエキスパートだったそうだ。「冷蔵庫」というのが良いではないか。冷たくて。


10月17日

土門拳

 BBSでこんな問答を発見。
>写真の構えから基礎から教えてくれるところはありますか?
「構えに関しては自己修練の方が重要でしょう。基本的には体はまっすぐ芯を通して猫背・前屈みは厳禁、脇を締め、レリーズは手ごと動かしてブレの元にならないよう気を付ける。望遠の場合は若干体を反り気して重心にカメラを乗せるパターンでも可。構えに関しては入門書の立ち読みで十分です。後は自分の体のクセに合わせて修正し、被写体探して練習練習。フィルム入れない空撃ちでいいです。腕力が足りない場合は基礎体力訓練も必要ですが、おなか辺りに固定する一脚風の固定具もあるので、最悪の場合はそう言った製品を使うのも一つの手でしょう」

 何事も型を優先して「修練」する、というアマチュア写真愛好家の一筋さには毎度笑ってしまうが、これはまた見事に典型的な、鍛錬の勧めである。
 プラスの結果を得るためにマイナスの努力を積み重ねてへとへとになり、へとへとになったことでなにがしかを達成したと勘違いしてしまう。手段が目的にすりかわり、手段の獲得に全てのエネルギーを浪費する、良くある落とし穴だ。
 こういう窮屈な態度は、写真を撮ること、つまりは精神の自由さから一番かけ離れたところにあるような気がするがどうだろう。

 アマチュアにこの種を撒いた原因のひとつは、「土門拳」であると推測している。

 土門拳は写真家としては、現在も「天才荒木」の次程度に知名度が高い。昭和三十年代から四十年代にグラフジャーナリズムで活躍し、ついでにアマチュア写真界の「神様」として君臨したのは周知のことだ。
 報道写真が一番もてはやされた時期(もとい、写真の用途がそれしかなかった頃)に先陣を切った。その名声を駆ってアマチュア写真界の鬼と化し、カメラ雑誌のコンテスト審査員として君臨、「死んでも撮れ」と檄を飛ばし日本中を鼓舞しまくった男である。
 「死んでも撮れ」、ですよ。 「死んでも」 たかが写真で。

 土門拳は批評しやすい。単純明快で時代遅れな頑固爺だから。
 何しろ宮本武蔵が好きで、モットーは
  「精神一到何事か成らざらん」 人並みはずれた体力、傍若無人、強引、傲慢不遜、猪突猛進
 出来ればおつき合いしたくない人である。
 報道写真の先輩名取洋之助と、ライバル木村伊兵衛が、大嫌いだったらしい。(これはどうでもいいか)

 昭和30年代にテレビが台頭して、グラフジャーナリズムが凋落、報道写真は役目が終わったにも関わらず「絶対非演出の絶対スナップ」を主張する。
 「ただ絶対非演出の絶対スナップを基本的方法とするリアリズム写真だけが社会的現実そのものに直結する可能性としてここにある。(中略)リアリズム写真は現実を直視し現実をより正しい方向へ振り向けようという抵抗の精神の写真的な発現としてあるのである、」 雑誌カメラ1953

 残念ながら写真が、「現実を直視し現実をより正しい方向へ振り向けようという抵抗の『精神』」つまり「言葉」に直結することは、ない。写真だけで言葉のコンテクストを正しく伝えることは不可能である。どんな写真でもキャプション一つで、読み取り方(言葉への変換)は簡単に規定されてしまうからだ。

 カメラマンの思い入れなど簡単に言葉ひとつでで蹂躙されてしまう。例を挙げよう。
 「アフリカの平原にたつ母子」を撮った一枚の写真があるする。
  「エチオピアの飢餓に苦しむ母子」とキャプションすれば、時事問題になる
  「アフリカの豊かな草原」とくれば、豊かな西洋文明生活に対するアンチテーゼ
  「母子は仲良し」とすれば、親子の情愛写真になる
 写真はキャプションひとつで、簡単に意味性を付加されてしまうのである。
 もう一つ例を挙げる。
 「ガラス越しに新聞を読む人」の写真は、報道カメラマンの常套手段である。
 「新聞印刷の紙にも不足しがちなこの国・・・・」、「最近では海外旅行熱が爆発して、新規のツアー募集を新聞でこまめにチェック・・・・」とキャプションは書き放題になる。この手の写真が新聞に載ったら、そのカメラマンは行き詰まったと見て良い。これは名取洋之助のノーハウでもある。
 グラフジャーナリズムとしての写真とは、その程度のものである。

 土門拳も実は、失敗している。写真集「筑豊の子供たち」、「るみえちゃんはお父さんが死んだ」で意図したのは、写真を通して社会の矛盾を考えさせること。しかし結果的には、お涙ちょうだい写真集として受け止められた。これは本人も認めている。

 この土門拳が、宮本武蔵流にアマチュア「写真道」を作って、「死んでも撮れ」と流布したのが、「修練の精神」が未だにうっとうしくくすぶっている一因の気がする。


10月16日

広帯域写真

 サンヨーのDSC-MZ1には、2ショット合成によるダイナミックレンジ拡大モードがある。
 通常のリバーサルフィルムのトーンの再現域は、頑張っても6EV、ディスプレーでも4-5EV程度だ。ちなみに人間の目でも5EV。従って日光直射部分と影の(3EVは差がある)、両方のトーンをすべて描写することは、完璧に不可能だ。
 学会でも高照度、低照度の2ショット合成は議論されセンサーも開発されてはいたが、実物の写真を見たかった。

 サンヨーの写真を見た限りでは、そう感動的ではない。シーンを良く選ばないとただ画像が眠くなるだけという感じである。窓からの外景と室内を同時に「自然に」描写することは、合成ソフトの腕になる。どの程度出来るのだろうか。


10月15日

ライカ+松下の提携について

 「アーノルドパーマー」も、イトーヨーカドーで売られて、「福助足袋」ていどのブランドに凋落した。ライカ+松下は1+1=-1である。ライカの名前でローレンツのアヒルのように買ってしまう人もまれにはいるだろうが。
 ライカは単なる町工場だ。こうして過去のブランド蓄積を消費していって、どこまで持ちこたえられるのだろうか。

 ちなみにライカ並に古いブランドを調べてみたら、「仁丹」(1893)、「正露丸」(1905)、「養命酒」(1923会社設立)がある。ライカI型が1925年だから、ライカの台頭は丁度昭和初期にあたる。養命酒と同じ時期だ。養命酒とライカが同じとは。


10月14日

旭光学カメラ事業部長談

 「高級コンパクトに関してはよく企画に乗ります。そのとき私は「やめろ」と言うんです。いわゆる高級コンパクトに関しては「まだペンタックスとしての神話がない」という言い方をしています。高級コンパクトを出すには、コンパクトカメラの分野で、ペンタックスブランドにそれ相応の神話がないと難しいだろうと思っています。」
 覚めた妥当な見方だろう。
 しかしRicohは、特に神話があったわけではないが、GR-1で神話を作った。神話を作るのもブランド管理だろう。


10月13日

ベトナムとアフガン

 「マクナマラ回顧録」と「友軍の砲撃」を読む。ベトナム戦争のトップとボトムの両方の視点から、いかにアメリカがばかげたことをやったか、ということを再認識した。マクナマラの民族主義を共産主義と見誤ったという告白も妥当だし、戦死者家族のベトナム戦争への痛烈な視点も理解できる。
 アフガンで同じ轍を踏まなければいいと思うが、今のところ事態は余り良い方向ではなさそう。当時の徴兵/反戦世代は今五十代あたりで、発言力が十分あるはずだ。進んで泥沼に入り込むようなことはしないと思うが、あれだけブッシュに「正義」を連発されると、月光仮面も赤面する。善意の「正義の味方」はしばしば一番厄介だったりするから要注意。


