1昭和30年代.
営団銀座線
営団丸の内線
営団日比谷線
営団東西線
都営浅草線
2.昭和50年代
営団銀座線
営団丸の内線
営団日比谷線
営団東西線
営団千代田線
営団有楽町線
営団半蔵門線
都営浅草線
都営三田線
都営新宿線
横浜市営地下鉄
3.平成
営団銀座線
営団丸の内線
営団日比谷線
営団東西線
営団千代田線
営団有楽町線
営団半蔵門線
営団南北線
都営浅草線
都営三田線
都営新宿線
都営大江戸線
横浜市営地下鉄
1.昭和30年代、 営団銀座線
銀座線は、終戦直後、保有車両84両のうち、可動車はわ ずか24両しかなく、その結果運転本数は、朝夕3両編成の6 分間隔運転という状況で、戦前に比べて輸送力は半減して いた。 その後、車両の整備が進むとともに、22年度に6両、24 年度6両、25年度3両の1300型を新造して、そのつど運転間 隔を短縮していった。そして、27年3月には、戦前並の2分 30秒間隔に戻る。 さらに、28年度に1400型2両、29年度に1500型3両、30年 度1600型15両、31年度1700型18両を増備していった。それ に応じて、30年5月には朝ラッシュ時の4両運転を開始。翌 年10月には5両編成に増強された。ただし、日中と夕方通 勤時間帯は3両であった。32年7月からは、夕方通勤時間帯 の4両化を実施した。 このように編成両数の増加を進めたが、そのために昭和 29年度から、3両対応のホームをもつ虎ノ門、青山一丁目、 外苑前、神宮前の4駅の改造工事に着手した。神宮前、虎 ノ門の2駅については、31年10月の5両編成の運転開始に間 に合わず、2両ないし1両のドア締め切りを実施した。 その後、昭和33年度に1800型8両と1900型2両を増備。昭 和34年度からは2000型の大量発注が続くことになる。昭和 35年11月から朝ラッシュ時の6両2分15秒間隔運転を開始す るが、以後2000型の増備に応じて6両運転の本数を増やす とともに、6両運転時間帯の拡大を進めた。 また、その間、37年11月には、昼間から夕方通勤時間帯に かけて5両編成の運転を開始。昼間は3分間隔(従来、3両 編成の4分間隔)、夕方は2分30秒間隔とした。そして、41 年4月には、終日をとおして6両運転となる。 37年11月には、6両固定編成を導入するのにともない上 野車庫の拡張を実施。さらに、40年10月には、地下車庫の 建設に着手して、43年4月から使用を開始した。 43年度には、銀座線の車両の近代化に着手することにな り、4月から7月にかけて新1500型60両を新造して、東京地 下鉄道、東京高速鉄道が開業時に用意した100型、1000型、 1100型60両を廃車した。うち、100型10両は昭和37年から 方南町支線で使用していたが、43年、銀座線の2000型を10 両方南町支線に転用することにして、100型10両を捻出さ せた。▲ 営団丸の内線
昭和29年1月丸ノ内線池袋〜御茶ノ水間の営業運転を開 始した。開業にあたって300型両運転台付き30両を投入す るが、この車両は鉄道車両が30年間という長期間使用され るものであるので、当時の最新技術を駆使するという考え のもとで設計された車両である。当時としてはきわめて先 進的な車両となった。3両編成で朝夕混雑時3分30秒、昼間 は4分間隔で運転した。しかし、昼間輸送力が過剰である ことが判明。4月1日から急遽昼間、夕方の編成両数を2両 に減車した。 続いて、路線は順調に区間延長を繰り返し、31年3月淡 路町、31年7月東京、32年12月に西銀座まで路線を延ばし ていった。 淡路町延長にあたっては、大幅に軽量化した400型6両を 増備して、朝の編成両数を4両に増強。東京延長では、400 型両運転台付き32両を増備して、混雑時の運転間隔を3分 に短縮、32年4月にはさらに2分30秒間隔に増強した。西銀 座延長からは、片運転台方式の500型に移行して、10両を 新造した。500型は昭和39年まで234両が量産された、丸ノ 内線の中心的な車両である。33年10月には終日4両運転を 実施する。 そして、34年3月に池袋〜新宿間の全線を完成させた。 しかし、池袋は仮駅での開業で、ホーム長は4両対応の80 mであった。本駅の完成をまって、昭和35年11月に20両を 増備してラッシュ時の5両運転を開始、昭和37年1月からは 朝ラッシュ時に6両編成が登場した。翌年には、6両運転 を終日に拡大の上、朝ラッシュ時の運転間隔を2分間隔と した。 昭和36年2月8日、荻窪線新宿〜新中野間と支線の中野坂 上〜中野富士見町間を開業した。新車36両を投入して、新 宿着の列車を2本に1本の割りで新中野まで延長した。朝ラ ッシュ時は、池袋〜新宿間2分15秒間隔(5両編成)に対し て、新宿〜新中野間は4分30秒間隔(5両編成)となる。ま た、夕方は4両編成6分間隔、昼間は4両編成8分間隔であっ た。支線については終日2両編成の区間運転で、朝混雑時4 分45秒間隔、夕混雑時6分間隔。昼間8分間隔で運転した。 このほかに、本線からの主出入庫列車が本線から直通した。 その後、36年10月31日新中野〜南阿佐ヶ谷間、同年11月 1日南阿佐ヶ谷〜荻窪間を開業した。 