北九州高速鉄道
北九州モノレール小倉線について
佐藤信之/下村仁士
今回は、北九州高速鉄道の小倉線について取り上げる。昭和47年11月の「都市モノレールの整備の促進に関する法律」に基づいて整備された都市モノレールの最初のケースとなった。建設省のインフラ補助が適用されて資本費負担が大幅に軽減されたが、当初予期したほどには旅客数が伸びず、経営的に厳しいスタートであった。しかし、今回小倉駅までの路線延長では、経営に対して良い方向にインパクトを与えたということが言えそうである。
整備の経緯
昭和38年2月、門司・小倉・戸畑・八幡・若松の旧5市が合併して誕生した北九州市では、新しい都市として進むべき方向を示す「長期総合計画」が昭和40年に策定された。この計画では、路面電車や路線バスに代わる公共交通機関として都市高速鉄道の整備が構想された。高速鉄道ないしはモノレールを、市街地では地下に、郊外では高架に整備し、旧5市の中心部と新規開発地域を結び、8の字を横にした形の環状ルートの路線網を想定していた。しかし、当時モノレールを都市の交通機関として活用する上での法律や行政的措置は存在せず、計画の実現には解決すべき問題が山積していた。一方では、道路事情の悪化による路面電車やバスの機能低下、都市周辺部の住宅地域の発展と人口増加による交通問題が深刻化していた。都市交通審議会は、昭和44年2月「福岡市及び北九州市を中心とする北部九州都市圏における旅客輸送力の整備増強に関する基本的計画の検討について」の諮問を受け、北部九州部会を設置して交通計画の検討を進めた。答申は昭和46年3月に出され、既設交通機関の再編、整備については、大幅な輸送力不足が生じる区間での新しい大量輸送手段の創設を急務とした。北九州地区では注:( )内の線名は仮称
の高速鉄道整備を求めた。
高速鉄道の方式は、当初からモノレールが有力な候補として検討された。特に、昭和46年6月には、「小倉駅付近から徳力・曽根方面に至る路線」の整備にモノレールを適用するものとして、日本モノレール協会に委託して計画案をまとめている。北九州都市圏交通対策協議会でも独自の検討を進め、昭和47年12月に「高速交通機関の路線、建設順位と時期、採用方式と機種」が決定された。小倉線と黒崎線は、高速鉄道の方式として跨座式モノレールが選択された。東西線については、その後の推移を見て定めることとされた。筑豊電気鉄道との直通運転の検討が答申されていたことが影響しているかもしれない。また、建設順序は、小倉線の整備を優先し、黒崎線は小倉線の経営状況を勘案しつつ引き続き整備に着手されることになった。当時、徳力、曽根地区やその周辺では、大型の宅地開発が進み、しかも幹線道路の整備が遅れており道路混雑が深刻化していたことから、住宅地域と都心部を連絡する交通機関として、大量輸送が可能な高速鉄道の整備が急務となっていた。こうして、モノレール小倉線の整備が本格化した。経営主体
都市モノレールは、道路管理者が建設するインフラ部分を独占的に占用するという特徴を持つ。そのため、北九州のモノレール整備では、経営主体としては地方自治体、またはそれに準ずる団体が適当という考え方であった。モノレール小倉線の経営主体には、第三セクター方式が選定された。北九州市議会での議論の中では、第三セクター方式の場合、万が一倒産した場合の責任所在の問題や、市民の足が確保できるのかという疑問もあり、公営にすべきとの意見も示された。しかし、第三セクター方式の場合は、経済原則に従った運賃改正が可能であり、多角経営に法的制限がないなど、経済性を重視できることが長所であるとされ、また、資金調達や社員確保の観点からも第三セクター方式が選択されることとなった。社名は、北九州高速鉄道株式会社と定められ、昭和51年7月に設立された。資本金は22億円。発足時の出資者と出資割合は以下のとおりである。
出資者 |
所有株式数(株) |
発行済み株式総数に対する割合(%) |
北九州市 |
2,288,000 |
52.0 |
西日本鉄道株式会社 |
879,000 |
19.978 |
新日本製鐵株式会社 |
264,000 |
6.0 |
九州電力株式会社 |
264,000 |
6.0 |
住友金属工業株式会社 |
220,000 |
5.0 |
株式会社富士銀行 |
132,500 |
3.011 |
株式会社福岡銀行 |
132,500 |
3.011 |
西部瓦斯株式会社 |
88,000 |
2.0 |
株式会社山口銀行 |