10月3日

キャノン1D

 キャノンが高級デジタル一眼カメラ1Dを出した。EOSのネーミングから論理的にはそうなるが、D1に対してシャレになっている。今度はCCD、それもD1より50%ほど大型のものを使っている。CMOSではなく、CCDで余りノイズ処理をいじらないように変えたようだ。D1のような偽色対策はされているのだろうか。
 注目はペリクルミラーである。渋い。実に渋い選択だ。
 第一に連写速度を稼げるし、CCDの実効感度を押さえる意味でも良い。うまくミラーを実装すれば、LPFのゴミ対策にもなるはずだ。というよりミラー固定だから、メンテ上CCDを密閉構造にするのは必須だろう。これはいいところに目を付けた。納得。
 手持ちレンズは使えるし、これだけで買い・・・と言うわけにはしかし行かない。何しろ75万円である。ヨドバシポイントカード還元を入れても実効価格は50万円を優に超える。これでは麻酔(クレジットカード)も効かない。おまけにバッテリを含めた重量がD1をしのぐ1.5キロ超、レンズ付きで2.5kgは固いとあっては、ほとんど鉄アレイである。勘弁して欲しい。
 もう一つ懸念はキャノンの色管理だ。NTSCではなくAdobeRGBを採用するような、時流に乗った仕様は一見華やかだが、今までキャノンがどういう色を作ってきたかを見ると「ちょっと待てよ」と言いたくなる。CanoScan2700Fに始まるフィルムスキャナの、ダイナミックレンジの狭い絶望的な色再現や、IxyDigitalを代表とするデジカメの、ユーザを馬鹿にした悲惨な色調など、デジタルについて良い色を作ってきた印象がない。キャノンは売り方はうまいが、色で信用できる会社ではないというのが定評である。
 12月中旬に発売。どういう反響が来るか楽しみだ。

 ニコンはCOOLPIX 5000だ。COOLPIX995がコンシュマー向けの最上位機種かと思ったら、880系のコンセプトで5MPの上位機種を出したのは意表を付いている。意表は付いているが、しかし感動はない。
 995のボディーでは2/3"CCDが収まらないから、そうせざるを得なかったのだろう。うむ、そう来たかというのが正直なところだ。
 2/3"500万画素で、オリンパス、ミノルタ、ソニーがそれぞれ違うアプローチをしているなか、ニコンが一番オーソドックスだ。意地の悪い言い方だが「華がない」。
 もともとコンシュマー向けでは、時流にすり寄った仕様にしたり(35Ti/28Ti)、先走りすぎたり(CoolPix100)、妙にマーケットへのピントがはずれて失敗している。高級機はお手の物だが、一般向けは下手糞、拙劣。しかしニコンがソニーの707のような見切りの良い製品を企画したら、意表をつきすぎていて売れないだろうし、苦しいところだろう。
 ついでに言うなら28-85mmレンズやマグネシウムボディなど、DC4800の仕様をパクっているようだ。勘ぐりか。
 このタイプで実売12万円という値付けは悪ふざけだ。


10月2日

銀塩回帰か

 67のスライドプロジェクタを、押入の奥に見つけた。日本に帰って以来使っていなかった。投影するスペースがそもそもないのである。売り払う前に試しに67のポジを移してみたら、ぶっ飛んだ。
 精細で緻密、色鮮やかで迫力満点なのである。豊穣といってもいい肌色、逆光に輝く髪、土の湿った質感。ディテールの細密さには、正直たまげ、改めて銀塩の実力に舌を巻いた。
 ここ数年、銀塩の良いコマをルーペで選び、スキャンしてインクジェットでA3にプリントしておしまい、というデジタルプロセスを無反省にやってきている。67でもせいぜい10MPixel弱しか採っていないし、スキャナのRGB帯域とプリンタのCMY変換でこれほどまでに劣化しているのかと、唖然。

 それもあってか、最近デジカメの色の浅さ、ボケず奥行き感のない画面にだんだん食傷してきた。一転して撮影は、リバーサルに戻ってきている。手間はかかるがいい。
 こうして良いデジカメが出てくるまで、悟りきれない衆生はデジタル・アナログの間で揺れ続けるのだ。


10月1日

ADSL

 自宅のインターネット接続をISDNからADSLに切り替えた。電話局から2キロほど離れているし、間に大電流をばしばし飛ばす京王線の高架が走っているため(とNTT担当者はのたまうが)、700kb迄しか上がらない。しかし結構いける。
 速いところはさくさく行くし、サーバーがボトルネックで待たされるWEBも結構あるから、接続速度的にはこんなもので十分という感じである。なにはともあれ、常時接続でいくら使っても従量料金がかからないのは、精神衛生上よろしい。

 メガバイトを超える転送も楽になったので、今までのシンプルなホームページをちょっと凝って作りかえてみた。写真を大量に放り込んで、レイアウト、デザインをチューニングして・・・。  はまった。
 HTMLでは止まらない。GIFアニメ、JavaScript、CSS、CGIととめどなくやることが増殖していく。苦労すればやるだけの成果は上がるので、熱が入って時間を食う。おたく街道まっしぐらになりそうだった。「だった」と言うわけは、正気に戻ったから。
 ホームページのソースをいじっていると時間を使うし、それなりの成果は上がるので、なにがしかの達成感/高揚感はある。しかし何のことはない、言語仕様をルールにしたゲームをやっているようなもので、あまり高級な頭の使い方をしているわけではない、と気がついた。Nintendo64にしがみついている息子と大差はない。
 昔パソコンおたくをやったときは、マイコン自作に2-3年どっぷりはまったが、最近は気がつくのが早くなった。これは年の功か。WEBいじりはそろそろ終了して人間の世界へと舞い戻ることにした。

 話は変わるが、WEBにしろパソコンワープロにしろ、縦書きがないのは文化障壁だろう。パソコン作業から離れて、縦書きの本に戻ると、不思議なもので全然違った世界が見えてくる。好きな小説を横書きにしてみたら、これが面白くない。パソコンのマニュアルを縦書きで書いたらずいぶん奇妙だろう。
 こう書くと「パソコンワープロにも縦書きはある」と言う奴はいるだろうけれど、使い物になるかどうかは別だからね。
 以前アメリカの国内線飛行機で、暇つぶしに文庫本を読んでいたら、隣のおばさんが興味深げに、この本はどうやって読むのかと聞く。アメリカ人には、縦書きの言語があるということが、そもそも想像を絶することなのだとそのとき気がついた。そういう限定された発想でWEBのシステムを作っているのだから、縦書きの可能性はない。Adobeのebookにもまだ日本語版はない。


8月19日

ファインダー

 LCDファインダの実用性が見えていない現在、デジカメに実像式ファインダーが全盛である。ズーム対応と対物レンズの小型化のため実像式にならざるを得ないとは言え、個人的にはガリレオ式(正式には逆ガリレオ式)ファインダーが好きだ。手持ちカメラの半分はガリレオ式である。

 何故ガリレオ式ファインダーが良いか。
 第一には、撮る範囲以外が見えるからである。ちょっと左にふったら、おばさんの尻が邪魔する、右から子供が走って来た、上に向けると電線があるなど、フレーム外は常に危険が一杯である。フレーミングの際に、狙っているフレームの外側に何があるかが見えるのは、非常に安全なのである。実像式ファインダや一眼レフでは、撮る範囲だけしか見えない。

 次に、実像式はプラスチックレンズで構成枚数も多く、プリズムで反転させるので、鮮鋭さが落ちる。この点ガラス光学系できちんと造られたガリレオ式ファインダーは、クリアで鮮明。実にいい。マニアにはライカM3のガリレオ式ファインダが定番だが、一度覗いてみると良い。ファインダ像は透明で絶品である。

 第三に、実像式は、パララックスの補正が出来ない。ガリレオ式なら採光式ブライトフレームという手がある。

 ちゃんとしたブライトフレーム付きガリレオファインダのデジカメは、可能性がないだろうか。


8月18日

ミノルタDimage7

 最近のデジカメ機種ではミノルタのDimage7が面白い、というか興味がある。
  ・28-200mmのレンズ+3.4ミクロン500万画素の画質
  ・処理速度(32bitRISC+PSOS)
  ・LCDファインダの見え
 御推測の通り、興味は「いかに良いか?」ではない。「お笑いレベルではなく、最低限使い物になりそうか?」である。ミノルタの久しぶりの全力投球だから、期待はある。少しだが。

 今のところ画質は評価がいいようだ。
 各社のインクジェット生印刷サンプルをじっくり見た。Dimage7の500万画素画像は、たしかに300万画素とは一段違う精細さがあった。しかしライティングが巧みで、ノイズ、色転びが出そうなシャドーがなく判断は留保する。ソニーCCDのノイズは改善されたのだろうか。
 ソニーS85の400万画素も、かりっとした描写で、いい。ただ画像はアンシャープで簡単に見栄えがよくなるパターン画像だったので、これだけでは判断できない。
 やはり300万画素機種は、新しくなってもA4プリントでは、おしなべて細部よれよれのだらっとした画像である。それでも唯一Coolpix995は破綻が見えなかった。中心のモデルだけにピントを合わせ、巧妙にバックをぼかしていたから、これは破綻させなかった写真家を誉めるべきだろう。