南阿佐ヶ谷開業では、増発せずにそのまま運転区間を延 長するだけであったが、全通後は、昼間運転間隔が丸の内 線の運転本数の2本に1本から3本に2本に増加して、平均6 分間隔に増強された。また、37年1月23日からは6両編成の 運行が始められた。 37年3月22日には、新線の中野富士見町〜方南町間を開 業するが、運転本数は変化なかった。なお、37年11月11日、 銀座線の100型10両を方南町支線に転用した。 昭和39年9月には、新中野〜新高円寺間に東高円寺駅を 新設。これにあわせてダイヤが改正され、朝混雑時6両編 成1運行と夕混雑時6両編成2運行を増強した。さらに、40 年11月には、朝混雑時6両編成1運行を増強した。そして、 44年6月には、6両×2本を増備して朝混雑時22分間にわた って1分50秒間隔の運転を開始した。▲ 営団日比谷線
荻窪線の建設と同時に工事が進められた日比谷線は、荻 窪線新宿〜新中野間の開業に続いて、昭和36年3月28日南 千住〜仲御徒町間の営業を開始した。郊外の私鉄と直通運 転を行う、架空電車線方式の大断面の初めての地下鉄であ る。 3000系2両×8本を新造して、朝混雑時4分間隔、夕混雑 時4分間隔、昼間6分間隔の運行を実施した。 引き続き北千住〜南千住、仲御徒町〜人形町間の工事を 進め、37年5月31日に開業させた。北千住に達したことで 東武鉄道との相互直通運転を開始した。 日比谷線内は、増結用16両と4両編成6本を増備して、朝 混雑時4分間隔、夕混雑時4分、昼間5分間隔運転とした。 東武鉄道へは北越谷まで北千住駅で3本に1本の割合で直通 し、朝夕の混雑時は12分間隔、昼間は15分間隔で、北越谷 行きと竹ノ塚行きが交互に発車した。 それにあわせて、東武鉄道は、日比谷線直通用の、3ド ア両開きドア、18m長の2000系4両×10本を新造した。 昭和38年2月16日には東銀座まで路線を延ばすが、車両4 両×2本を新たに投入して、人形町どまりの電車をそのま ま東銀座まで延長した。その一方で、東武鉄道への乗り入 れは、朝夕混雑時のみ2本に1本の割合に本数を増強して、 8分間隔とした。 その後、東京都との間で、銀座総合駅の設計協議に時間 を要することになったため、昭和39年東京オリンピックま での全線完成が社会的要請なっていたことから、霞ヶ関〜 中目黒間の工事を先行させることになる。そして、昭和39 年3月25日に霞ヶ関〜恵比寿間をまず開業させ、39年7月に 中目黒まで開通して東京急行電鉄と接続した。恵比寿まで の部分開業の段階では、4両編成×7本で、終日6分間隔で 運行。中目黒開業の時点では、さらに6両×2本を増備して、 終日5分間隔とした。 東京急行電鉄との相互乗り入れは、最後に残された東銀 座〜霞ヶ関間を開通させた昭和39年8月29日からである。 北千住〜中目黒間が全通した段階で、運転間隔は、朝夕 混雑時3分〜4分間隔、昼間4分間隔となる。そして、日比 谷線の車両は、6両編成24本、4両編成10本を数えることに なる。11月には、さらに6両編成2本の増備と4両編成3本の 6両化を実施。混雑時間帯の運転間隔を3分とするともに、 北千住と中目黒に6両編成を1編成ずつ特発予備として待機 させ、地下線内での運転間隔を確保することにした。 一方、東急への乗り入れは日吉までとして、日比谷線の 3本に1本の割合で、朝夕混雑時9分間隔、昼間12分間隔で 直通した。 ところで、直通各社の運行数は、全通時点で営団6両23 組、4両10組、東武6両8組、東急6組である。11月からは営 団分が6両3組だけ増加している。 日比谷線は,その後も逐次車両を増備して混雑時の6両 編成を増加させていった。さらに、同年9月1日からは東 武鉄道伊勢崎繰の北越谷までの直通乗入れを北春日部まで 延長。あわせて終日の6両編成運転を開始した。また、朝 の混雑時に6両編成2運行を増発して2分30秒間隔運転と した。 43年度には、43年7月6両編成1本を増備して,北千住〜 霞ケ関間朝混雑時2分半間隔運転を2分15秒間隔に短縮。 8両編成運転に備えて,10月から、北千住〜茅場町間10駅 の乗降場延伸工事に着手した。 そして、70両を増備して.昭和46年5月31日から終日8 両編成運転を開始するとともに、朝タラッシュ時の輸送力 を増強した。なお、この頃、日中の運転間隔を従来の4分 から5分に拡大している。▲ 営団東西線
帝都高速度交通営団は、中央線の混雑を緩和するための バイパス路線として東西線の整備を決定、昭和37年10月に 中野−九段下間の工事に着手した。 まず、昭和39年12月23日に高田馬場と九段下間を開業し たのち、昭和41年3月16日には運転区間を中野−竹橋間に 延長して、中央線との接続を果した。中央線との直通運転 は、中野〜荻窪間を複々線化した41年4月28日からである。 なお、国鉄車による直通は若干遅れて10月1日からとなっ た。 高田馬場〜九段下間の部分開業では、5000系3両×6本を 投入して、終日5分間隔で運行を開始した。中央線との直 通運転の開始までに営団は80両の新車を投入して、7両×1 4本に組みかえた、一方、国鉄の方は、301系新型電車7両 ×5本を新造した。営団線内は、朝通勤時間帯2分30秒間隔、 日中5分間隔とし、2本に1本の割合で国鉄線に直通した。 夕混雑時は、5分間隔で全列車国鉄に直通した。