【 二十の歌 】  

  
「 わびぬれば 今はた同じ 難波なる みをつくしても 逢はむとぞ思ふ  」    


         わびぬれば・・・・・わびぬれば
           今はた同じ・・・・・いまはたおなじ
             難波なる・・・・・・なには(わ)なる
               みをつくしても・・・みをつくしても
                逢はむとぞ思ふ・・あは(わ)む(ん)とぞおもふ(う)

     


    作者:  元良天皇(もとよししんのう) (890年〜943年ごろ)
      
      「13」の歌の作者、陽成天皇の第一皇子。
          かなりのプレーボーイだったようで、源氏物語の光源氏のモデルのひとりともいわれています。

          当時の宇多天皇の愛妃(京極の御息所)と恋愛沙汰をおこし、それが世間に知れ渡った時に詠んだ歌。

          平安時代は比較的自由な男女関係ですが、天皇の寵姫との恋となと又別です。
          それにしても、この京極の御息所は美しい人だったらしい。
          こういう女性に言い寄って恋人にしてしまうのだから、よほど まめというか、色好みというか、源氏にそっくり。
          光源氏のモデルのひとりといわれるのも、うなずけます。
          


     < 歌の意味 >

        −−− ある日元良親王は、京極御息所の姿を見かけました。−−−
      
          ○  この方が宇多天皇の妃、京極さまか・・・・・。
              なんという美しい方。

                 ☆  あなたが好きです・・・・。
                    ★   わたしも・・・・・・。

          しかし、このふたりの仲は天皇や世間に知れるところとなり、引き裂かれてしまいます。

          ○  京極さま・・・、たとえこの身がほろびてもいい、もう一度逢いたい・・・、京極さま。

      ふたりの仲が世間に知れ渡って、このように思い苦しんでいるのであるから、今はもう身を捨てたのも同じこと。
      それならいっそ難波にある澪標という名のように、この身を尽くしても(身を滅ぼしても)あなたに逢おうと思っています。
      


    ・ わびぬれば・・・思いわずらう、思い悩む
    ・ 今はた同じ・・・「はた」は、もはや。「同じ」は身をすてたも同じ
    ・ 難波なる・・・難波にある
    ・ みおつくし・・・「澪標」と「身を尽くし」の掛詞
                澪標は、船の航路を示すために水脈(みお)に立てた杭。
    ・ 逢はむとぞ思ふ・・・逢おうと思う。
      

      関係が露見してしまったことに悩み苦しみながらも、難波の海に立つ澪標に自身をなぞらえて、この身を滅ぼしても
   いいからあなたに逢いたい・・・と強い調子で詠んでいる。

      激しい情熱の歌です。