 Dimage7のLCDファインダに注目しよう。昆虫写真家のちょうちん記事では非常に見やすいと好評だが、この人は無差別に誉めるから除外。
 工芸大の内藤明は「個人的には少し硬い感じがした」としている。
 評論家の雑誌評価レベルは-2EV補正が必要だから、これを換算すると「酷評」に位置する。サンダー平山はファインダーの品質については言及せず。相変わらず立ち回りがうまい。

 話は変わるが、駄目な場合に使われる評論家のレトリックには3種類あるようだ。
  好みの分かれるところだろう。(訳:俺は嫌いだ)
  個人的にはXXXXの感じがした。(訳:ここが嫌だ)
  将来の方向として注目したい/進展を見守りたい。(訳:いまは使い物にならない)
 これを使いこなせれば、評論家は近い。

 閑話休題、Dimage7のファインダについて、他には、
  ”SF的で面白い”、という、取り敢えずコメントしておくタイプ、
  ”ざらつきが目立たない”、という消極的肯定
があったが、品質がいいというコメントはない。今まで見ている限り、LCDファインダは実用品質にはほど遠いと思っていたが、この目でファインダを見てみたいものだ。

 と書いているうちに町田ヨドバシに出かける機会があり、Dimage7をいじった。
まず注目のファインダーはアイピース(愛ピースじゃないよ、このたこワープロ)が壊れているのか、視度調節してもボケてしまって見えない。肝心な22万画素LCDの粒状性が見えないので、評価は執行猶予となった。
 しかしボケながらもファインダの色は、肉眼とは色温度が違うことがわかる。コマ落とし的な追従の悪さも見える。いい感じではない。

 AFは呆れるほど遅い。酷評は当たっていた。行きつ戻りつで試行錯誤をして、合焦まで3秒程度かかることもまれではない。これでは撮れない。とにかく早くこのカメラから遠ざかって飯食って寝たい、と思ってしまうほどの遅さである。大甘デジカメ評論家でさえ、口を揃えてAFが遅いというのもわかる。
 これだけAFでネガティブな印象があると、LCDファインダーの見えなどは大事の前の小事。それで評論家諸賢はファインダーに深く言及しなかったのかも知れない。やはりこのクラスになったら、借金してでも測距系を別に設けてオープンループで一次制御をし、きびきびしたAFを実現するべきだろう。

 これはミノルタの設計仕様の読みのはずれだ。このクラスはオリンパスがきちんと一歩先を行っている。E-10が出たときは既に開発が進行していて、仕様変更の余地はなかったのだろう。ミノルタは動きが遅い会社だから。
 外装の造りも、プラモデル屋に置きたいほど安っぽいし、売れない。全力投球しても市場に食い込めないミノルタは一体どうなるのだろうか。


8月17日

デジカメメーカ

 暇だからデジカメ各社を外食産業に見立てて見た。

 カシオ    : 「餃子の王将」
 松下     : デパートの食堂
 富士フイルム : 「すかいらーく」チェーン(バーミヤン、ガスト、藍屋...)
 ニコン    : 老舗割烹
 ペンタックス : 回転寿司
 コニカ    : 蕎麦屋「更級」
 リコー    : 宅配「ドミノピザ」
 キャノン   : ステーキハウス
 コンタックス : 「金田中」

 松下とライカがデジカメで提携した。デパートの食堂が帝国ホテルフランス料理のシェフを招いたようなもので、完全なミスマッチだ。今までのように、松下(ウェスト)が裏方としてOEMに徹していれば成功の可能性はあるだろうが、Panasonicブランドを前面に出したら勝ち目はない。それにしても何故ライカは、実績のあるミノルタと組まなかったのだ?


8月16日

マーケティング

 松永真理「i モード事件」によれば、マッキンゼーが「iモード」プロジェクトのお先棒を担いでいたそうだ。横文字のMBA用語を駆使するが、あまりの市場実態無視の青臭さに、途中から脇に追いやられたという。

 「市場の現在」という到底分析不能なものを分析して、「市場の未来」というおよそ制御不能なものを制御しようとする理論がマーケティング理論。市場の現在から出発するのは歴史を学んで先を見ること、身も蓋もない言い方をすれば、バックミラーを見ながら運転することで、危なくて仕方がない。
 経済合理性が全てではないし、いいものが必ずしも市場を席巻する訳でもないのは、Windows、X86、VHSを見れば分かる。だとすればマーケティングがわかりやすい筈もなければ、有効な筈もない。

 世界の解釈は、とっくに「進歩信仰」を離れてヘーゲル-マルクスから構造論、ポストモダンに移っているのだから、単なる経済合理性ではなく、市場の隠れたコンテキストを正しく解読する手間暇を惜しんではいけない。定量データにしがみつくのではなく、計算不能な領域の議論をもっと。
 雑誌「宣伝会議」では「環境マーケティングをどう消費に結びつけるか」特集をやっていた。これもまんざらデジカメと無縁の世界ではない。


8月15日

さる田舎で

 さる田舎で、年の頃は20代前半、学生に毛の生えたような男たち五人と、女一人のグループを見かけた。
 男たちはオリンパス、ペンタックス、富士、キャノン2台の300万画素級デジカメを持っていた。軽装だったが、デジカメ一眼(D30)を持っていた男は、一脚をカメラバッグから覗かせていた。モデル撮影会の帰りと見た。
 これだけの純粋デジカメ集団を見たのは初めてのことだ。デジカメに気を取られて、モデルの顔は見なかった。その日はエプソンも見かけたし、デジカメも普通の時代になったと、またまた感じる。


8月12日

ソニー

 世の中の動きは非線形であることはもう充分わかっている。としたら、予測は無駄。

 ソニーのように片っ端から作ってみて、市場の反応を見て売れそうなところに集約していくのも、一つの方法である。ソニーは最初から数ラインのデジカメを整備して、どんどん統合と拡大をすすめていった。「下手な鉄砲」方式でいろいろ出してマーケットに探りを入れ、適応して行くのである。
 一例が一眼デジカメ参入と撤退だ。3年前に130万画素(だったか)の一眼デジカメを出して気を吐いたが、その後は一機種後継を出しただけで事実上撤退した。はじめの機種はとんでもない勘違い設計もあって(日中シンクでシャッターが自動的に1/30程度の低速になり、露出オーバーの真っ白な画面連発になるなど)楽しませてもらったが、タムロン設計の光学系の基本は、思いの外悪くなかった。
 しかし、このクラスはオリンパスにかなわないと見るや、戦線を縮小して、一眼デジカメからは撤退していった。
 この身軽さはすごい。


8月11日

BSデジタル

 BSデジタル販売数がチューナーと受像機合わせても、月2万台だという。3年で一千万台を目標にしていたというから壊滅状態だ。売り出し前の空騒ぎも上滑りに思ったし、全く魅力を感じなかったから、この結果は意外ではない。80年代に華々しくぶちあげて全く展開しなかったCaptainシステムを思い出す。
 横並びで開発に血道を上げたメーカーは、軒並み受信機の大量ストックを抱えている。

 これははっきりしていて、「テレビー>ハイビジョン、BSデジタル」という脳天気な線形展開がユーザから黙殺されたということ、言い換えればメーカが、マーケ屋の「進歩は常に受け入れられる」という線形予測にたぶらかされただけのことだろう。ついでに「他社がやるからうちもやる」式の横並び行動様式が、集団赤っ恥状態を招いたということだ。これで各社横並びリストラではたまらん。

 リニアな進歩はデジカメ周辺でもいろいろある。
 USB1.0->USB2.0、JPEG->JPEG2000、IPv4->IPv6、CD->DVD、CPUClock、画素数
 高機能を競ったゲーム機も行き詰まっている。それぞれ技術的には精妙な進歩だが、ユーザが自腹を切って買いたくなるほど魅力のある機能かどうかというと、そうでもない。ユーザーにとって実用上は現状レベルで事足りる、と言い切ってしまうことも出来る。


8月10日

福澤諭吉

 明治30年頃、福澤諭吉はこう明快に断じて、東洋思想を断ち切った。
 「文明改新の時節にわが輩は漢学を学問とせず、漢医を医とせず、信ずれば大いに信じ、信ぜざれば全く退け、半信半疑はもって家に居るべからず、世に処すべからず、またもって国を維持するに足らざるを悟りて、ひとり自ら安心するものなり」 
 時代に説教しても勝ち目はないが、ここからのパラダイムシフトは確かにある。

 それにしても、「気」だの「超能力」を持ち出して来られたら、ロジックに乗らない、再現性もない世界だから、頼るのは直感だけになる。あるのは思いこみと図々しい断言だけで、議論にはならない。