ただし、9 月末日までは、朝混雑時5分間隔運転で、全列車を国鉄に 直通させた。 営団は、車庫用地を江東区内に用意していて開業区間に 検修基地がないため、仕業検査と留置を国鉄の三鷹電車区 と豊田電車区に委託。全般検査については、日比谷線の千 住工場まで回送された。 なお、国鉄とは始めての直通運転となったが、車両使用 料が国鉄は在線時間を基準にしているのに対して、営団は 車両走行キロに応じて決められていた。最終的に、営団の 方式で決着する。 一方、東へは大手町・日本橋・東陽町と次第に路線を延 ばし、昭和44年3月29日に東陽町−西船橋間を開業して総 武線に接続した。総武線のバイパスの役割を果たすことに なる. 西船橋−東陽町間無停車・東陽町−中野間各駅停車の快 速を設定し,朝混雑時5分間隔、夕混雑時6分間隔、昼間 は10分間隔で運転。普通は終日10分間隔(夕方のみ12分), 朝夕には東陽町発着の中野方面への普通を10分おき(夕方 のみ12分)に入れて、朝は中野方面電車を30分間にわたり 2分30秒間隔、夕は東陽町方面電車を1時間にわたって3分 間隔の運転を実施した。 西船橋延長の時点では、東西線を運行する電車は総て7 両編成で,国鉄車と営団車が相互乗入れをした。国鉄車は 三鷹電車区所属の301系と新たに投入された103系で、改正 前の5編成から8編成(運用数7組)に、営団の深川検車 区所属の5000系を28編成から41編成(運用数37組)に増強 した。 続いて、同年4月8日には国鉄中央線の荻窪−三鷹間の 複々線化が完成したのに伴って、東西線との相互乗入れ区 間も三鷹、津田沼まで延長した。西船橋−津田沼間には朝 夕6往復、東西線電車の乗入れを開始した。 翌年10月には、朝の津田沼までの乗入れ電車6往復の内 5往復を9両編成に増強する。車両は国鉄が103系1200番 台7両編成を1本新製し営団車と置き換え、余った営団車 7両×2本をバラして8両編成2本と9両編成6本とした( 8月実施)。▲ 都営浅草線
昭和35年12月、押上〜浅草橋間を開業して、京成電鉄と の相互直通運転を開始した。都は開業に当たって5000型2 両×8本を新造。一方。京成電鉄は、1号線直通が決定した 段階から、新造車両はすべて乗り入れ対応車両として製造 してきたため、乗り入れ開始の時点で、3000型2両×7本と 3050型2両×13本、3100型2両×8両が揃っていた。さらに、 37年の人形町延長に際して、3100型2両×8本を増備した。 開業当初は、2両編成で、混雑時4分間隔、日中6分間隔 であった。都の車両は、京成の東中山まで乗り入れること になる。その後、昭和41年11月改正ダイヤでは、当時大門 まで開通していたが、朝夕混雑時3分間隔、日中5分間隔で 2本に1本は隣の新橋駅止まりとなっていた。編成両数は、 この段階では、すでに全て4両化を完了していた。また、 押上駅では、混雑時間帯には全列車京成との直通運転を行 っていたが、日中は、20分おきで押上〜新橋・大門間の折 り返しが入った。京成側は、小岩〜押上間の臨時普通電車 が接続した。 昭和43年6月には、1号線大門〜泉岳寺間と京浜急行が泉 岳寺〜品川間を開業して、相互直通運転を開始した。都か らは20分おきに急行が川崎まで、京浜急行は20分おきに特 急が押上まで直通した。京浜急行の列車が、1000型の6両 編成で、その他は4両編成であった。また、この改正では、 直通運転の開始に合わせて混雑時間帯の運転間隔を最短2 分30秒とした。 さらに、同年11月には泉岳寺〜西馬込間を完成させ、1 号線は全通した。 泉岳寺では、混雑時の西馬込、品川双方の輸送量を同等 と考えて、2分間隔の列車を1本置きに西馬込と品川方面に 振り分け、それぞれ5分間隔とした。日中は、10分間隔で 品川方面行きが入り、これに接続する形で泉岳寺〜西馬込 間の区間運転を実施した。 なお、昭和37年9月人形町開業までは2両編成の車両を増 備したが、38年2月の東銀座延長にあたってはすべて4両編 成で新造している。都の車両に6両編成が登場する時期は 確認できないが、43年10月に西馬込まで開業して馬込車庫 が開設されたときではないかと考える。46年11月現在で、 都運用車両の内訳として、平日6両編成20組、4両編成2組 という記録がある。この時点では、泉岳寺〜西馬込間の区 間運転にわずかに4両編成が残るだけであった。▲ 2.昭和50年代、 営団銀座線
昭和56年に、新1500型8両を増備して、老朽車両との取 替えを実施した。しかし、銀座線は、既に輸送力が限界に 達し、これ以上の増強は不可能という状況であった。昭和 50年代は、代わって駅の混雑緩和とリニュアルが工事の主 体となった。 まず、昭和44年から46年の間、虎ノ門駅のコンコースの 拡張工事を実施。51年1月から55年4月までを工期に新橋駅 の浅草行きホームを増設した。さらに、56年4月に日本橋 駅の拡張工事に着手して、59年4月に渋谷行きホームの増 設を完成。翌年7月に全体の工事が完了した。 昭和57年1月の運賃改訂にあたって、運輸省から銀座線 の駅の老朽化の改善の指示を受けた。この段階で、表参道、 青山一丁目、赤坂見附、虎ノ門、銀座、日本橋、三越前の 改良は既に完了しており、新橋、京橋、日本橋、神田、上 野、浅草が工事中かあるいは計画が決定していた。そこで、 残る6駅のうち、渋谷、末広町、稲荷町の内装のリニュア ルを早急に実施することにした。 全体的に銀座線の車両の質は低下していた。そこで、全 面的に車両の取替えを行うことにして、昭和58年01系新型 電車の試作車を新造した。昭和59年以降量産車が投入され ることになる。▲ 営団丸の内線
