帝都高速度交通営団の経営形態について
佐藤信之
記事:『鉄道ジャーナル』平成12年1月号掲載
注:入稿後の修正については反映しておりません。また、図・表も省略しています。
帝都高速度交通営団は、今日唯一残された営団であるという点で目立つ存在であるが、しかし戦後かつての国鉄など三公社と同様の公共企業体に実質的に改編されていた。その営団が、今、株式会社化、民営化されようとしている。さまざまな障害にあってすんなり移行できそうにないが,ここで帝都高速度交通営団というものがいかなる存在であるのかを整理しておこうと考える.
営団の組織形態について
まず、国の出資する特殊法人なり特殊会社がどういうものであるのかを整理しておくと、国が出資する独立法人を特殊法人と呼び、そのうち株式会社の形態をとるものが特殊会社である。特殊法人には、三公社と呼ばれた国鉄、専売公社、電電公社のようにもともと国の特別会計として実施していた事業を独立させたもののほか、さまざまな公団、公庫が設けられてきたが,三公社についてはすでにすべて民営化されてしまった。現在の帝都高速度交通営団は、国と東京都が出資するが、その出資は株式とは違って所有権を有していないため、特殊法人の範疇に入る.
一方、特殊会社とは、公私混合出資あるいは公共部門がする株式会社で、戦前国策会社として大陸での利権拡張に利用された南満州鉄道や草創期の航空事業をリードした日本航空などがその例である。このような分野は、民間にはリスクが大きすぎるために、国によるさまざまな保護措置が講じられていた。
昭和にはいって戦時色が濃くなると、戦時統制機関として、金庫、営団が設立された。戦時経済のもとで官民を問わず資金と創意を結集して経済の総力を発揮しようという考えである。特別立法にもとづいて設立されるが、民間資本の関わる余地を残している点で、戦後の公社、公団とは異なる。欧米先進国の公共企業体にならって管理委員会制度、企業会計制度、経営の自主性を備えるが、この制度の特徴はむしろ政府の強力な統制にある訳である。そして、戦後に生まれた公共企業体も西欧の先進的制度を導入したものの、実体は政府の統制のもとで自主性が大きく制約されていたという点で、戦時中の営団の流れを受け継いだものということができよう。
戦後は、戦時統制機関であった一部の営団を、官庁会計に戻し、政府の統制が強化されて、公団に改称されたが,このような統制機関としての公団はドッジ・ラインで消滅した.それ以後は、公共投資の実施主体として多くの公団が設立されることになる。全額政府出資かあるいは国と地方自治体による出資で、政府の広範な支配を受けるが、住宅公団のように議決機関として管理委員会を持つなど、ある程度経営の自主性も認められている.帝都高速度交通営団も、唯一営団という名称を残すことになってしまったが、戦後はむしろ公団を名乗るべきであったのかもしれない。
陸上交通事業調整法
鉄道省による交通統制の動きは昭和初頭以来の傾向であった.陸上交通については,鉄道省と内務省の管轄範囲が一部で重なり合い,とくに自動車事業については,内務省警保局の専管事項となっていた.
都市内軌道や地方の弱小私鉄は、自動車交通の伸長に圧迫されることになるが,鉄・軌道事業者は,事業者団体である鉄道同志会を通じて鉄道省に頼ることになる.そして,鉄道省は,昭和3年に内務省,逓信省との対立を経て陸運監督権を獲得することに成功した.その結果,鉄・軌道事業者による,乗合・通運を中心に自動車運送事業者の統合が,鉄道省の主導により進められた.
その締めくくりとして陸上交通事業調整法が成立した(昭和13年4月1日公布,8月1日施行).交通事業調整委員会を組織して,9月15日に開かれた第1回総会で,まず東京市内と周辺部の調整に着手し,つづいて大阪,富山,香川,福岡に拡大することが決められ,11月の第2回総会では,東京市内の鉄道・軌道・バスのすべてを対象とする大統合の方針が承認された.さらに,具体的審議に入るため特別委員会を設置,鉄道省の主張する官公私合同案が第1案で多数案,東京市の主張する私有市営案が少数案として第2案の2つが諮問され,両案の間で激しく対立することになる.
鉄道省の第1案は,調整区域内の省線,私鉄,軌道,バスのすべてを現物出資によって統合,帝都交通株式会社を創設するという案であるが,ただし,省線については経営権のみの出資とした.いっぽう,東京市の案は,市が私鉄,軌道,バスを買収した上で,省線を含めて国と共同経営をするという案である.
