新選組水戸派

 今から140年前、幕末の京都の治安を守るために誕生した若き集団があった。京都守護職松平容保公お預かりの「新選組」である。
 
嘉永6年(1853年)にペリー提督率いる黒船が浦賀沖に来航。これがきっかけとなって、国内は開国派と攘夷派に分かれて大混乱に陥った。
 
当時、弱体化していた幕府は開国に踏み切り、日米和親条約を締結した。しかし、時の孝明天皇が攘夷論者だったこともあって攘夷派の朝廷と開国派の幕府が対立、尊王派は攘夷派と結びついて尊王攘夷派となり、開国佐幕派との対立へと発展する。
 
反対勢力の尊王攘夷派を安政の大獄で弾圧した大老井伊直弼が、水戸浪士らに桜田門外で暗殺されると、幕府はにわかに朝廷との融和を図り、公武合体策を推進した。具体的には、孝明天皇の妹・和宮を将軍家茂に降嫁させたのである。また、京都の治安回復のため、会津藩主松平容保を京都守護職に任命した。文久2年(1862年)12月24日のことである。
 
こうした中で、文久3年(1863年)3月将軍家茂が上洛することとなり、幕府は将軍警護の目的のため江戸で浪士を募集した。
 
これに応じた浪士234名の中に、芹澤鴨・平間重輔らの水戸勤王派と近藤勇・土方歳三らの志衛館道場派が含まれていた。浪士組は文久3年(1863年)2月8日に江戸を出発、23日に京都に入京したが、浪士組結成の黒幕、庄内藩の清河八郎の策謀によって浪士の大半は江戸に引き返した。しかし、芹澤・近藤ら24人は清河と決別、当初の目的を果たすべく京に残ることを主張し壬生浪士組を結成することとなる。
 
芹澤らの尽力で京都守護職お預かりとなった浪士組は新たに隊士を募集し人数も次第に増えていった。その統制のために組織の編成が行われ、初代筆頭局長に芹澤鴨、同じく局長に新見錦と近藤勇がなったのである。
 
武闘派集団を統制するために隊規が設けられ、ここに「局中法度」が定められた。「
士道に背きまじき事、局を脱するを許さず、勝手に金策致すべからず、勝手に訴訟取り扱うべからず、私の闘争をゆるさず」といった鉄の掟である。これに背けば切腹という過酷なものであった。
 
その後、文久3年(1863年)8月18日、朝廷から長州派を一掃することを目的とした8月18日の政変によって正式に新選組が誕生した。これが芹澤鴨最後の勇姿となったのである。
 
そしてこれ以降、新選組隊士の誠の羽織が京の街でまぶしく躍ったのは、鳥羽・伏見の戦いで背走するまでのわずか5年間であった。
 


新選組を創った男
芹澤鴨・平間重助

 混迷した幕末が生んだ新撰組の筆頭局長、芹澤鴨は、玉造町芹澤の出身である。鴨は、上席郷士、芹澤貞幹の三男として生まれ幼名を玄太といった。15歳の頃、郷校で医学を学んだが尊王攘夷の思想に共鳴して天狗党の前身である天狗組と行動を共にするようになる。当時の名は下村継次と名乗っていた。
 
 剣は、神道無念流の戸ヶ崎熊太郎に師事し、免許皆伝・師範役の腕前であった。居合でも免許皆伝の域に達していたという。

 その後、安政六年(1859年)勅書返納を阻止するための長岡事件にも接点があったことと推定される。名前も芹澤鴨と改め文久三年(1863)には、清河八郎の浪士組に,同郷の平間重助と共に参加する。京に着いた浪士組のうち清河八郎らは江戸へ戻ったが、芹澤鴨・平間重助は、近藤勇・土方歳三らと共に京に残り新選組を結成した。筆頭局長に推された芹澤鴨は、近藤たちと、京都の治安維持にあたっていた。

 しかし、近藤派との対立が目立つようになり、文久三年九月十六日(十八日説有り)京都の八木邸で近藤派の土方歳三らによって斬殺された。時に三十八歳であった。墓地は京都の壬生寺にある。平間重助も同宿していたが運よく難を逃れることができた。

 芹澤鴨については、乱行のことなどが多く伝えられているが、一面ではスケールの大きい人物だったようで、長倉新八の回想録では、「国家有事のときに横死したことは、国家的損害だったと心ある者の一致するところであった」と述べている。

 芹澤鴨の腹心だった平間重助は、玉造町芹澤の出身で文政七年(1824)生まれと推定される。剣は、芹澤鴨に師事し神道無念流目録の腕前である。

 天保十五年三月(1844)徳川斉昭公が水戸千波原で行った軍事訓練(追鳥狩)には、芹澤貞幹(鴨の父)に率いられて参加した36名の中に平間重助の名がある。文久三年二月、重助が40歳の時、芹澤鴨と共に浪士組に参加。新選組では、副長助勤、勘定取締方として運営に参画した。文久三年九月、芹澤鴨が斬殺された夜、同じ八木邸に同宿していたが難を免れ以後消息不明になっていた。しかし、最近になって晩年は郷里芹澤に戻り、明治七年(1874)51歳で生涯を終えたということが判明している。