九ノ内線では、昭和47年4月10日から夕方混雑時の運転 間隔を池袋〜新宿間は2分30秒を2分15秒に、新宿〜荻窪 間については5分を4分30秒にそれぞれ短縮した。 また、駅設備の改良として、昭和48年11月に霞ヶ関駅に 池袋行き専用ホームを増設し、コンコースを増設する工事 に着手し、53年1月に完成した。(営団50,p.331)▲ 営団日比谷線
▲ 営団東西線
昭和47年9月、国鉄が103系1200番台7両×2本を増備して、 営団車の運用と差し替えることで、5000系7両を捻出。8両 編成1本と9両編成3本を増強した。また、10月のダイヤ改 正で、津田沼への乗り入れ本数を朝9往復、夕10往復に増 強した。 昭和50年6月のダイヤ改正では、沿線の開発が進んだこ とで、従来西船橋〜東陽町間を通過していた快速のうち、 平日の昼間と休日について途中浦安への停車を実施した( B快速)。日中の快速の輸送力には余裕があるのに対して、 普通列車の利用が大きく増加していた。 続いて、52年10月のダイヤ改正では、5000型中間車3両 ×17本を増備するともに、8両編成と9両編成を組替えるこ とで、10両編成を24本組成した。ちなみに、7両編成は14 本である。それに対して、運用数は、10両編成22組、7両 編成12組であった。また、国鉄車は、7両編成13本の配置 で運用数は9組である。一方、夕方時間帯の均等乗車を促 進するため、東陽町〜西船橋間を快速、普通ともに9分間 隔にして、普通の快速待避をなくした。従来、夕方混雑時 には、東陽町折り返しの普通、西船橋行きの快速と普通、 それぞれが12分間間隔で運行していた。 昭和53年10月のダイヤ改正では、東西線内の増発を実施 するために、国鉄が103系1200番台7両×2本を増備した。 営団は、53年8月「東西線輸送力増強対策研究会」を設 置して、東西線の輸送力の見直しを開始した。そこでの結 論は、従来2文30秒間隔を2分15秒まで短縮し、将来的には 2分間隔運転が可能なように施設を改善するというもので あった。 とりあえず、昭和54年10月南砂町〜葛西間に西葛西駅を 新設したのに伴い、新車23両を投入して編成の長大化を実 施た。 続いて、昭和56年10月には、12両の新車を投入するとと もに、千代田線から5000系10両×1本、7両×1本、5両×6 本を転用。所属車両は、10両編成28本、7両編成20本とな る。それに対して運用組数は、7両19組、10両24組である。 また、あわせて国鉄車の10両化も実施。301系56両を組換 えて、10両編成4本と7両編成2本に組替え、103系7両×5本 とあわせて、10両運用2組と7両運用7組に充当した。従来 に比べて運用数が9組増加。これで、朝夕混雑時間帯に大 幅な増発を実施した。 国鉄は、昭和57年10月ダイヤ改正で、中央快速の増発に あわせて、中野〜三鷹間の緩行線電車を日中10分間隔から 15分間隔に本数を削減した。それに伴い営団からの乗り入 れも、2本に1本から3本に1本の割合に変更された。 列車本数の増加と合わせて、駅設備の改良も進められた、 昭和56年から日本橋駅の銀座線ホームを増設して、東西線 との連絡設備を拡充した。また、56年11月から中野方面ホ ームを最大4m拡幅する工事を実施。60年3月に完成した。 昭和61年11月のダイヤ改正では、朝ラッシュ時、東陽町 〜浦安間が各駅停車となるC快速を設定した。▲ 営団千代田線
千代田線は、昭和44年12月北千住〜大手町間を開業した。 当時、新機軸の6000系を開発中であったが、量産の目処が たたないことから、とりあえず東西線に投入してきた5000 系を3両×10本新造して投入した。朝夕混雑時5分間隔、日 中7分間隔の運転である。 昭和45年12月に5000系20両を増備して5両編成に増強。 昭和46年3月20日の大手町〜霞ヶ関間開業では、1ケ月後の 常磐線直通開始に備えて、6000系124両を増備して、第2次 試作車6両とあわせて、10両×13本とし、5000系について も10両×5本に組みかえられた。 そして、同年4月20日には、北千住〜綾瀬間を開業して、 常磐線を我孫子まで直通直通運転を開始することになる。 千代田線内は、朝混雑時3分間隔、夕混雑時5分間隔、昼間 6分間隔で、常磐線には、朝夕混雑時全列車、昼間は2本に 1本の割合で、12分間隔で直通した。 昭和47年10月20日の霞ケ関・代々木公園間の開業にあた っては、6000系10両×6本を増備。一部霞ヶ関折り返しを 残して、延長区間には、朝夕混雑時5分間隔、昼間6分間隔 で運行した。さらに、51年12月には代々木上原まで開業し て、小田急電鉄との直通運転を開始した。朝夕混雑時のみ あわせて12往復、本厚木まで準急で直通した。営団は、60 00系10両×2本を増備、小田急は9000系6両+4両×9本を直 通用に充てた。 昭和54年12月、車庫を建設する際に地元と約束した、車 庫線を使った旅客輸送を開始した。綾瀬・北綾瀬間の2.1 キロの区間で、5000系6両と6000系1次試作車3両が使用さ れた。 さらに、昭和56年10月には、6000系10両×7本を増備し て、支線用の6両を残して5000系47両を東西線に転用した。 昭和60年3月からは、40両の車両増備を行って、朝混雑 時都心方向の朝ラッシュ時の運行間隔を3分から2分30秒 に短縮した。▲ 営団有楽町線