小委員会での2年におよぶ審議の結果,両案を折衷した形で地域別交通調整案を作成,昭和15年12月24日第3回委員会総会で可決を見た.この地域別交通調製案は,旧市内を中心に軌道事業とバスを統合して市が経営するが,地下鉄事業については,地下高速度交通機関に統合するという内容である.また郊外部については,国鉄中央線,東北線,常磐線を境に4ブロックに分け,それぞれ東京急行,西武鉄道,東武鉄道,京成電軌が統合主体となって,鉄道とバス事業を引き継ぐこととなった.帝都高速度交通営団発足
陸上交通事業調整法にもとづき,都心部の地下鉄事業を統合して帝都高速度交通営団が昭和16年5月1日発足した.帝都高速度交通営団法によって、3分の2を限度に政府出資が規定された特殊法人である.資本金は6,000万円で,利益配当はその公益性から6分に制限され,政府出資に対しては減免できるとした.また,東京地下鉄と東京高速鉄道から既設線の譲渡を受けるための費用やあらたに地下鉄を建設する費用として,払込資本金の10倍までの債券の発行がみとめられた.
出資割当額は,政府が鉄道特別会計から4,000万円,東京都が電気局会計から1,000万円,東横電鉄,東武鉄道,京成電鉄がそれぞれ200万円,京浜電鉄,小田急電鉄100万円,西武鉄道,京王電軌,武蔵野鉄道,国鉄共済組合がそれぞれ50万円のとおりである.
東京市は,営団から出資準備が要請され,電気事業委員会,財政委員会ではすんなり承認されたが,市会では大荒れとなり,最後は営団による統合は公有公営による大統合の第一歩であること,運営にあたっては市と協調することなどを条件に可決した.
譲り受けた地下鉄路線は,既設線が東京地下鉄8.0km,東京高速鉄道6.3km,未成線が東京市51.0km,東京地下鉄7.3km,東京高速鉄道11.0km,京浜地下鉄5.4kmの既設線14.3kmと未成線74.6kmである.なお,未成線のうち,東京高速鉄道の四谷見附〜赤坂見附間と京浜地下鉄の新橋〜品川間は工事施行認可を受けた路線であった.
帝都高速度交通営団廃止法提出の企て
戦後,GHQは日本の経済民主化の一環として戦時統制機関の解体を進めたが,帝都高速度交通営団についても調査が行われた.これにたいしては営団側の詳細な説明により,疑念を晴らすことに成功するが,今度は東京都から地下鉄都営論の考えが提起され,地下鉄路線の譲渡が要求された.東京都は,陸上交通事業法による交通統合を将来の市内交通すべてを都が統合する第1段階としてとらえていた.
東京都は,昭和21年8月東京地方特別都市計画委員会が都市計画高速鉄道網を決定した際に、都が建設すべきであるという付帯条件が運輸省と営団の反対を押さえて可決された.これを根拠に昭和21年9月に「地下鉄の都営実現に関する意見書」を決議して関係省庁に提出するとともに、GHQにたいしてもまた陳情を行っている.そして,都は,昭和21年10月,新宿〜赤坂見附間と池袋〜万世橋間を22年以降3カ年で建設するという内容の「都営高速度鉄道建設計画」を策定した.
この問題について運輸省は,昭和21年10月に,衆議院,運輸省,東京都の各5名を委員とする「地下鉄問題協議会」を設置して協議したが,運輸省は都営化案に強く反対して結論を得ることができなかった.さらに,都は地元出身の衆議院議員を動かして,各派共同で「帝都高速度交通営団廃止法案」を提出することを決するが,これにたいしてもまた運輸省の申し出により実現しなかった.
営団は,戦後早々丸ノ内線の建設を決定するが,営団法によってその建設費用が増資あるいは資本金の10倍を限度とする交通債券の発行で調達しなければならなかった.しかし,戦後の復興途上で,出資にしても債券にしても,その引き受け手を見つける事は難しかった.
たまたま昭和24年4月米国対日援助見返り資金の貸付け制度が発足したため,営団は,昭和25年度分として所要資金のうち31億円の交付を運輸省を通じて申請した.しかし,この資金は基礎産業へ重点的に配分する方針であったため,認められず,翌26年度4億円の申請にたいして2億5000万円が認められたにとどまった.