44,000 |
1.0 |
株式会社西日本銀行 |
44,000 |
1.0 |
株式会社福岡相互銀行 |
44,000 |
1.0 |
計 |
4,400,000 |
100.0 |
整備の財源
事業費は、モノレール開業時点で約681億円である。このうち、国の補助または負担を受けて北九州市等が建設するインフラ事業費が約335億円、経営主体の北九州高速鉄道が建設するインフラ外事業費が約346億円である。都市モノレール法と「インフラ補助」制度を適用して整備される、初めての都市モノレールの事例となった。事業費の44.9%がインフラ部に対する国庫補助の対象となり、その2/3を道路整備特別会計から、残りが市の負担である。そして、このインフラ率の44.9%を超えるインフラ事業費となる30億円分が北九州市の単独事業となった。インフラ外事業費は、資本金22億円(うち52%は北九州市が出資)、北九州市貸付金224億円、日本開発銀行借入金100億円で調達した。事業費の内訳は表のとおりである。図 事業費の資金内訳
路線計画
モノレール小倉線のルートは、三萩野、徳力を経由することと、主に道路上に敷設するという条件から、自ずと制約が生じた。香春口以南のルートは当初からほぼ限定され、国道10号線から国道322号線に並行し、徳力嵐山口から企救丘にかけて都市計画道路5号線に沿うルートになった。しかし、都心部の路線選定は、都市計画の観点と、技術的・経済的な制約から、種々の議論が行われた。北九州市では、昭和46年3月に「北九州市都市計画に関する調査」を行ったが、このときの高速鉄道網は、小倉駅北口(新幹線側)に至るルートを想定していた。この案は、小倉駅北口再開発のインパクトとしての役割を、モノレールに期待するものであった。しかし、駅への導入部になる道路の幅員や、新幹線を跨ぐ部分での曲線・勾配など、技術的問題が存在していた。小倉駅南口を地下化する案もあった。特に魚町商店街では、都市計画決定後も都心部の高架に反対し地下案を主張する動きが見られた。モノレールを地下化する場合、地下への進入部分が問題となる。既設の街路上から地下に入るには、中央分離帯の幅を著しく広く取らざるをえない。しかも、進入部分は300〜400m近い長さとなり、この部分には横断設備が設置できないので、街区の分断が生じてしまう。進入部分を道路外に設ける場合は、この部分が線形上厳しくなる。モノレールを地下にした場合は地下鉄よりもかなり大きな構造物になること、また、軌道法の適用が受けられるかどうかという疑問もあった。もうひとつの案が、小倉駅南口に高架で乗り入れるルートである。建設費が最も安価であり、しかも小倉都心部に乗り入れられるという利点がある。問題点としては、都心部で景観を著しく損ねる危険性、小倉駅北口への延伸が不可能になることで、モノレールを高速鉄道網にするネットワーク効果が薄れることがある。さらに、都市機能の分布が既設の都心部に集中してしまい、小倉駅北口再開発のインパクトを相対的に減少させてしまうことも指摘された。最終的には、小倉駅南口に高架で乗り入れるルートに決定した。モノレールを高架で建設した場合の景観や環境上の問題と、地下にした場合の建設費上昇が重要な判断点となった。都市開発の観点からは小倉駅北口への乗り入れも期待されたが、技術的な問題点はもちろん、小倉都心部へのアプローチの悪さや、再開発構想が進捗していない状況では、開業当初のモノレールの採算性に影響することが懸念された。都心部の景観問題が残されたが、これに対しては、高架構造のユニークさを生かして市街地の新しいイメージづくりを図った。特に駅部分では、沿道建築物との一体的な空間計画の中で、好ましい景観の創出が期待された。都市計画決定から開業まで
路線計画は、昭和51年2月24日福岡県都市計画地方審議会に附議された。この都市計画は、都市美観上の問題、騒音、振動、日照、プライバシーの問題などについて、沿線関係者で賛否両論が噴出。都市計画決定にあたっての縦覧期間中には7,713通(12,007名)もの多数の意見書が提出された。路線計画は原案どおり議決され、昭和51年3月6日に、都市モノレール小倉線(特殊街路:インフラ部分)と関連道路、同年12月16日に北九州高速鉄道小倉線の都市計画が決定した。この都市計画決定では、附帯意見として関係者間でのコンセンサス形成が求められ、その後沿線関係者との意見調整に3年余りの時間をかけることとなった。意見調整は困難を極めた。