8月9日

オカルトとAIBO

 朝日新聞に、バブルの頃NECに君臨した、関本元社長の回想録(のようなもの)が連載されている。当時私は末端管理職で、内側から見ていたから、なるほど、あの人はあの事件をこう辻褄合わせしているのかということは分かった。しかし現場の実感的トホホ話とは大きく食い違うから、自慢話を額面通りに受け止める訳にはいかない。
 息子の芸能人不倫話で週刊誌をにぎわせ、防衛庁癒着問題で経団連会長の線も消え、NECからも離れて、最近は活躍されているという話がないのは当然、とは言え寂しい。

 本題に入ろう。この関本氏、バブルの頃「ホロニック経営」とかいうものを標榜していた。社内誌には「ホロン君」の活躍するお追従漫画も掲載されていたが、日々スケジュール遅れの言い訳に追われる我々末端管理職には別の世界であった。「ホロニック経営」は正直全く理解していなかったし、ついでに理解する気もなかった。
 気功、漢方など東洋医学を扱うホリスティック医学などというのもあるし、このホロンというのは、全体を意味する「Holo」から来ていると考えると平仄が合う。つまり一言でくくってしまうと、科学を超越した東洋思想-「気」の系統である。これが企業経営とどう結びつくのかなど、分かるわけがない。
 傍証になるが、この関本氏、西野(バレー団で有名な)式呼吸法-「気」そのもの-の信奉者である。

 のっけからオカルト風に始まってしまったが、一気に本質に迫る。関本氏のではなくオカルトの。

 大雑把にくくって、こういう、「科学依存を放棄し東洋的思想、オカルト、超能力、気などを指向する思想潮流」を「ニューエイジ思想」という。ジョンレノンの「イマジン」(1972)が「ニューエイジ運動の宣言」と位置づけられているから、ベトナム戦争後のヒッピーあたりが源流になる。
 70年代が出発点になるから、私のような全共闘世代にはなじみ深い。
 それ以降、近代科学指向からの揺り戻しは、社会の大きな潮流である。

 それがここしばらく、日本の上流管理層の通奏低音にもなっているような気がする。オウムなどの新宗教が、底辺の潮流としてそれに呼応しているのではないだろうか。
 おっと、オウムを持ち出すと、「原理」、「幸福の科学」と議論はだらしなく拡散する。撤回して議論を戻す。

 カリスマ経営コンサルタントの船井幸雄はこう言う。
 「人類は覚醒しつつあり、物心2元論や機械論的要素還元主義で成立するデカルト以来の近代的価値観は崩壊に向かっている。曰く、今後は自然と人間の合一を理想とし、”気”や”霊魂”、”あの世”の存在を認める東洋思想が広まるから、若干の混乱を経て、21世紀は素晴らしい時代になろう」
 ロジカルに見れば単なるヨタ話だが、信奉者が多い大物コンサルタントだから、一部の企業経営者に本気で受け取られていることは確かだ。

 話を進めよう。
 オカルト経営で知られる京セラの稲森和夫も、船井幸雄系列だ。
 ソニーの井深大も、東洋思想に傾倒していることが知られている。ソニーに超能力と気を研究する、「エスパー研究所」を推進設置していることは周知。「エスパー研究所」はいまでも「気」の実験をして、信じる人しか分からないという学会論文を出しているのだろうか。

 同じソニー常務の土井利忠は、
 「キーワードは”癒し”」と言い、続けて、
 「競争や効率に価値を見いだす社会は、せいぜい300年程度の歴史しかないだろう。それ以前の価値観は、全く異なっていた」NE7-16/2001
と、ちらりと本音を覗かせている。

 彼は「AIBO」開発のトップである。

 その意味するところは何か? 知られていないが、土井利忠は、「天外司郎」のペンネームで、「超能力」「気」についてのオカルト本を数冊書いている。いずれも「ト学会」方面のトンデモ本である。
 つまり彼は、ソニーからイメージするスマートな技術屋ではなくて、東洋思想にかけての筋金入りなのである。こういう雰囲気がソニー上層管理層に連綿としてあるらしい。その雰囲気と製造業としての実務の妥協点が、例のロボット「AIBO」ではないか。
 トップの指示がなければ、多額の開発費は出ない。この厳しい折、単なる”癒し”ブームだけをあてにして開発費が出る筈がない。つまり、「AIBO」は通常のマーケティングの発想で開発されたものではなく、こういった上層の、一種トンデモ的・思いこみ的・非論理的な、ニューエイジ指向の強い意向がバックにあって開発商品化されたものではないかと、推測している。
 購入者が果たしてそういう「東洋思想」メッセージを受け取っているかどうかは、推測するしかないが、「ニューエイジ」から派生した、癒し系、田舎暮らし、U/Iターン、アウトドア、自然食という、90年代のキーワードと絶妙に呼応したのは確かだ。

 かくしてロボットのマーケティングに関しては、ソニーの「AIBO」が一歩先行した。マーケティングが、市場調査的な線形予測で行われるよりも、常識はずれな発想で独断した方が「当たれば」面白い展開を見せる例ではないか。
 一歩勘違いしたら悲惨、と茶々を入れるのは止めておこう。

 余談だが、「AIBO」を見せてもらった。あの冷たいボディーで「癒される」という感覚はどうもわからない。しかし、これに共感して買う人が東京ドームの何十杯分もいることは事実である。


8月8日

何が売れるか

ちょっと古いが、引用。
 「髪の毛が長い女の子が売れているときは、むしろ髪の毛が短い個を探した方がヒットする確率は高い、ということです。つまり、みんなと、あるいは大衆と逆の方へ先回りしていくことが大切である。これがまず、ヒットというものの最低条件であるんではないかと思います。」秋元康 (トレンド学 マドラ出版)
 つまり秋元が言うのは、何でも反対の発想をすればいいということ。一時流行した逆転の発想、水平思考と変わりはない。参考にもならない話だが、ヒットする要因を単なる対立項への揺れとしてとらえる見方は、流石に芸能人である。下手に「進歩」に結びつけていないところが、潔い。


7月24日

アマチュアカメラマン

 先日立川の昭和記念公園に行った。赤や黄色のポピーが満開で、天気も良く気持ちが良かった。あそこは花を撮るカメラマンが多いのは御承知の通り。
 カメラマンベストと望遠マクロズーム付き高級一眼レフ、カメラバッグにGitzoの三脚を持った熟年団体が、そこかしこでポピーを撮っている。頑張って撮ってね、と気にせず過ぎればいいのだが、つい気になる。

 風がかなり強い日だった。ポピーの花は茎が細くて長い。花は前後左右に揺れまくり、とてもピントを合わせるどころではない。フレーミングもままならない状況である。三脚も扱い慣れていないようだ。

 加えてピーカンの真昼の光である。影が強すぎてハイライトが飛ぶかシャドーがつぶれるか、どちらにしろフィルムの限界を超えた光線状況である。家のデジカメでは確実に白飛びする。ベテランならディフューザーを使うのだろうが、この風では固定もままならない。

 経験者だったら、はなから諦める状況なのである。こういう初心者が悪戦苦闘しながらそこそこ撮れる様になるには、経験を積まなければいけないが、その失敗と克服が写真道楽の楽しみなのだ。こういう人が機材を購入してフィルムを消費し、カメラマーケットを支えているのだと思う。


7月23日

デジカメは使えるか?