有楽町線は、昭和49年10月30日に池袋〜銀座一丁目間を 開業した。この時点では、和光車庫が完成していなかった とから、市ヶ谷に留置線(飯田橋検車区)を設置するとと もに、有楽町線桜田門と千代田線霞ヶ関の間に連絡線を設 けて、綾瀬工場を使用することになる。 開業時には、7000系5両×19本を投入して、そのうち17 本を使用した。市ヶ谷の留置線から8本を出庫させるほか、 桜田門の連絡線から3本、池袋駅に5本を滞泊させていた。 なお、1本は、朝ラッシュ後、市ヶ谷を出庫して池袋まで 回送、日中以降運用に就いた。 運転間隔は、朝混雑時3分間隔、夕混雑時5分間隔、昼間 6分間隔である。 昭和55年3月27日には、銀座一丁目から新富町まで延長 開業するが、このときは、5両増備しただけで運転間隔は 変化なかった。 また、昭和58年8月24日、池袋〜成増間の開業では、160 両新造して、5両編成を10両化するとともに、10両編成を6 本増備した。運転間隔は、池袋〜新富町間が朝混雑時3分3 0秒、夕混雑時5分、昼間6分である。営団成増までは若干 間引きしたダイヤとなった。 さらに、同年10月1日には西武有楽町線が新桜台〜小竹 向原間を開業した。本来は、練馬まで開通させて西武池袋 線と接続するはずであったが、池袋線の工事が遅れたため に、途中に仮駅を設置しての部分開業となった。 朝混雑時間帯は12分間隔、夕混雑時15分間隔、日中12分間 隔と18分間隔の繰り返しで1時間に4本の運転である。全列 車新富町から直通したので、新桜台行きが入ると営団成増 方面の電車は間隔があくことになる。▲ 営団半蔵門線
昭和53年8月、渋谷〜青山一丁目間が開業し、朝混雑時4 分間隔、夕混雑時5分間隔、昼間7分30秒で運転を開始した。 しかし、東急から譲り受けることになっていた鷺沼車庫が、 東急側の代替基地の工事が遅れたために間に合わず、営団 は、やむなく東急から6両×3本の車両を借り受けることに なった。東急からの直通車両は、新玉川線用に使用されて きた8000系(8500系)である。 全列車東急新玉川線と直通したが、新玉川線からの旅客 は、渋谷での乗降客が多く、都心側がむしろ輸送力が過剰 となる状況となった。 続いて、昭和54年9月には永田町まで路線を延長。ただ し、単線での暫定開業である。この年の8月には、田園都 市線の運転系統が大井町線から新玉川線に切り替わったこ とで、直通区間も長津田(一部つきみ野)に変更された。 また、ようやく昭和56年4月から鷺沼車庫の使用を開始 した。そこで、営団は、前年11月から新型8000系電車の投 入を開始し、最終的に8両×5本、6両×1本を揃えた。 さらに、57年12月には半蔵門まで延長、あわせて単線で 変則的な運行であった青山一丁目〜永田町間も複線となる。 運転間隔は、朝混雑時3分45秒、夕混雑時4分45秒、昼間7 分30秒で、全列車8両編成である。そのために、営団は、8 両×3本を増備し、6両編成を8両化するために2両を新造し た。▲ 都営浅草線
都営1号線は、昭和46年に全線開通を果たした。一部4両 編成が残っていたが、昭和51年3月に5000系(5200)を6両 ×2本増備して、都営車の6両化は完了した。ただし、両数 的には充足したが、泉岳寺〜西馬込間の区間運転用に4両 編成が残る。 一方、京浜急行からの乗り入れ車は当初から全列車6両 編成であったが、53年6月には8両編成に増強した。▲ 都営三田線
三田線は、昭和43年12月に高島平〜巣鴨間、47年6月巣 鴨〜日比谷間、48年11月日比谷〜三田間を開業していった。 そして、51年5月に西高島平〜高島平間を開業して、当時 計画中の全線を完成した。 高島平〜巣鴨間の開業には、6000系4両×14本を新造。 日比谷延長では、82両を増備して4両編成の6両化と編成数 の増強に当てた。 都心に路線を伸ばした昭和47年6月からは、運用数19組 を使用して混雑時4分間隔、昼間6分間隔の運転を実施して いる。 その後、三田開業にあたって6両×3本、西高島平延長時 にも6両×2本を増備した。 三田駅は、本来途中駅として計画していたことから、ホ ーム2線では3分間隔の運転が難しいため、朝ラッシュ時に は御成門折り返しが3本入ることで、御成門〜三田間は最 短運転間隔が4分となっている。▲ 都営新宿線