郊外の住宅地域では、周辺環境に対する悪影響を問題視した。これを理由に一時期春日台地区では、この地区を地下構造にしてほしいとの要望もあった。対策として、道路を当初計画より拡幅し、環境施設帯、法面の植栽などの環境保全を実施。モノレールから発生する騒音や振動については、設計時点で可能な限りの考慮をした設計を行い、しかも試運転区間での実証試験により、環境に悪影響を及ぼさないことを確認した。電波障害やプライバシーの侵害に対しても必要な対策が取られている。一方、小倉駅前では停留場の位置をめぐり、地元商店街ではそれぞれの立場から賛否が対立した。当初計画では、国鉄小倉駅に近接させて設置する予定であったが、結果的には駅から約400m南の平和通に設置することとなった。この変更は地元商店街から支持され、都市計画決定は昭和55年1月8日に正式に変更された。モノレール整備は、国道322号線と並行する区間4.6kmで、道路整備や区画整理と一体となって行われたが、道路用地買収や区画整理事業も難航した。用地買収区間では、日本中央競馬会小倉競馬場の厩舎移転に伴う、大規模な補償問題や関連道路の整備が求められた。徳力区画整理事業区域内では、住民の反対運動に直面した。モノレール整備に伴い減歩率が上がったことが影響したと思われる。モノレール整備は、当初計画では昭和54年に試運転を行い、昭和56年春全線開業の予定であった。計画は当初計画から遅れる。沿線関係者との意見調整や整備用地の確保といった問題はもちろん、技術的な要因も影響した。モデルとなる事業がない、初の都市モノレール事業であったことが影響している。終点の企救丘付近の試運転区間1.1kmは、当初昭和52年に工事認可を受ける予定であった。しかし、走行音の低騒音化や車両への冷房装置搭載などの問題が生じ設計見直しが発生。そのため認可が遅れ、着工されたのは昭和53年10月と1年遅れになった。試運転区間での試運転開始は昭和56年3月である。 昭和55年8月には全線の着工認可を受け、建設工事は本格化したが、この時点ですでに開業予定は昭和58年4月と繰り下げられている。建設工事区間が全線に拡大されたことから、西鉄北方線の廃止が必要となった。北方線とモノレールのルートが三萩野付近の延べ1,130mで重複し、電車線路の撤去が行われなければモノレールの建設ができないためである。北方線は、昭和55年11月1日をもって廃止された。廃止後は代行バスが運行され、西鉄小倉自動車営業所北方営業区が、バス27台、従業員56名の体制で4路線を担当した。代行輸送に伴う経費の補償は、建設省と北九州市が負担した。建設工事は幹線道路で行われた。そのため、相当な量の自動車交通量の抑制が必要となり、北九州市では「自動車総量抑制キャンペーン」を展開した。それにもかかわらず、激しい道路渋滞をもたらした。都心部の交通対策や、住宅地では夜間工事に制約が生じ、開業予定は昭和59年12月とさらに遅れることとなった。昭和60年1月9日、全線開通に至った。代行バスの運行は同時に廃止された。福岡市とは異なり、その後モノレールに完全並行となるバス路線は設定されていない。当初の予定では、一日の利用者数を65,000人と見込んでいたが、実際には当初27,000〜28,000人に留まる厳しい経営を余儀なくされた。モノレール整備と同時に都市計画道路が整備され、道路混雑が緩和され、自動車利用が便利になったことが理由として考えられる。それでも、平成元年以降利用者は増加に転じ、平成7年〜9年にかけての一日の利用者数は31,000人程度を推移するようになった。路線延長まで
北九州市の都市構造は、旧5市に配慮して均衡ある発展を目指した結果、百万都市にふさわしい都心機能の集積が十分でなかった。その反省に立って、昭和63年「北九州市ルネッサンス構想」を策定することになる。そこでは、小倉駅周辺を都心、黒崎地区を副都心と位置付け、小倉駅北口地区に「コンベンションによる国際交流拠点」、「業務・商業・サービス機能の導入による複合都市の形成」、小倉駅南口地区では、「小倉駅前東地区第一種市街地再開発事業」、「小倉駅西地区市街地再開発事業」を進めるとした。これらの一連のプロジェクトが完成すると、流入出人口が小倉北口地区で2.0倍、南口地区で1.2倍と大幅に増加することが見こまれた。
そこで、昭和62年8月九州運輸局長は九州地方交通審議会に対して「福岡県における公共交通機関の維持整備に関する計画について」諮問。これに対して、平成元年10月に答申があり、モノレール小倉線について「JR小倉駅周辺の再開発計画等と連携して、JR小倉駅との連絡強化を図るため、延伸等の施設整備を推進する」ことが盛り込まれた。