 最近デジカメの出番が増えた。3MP3倍ズームデジカメである。
 現像でラボに車を走らせる必要がない。結果をPCですぐ確認できるから精神衛生上もいい。シャドーのノイズを除けば画質上の問題はないし、A5のプリントであれば十分きれいに仕上がる。スタジオでのマニュアル操作の使い勝手もいいし、考えたことがほとんど銀塩と同等に実現出来るから、このクラスのカメラとしては良くできている。

 しかし銀塩カメラの撮影範囲から見た場合、デジカメの出番は「フツーの生活記録写真」に限られる。残念だが20万円以下のデジカメの共通の限界だ。その理由は3点。
 1. 28mm以下の広角が使えない。コンバージョンレンズは性能とバランスが悪く、使い物にならない。
 2. AFと連写性能、感度はスポーツ写真に使えるレベルではない。運動会ですら撮れない。
 3. 背景をぼかすことが出来ない。作画上は致命的。
 こういった宿命的な問題があって、勝負写真には使えない。山久美さんではないがデジタル一眼に期待する。いずれは価格がこなれて使い勝手が洗練されてくるだろうから、35ミリ一眼もデジタルが珍しくなくなるだろう。カメラ雑誌のデジカメ記事が一眼デジカメに偏ってきているのも、うなずける。


7月22日

デジカメこの一年

 デジカメはこの一年間で、100万画素以上が83機種発売されている。売れ筋は200-300万画素らしいが、最近この近辺のデジカメは新味がない。Ixy Digitalでユーザに「性能より見てくれ」と断を下されてしまったわけだから、力は出ない。やることがなくなったという感じで、各社お茶を濁すだけの停滞。
 Nikon CoolPix995も苦肉の策だろう、フラッシュの位置を変えてみたが、いや新鮮味のないこと。ますますカシオに近づいてしまった。購入意欲どころか道ばたに落ちていても拾わない。
 カメラ雑誌ももう一眼デジカメしか目が向いていない。評論家もこのクラスの性能的な限界が分かってきたし、書く話題がなくなってきた。

 21mm単焦点の、固定焦点超薄型300万画素デジカメでも作るメーカーはないか。1/2"CCD、4.5mm/2.8(
21mm相当)、ゾーンフォーカス、レンズ移動なし。


7月21日

デジカメ5百万台

 デジカメが来年には日本で「5百万台」売れるという予想がある。

 まずいちゃもんを付けると、調査会社ほど当てにはならないものはない。89年のこと、Dataquestは、IBMのOS2が92年にはMSDOSを押さえて世界制覇するという予測を発表した。これはものの見事にはずれて、以来調査会社の予想は天気予報と同じと見なすことにした。
 いや歌舞伎町の街角占い師の方が近い。天気予報は資格が要るが、市場予測は誰でも出来る。

 世の中の動きは非線形だから、線形予測が出来ると思う方がそもそも傲慢なのだ。調査会社が過去に垂れ流した予想と結果を突き合わせてみたら、面白い結果が出るだろう。調査会社の社員は、出家するか首をくくるしかない。羞恥心があれば。 ないか。

 ともあれ5百万台は信じられない。上に書いたようにデジカメも銀塩と本質的には同じで、ユーザから見れば「写真を撮る」という機能は変わらない。デジカメだからといってパイが広がったわけではない。つまりデジカメは銀塩カメラの市場を食い荒らすしかない。
 今までの銀塩カメラが、良くて年間5百万台強だから、カメラ販売数が全部デジカメに置き換わらなければこの数字は出ない。

 デジカメが5百万台売れたら、当然銀塩のラボは売り上げを減らして路頭に迷い、フィルム会社は売り上げ半減で青息吐息になる。細々とではあるがプリント市場は残るし、医療用レントゲンと製版用フィルムの大市場は残るから、直ちにフィルムの市場がなくなるわけではないが、日没産業である。

 無理を承知で年間5百万台を前提に考えると、老若男女貴賤賢愚を問わず、日本人24人に一人が買う計算になる。世帯数4千万だから8世帯に一台売れ、購買対象の勤労人口6千万人で見ると12人に一人が買うと言う勘定になる。勤労人口にはITに縁のない土方(土木建築関係といったほうがいいか)やタクシーの運転手も含まれるから、それを除くと実質購買対象人口はさらに減る。6人に一人がデジカメを買うということになる。ホントか。

 5百万はいかなくても数百万であることは確かだ。
 これだけの人に「画素数」だの「微妙な画質」だのを納得させることは出来ない。ほとんどの人は外見とブランドで、「あっ、かわいい」とIxy Digitalを買うだろう。


7月20日

デジカメで何が変わる?

 カシオが6年前、LCD付きデジカメのコンセプトを確立した。それがヒットして以来、デジカメは本質的に何も変わっていない。
 確かに性能の進歩は著しいし、機能も使い物になるかどうかはさておき、増えた。CCDメーカも必死で頑張ったし、カメラメーカも馬鹿力を出した。4-5年で8万画素から300万画素まで行ってしまったのだから、おそろしい。ここまでまともな物になるとは、正直に言って予想を超えた。
 しかし画素数だ、カードだ、USBだ、性能だと能書きを張り付けても、フツーの人から見たら、ただのLCD付きカメラだ。新しい使い方が発見されたわけではない。カメラは依然として「写真を撮る」ためのカメラである。

 デジカメにしたら写真を沢山撮るようになるか? 
 「写真を撮る」というのはユーザにとっては「しんどい作業」である。AE,AFはオートになっても、フレーミングとシャッターは自動というわけにいかない。「撮る」にあたってはファインダーを覗いてズームを合わせ、風景なり家族をフレームで切り取らなければいけない。シャッターボタンを押す決断も要る。テレビを漫然と見るのとは違う、前向きの作業なのである。

 フツーのユーザにとってこんな肩の凝る作業をする気になるのは、何かしら「記録に残して追体験」したい旅行、パーティ、結婚式、卒業式のイベントに限られる。イベントごとに4枚、5枚しか撮らない、そして一本の24枚撮りフィルムに、正月と夏休みの写真が収まる。

 この状況はデジカメになっても変わるものではない。デジカメにも「撮る行為」のしんどさを軽減する力はない。デジカメの標榜するプリントサービスや通信は、撮ったあとの話である。撮ることの負担が減る訳のものではない。撮る機会は依然として、ユーザの「追体験」したいイベントの「頻度」と「気力」にかかっている。

 デジカメでフィルムコストがなくなったら、「だめもと」感覚で沢山撮るようにはなるかもしれない。しかし、それは単にシャッターの回数が多少増えるだけだ。プリントする写真はLCDで選別されるから、プリント枚数が増えるようには思えない。

 というわけで冷静に考えると、今のところ銀塩カメラの延長上にしか、デジカメの土俵が見えてこない。ということは台数は銀塩を超えることはない。これでいいのかという気もするが、革新的なコンセプトはそう簡単に出てこないし受け入れられない。
 キューブリックの名作「2001年宇宙の旅」で、会議の場面にカメラマンが出てくるが、カメラも撮り方も旧態依然としている。全く未来的ではない。あれだけの傑作SFでも写真に関しては想像力はそこが限界かと思うと、意気は上がらない。実際2001年になっても、店頭にはフツーのカメラが並んでいるし。


7月19日

デジカメ

 暑さで脳味噌が溶けているかもしれない。論旨の矛盾不明の折はご容赦。

 「蘊蓄蘊蓄.....まぁそのへんの話は写真を相当やってこないと分からないことだから、初心者レベルではデジカメも結構納得できるレベルになってきたと結論づけておこう」
 サンダー平山は相変わらずべたべた文体で、こうのたまう。
 サンダー氏は公衆電話で隣り合ったことがあるが、割と小柄だった。デジカメ評論家に背の高い人が少ないのは何故か?

 閑話休題、最近はデジカメも銀塩カメラと同じように使える、ということがフツーの人に浸透した。銀塩が一般化するまで150年かかったが、デジカメはわずか6年で市民権を得た。カメラにLCDを付けただけだから、コンセプトはわかりやすい。

 「デジカメってフィルムいらないんですかぁ」
 「カードって明るいところに出しても大丈夫なんですかぁ。すっごーい」
 「画素数って何ですかぁ」
 「フツーのカメラと変わらないじゃないですか。 シャッターついてるし」
 看護婦とデジカメ話をしていたらこの程度。まぁフツーの人のデジカメ認識である。


7月14日

インクジェットへのプリントと画像サイズ

 うちのフラットベッドスキャナは光学解像度が800dpiしかないので、4X5フィルムでも情報量は12MPixelしかとれない。いつもA3プリンタでしこしこ1/4画面づつプリントし、張り合わせてA1に合成し満足していたが、知人が大判ポジから、大型インクジェットで一挙にB0(1,500X1,100mm)に引伸ばしてくれた。
 B0のプリントを見せられたら、別世界である。赤面もののへたくそ写真ではあるが、情報量の多い引伸し画面の「超弩級迫力」には改めて感動した。一昨年Epsiteで見た、藤原新也「俗界富士」も目を剥くすごさだったが、これも8X10からのB0プリントだ。

 原板が4X5だから1,600dpiでスキャンすると、画像サイズは50MPixelになる。これだけのサイズになるとPhotoshopでも500MBのメモリがないと扱いに苦労する。50MPixelあればB0を130dpiでカバーする情報量があって、画面1/3大の人物の微細なキャッチライト(目の光点)も、なるほどきっちりプリントされている。
 しかしB0まで大きくなると、狭い団地では飾るところがないよなぁ。