昭和53年12月、九段下での反対で岩本町〜東大島間の部 分開業となった。この開業には、10-000形6両×9本を用意 して、朝7分間隔、昼10分間隔、夕8分間隔での運行を開始 した。 続いて、昭和55年3月16日、新宿〜岩本町間を開業させ、 すでに営業していた京王新線と相互直通運転を開始した。 新宿延長には、都は6両×9本を増備した。 都の車両は、当初すべて8両編成とする計画であったが、 新宿線内の旅客需要を検討したところ6両で十分対応でき るという結果を得たので、都の車両は6両として、京王側 への乗り入れ区間を笹塚までに限定した。一方、京王線か らの流入旅客に対しては、京王車の8両編成で対応するこ とになった。 朝ラッシュ時は、多摩センター〜岩本町間に通勤快速を 12分間隔で運転、その間に2本笹塚発の普通が入って、平 均4分間隔の運転となる。一方、昼間は、快速が20分間隔、 普通が8分、12分間隔の繰り返しで1時間に6本、夕方は、 快速20分間隔と普通が5分、6分、9分間隔の繰り返しで、 1時間に8本の運転である。 また、京王帝都側は、53年10月の新線新宿駅の開業に合 わせて、6000系8両×11本を揃えていた。さらに、55年度 中に2×5本を増備して、56年春から10両運転を開始するこ とになる。 続いて、昭和58年12月に東大島〜船堀間を開業するが、 東大島着の列車をそのまま船堀まで運転区間を延長した。 昭和61年9月の篠崎までの延長開業では、38両(8両×3 本、2両×7本)を増備して、都の所属車両を8両10本と6両 11本に増強した。▲ 横浜市営地下鉄
伊勢佐木長者町〜上大岡間は、昭和47年12月16日に開業 した。開業時のダイヤは、朝ラッシュ時5分間隔、夕ラッ シュ時6分間隔、昼間8分間隔である。このダイヤは、その 後、路線延長を繰り返しても変わらなかった。 なお、当初 5両編成で開業したが、60年3月までに全列 車を6両編成に増強した。▲ 3.平成、 営団銀座線
昭和58年から続いてきた01系新型車投入による老朽車両 の取替えは、平成5年7月に完了した。全車新型車で統一さ れたことから、信号方式をCS-ATCに変更して、浅草〜渋谷 間を4分スピードアップした。 また、輸送力の増強はもはや不可能としていた銀座線で、 平成元年久々に朝ラッシュ時と夜間を中心に輸送力の増強 を実施するとともに、土曜ダイヤを新設した。▲ 営団丸の内線
昭和63年9月から12月までの間に、02系6両×4本を投入 した。銀座線の01系に続く営団の新世代車両である。平成 6年まで増備が続いて本線系の旧型車の置き換えを終了し た。 方南町支線についても、平成8年7月に02系3両編成6本に 置き換えられた。▲ 営団日比谷線
日比谷線にも昭和63年から新型車03系の投入を開始した。 平成6年までに35編成を新造して3000系を置き換えた。こ のうち、18編成は、両端の2両ずつが5ドア車である。 また、相互乗り入れしている東京急行電鉄も63年から平 成2年にかけて1000形新型電車に置き換え。東武鉄道につ いも、63年から平成5年までの間に2000系160両を同数の20 000系、20050系に置き換えた。そのうち、20050系6両×7 本は、両端の2両ずつが5ドア車である。▲ 営団東西線
昭和62年12月7両編成10本を10両化するため、新型車の 導入を計画していたが、まだ時間がかかるため、暫定的に 半蔵門線用の8000系10両×3本を投入することにした。63 年10月には、東西線用の新型車05系10両×3編成本が完成 したことで、8000系は本来の配属先である半蔵門線に転出 した。以後、毎年ほぼ3編成のペースで増備して、平成元 年度には、10両×3本を増備して、朝ラッシュ時と夜間に 増発。また、平成2年度にも10両×3本を増備して、残っ ていた7両編成10本を10両化して、全車10両編成とした 平成8年4月東葉高速鉄道が開業したが、車両費を節約す るために営団から5000系120両を購入し、とりあえず100両 を改造の上投入した。▲ 営団千代田線
昭和63年10月のダイヤ改正では、6000系10両×2本を増 備して、2本増発。その後も、平成3年3月に6000系10両×1 本、平成4年12月に06系新型車10両×1本を増備した。 平成11年秋には国鉄が209系1000番代10両×2本を増備し て、千代田線線内で朝混雑時2本の増発を実施。最大運転 本数を29本とした。▲ 営団有楽町線
昭和63年6月8日新富町〜新木場間を開業した。新たに10 両×5本を増備して、朝混雑時3分30秒間隔、夕混雑時5分 間隔、昼間6分間隔とした。なお、朝混雑時のみ3本に1本 の割で豊洲折り返しが入る。 新木場からはさらにJR京葉線沿いに車庫線が延びその 先にとりあえず10本の留置線で発足した新木場車両基地が ある。 新木場開業により、有楽町線の輸送量が大きく伸びるこ とになったため、同年10月に急遽予備編成を使って池袋〜 豊洲間の最短時隔を3分20秒とした。平成元年には10両×2 本を増備して最短時隔を3分に、さらに3年春には、朝の混 雑時に実施していた豊洲折り返しをすべて新木場まで延長 した。さらに、平成5年春には、新型車07系10両×2本を増 備して、朝ラッシュ時2本の増発。平成6年9月にも、07系4 本を増備して、ラッシュ時の増発を実施した。 平成6年12月には、小竹向原〜新線池袋間開業したこと で地下鉄初の複々線となった、同日、小竹向原で直通する 西武有楽町線の練馬〜新桜台もまた開業して、西武池袋線 の練馬駅に乗り入れた。しかし、この段階では、池袋線の 高架複々線化が未完成なため、池袋線との直通運転は遅れ て、平成10年3月26日からである。直通区間は西武線飯能 からで、清瀬、所沢、小手指発の列車が乗り入れた。運転 間隔は、朝混雑時7分30秒、昼間は練馬発毎時10分、28分、 40分、57分の4本である。このうち、28分の便は、飯能発 の準急で、その他は各駅停車である。西武鉄道は直通用と して、平成3年度から6000系を製造していた。▲ 営団半蔵門線