帝都高速度交通営団の再出発
GHQは,地下鉄のような長期間安定的に資金を要する事業にたいしては,資金運用部を創設して財政資金からの融資の道を開く方針を示した.資金運用部資金は昭和26年4月にスタートするが,公的資金を受け入れるために,同年2月営団法を改正して,民間出資の排除,管理委員会の設置を行い,公法人としての性格を強くするとともに,実質的な公共企業体としての組織が整備された.同じころに公共企業体となった国鉄が,意志決定機関として設置された経営委員会が間もなく諮問機関に改編され,独立の経営体としての主体性を失うのにたいして,営団は,純粋な公共企業体の形態を現在まで引き継いでいる.
この営団の組織改革にあたって、財政投融資資金を受け入れるために民間からの出資を全面的に排除して、出資者は国鉄と東京都交通局会計の2者に集約された.さらに、昭和28年度からは、営団の新線建設のための増資を国鉄と都交通局の間で1対1の比率で引き受けることになった。
東京都交通局は、昭和36年度以降、急速に経営が悪化していったことから、地方公営企業法による法定再建を実施することにして、第1次再建計画を策定した。再建期間を昭和42年度から48年度までの7カ年とし、路面電車を昭和46年末までに全廃するというものであった。この再建計画は昭和41年12月に議会での承認を得て、自治大臣に対して財政再建団体の指定を申請した。
この財政再建計画の中で、昭和44年10月31日、東京都交通局の営団に対する出資金が都の一般会計に移管された。出資総額は90億円余りに上るが、出資の財源として発行された企業債の償還額を債務として引き継がれることから、移管価格として16億円余りを受け取った。
営団の民営化について
昭和60年9月臨時行政改革推進審議会に特殊法人問題小委員会を設けて、営団ほか14の特殊法人の経営の基本的見直しが検討されることになった。昭和61年6月最終答申が提出されたが、その中で、5年以内に帝都高速度交通営団を特殊会社に改組して、その後建設計画路線が概成した段階で民営化することを謳っていた。
具体的には、5年以内に株式会社化を実施。その後第三者割り当て増資を実施して民間資本を導入。新線建設が完了した段階で国と東京都の株式を放出するという段取りであった。
東京都は、昭和60年12月この小委員会の場で地下鉄経営の一元化の必要性を説明し、必要があれば営団に対する国鉄の出資分を都が引き受けることを申し入れた.
しかし、昭和61年2月になって、運輸省は、営団に対する国鉄の出資分を国鉄の分割民営化の時点で国に引き継ぐことを決定.小委員会では、地下鉄経営の一元化については適当ではないという意見でまとまった。
なお、当時、営団の資本金541億円のうち、国鉄が54%、東京都が46%を所有していた。
しかし、運輸省は、株式会社になると財政投融資の対象から外れるため資金の調達に支障が出ること。営団は93年度末で9,200億円の長期債務があるために、株式会社化してもすぐには上場できないことなど問題点が指摘された。
平成6年8月、行政改革が遅々として進まないことから、当時連立政権に参加していた新党さきがけは、与党3党の行政改革プロジェクトチームに特殊法人の改革案を提出した。その内容はラディカルなもので、連立する自民党と社会党の内部でもその実現を疑問視する向きが見られたが,行政改革に消極的な各省庁を刺激することには効果があった。
運輸省は、平成7年2月帝都高速度交通営団が株式会社に移行しても財政投融資が適用される措置を講じた上で、株式会社化の繰り上げ実施について検討することになった。しかし、当初のタイムスケジュールでは、15年後の民営化を見込んでいたが、それが平成11年度であった。もちろん5年後を予定していた株式会社化も見送られて、結局のところ繰り上げどころか今世紀中の民営化は実現することはなかった。
この背景には、営団地下鉄の株式会社化、民営化については、自民党内の東京都出身の国会議員や都議会議員からの反発があったという.もともと平成11年度末とは、工事中の半蔵門線水天宮前〜押上間の開業が予定された時期にあたる。この路線の開業で、営団による地下鉄整備は概ね完了することになるとの認識があった。しかし、党内に営団地下鉄13号線建設促進議員連盟が組織されて、13号線池袋〜大崎間の実現を目指して活動をおこなっていた。この13号線は、平成10年度第3次補正予算で地下鉄建設費補助の適用が決まり、平成19年度の開業を目指してプロジェクトが立ちあがった.
また,半蔵門線についても、平成11年度末の開業は難しくなり,開業時期を平成15年春に変更した。
※ 一部「東京の地下鉄整備計画」(『鉄道ピクトリアル』 608号、1995年7月臨時増刊)の内容を再構成して収録した。