板谷波山記念館
いたや はざん
板谷波山 (1872〜1963) 陶芸家
板谷波山は、明治5年下館町(現下館市)に生まれました。
明治22年東京美術学校(現東京芸術大学)彫刻科に入学し、岡倉天心、高村光雲らに学び、27年に卒業しました。
明治29年、石川県工業学校(現石川県立工業高等学校)彫刻科教諭として赴任しました。31年彫刻科の廃止により、陶磁科を担当した波山は、陶芸家としては全く素人でしたが、焼物の研究に没頭し、製陶技術をマスターしていきました。
明治36年に同校を退職し、東京の田端に住居と工房を新築しました。この地からは郷里の筑波山が遠望でき、「波山」と号しました。38年、経済的に困難な状況のなか1年3ケ月をかけた三方焚口の倒焔式丸窯が完成。39年に待望の初窯に成功しました。
明治40年東京勧業博覧会に出品した「磁製金紫文結晶釉花瓶」が三等賞を受賞、陶芸家としての名が広まりました。波山の独特のマット釉である葆光釉は、大正4年に完成されたといわれます。
昭和2年波山の帝展への工芸参加が実現し、陶芸家が芸術家として名実ともに認められるようになりました。
郷里の高齢者の長寿を祝う自作の鳩杖の贈呈を、昭和8年から26年まで続けました。また、昭和13年から31年にかけて、日中戦争や太平洋戦争の戦没者の遺家族に自作の香炉・観音像を贈りました。さらに文化財の保護、下館郷土史編さんの提唱、観能会などにも尽力しました。
昭和20年、空襲で住宅と工房が焼失し、下館町に疎開しました。昭和25年には田端の工房を再建した。
昭和26年、下館町名誉市民に推されました。昭和28年には、陶芸界の先覚者、功労者として陶芸家では初めて文化勲章を受章しました。そして、昭和29年には、横山大観と共に茨城県名誉県民にも推挙された。
昭和38年波山は、91歳の陶芸ひとすじに生きた人生を終えた。
県指定文化財 生家 木造瓦葺平屋建。6畳2間と3畳の間に1坪の玄関と3坪の台所があり、天井裏が一部物置となっています。 旧座敷2間は江戸時代中期に建築されたもので、現存する座敷は、板谷波山生誕の部屋です。 この建物は昭和40年5月、茨城県の指定文化財になりました。 |
これら波山作品の基盤をなしているのが「意匠の研究」、技法的には「釉下彩」「釉薬の研究」「彫文様」のすばらしさであるが、以下にこれら波山芸術を支える要素について概観していこう。 波山が意匠研究において最初に取り組むのがアール・ヌーヴオーの受容であった。当時日本の工芸界では、明治初期に欧米を席巻した日本工芸の凋落傾向から、西欧の新しい美術思潮であったアール・ヌーヴオーの受容など、意匠・図案の研究が叫ばれていた。波山はアール・ヌーヴオーの研究に熱心に取り組み、殊に初期作品にはその影響を強く感じさせるものが多い(nos.6,7)。これは以後も波山の生涯にわたって続き、戦後もアール・ヌーヴオーを自己の表現へ昇華させた作品を制作している。 このほか、アメリカインデイアンの土器模様や中国明代末頃の民窯で作られた呉須赤絵など、波山は様々な意匠研究を行いそれらをモティーフとした作品を制作しているが(nos.1,5)、ことに唐草模様(更紗模様)については研究を重ね、実に様々な形で展開させ(no.2)、それらを構成するモティーフである花や果実などを主役として器胎中央に大きく配した作品も制作している。 こうした文様の多くは、「釉下彩」によって施されている。釉下彩とは、明治期以降西欧技法の導入に伴い普及した、透明釉の下に模様を描き本焼で発色させる技法で、釉の下に絵付が施されているため、それまでの上絵付に比べ堅牢さの点で勝っていたのは勿論、色彩の広がりや微妙なグラデーションなど、より多彩な表現を可能にした。波山は自己の釉下彩による作品を「彩磁」と呼んだが、波山の彩磁(nos.1,4,6)では、顔料どうしが混交して見苦しくなるのを防ぐため、一色ごとに彩色する部分だけを残して防染剤を塗り、彩色しては低火度で防染剤を焼き落とすという作業を色の数だけ繰り返した後、透明釉をかけて高温焼成するという行程がとられている。 波山の独創的な作風として知られる「葆光彩磁」もこのヴァリエーションで、彩磁で用いる透明釉の代わりに、うすいヴエールをかぶせたように見える半透明のつや消しの釉薬が用いられている。大正3年頃に完成されたこの釉薬は、波山が独自に開発し葆光釉と名付けたものである。この「葆光」には、「光を包み隠す」という意味があり、華やかな輝きを艶消しの釉薬によって半ば包み隠した葆光彩磁(nos.2,5,7)は、慎ましい美しさと格調の高さを持った波山陶芸の真骨頂であり、またその美のありようは、清廉であった波山の人柄にも通じるものといえよう。この葆光釉は波山の釉薬研究の一つの成果であるが、窯変釉や結晶釉を駆使した作品、また青磁(nos.8,9)においては中国陶磁の名品と比べて遜色のない釉調を再現するなど、その作品には釉薬や焼成法についての弛みない研究成果が顕われている。 波山の作品ではまた彫文様のすばらしさも際立っており、その見事さは他の陶芸家の追随を許さない。それが最も効果的に活かされているのが氷華磁(=白磁)(no.3)で、模様の凹凸に幾分青みを帯びた透明釉が美しい陰影をつくり出している。また、完成時の釉調を鑑み、彩磁と葆光彩磁とで彫文様の探さを変えるなどの工夫もなされている。 波山の陶芸作品は、上述した意匠の研究と技術的成果、そしてさらに何よりも完璧さを追求する制作姿勢の上に結実したものである。それらはまた、産業陶磁から美術陶磁へ、職人から芸術家へというまさに近代陶芸の成立期にあって、時代や既成の価値観と格闘しながら作品のうちに込め続けた、波山の思いの結実でもある。 |
彩磁菊花図額皿(1911年 御前制作) 明治44年9月27日第2回全国窯業品共進会に皇后行啓。 まる夫人と共に夫妻で御前制作した作品。 高さ5cm 径30cm |
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紫金磁珍果文花瓶(1927年 制作) 高さ30.5cm 径28.5cm |