これを受けて、平成2年、関係市町村、交通事業者などから成る「北九州都市圏交通体系整備推進協議会」を発足させて、モノレール小倉駅とJR小倉駅の間の結節手法について検討が加えられた。そこでは、地下道案、上空立体歩道案、モノレール延伸案の3案について比較検討が進められたが、平成3年6月、最終的に、このなかでモノレール延伸が最良であるという結論に達することになる。
協議会では、引き続き、モノレールの延伸ルートについて、直進案、右折案、左折案、新幹線乗越案の4案について検討が進められた。この4案の中で、利用者の利便性から望ましい直進案と施工が容易な右折案の2案に絞られることになる。しかし、直進案を採る場合、駅ビルを突き抜けることになるため、JR九州の駅ビルの建て替えが前提となった。
JR九州については、ちょうどこの頃、老朽化した小倉駅の改築が検討課題となっていたことで、市とJR九州の間で協議が続けられた結果、平成5年1月両者の間で、JR駅ビル内に停留場を新設することで合意に達する。
また、これに先だって平成元年、道路法が改正され、あらたに立体道路の制度が創設された。これでモノレールと駅ビルの一体整備が可能となった。しかし、モノレールは、建築基準法上は一般的な道路の機能を持たないため、都市計画法・都市再開発法による建築物の敷地とあわせて利用すべき道路の区域および建築物等の建築限界の決定、建築基準法による非接道対象道路としての位置付けといった立体道路制度本来の手続きを踏むことなく、道路法による道路の立体的区域および道路保全立体区域の決定で、モノレールと駅ビルとの一体整備を実施した。
とくに、道路一体建物における道路敷地としての担保は、敷地の共有持ち分の取得により行ったが、登記簿上、土地の取得を伴い、これが建物敷地全体に及ぶことから、建物側の抵抗があった。(渡辺吉治「北九州モノレール延伸工事の概要」『モノレール』No.91、1998年)
新小倉駅ビルは、地下3階、地上14階、塔屋1階から成り、正面から見るとその中央部に大きな穴があき、そこを公共連絡通路とモノレールの停留場が貫通するという奇抜なデザインとなっている。
なお、モノレール小倉線の延伸については、@単線で延伸、A複線で延伸して、中間地点に分岐器を新設して旧小倉駅の分岐器は撤去、B複線延伸、停留所終端側に分岐器を新設して、旧小倉駅の分岐器は撤去、C複線延伸で、分岐器は現行のままの4案が検討されたが、工事中の運行への支障が小さく工事費が低廉な第4案が採用された。特殊な構造であるが、最大5分間隔の運転が可能であるという。(同社「北九州モノレール小倉線延伸開業」『モノレール』No.95、1999年)
平成6年6月27日小倉〜平和通り間の特許を取得して、翌年10月16日に工事に着手した。
また、関連事業として、小倉駅ビルを南北に貫通する、幅約30m、延長約150mの公共連絡通路を設置するほか、この通路につながる北口広場から国道199号線上空を経て国際総合流通セクターに至る幅6〜21mの歩行者専用道路を新設。さらに、南口広場は約7,200uしかなく狭隘であったため、駅ビルを5mセットバックして、面積を確保して駅前ターミナルを整備する。モノレールの小倉延伸には、インフラ外で30億円を要したが、その財源は、北九州市および地元民間企業や金融機関からの17億5000万円の増資のほか、日本中央競馬会からの12億5000万円の助成金である。これは、日本中央競馬会の競馬振興事業による助成金事業で、実際には全国競馬・畜産振興会より交付された。平成10年4月1日、モノレール小倉線はJR小倉駅への乗り入れを開始した。乗換の利便性向上や、小倉駅ビルの大型商業施設オープンも好影響をもたらし、平成10年度の輸送実績は対前年比11.8%と大幅に増加。平成11年度は小倉競馬場のリニューアル効果の影響もあり、利用者はさらに増加。一日平均利用者数は34,113人となった。
* * *
全国の都市モノレールや新交通システムの中では、平成10年度に単年度黒字を達成するなど、経営状態は良好な方にランクされるが、依然として平成11年度で263億円に及ぶ累積欠損を抱えており、かならずしも順調に推移しているとは言えない。また、少子高齢化の影響や競馬人気のかげりから利用者の減少が懸念されることや、車両や(インフラ外の)地上設備更新が今後課題となるかもしれない