桃花台新交通について
佐藤信之
今回は、新交通システムの先駆的事例として、桃花台新交通を取り上げる.また、新交通システムの標準仕様制定以前の、安上がりなシステムとしても注目される。しかし、その経営状況は極めて厳しいと言わざるを得ない。
1.桃花台ニュータウンと新交通
桃花台新交通は、愛知県内の小牧市に開発された桃花台ニュータウンの足として計画された、ガイドウェイ方式の新交通システムである。
この桃花台ニュータウンは、小牧市東部の約312.8haの山林・田園地帯を住宅地に造成したもので、愛知県が事業主体となって、「新住宅市街地開発法」(昭和38年施行)に基づいて、土地収用権を背景にして全域を用地買収して宅地を造成するという手法がとられた。昭和45年11月に第1次用地買収に調印して、事実上の事業着手となった。さらに、昭和47年4月25日には、都市計画事業の認可を受けることになる。
昭和47年4月認可の事業計画では、計画人口を約54,000人とし、事業期間は昭和47年5月1日から54年3月31日までとなっていた。
愛知県は、昭和48年5月に用地造成に着手。6月に起工式が執り行われた。この段階では順調な立ちあがりを見せることになるが、この年の10月、第4次中東戦争を原因とするOPEC諸国による原油価格の引き上げで、いわゆる第1次石油危機を招来することとなり、物価は高騰し、国内の景気は停滞することになった。建設資材も軒並み価格が高騰し、出鼻をくじかれることになった。さらに、五条川左岸流域下水道事業に係る下水処理施設の建設で、周辺住民との調整に難航して造成工事が大きく遅れた。そこで、その後の経済状況の変化を踏まえて、昭和53年12月26日事業計画の変更認可を得る。人口規模は約47,000人に縮小され、事業期間もまた、昭和61年3月31日までに延長された。
用地買収の調印から9年を経て、ようやく昭和54年10月に宅地分譲が開始され、翌年8月から初めての住民の入居が始まった。しかし、依然として工事は順調には進むことはなかった。昭和56年はじめの人口は946人にすぎず、翌年になっても2,239人とわずかな数字にとどまった.現在の人口は、計画人口4万人(昭和59年変更認可)に対してその65%の25,885人である。平成3年までのバブル期を中心に人口は伸びを見せたが,その後は年に1,000人程度のコンスタントな増加が見られるが、計画値と比較するとむしろ停滞状態にあるといえよう。
なお、入居開始に当たっては,名古屋鉄道の路線バスが桃花台〜小牧駅間に開設された。
ニュータウン人口の推移 単位:戸、人
その後、昭和59年には、計画人口を約40,000人に変更。平成2年には、事業期間を平成8年3月31日まで延長し、さらに平成8年には平成11年3月31日まで再度延長の後、平成10年度をもって事業を終了した。
一方、桃花台新交通は、第2期計画路線が高蔵寺ニュータウン内を通過することになる。
高蔵寺ニュータウンは、日本住宅公団が実施主体である。事業区域は702haに及び、計画人口は、当初6万人程度であったが、度重なる都市計画の改定で8万人に達する桃花台をはるかに凌駕する大規模住宅地となった。桃花台ニュータウンとは異なり、公団が土地の一部を取得して組合員として参加する土地区画整理事業の方式によって実施された。
昭和41年に都市計画事業の認可を受け、昭和43年には入居者の第1次募集を開始した。
2.桃花台新交通の建設
昭和46年3月15日中京圏陸上交通整備調査会議が設置され、49年3月23日までの間、中京圏の鉄道網計画が審議された。その中に、小牧〜高蔵寺間16.3kmの中量ガイドウェイシステムによる公共輸送路線が盛り込まれた。これを受けて、昭和49年3月、愛知県地方計画推進プロジェクト会議で新交通システム計画について検討が進められることとなり、さらに同年8月には桃花台線(仮称)建設計画会議が設置された。
一方で、プロジェクトを実施するための組織作りも進められた.愛知県庁内では、もともと新交通システムについては建築部が担当しており、それと並行して企画部が総合交通体系について所管していた。これを企画部に一本化することにして、昭和49年4月1日企画部交通対策室に桃花台担当を置く。
昭和51年3月25日、桃花台線(仮称)建設計画会議での審議の結果に基づいて、小牧〜高蔵寺間16.3kmから成る桃花台線基本計画を決定した。そして、その経営主体について、昭和52年4月桃花台線事業主体設立準備委員会を設置して、第三セクターによる経営などについて検討を行うことになった。この会には、出資が予定される小牧市長、金融機関、電力会社などが参加した。