東急から、10両化と運転間隔の短縮を申し入れがあった が、営団線内の混雑はさほどではないため、営団車の10両 化は難しいという判断であった。ただし、新玉川線の混雑 緩和には考慮しなければならないことから、東急車の10両 化と増発を受け入れることにして、58年1月から朝混雑時3 分30秒間隔、有混雑時4分30秒、昼間7分30秒間隔の運行と なった。 その後、東急田園都市線が中央林間まで延長して、沿線 の開発が進むにしたがって、全列車10両化の必要性が認識 されるようになったことから、営団でも62年9月から増結 用に2両×5本を増備した。 さらに、平成元年1月26日には、半蔵門〜三越前間を開 業させた。朝混雑時は渋谷〜半蔵門間を2分30秒間隔、半 蔵門〜三越前間3分20秒間隔、夕混雑時4分間隔、昼間6分 間隔とした。三越前延長に際して、営団は、8両×5本、10 両×1本、10両化用2両×2本の計54両を新造。これに東西 線から転用した8000系10両×3本を投入した。 平成2年11月水天宮まで開業して、現在営業中の路線が すべて完成した。営団では、8000系10両×1本を増備して、 三越前止まりの列車を水天宮まで区間延長した。 平成6年9月までに8000系2両×7本を増備して、10両化を 完了した。東急の車両については、昭和61年中に全車10両 編成となっていた。▲ 営団南北線
南北線は、平成3年11月29日に赤羽岩淵〜駒込間を開業 した。9000系新型電車が投入されたが、この電車は営団の 次世代電車の原型となる車両として平成2年11月に試作車4 両が登場した。特徴的なのは、ワンマン運転など運転・保 安設備に目新しいものがあるばかりでなく、車いすスペー スを設けたり、車端部にクロスシートが設置され、サービ ス面でも意匠を凝らしていた。 開業時には、4両×7本を増備して、朝混雑時5分間隔、 夕混雑時6分間隔、昼間7分30秒間隔での運行を始めた。平 成4年6月に検修予備として4両編成1本を増備した。 平成8年3月26日には、駒込〜四ツ谷間を開業した。あわ せて6両化を実施するため、6両×5本と中間車4両×4本を 増備したが、これで、所属車両は6両×13本となった。な お、運転間隔は、従来と同一である。 四ツ谷はもともと中間駅として計画されていたことから、 市ヶ谷駅の四ツ谷側に設置された渡り線を使って折り返し 運転をおこなった。そのため、四ツ谷〜市ヶ谷間は単線並 列ということになる。また、車両基地は開業時の王子基地 に加えて従来有楽町線で使用していた市ヶ谷基地を転用し た。この車両基地を介して有楽町線とつながり、また有楽 町線は桜田門−霞ヶ関連絡線で結ばれていることから、工 場検査は綾瀬工場を使用することになった。 さらに、平成9年9月30日に四ツ谷〜溜池山王間を延長。 そして、平成12年9月26日に溜池山王〜目黒間を開業した。 同日、白金高輪まで都営三田線が開通して、白金高輪と目 黒間は両社で共用することになった。 溜池山王開業では6両×2本を増備して四ツ谷折り返しを 溜池山王に延長した。目黒開業では、朝混雑時4分間隔、 夕混雑時5分間隔、日中6分間隔で、朝夕は従来と同じであ る。三田線もまた同じ運転間隔であるため、朝夕混雑時に は、双方1本置きに白金高輪折り返しを入れて、目黒へは 朝4分間隔、夕5分間隔で直通した。昼間については、それ ぞれ2,3本に1本を直通させて、8分間間隔とした。そして、 目黒では、全列車東急目黒線に直通して、武蔵小杉まで乗 り入れている。 直通開始に当たって、営団は、9000系6両×6本、都は63 00系6両×24本(うち16本は6000系の取替用)、東急は、3 000系6両×12本を新造した。 その後、平成13年3月28日には、埼玉高速鉄道が赤羽岩 淵〜浦和美園間を開業。途中鳩ヶ谷の浦和美園側には引上 線が設置されていて、朝ラッシュ時南行き15本中2本、昼 間10本中4本が鳩ヶ谷折り返しである。夕混雑時は全列車 浦和美園まで直通している。 なお、埼玉高速鉄道の所属車両は、2000系6両編成10本 である。埼玉高速の車両もまた東急目黒線の武蔵小杉まで 直通運転している。▲ 都営浅草線
浅草線の5000系もすでに20年以上を経過していることか ら、取替えが検討される時期になっていた。そこで、まず 平成3年3月に5300系新型車8両×2両を新造、平成7年6月ま でに5000系5200番代6両×2本を除いて取替えを完了した。 この2本も翌年11月には8両編成に組換えられ、残った4両 は廃車となった。 平成10年11月18日、京浜急行の羽田空港ターミナル乗り 入れにともなって、浅草線内で一部駅を通過する「エアポ ート快特」と「エアポート特急」をあわせて40分間隔で運 転を開始した。従来昼間5分間隔で、1時間に12本運転して いた内の2本を置き換えため、通過駅で一部間隔が空くこ とになったが、スキップサービスを実施することによるメ リットの方が大きいようである。 平成10年3月、5300系8両1本を増備したが、これは、京 浜急行線内での都の車両による快速特急の運転を計画して いたため、120km/h運転対応の新車を導入した。▲ 都営三田線
