家の近くに石碑が建ってます。 昭和10年に6つの地蔵が近くの寺から発見されました。
昔、江戸時代の安永2年(1773年)の初秋に紀州藩の御用船が暴風雨のために海岸に座礁して積荷が流れてしまいました。
素朴で人情ある村人は、漂流物集めを手伝ったり、船の修理を手伝ったりしました。
船の修理も終わり明日は出帆するという晩になって、積荷が足りない村人の中に隠している者がいるはずだ、積荷を出すか、下手人を出せ、と言い出したのです・・・・
積荷が流出すれば、沈む物もあるのは当然です、しかし伊豆の下田で豪遊し積荷に手をつけてしまって、暴風雨をよいことに村人に罪を押し付けたという説もあります、当時田沼意次の時代で金で何でもなる時代、賄賂など当たり前という時代、相手は徳川のご御三家のひとつ紀州藩、逆らうわけにもいかず、村人は、積荷など隠してるわけも無く・・・・・・
この村は六つの字に分かれてました、1つの字から組頭1人ずつ、泣く泣く6人を下手人として差し出したのです。
当時の藩主は、下手人となった6人を救うには200両の金がいると言われ、村人は土地を売ったり借金をしたりしてお金を作りました、しかしそのお金も紀州藩の知るところにより途中で斬られたか、藩のお役人にだまされて、江戸にはとどかななったということです。
この6人は自分の命と引き換えに村の安泰を願って、江戸小塚原の露と消えたのでありました(泣き)。
当時罪人ということでお祭りすることができなかった地蔵様いつか忘れ去られてしまった地蔵様。
今の世になってやっと堂々とお祭りされることができるようになった地蔵様です。
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