第一期路線の小牧〜桃花台東間7.7kmのうち、小牧原〜桃花台東間の大半が国道155号線バイパスに併設されることになったため、昭和50年度から建設省の道路局から補助金の交付を受けることになるが、この費目が測量・試験費であった。これを以って初めてインフラ補助に採択された新交通システムとされているが、昭和50年の時点では、新交通システムに対する調査費補助が制度化されておらず、51年度予算の大蔵原案でも、都市モノレール等調査費補助の拡大に大蔵省の合意を得られずに、大阪市と神戸市の新交通システムの調査は削除されていた。制度が未整備であったため、国道の改築事業の一環として、測量・試験費という形で支出したということであるらしい。
測量・試験費は昭和52年度まで予算化され、53年度には本格的な事業着手を見越して、事業費ベースで15億円を予算要求するが、結局、認められたのは2,000万円にすぎなかった。
昭和53年12月6日には、第三セクター「桃花台新交通」の第1回発起人会を開催するが、会社設立は翌年12月3日まで待つことになる。また、軌道事業特許の申請は54年6月で、55年4月に小牧〜桃花台ニュータウン間7.7kmの特許を取得した。
この間の桃花台新交通プロジェクトの遅れは、下水道処理施設の問題に起因する桃花台ニュータウンの造成日程の遅れに伴うものであった。(『都市モノレール計画』58、昭和54年11月29日、愛知県企画部交通対策室主幹志水貞治氏談話)
桃花台新交通は、授権資本30億円で、出資者は次ぎのとおりである。
出資 愛知県 13.8億円 46%
小牧市 3億円 10%
名古屋鉄道 3億円 10%
中部電力 1.5億円 5%
東海銀行 1.5億円 5%
日本長期信用銀行 1.5億円 5%
その他民間企業 13社 5.7億円 19%
また、代表取締役社長には、仲谷義明愛知県知事が、代表取締役副社長には、岩田要愛知県副知事、名鉄社長、小牧市長の3名が就任した。
当初計画では、昭和50年度に事業着手して、57年度に完成する計画であった.総建設費は245億円で、そのうち44.5%の109億円がインフラ部の工事費で、残り136億円がインフラ外部の工事費としていた。また、昭和65年時点での乗車人員は、終日で1日当り43,000人、ピーク時には1時間に7000人を想定した。
(『新交通システム』'79.7、20頁)
ニュータウン建設に合わせてニュータウン内の軌道工事を行うため、東田中〜桃花台東間を先行して整備することとして、昭和56年11月同区間の第一次分割工事施行認可を取得した。これによって、同年12月8日には、インフラ部の工事に着手することになった。
残された小牧〜東田中間についても、昭和57年10月に第一次分割工事施行認可を取得した。名鉄小牧駅附近については、名古屋鉄道小牧線の連続立体化事業と同時施工することになり、この区間は建設省都市局の所管である。市街地に挟まれた小牧駅は、駅を大きく150m東に移転して地下化。地上部には県道が建設され、その上空に新交通の高架軌道が設けられた.
平成元年4月に、地下化された名鉄小牧駅の完成記念式が開かれ、5年3月には、小牧駅東土地区画整理事業も完了した。
そして、昭和60年2月1日には、インフラ外部の工事にも着手することになる。
昭和61年3月、竣工期限の平成3年3月31日までの延長が許可され、期限ぎりぎりの平成3年3月25日に開業した。
建設費は、最終的にインフラ部が157億円、インフラ外部が156億円となった。そして、インフラ部工事費のうち、国が89.12億円、愛知県が67.78億円を負担した。その他に、愛知県は、ニュータウンの開発者として、本社と車両基地の用地を無償で譲渡している。
ところで、公共事業として公共部門が負担するインフラ部工事費に対して、住宅宅地関連公共施設整備促進事業の対象として、国の一般会計からの補助金を受け入れた.昭和53年度に創設された制度で、新交通システムのインフラ部の場合、道路整備特別会計から補助されているが、住宅建設・宅地開発事業の推進を図るという名分のもと、別枠で補助が実施されるというもの。なお、補助率は、通常の公共事業と同じである。
補助金総額では増額されるが、個々のプロジェクトでみると補助率は変わらないので,ただお金の出所が特別会計から一般会計に変わったということに過ぎない。しかし、道路特会からの補助金の支給が安定しないことから事業が遅滞するという例が見られたが,このようなことは避けられることになった。