 50MPixelは、3-5MPでうろうろしているデジカメとは桁がちがうので、ひとまず夢の世界としておく。今回は一般ユーザのデジカメプリントと画素数について、大雑把に私なりの整理をしてみる。

 視力1.0は、1分(1/60度)の分解能がある。検眼表の「C」の切り欠きが、丁度角度一分になるわけだ。月の見かけの視角が30分だから、視力1.0であれば月の上に15本の線を見分けられる。
 明視距離25cmで見ることを想定すると、1分の視角は25cm離れて0.073mmである。0.073mmを一ドットとするとこれは350dpi相当になる。つまり「普通の人が普通の距離で眺めて、不快感なく読める」ビットマップ画像の解像度は350dpiあたりになる。
 これを基準にしてレーザプリンタの解像度が決まったと考えると、平仄が合う。1984年のAppleLaserWriterに始まる、初期のレーザプリンタは300dpiである。

 その昔、現役末端技術者だったころ、レーザプリンタを担当した。最初は、背の高さほどあるメインフレーム用大型連続紙プリンタである。速度は一万行/分。図体は押し入れ二個分ほどあり、プリンタの天井裏にはシングルベッドほどの平面に、一抱えもあるヘリウムネオンレーザが鎮座していた。レーザはプリズムで天井を一周する間に、コリメータ、AO変調機を介してポリゴンミラーへ導かれ、F-θレンズで直径30cmの感光ドラムを走査する。
 試作プリンタの天井でポリゴンモータが数万回転で回り始めると、キーンという騒音が実験室に鳴り響き、このプリンタはいつかヘリコプターのように飛ぶと噂されていた。印刷実験をしているとトナーで指が真っ黒になる。毎日毎日、爪に詰まった真っ黒なトナーを落とすためにシャンプーしたものだ。

 その後レーザダイオードが出来てプリンタがデスクトップに乗るようになり、現像ドラムも缶ビールの缶の製造方法を取り入れ、格安になった。

 解像度の話に戻ろう。300dpiではよく見ると斜め線のギザが目立つ。レーザを強度変調したり、ドット位置を微妙にずらしたりして、小細工でしのいだ時代が続いた。その後メモリが安くなって解像度が上がり、今はもう300dpiのプリンタはない。600dpi、1,200dpiとどんどん改善されて、しかも一台二万円である。

 閑話休題、話をカラーに戻す。白黒レーザプリンタは300dpi必要だが、肉眼のカラー分解能は白黒より落ちるから。カラーのプリント解像度はもう少し楽になる。300dpiは必要ないが、画像にはコントラストの強い部分もあるから、むやみに下げるわけには行かない。どのあたりが落としどころか?

 市販のインクジェットプリンタは720-1,440dpiを標榜しているが、これは単一単色ドットの話。フルカラーは複合ドットで構成しなければいけないから、カラーとしての精細度は、ずっと低くなる。
 実際にEpsonプリンタで、写真がどの程度再現できるか印刷テストをしたところ、200-240dpiが表現の限界だった。それ以上精密なデータを与えてもプリントした画像が緻密になるわけではない。300dpiのデータを与えても、プリンタ出力は200-240dpiと変わらないのである。
 画像品質も、明視距離25cmで見ている分には200-240dpiで十分だと思える。プリンタメーカはそれを見込んで、写真画質を200-240dpiに見切っているのだろう。
 その後各メーカは、速度と耐久性の改良にしのぎを削っているようで、ヘッドの微細化が必要な解像度の改善をしているようには思えない。実用上現状で解像度は十分と、各社割り切っているのだろう。
 熱転写やピクトロで240-300dpiの差はどれくらいだろうか。

<結論1> インクジェットプリントの写真画像は200dpiでいい。

 六ツ切の印画紙(8"X10"=ほぼA4)に引き伸ばした写真を、明視距離25cmで見るとしよう。対角線の視角は66度になり、六ツ切全面を一度に見るには適当な距離である。(この視角は35mmカメラの写角に換算すると、33mm広角に相当する)
 240dpiで全面プリントする場合、六ツ切(8"X10")では1,920X2,400ドットで、4.6MPixel必要だということになる。200dpiでは3.2MPixelである。
 3MPixelあたりが、六ツ切・A4プリントのための、画像品質上必要な最低情報量ということになる。

 3MPixelでA4プリントが出来るのなら、3MPixelデジカメのデータで、十分A4プリントできる結論になってしまうが、実際には苦しい。何故か?
 デジカメの場合、画素数の計算に「水増し」があることは周知の事実。慣例的に、CCDの各色画素の総計を画素数にしている、スキャナは一画素についてRGB情報を持っているが、デジカメはRかG、またはBの情報しかない。そこを補間(水増し)して画素数分のデータを生成しているのだから、詐欺と言えば詐欺。(ちなみにNikonD1だけは、各画素にRGB情報を持っている。正直でよろしい)

 つまりデジカメの場合実質の画像情報量は、大雑把に公称有効画素数(CCDピクセル数)の約半分と見ていい。3MPixelのデジカメでの実質情報量は1.5MPixel程度になる。これではA4プリントには足りない。
 これは感覚的な経験とも合っていて、3MPixelのデジカメ写真は、A4に伸ばすと締まりのなさが感じられる。3MPixelでは最大A5が妥当なところだろう。

<結論2> 3MPixelデジカメではA5プリントが限度。

 フィルムスキャンの限界はどうだろう。
 今35mmフィルムは、1,500-1,600dpiでスキャンしている。スキャナの最高解像度は2,700dpiあるが、実質1,600dpi程度で使っている。何故か? 解像度を上げても「フィルムの粒子」が見えてくるだけ。無駄な情報は増えるが画像としての情報量は増えないのである、つまり経験上ファイルサイズが大きくなるだけで、きれいにはならない。
 Canon/Nikonから最近4,000dpiのスキャナも出ているが、フィルムの粒子をより微細にスキャンするだけで有効な画像情報はないから、時間とメモリの無駄だ。
 仮に1,600dpiでスキャンすると、35mm判では2,267X1,511ドットで、3.4MPixelになる。これをA4にプリントすると220dpiが得られて、写真画質として実用になる。実際3MPixelデジカメより、ずっと解像感のあるきれいな写真ができる。
 ちなみに自宅でA1まで引き伸ばすときは、4X5で撮り、800dpiで12MPixel程度のファイルを作る。プリント上では110dpi程度にしかならないが、近づくわけではないから気にはならない。

<結論3> 35mmフィルムを1,600dpiでスキャンすると、A4プリントに十分なデータになる。

 ただし以上はスキャンプロセスだけの話。スキャンするにはいい材料(フィルム)が当然必要で、1,600dpiでスキャンできる写真を撮るのは、結構大変である。機材、フィルム、ブレ・ボケなし、といい条件が揃わないと、なかなかスキャンに値する素材は出来ない。普通の銀塩写真でも六ツ切に引伸ばすピントは大変である。
 1,600dpiでスキャンするという条件から、フィルムとレンズの性能を追ってみよう。

 dpiを直接写真の解像度に換算してしまうのは結構無理があるが、精密な議論は学会誌に任せておいて、ここは大雑把にストレートな計算をする。大体分かればいい。
 無理を承知で1,600dpiをフィルム面上の分解能(lp/m:1mmあたりのラインペア)に換算すると、(1,600/25.4)/2=31.4lp/mmになる。実際にはMTFはドットレベルではかなり下がっても問題ないから、これより低い分解能でもいいが、大雑把にこれくらいあったら、フィルム素材としては100点満点と考えておこう。

 カメラで被写界深度を計算するのに、常識的には最小錯乱円直径を1/30mmにする。「常識的には」と書いたが、どういう根拠かは寡聞にして知らない。ともあれ銀塩ではこれくらいぼけても、ピントが合ったと見なしているわけだ。
 またこれを強引に分解能に換算すると15lp/mmになり、これは1,600dpiスキャンに必要な31lp/mmにかなり足りない。フォーカシングは被写界深度の余裕に頼らず、正確でなければいけない。

 また、フィルム上の最終解像度はレンズとフィルムの合成になるから、両方の性能が良くないと駄目だ。例えばレンズの分解能が100lp/mmでもフィルムが50lp/mmであれば、合成した分解能は33lp/mmになってしまう。これにフォーカシングの精度が加わるから、六ツ切にプリントできる写真を撮るのは精度が必要なのである。デジタルに限った話ではない。その点デジカメは楽か?