芹澤城と芹澤旧家

 常陸大じょう一族である芹澤氏は、吉田氏系(水戸地方からの別れ)の玉造氏とは違う大じょう本家の多気氏の末裔にあたります。南北朝時代に芹澤氏の祖となる平竜太が相模国高座郡に所領を持ち芹澤の地に館を構えたとき氏を芹澤とし、成人後は幹文と改め,良幹、高幹、望幹四代にわたり鎌倉御所に仕えました。その後芹澤良忠が常陸に戻り館を構え、秀幹の代天文年間(1532〜54)に芹澤城が築かれたとされます。
 
また、芹澤家は医薬の術を持つ豪族として戦国武将にも知られていました。相模国在住の時から医術と関わりを持ちながら、芹澤家四代当主範幹は京都へ赴いたとき医術を学んでおり、今に伝えられる白薬、万病円など疵の治療薬を提供していた。この医術にまつわる民話が「河童の恩返し」の伝説となって今に伝えられています。


玉造の民話
手奪橋のいわれ『河童の恩返し』

 


 昔々、現原の殿様が領地の見回りを終えて屋敷に帰る途中、梶無川の橋を渡っていると馬が動かなくなってしまいました。振り返ると子供くらいの怪物が、馬の尻尾をつかんで川に引っ張り込もうとしているではありませんか。殿様は『村人を困らせている河童だな。懲らしめてやろう』と刀で切り付けました。河童は悲鳴を上げて川の中に姿を消しました。

 お屋敷に戻ると馬の尻尾には河童の手がぶら下がったままでした。その晩のこと、河童がしょんぼりとやってきて『私は梶無川の河童です。腕がないと泳げないし魚もとれません。どうぞ腕を返してください。』と頼むのです。かわいそうに思った殿様が返してやりますと、『私どもには妙薬があり腕をつなぐくらいわけはありません』と言って薬を傷口に塗り、ひょいと腕をくっつけました。殿様が驚いていると『お礼にこの薬の作り方を教えます。それにこれから毎日魚を差し上げます。もし魚が届かぬ時は、私が死んだと思ってください』と言って帰っていきました。

 次の日から毎日、お屋敷前の梅の木に、魚が二匹ずつぶら下げてあるようになりました。ある朝、いつもの梅の枝に魚がなく、殿様は河童のことが心配で川を探させたところ、かなり上流の与沢で腕に傷跡のある年老いた河童の屍が見つかりました。恩を忘れなかった河童に感動した殿様は祠を建ててその霊を祭りました。

 芹澤と捻木あたりを梶無川と言います。河童から教わった傷薬は、芹澤家に代々伝わり、多くの人たちが救われました。諸国の大名から届いたお礼の書状が、今でも芹澤家に残されています。



付録

新選組 しんせんぐみ
 
 
1862年(文久2)に江戸幕府が武芸にすぐれた浪士をあつめてつくった武力組織。新撰組とも書く。京都郊外の壬生(みぶ)村に屯所をおいて尊王攘夷(尊攘)派や討幕派を弾圧したので、壬生浪人としておそれられた。初め20人前後だった隊員数は、65年(慶応元)ごろの最盛期には約200人にふくらんだ。

1862年暮れに組織された浪士組は翌63年2月、将軍徳川家茂を警固して上洛し、そのまま京都にのこった芹沢鴨(せりざわかも)・近藤勇・土方歳三を中心に、新選組が結成された。乱行が多かった芹沢を殺害したのち、近藤が事実上の指導者となった。

新選組は京都守護職の松平容保の指揮のもと、京都の治安維持を名目に尊攘・討幕志士を弾圧した。とくに1864年(元治元)の池田屋事件での活躍が有名で、肥後国出身の宮部鼎蔵(ていぞう)・長州出身の吉田稔麿(としまろ)らの尊攘派志士約30名を、激闘の末殺害またはとらえ、尊攘派に大きな打撃をあたえた。

1868年(明治元)の鳥羽・伏見の戦では旧幕府軍に参加するが敗北。近藤は新選組の残党で甲陽鎮撫(こうようちんぶ)隊を組織して同年3月に甲州勝沼(山梨県勝沼町)で官軍に抗戦したがふたたびやぶれた。4月初めに下総(しもうさ)国流山(千葉県流山市)で近藤はとらえられて江戸板橋で斬首された。その後、土方らは旧幕府軍として東北各地を転戦して、榎本武揚とともに箱館へわたった。土方は69年5月の五稜郭の戦で戦死した。

東京板橋駅前にある近藤勇の墓。