路線は、小牧〜桃花台センター〜桃花台東間で、建設キロ は7.7km、営業キロは7.4kmである。途中7駅が置かれ、そのうち小牧と桃花台センターの2駅が駅員配置駅である.また、全線複線で、全駅にホームドアが設置されている。
桃花台線は、ニュータウン以外に輸送需要が見込めないため、コスト削減に努め、一方向にしか運転台が設置されていない、国内では特異な形状となった。路線の終端部にループ線を設け、ここで方向転換する。この一方向運転の実施で、後部運転台を省くだけでなく、反対側の客用ドアを総て省略することが可能となった。また、構造が複雑になる分岐器は、桃花台東駅での出入庫線の分岐と上末駅での渡り線に使われるだけである。その他、標準型の側方案内式に対して、中央案内式を採用。軌道敷の幅員も一回り狭い。
3.桃花台新交通の開業
平成3年3月25日、名鉄小牧ホテルで開業式典が開かれ、公募で決めた愛称「ピーチライナー」のロゴを付けて、ようやくにして開業の日を迎えることになった。運賃は、初乗り180円、小牧駅から桃花台東までを利用すると300円である。
開業時のダイヤは、1時間当たり、ラッシュ時5本、昼間4本、早朝・深夜3本で、1日片道70本が設定された。休日は、64本である。
桃花台新交通は、小牧駅と小牧原駅で名鉄小牧線と接続するが、小牧線は都心からはなれた上飯田で線路が途切れ、その先は、混雑時当てにならないバスか、あるいは最寄の地下鉄駅まで1キロ余りを徒歩連絡しなければならなかった。そこで、桃花台ニュータウンから都心へは、むしろJR中央線を経由する方が便利であった。そのため、平成4年からは、新交通の第2期路線の代替路線として、桃花台センターと高蔵寺の間を名鉄バスが運行を開始。ピーク時には高蔵寺行き8便(午前7時〜8時)を運行して、いつも満員の状態であるという。その他、JR中央線の春日井まで自家用車を利用する通勤者の多い。
新交通の方は、当初は開業時点で1日10,000人の利用を見込んだが、その後運賃認可の際には5,400人に改定していた。しかし、現実はさらに厳しく、開業年度にあたる平成3年度には、1日当たり3,281人の旅客があったが、平成4年6月からJR高蔵寺駅へのバス路線が新設されたことで、4年度は2,641人、5年度2,528人と減少が続くことになった.
旅客数は、平成8年度には、桃花台ニュータウンの人口増加によって1日2,871人にまで戻したが,平成9年4月1日の平均15.7%の運賃引き上げで、再び大きく減少させた。平成9年度の旅客の減少率は8.5%で、平成10年度も―3.0%と、減少が続いている.
輸送人員の推移 単位:人、%
運賃改定の効果は、15.7%の運賃の引き上げで、11.3%の旅客の逸走を生じたということであるので、運賃収入は増収になる。実際に、旅客運輸収入は、平成8年度の221百万円から9年度には225百万円へと増加したが、10年度には222百万円に減少。旅客の減少が続くと、運賃収入は、運賃引き上げ前の水準を下回ることになるであろう。ここで、運賃の引き下げや、割引運賃の設定などの、旅客の減少を止める施策が必要となるであろう。
しかし、実際にとられた施策は、ダイヤの減量化であった。 平成11年4月1日にダイヤ改正を実施して、休日ダイヤを拡大して土・休ダイヤを設定、従来の1日片道64本を53本に削減した。これで、1億円の人件費の削減が期待できるという。
運賃割引による需要の喚起は、短期的には増収効果は小さいことから、即効性のある減量化を選択したのであろう。すでに、背に腹はかえられないという、切羽詰まったところにあるのかもしれない。
経営の推移 単位:百万円
4.今後の展望
平成10年度、累積損失は43億円に達し、資本金の30億円を超えて、債務超過の状況が続いている.このように厳しい経営状況に対して、愛知県は「桃花台新交通褐o営改善委員会」を設置して、再建策の検討を続けている。今年度末には結果がまとめられる予定である。
また、愛知県は、運営資金として30億円を低利融資したが、これは基金として運用益を収入に算入することを目的としていたが、実際には元金も取り崩されて現在の残額は15億円にまで減ってしまっているという。
今のところ、名鉄小牧線の都心乗り入れが実現すれば、状況が好転すると期待されているが、JR中央線ルートの利用者をどれだけ取りこめるかは、まったくの未知数である。JR高蔵寺駅までの路線延長も計画されているが、巨額の投資を必要とするにもかかわらず、桃花台ニュータウンの旅客を2方向に分割することで輸送密度はかえって低下させてしまって、経営改善の抜本策とはならないであろう。