昭和60年7月運輸政策審議会第7号答申で、営団南北線の 線路の共用による目黒までの延長が盛り込まれた。これを 受けて、都と営団は、63年12月「営団7号線と東急目蒲線 及び都6号線と東急目蒲線との間における列車の相互直通 運転に関する覚書」について合意した。 この覚書に伴い、都は、ATSをATCに変更すること。 バンタグラフの改修、冷房化、2分30秒間隔運転への対応 、8両運転のためのホームの延長工事が必要となった。 当初は、6000系の一部を冷房化して残し、その他は6300 系を新造して取替えかえることになっていた。しかし、そ の後ワンマン運転、ATO方式の導入が決まったことで、 6000系全部の取替えに方針を転換した。 そして、平成6年5月から6300系の新造を開始して、平成 11年11月までに置き換えを完了した。 なお、運転間隔は、この間一貫して朝混雑時西高島平〜 御成門間3分間隔、御成門〜三田間は4分間隔、夕混雑時5 分間隔、昼間6分間隔であった。 平成12年9月26日、三田線は、三田〜白金高輪間を延長、 さらに目黒までを第2種鉄道鉄道事業者として営団南北線 と線路を共用することになった。あわせて、東急目黒線と の相互直通運転を開始した。 白金高輪では、2面4線のホームのうち、外側が三田線で、 内側が南北線である。三田線は、朝混雑時4分間隔、夕混 雑時5分間隔、昼間6分間で白金高輪まで区間延長。白金高 輪から目黒方面には朝混雑時4分間隔、夕混雑時5分間隔、 昼間8分間隔であるため、混雑時間帯は2本に1本、昼間は2, 3本1本の割合で直通することになった。なお、東急線内は 武蔵小杉まで乗り入れる。▲ 都営新宿線
昭和62年12月20日、ダイヤを改正して、京王線からの直 通快速(線内各停)を全列車大島まで運転区間を延長した。 そして、平成元年3月に篠塚〜本八幡間を開業した。63 年5月に8両×2本、元年2月に8両×1本を増備して、篠崎止 まりの列車をそのまま本八幡へ延長した。本八幡駅は1面1 線の暫定開業であったため、増発は実施しなかった。そこ で、輸送力増強のため、63年10月から元年2月までの間に 中間車2両×11本を新造して、都の車両の8両化を完了した。 さらに平成3年9月1日には、本八幡駅の2線使用開始にと もない、大島止まりの京王線直通快速を全列車本八幡まで 運転区間を延長した。その後、平成4年3月に8両×2本増備 して輸送力を増強。さらに、9年12月に8両×2両を増備し て、11時台から16時台まで20分間隔で新宿〜本八幡間に急 行の運転を開始した。この間を31分で結び10分余りの時間 短縮となった。途中、瑞江と岩本町の2駅で普通の追越を 行っている。 平成13年3月27日、京王線内のダイヤ改正で、相模原線 系統の特急(昼間)を急行に立て替えた上で、新線新宿に 乗り入れ。新宿線の急行と結んで、橋本〜本八幡間の運転 となった。京王線との直通は、朝混雑時と夕方以降につい ては従来どおり通勤快速と快速が直通している。なお、日 中の快速は新宿駅着に変更され、新宿線内は新宿〜本八幡 間の列車となった。▲ 都営12号線・大江戸線
平成3年12月10日光が丘〜練馬間を開業した。リニアモ ーター式のミニ地下鉄で、ワンマン運転の実施など、戦後 一貫して大型化してきた地下鉄への見直しとなった。開業 に当たり12-000系6両×6本を新造。朝混雑時6分間隔、昼 間10分間隔で運転を開始する。 続いて、平成10年12月19日には、練馬〜新宿間を開業。 8両×9本を増強するとともに、中間車2両×6本を新造して 8両化を実施した。運転間隔は、朝混雑時5分、夕混雑時6 分、昼7分30秒の運転となった。 さらに、平成12年4月20日に新宿〜国立競技場間開業。 同年12月12日には国立競技場〜都庁前間を開業して、全線 を完成した。 国立競技場延長には、8両×2本を増備して、新宿着の列 車をすべて国立競技場まで延長した。環状ルートの完成に あたっては、8両×36本を増備して、従来の車両とあわせ て53本とした。 運行方法は、光が丘−都庁前−六本木−蔵前−都庁前間 の往復運転で、朝混雑時4分間隔、夕混雑時5分間隔、昼6 分間隔とした。当初、環状ルート内での区間運転を予定し ていたが、結局実現しなかった。その結果、所有車53本中 10本が検修予備ということになっている。 なお、平成12年、この路線の愛称が「大江戸」線と決定 した。▲ 横浜市
昭和62年5月24日、戸塚駅まで開通した。ただし、国鉄 線路下の工事が遅れたことから、仮駅での開業となった。 そのため、6両編成のうちの2両はドア閉め扱いとなった。 運転間隔は朝ラツシュ時5分、昼間8分、夕方6分で従来と 変わらない。なお、戸塚駅本の開業は、平成元年8月であ る。 平成11年8月29日、湘南台まで路線を延長したことで、 ダイヤを改正して、朝の運転間隔を4分30秒間隔、夕方は5 分ないし7分間隔、昼間は8分間隔となる。▲