<結論4> A4プリントするには、きちんと撮ろう。

 もっとも、こういう具合に数字をひねくり回しても、それは数字の世界だけの話と言われればそれまで。この程度を目安にデジタルデータを扱っていれば、大きなファイルと格闘したり、しまりのないプリントを作るために無駄な労力を費やさなくてもいい、4,000dpiに目がくらむ必要もない、という程度の知識である。
 カルチェ・ブレッソンやロバート・フランクなどの古い写真は、40年以上前の機材の限界でお世辞にもシャープとは言えない。それでも写真としてはインパクトがある。
 デジタル写真が進歩したおかげで、素人にB0引伸しも無理な相談ではなくなった。そしてあとは腕だけという、これまた月並みな結論である。

<結論5> 写真の腕を磨こう。


7月6日

カメラの適当な大きさについて

 今回はカメラの「大きさ」談義。 ちょっと長い。

 カメラは持ち運ぶもの。家で飾って毎日せっせと磨いている人もいるが、この際黙殺する。軽くて小さいほど楽なのは当たり前だ。

 5年前、初代のAPSIxyを率先して使ったが、「使い勝手の違和感」と「線の太いレンズの描写」に辟易した。だから、アンチIxy方面にアクセル全開でいく。
 Ixyは流石によく詰め込んだと感心するし、外装のしゃれた感じはいい。アクセサリコンセプトは明快だし、時代感覚をとらえている。
 「時代」と戦ったら勝ち目はない。誉めるのはここまでにして、道具として酷評する。
 まず手に持って使いにくい。指になじまない。生理的な違和感である。F月が吠えるまでもなく、使う立場から見たら、蹴飛ばしたくなる代物だ。

 ウォークマンやMP3であれば、操作は大した頻度ではないから、極小サイズや豆粒ボタンは許せる。
 写真を撮るには、ゲージツであれ記念写真であれカメラを狙った方向に保持しなければいけないし、フレームをちゃんと見る必要がある。カメラをストレスなく、両手でしっかり保持できるのが基本になる。
 人間には適当なサイズがある。カメラという「道具」であるからには、手指のサイズに見合ったカメラの大きさというものがある筈だ。そこを今回掘ってみる。オリンパスペンから、横幅20cmの富士GW690まで使った経験から、カメラの大きさの「傾向と対策」について考える。

 のっけから明かすと、私のお気に入りサイズは「リコーGR-1」と「ミノルタCLE」である。残念ながらCLEは修理が不安で現役ではないが。両方とも手頃な大きさで手になじみ、持ち運びが煩わしくなく、操作も簡単。写真を撮る道具として理想的である。

 まずその2機種を含めて、世の中のカメラはどうなっているか。年季をかけて操作性が練られた「銀塩カメラ」を中心に、カメラの外形、重量をざっと調べた。銀塩一眼レフや中大判は確信犯向けだから、ここでは視野に入れない。

 ARはアスペクト比、最後の数字は見かけ上の比重である。

デジカメ
Canon IXY Digital 2000 87.0x57.0x26.9 190g AR=1.53 1.42g/cm3
DC4800 120.0x65.0x67.0 320g AR=1.84 1.17g/cm3

高級コンパクトカメラ
Minolta TC1 99.0x59.0x29.5 185g AR=1.68 1.07g/cm3
Contax T3 105.0x63.0x30.5 230g AR=1.67 1.14g/cm3
Ricoh GR-1 117.0x61.0x26.5 175g AR=1.92 0.93g/cm3
Contax T2 119.0x66.0x33.0 295g AR=1.80 1.14g/cm3
Fuji Klasse 123.0x63.5x37.0 250g AR=1.94 0.87g/cm3
Konica Hexer 137.5x76.5x64.5 495g AR=1.79 1.34g/cm3

レンズ交換RFカメラ
Minolta CLE 124.5x77.5x32.0 375g AR=1.61 1.21g/cm3
Voigtlander BESSA-R 135.5x78.5x33.5 395g AR=1.73 1.13g/cm3
Nikon S3 136.0x81.0x43.0 590g AR=1.68 1.25g/cm3
Leica M6TTL 138.0x79.5x38.0 600g AR=1.74 1.43g/cm3
Hexer RF 139.5x80.0x35.0 560g AR=1.74 1.44g/cm3
Contax G2 139.0x80.0x45.0 560g AR=1.74 1.12g/cm3
  *DC4800とHexerの比重は、レンズの出っ張りを考慮して実ボディー厚で計算。

<まず「大きさ」について>
 縦方向サイズは考えない。カメラの底にワインダーを付けたり、コダック一眼デジカメのように縦方向にボディーが伸びるが、カメラのホールドや操作性上は余り影響しない。

 まず横幅。
 お気に入りのリコーGR-1とミノルタCLEが、横幅120mm前後である。このあたりがホールド感が一番いい横幅だと「個人的」には思う。私の手は指を広げて23cmと大きめだが、並はずれて巨大でもない。器用だ(と思っている)から順応性はある。それで丁度いい幅が120mmである。
 GR-1とCLEの2機種は、ボディ角の面取りがほとんどなく、実質120mm幅の平面をホールドに使える。
 レンズ交換RFカメラのBessa, NikonS3 , LeicaM6, HexerRF, ContaxG2の全てが、横幅135-140mmである。申し合わせたように同じサイズだ。しかし135-140mmの全面がホールドに使えるわけではない、ボディーの左右に45度の面取りかアールが付けられているから、実質の平面部分、つまり手でつまんでホールドできる部分は120mm程度になる。「120mm」がカメラの有効ホールド面であることはCLE, GR-1と変わらない。
 HexerRFは例外的にほとんど面取りがなく、ホールド面は140mm幅一杯にとれるが、デザイン的には正面がだだっ広く、間延びして感じる。

 これ以下、横幅100mm前後になる小型機種は「私には」使いにくい。ContaxT3とMinoltaTC-1を、店頭でいじり倒したが、やはり手に余る。指が余って、余計な力が入るのである。落とさないように無意識に指先に力を集中するのは、これまたストレスになる。

 次行こう。厚さ。
 ほとんどの機種は30mmから40mmである。当然、収納上薄い方がいいし、薄い方が持って楽に感じる。GR-1の26.5mmが一番である。30mmのTC-1と比較して持ってみると、TC-1はかなり厚く感じる。手は厚さに敏感だ。
 厚さは30mm以下が推奨だが、妙な出っ張りがなければ'35mmまで許容範囲だ。

 結論:ホールド性から見てカメラとしての横幅は、120mm前後がいい。厚さは30mm以下がいい。

<「プロポーション」はどうか>
 縦横のアスペクト比を見てみる。調べたカメラの縦横比は大体黄金比の1.62を超えている。確かにライカ系はアスペクト1.68-1.74でスタイルが美しい。GR-1は1.92のアスペクトで、さらにスマートに感じる。
 CanonのIxy Digitalは1.53で、やや不穏な感じがする。単に嫌いという偏見ではないと思うのだがどうか。

 雑誌のデジカメ一覧写真やデジカメ売り場を見ると、特有のデジカメ臭さがある。その一つがずんぐりむっくりのアスペクトだ。ざっと見渡したところ、ソニーのP1系を除いて黄金比以下になっているものが多い。フィルムのパトローネ-巻き上げ軸の呪縛がなくなったら、正直なもので、デジカメは四角くなった。
 富士の40i,4800系は特にそうだが、意図してカメラの形状を外したものも定着している。ホールドは片手撮りになるが、安定しないとよく言われる。
 DC4800はアスペクト1.84とかなり横長だが、グリップ部が全面的にふくらんで、アスペクト比が視覚的に効いていない。平面部が一部でも左右全長に通っていればスマートさが出ただろう。

<「重さ」はどうか>
 当然軽い方がいい。カメラは持ち運ばなければ意味がないから、運搬の楽さが優先である。ぶれを防ぐために重い方がいいと能書きを垂れる人はいるが、三脚を持ってくたくたになってもらおう、体力が残っていてこその感性だ。持ち運びでへとへとになったらいい写真など撮れるものではないし、カメラに行動を制約されては元も子もない。

 カメラの重さと、終日持ち歩いた体験から見た「へとへと度」はこの通り。

 500g以下 Hexerがちょうど500gだが、携帯上気にならない。GR-1のように200gを切ると、ズボンのポケットに入れても違和感なし。

 1kg レンジファインダーカメラ(Bessa, S3, M6, HexerRF, G2)は、レンズを一本付けて1kg弱になる。入門向けの軽量一眼レフも、レンズ付きでこの程度である。負荷は大したものではないが、金属カメラだからずっしり感があり、金属の塊を持っているという感じが終始つきまとう。

 1.5kg EOS-1Nなど高機能一眼レフに標準ズームをつけたものや、中判のMamiya7がこのあたり。一日持ち運んで行動を制限されない限度である。

 2kg EOS-1Nに手持ちで撮れる程度の望遠を付けると、これくらいは覚悟しなくてはいけない。これは一日持ち続けると結構しんどく、行動半径は制約される。果ては捨てたくなる。

 3kg Pentax67にレンズ付きでこのくらい。歩き回ろうとは思わない。歩き回るとしてもせいぜい半径200m以内だ。天才アラーキーはPentax67と三脚を持ち歩いてスナップを撮っているそうだが、Gitzoの重い三脚は、助手に持たせているに違いない。

 ちなみに4X5だとカメラ、フィルムホルダなど七つ道具一式で6kgになる。これに三脚が加わったら被写体を探しながらぶらぶら歩けるものではない。あらかじめ被写体を見つけておいて、車で一直線に行って撮るしかない。

 Canon Ixyは持ったときにずっしりと感じる。比重がライカ系金属カメラに近く、指の保持面積が小さいから相乗効果だろう。比重が1.0になれば楽になるかも。
 お気に入りGR-1は比重0.93。水に浮くかもしれない。

「今日の独断結論」
 以上をまとめると独断の理想カメラのサイズは
   120X63X30mm 230g AR=1.9 比重1.0g/cm3
 それじゃGR-1じゃないかと言われるが、ハイそうです。


7月2日

春の高級コンパクトカメラ

 ボーナスを当て込んで銀塩高級コンパクトカメラが各社から出てきた。早速独断偏見のなで切り。

 まずリコー「GR-21」
 Fotokinaの発表で逆上し、4月発売と同時に現金を掴んでヨドバシに突入する予定でいた。
 個人的には21mmが好きだ。30年前、高梨豊のスーパーアンギュロンの鋭い写真に圧倒されて以来、21mmの空気感に惚れ込み、第二の標準レンズである。
 21mmレンズは以来さんざん浮気して、結局コンタックスのBiogon21/2.8に落ち着いた。性能には不満はないが、G2のボディーは大きくて思ったより重い。単独なら持ち歩きは楽勝だが、主機マミヤ7(1.7kg)と同時にぶら下げて歩くのはしんどい。ポケットに入る21mmが欲しかったのである。そこにリコーからGR-1の21mm版の発表である。期待しない方がおかしい。
 結果はペケ。レンズの出っ張りが大きいのである。見合い写真に惚れ込んで、うなだれて帰った様なものだ。
 GR-1は厚さ27mm。ズボンのポケットでもウエストポーチの隅にでもするりと入る。これが実にいい。しかしGR-21はレンズがグリップより出っ張り、するりとはいきそうにない。おまけにカバーがなく、前玉むき出しである。ついでに言うならどのサンプル写真を見ても、周辺光量ががた落ちである。リバーサルのスキャナは苦しいだろう。あれやこれやで、一挙に熱は冷めた。
 そうは売れないだろうと言うのが実感。もう少しリコーも頑張ってくれればいいのに。

 富士フイルムの「Klasse」
 ちょっと安めの高級コンパクトと言う触れ込みだが、デザインがまるっきり「ださ富士」である。レンズ周りのデザインコンセプトは、観光写真屋さんの実用一点張り記念写真カメラ「GSW690」と共通だ。  「90年代ビジネスは快楽指向」(注:ダイヤモンド社-読むほどの本ではない)では、今日の日本における趣味のカッコ良さは、投資資金とそれに費やす時間量に比例するするという数式を紹介している。ヨタ話だが一面は真理。高級コンパクト趣味は金を惜しまないのである。富士ブランドで安めの高級品というコンセプトは、高級コンパクトおたくの購入意欲を刺激しない。これもペケ。

 京セラ「ContaxT3」
 店頭でいじり倒してきたが、小さすぎて駄目だ。ほとんどミノルタのTC-1と同じ大きさである。ホールディングで手が余ってしまい、指曲がりが不自然になる。厚めで4隅のエッジがきついから、ポケットに滑り込ませるにも難がある。T2は手頃な大きさなのに、何故大きさを継承しなかったのだろう。Ixy、APSのあとで、今更小型化競争でもあるまいに。


7月2日

アサヒカメラ

 7月号アサヒカメラの175ページ参照。
「露出・測光機能で選ぶカメラ」の頁に、COOLPIX995やオリンパスE-10の高級機と並んで、KodakDC3800が紹介されている。DC4800を入れる予定で原稿を作ったらが販売中止になったので、急遽DC3800に差し替えたのだろうと推測。アサカメ編集部も困ったろう。


7月1日

カメラ

 行楽のオトーサンが一眼レフに標準ズームを付けていれば、家族関連専属写真記録係としての任務を帯びているとわかる。重たいレンズを付けて、街のゴミ箱を撮っていたら、これはゲージツ派の写真セーネンである。ピカピカライカを持ったループタイのおっさんは、金と暇をもてあました隠居のカメラおたくだろう。
 カメラらしいカメラを持っているとオーラが立ちのぼり、必然的にカメラとスタイルから、何らかのステレオタイプに性格が規定されてしまう。その視線は、逆にカメラを持った人間を知らずに力ませる。

 IXYはそういう力学がほとんど働かない。カメラらしいカメラのアンチテーゼなのだ。写真を撮るカメラであることを自己否定したカメラ。カメラ臭さを徹底して取り除いて、アクセサリであることを擬装するカメラ。「すんでのところでカメラでもあるアクセサリ」
 持っている人は、自分が「カメラ」を持っていることすら意識しないで済むかも知れない。「そういえばこれカメラだったんだ。うっそー」


6月30日

春のデジカメ

 去年はIXYのヒットで暮れ、ユーザの興味は、
 「アクセサリにもなるかっこいい小型のデジカメ」
 「画素数」も「画質」も「操作性」もいらない
とわかった。画質競争はきっちり引導を渡された。
 季節は初夏。IXY似のコンパクトデジカメがボーフラのように沸いてきた。

 キャノン IXY 200/300 2M 35mm2-3X CF 54,800-64,800
 富士 FinePix 50i 2.4M 36mm単焦点 スマメ 59,800
 三洋 DSC-MZ1 2M 35mm2.8X CF 48,800
 京セラ Finecam S3 3M 38mm2X SD 69,800
 Pentax Optio330 3M 37mm3X CF 74,800
 東芝 Allegretto M81 4M 35mm2.8X スマメ 69,800
 リコー Caplio RR10 2M 38mm2X SD 59,800

 こうして並べていても鬱陶しい。仕様からは社名も型名も区別できないくらい、アホらしく似た仕様だ。各社言い分はあるだろうが、ユーザから見たら大差はない。

 「キャノンの先を行こうと脳味噌を絞っても、画素数アップしか出ない発想の貧弱」
 「相も変わらぬ安直な35mmズーム」
 「自社都合優先のメディア選択」

 先行してブランドを確立したIXYは別格である。2機種が出てショップディスプレーの存在感もあるから、売れる。
 富士はコンセプトを確立した「40i」の継承版で、四角形の薄型MP3兼用だから、許せる。リコーがファインダなしでMP3兼用と若干ユニークだが、数は出ないだろう。
 他は何だ。OEMで食べていける三洋を除いて、京セラ・Pentax・東芝はヒットもなく、デジカメビジネスは徳俵状態の筈。こうなると、社内事情は泥沼だ。マーケ会議は緊迫するが、責任回避と問題先送りに議論はだらしなく拡散し、結局は無難なIXY追従me-too路線に落ち着いた、という解釈が妥当だろう。京セラは会社の突撃体質、Pentaxは老舗カメラ会社のメンツ、東芝はCMOSで失敗した負の遺産を引きずって止めるに止められないのか?
 上役を説得するバラ色のビジネスプランを立てるのに大変だろう、と忖度するが、所詮小手先ではIXYブランドに勝てない。富士のハニカムCCD(完全にオフサイドだが)程度に、仕様かデザインではり倒す衝撃がないと、ブランドでねじ伏せられるのは目に見えている。
 火事場の馬鹿力。悪ふざけでもいいからユニークなものを出せばいいのだが、そういう人材は得てしてはじき飛ばされ、自分で「安○一式」を作ることになるか。うむ。


6月29日

評論家宣言

 デジカメ、カメラ、写真にまつわる雑談を中心にしばらく続ける。
 独断、独善、断言、浅見、短見、妄断、浅慮、偏見、撞着、傲岸、悪ふざけ、以上平にご容赦。

「いつから評論家になったんだよ」
いまからだよ。